• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:カントールの対角線論法についておしえてください。)

カントールの対角線論法とは?

来生 自然(@k_jinen)の回答

回答No.64

No.63 >>> アインシュタインは愚直なまでの、素朴実在論者 <<< まさにそのとおりでしょうね。物理学者の多くは、そう言った視点を持っておられるようです。 最後の最後まで直感に反するように思える量子力学的な視点に疑問を差し挟み、問題点をあぶり出し、結果的に量子力学を発展させた。。。 量子力学は数学的な記述で出現する無限に対する戦いそのものといえるのではないでしょうか? エヴェレットの多世界解釈の原型は、実無限を人間の認識の「外部」へ追いやった思索方法ともいえるでしょう。ある意味、bragelonneさんの「神的な実無限」を地で行くような思索方法かもしれません。。。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~   No.63 >>>   アインシュタインは愚直なまでの、素朴実在論者   <<<  まさにそのとおりでしょうね。物理学者の多くは、そう言った視点を持っておられるようです。  最後の最後まで直感に反するように思える量子力学的な視点に疑問を差し挟み、問題点をあぶり出し、結果的に量子力学を発展させた。。。  ~~~~~~~~  ☆ わたしはそのNo.63お礼欄にも書いたとおりに 素朴経験論が数学にどのようにからんでいるのか 素朴経験として分かるようにはまだ分かっていません。ので 残念ながら 色よいご返答を寄せるということがむつかしいかぎりです。あしからずご了承いただければと思います。  ★ ~~~~  量子力学は数学的な記述で出現する無限に対する戦いそのものといえるのではないでしょうか?  エヴェレットの多世界解釈の原型は、実無限を人間の認識の「外部」へ追いやった思索方法ともいえるでしょう。ある意味、bragelonneさんの「神的な実無限」を地で行くような思索方法かもしれません。。。  ~~~~~   ☆ すでに述べましたように この第一文については評言を述べるのがむつかしいです。  ただ 後半については違う考えを持ちます。あるいは うたがいをいだきます。  1. 《実無限》は けっきょく可能無限という経験事象についてどう扱うかのその手段であり一つの策であるのではないかと理解して来ています。  2. 言いかえると 可能無限は 限りなくつづくという事象であることに間違いないのでしょうが けっきょくそれは 大きく広義の有限である。つまり 経験世界における経験事象である。こういうことではないでしょうか? そこから 《実無限》としての取り扱いが 考えられて来るのだと。  3. ★ 「神的な実無限」  ☆ この表現も ミスリードするおそれがありますまいか。必ずしも認めてもらっていませんが 実数などの可能無限を或る有限の一定の数値として捉えるその視点は 非経験の場なる想定としての――真無限としての――神のそれではないか? と見るものですから その表現には 誤解をうむおそれがあると考えます。実無限が 神的なのではありません。仮想において人間にとって経験的で有限的でさえあります。  4. ★ 外部  ☆ この概念については じねんさんにわたしの側からは何度も やはりあいまいな概念であるとお伝えして来ております。  有無や相互の関係あるいは因縁果の関係が見て取れる経験事象については 一定の単位体や主体の存在を前提するなら その《内と外》は そのまま無理なく出来上がります。  ですが 《経験世界(その全体)》にとっては その《内と外》という概念による認識が当てはまるかどうか これは 人間にはついぞ分からないものなのです。  5. すなわち  ★ 実無限を人間の認識の「外部」へ追いやった思索方法  ☆ この規定も ひじょうにあいまいだということです。  6. 可能無限を仮りの神なら神という視点から見て実無限として取り扱うという場合 この実無限は 人間にとって仮想の認識であるという事情にあります。神なる視点から見れば その実無限は 神としての認識の《内部》なわけです。  その意味では この《神にとっての内部である実無限》を 人間の認識にとっては外部だと見て見られなくはないのでしょう。  けれども そう言えたとしても 事態は その《実無限として仮想した》という認識もその元の――可能無限という――実態も じつは 大きく経験事象であり 広義の有限世界に属しています。つまり この経験世界の全体〔についての認識〕という意味では 認識の《内部》にとどまっているものなのです。  7. 一般に 経験世界とそして非経験の場とのあいだは 後者が前者を超えていると想定しているからには 《内と外》との関係ではないのです。  後者・非経験の場は それが前者・経験世界を超えているということは その経験世界を覆い包んでいるというかたちも派生して想定されます。(そのほかには ニュートリノのごとく つねにつらぬき通っているとも派生して捉えられます)。  8. 一般には 《非経験の場》は 経験世界にあまねく存在するというように想定されています。つまり 神の――霊としての――遍在です。    9. ですから 内部と外部という規定は 意味を持ちません。神にとっては すべてがみづからの内部です。人間にとって神は 《超越》する存在です。しかも 想定から推理するかぎりでは この超越なる無根拠が いま・ここにつねにあまねく存在しているとまで帰結されるものなのです。なら 外部ではありません。とらえる視点が 違っていましょう。  10. 《多世界》も 神の内部です。

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