世に悪とは存在せず?善のねじ曲がりとは何か

このQ&Aのポイント
  • この世に悪は存在しないという問いについて、善のねじ曲がりが悪であると言える。善は存在し、悪はそれとして善の損傷として現れる現象に過ぎない。
  • 悪は心のへそ曲がりに発し、ウソやいつわりのことと言われる。一方、善は個人ごとに主観的に決まる心のあり方であり、悪は善のひねくれやねじ曲がりでありそれがくせとなると善が損傷を受ける。
  • 悪は他のものから独立して存在するのではなく、善が減少していくにつれて現れるものと捉えられる。善としての心の本性が減り、それを悪と呼ぶ。したがって、悪は存在せず、善が減った状態の名前で呼ばれる現象に過ぎない。
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この世に 悪は 存在しない。

 ( a ) 悪は存在しない。  ( b ) 主観としての善をねじ曲げ傷つけること これが悪である。  ( c ) すなわち 善は それとして存在するが 悪はその善の損傷としてこれをひとことで悪と呼ぶ現象があるのみだ。  この問いを あらためて問います。    たたき台を あらためてさらにおぎないます。    ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。  ( e ) ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼びます。一人ひとり《わたし》の主観によって決まります。そのとき 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  ( f ) つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく そうではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考え方です。  ( g ) 自然本性と言うべき心としての善――おのれが捉えている善です―― これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。  ならば 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。   

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回答No.22

こんばんはです。 ☆☆☆ ☆(a)悪は存在しない。 「善悪は相対概念と言うか相依的な概念なので、悪がなければ、善もないのでは」 ということになるのでは、というのが率直な疑問です。 どちらも、人間がその都度その都度こしらえてきた価値観に従い、ある現象を〈善〉と呼び、それに相反する現象を〈悪〉と名づけているのではないでしょうか。この世に、あるいはこの世を離れたところに、真理界や叡智界というものがあるのならば話は別でしょうが、この現象的世界に絶対的な善や普遍的善などはありえず、善悪ともに相対的なものでしょう。ある社会で善と考えられているものが、別の社会では悪とされることもよくあります。時代によっても、善の内容は変化します。むしろ、善悪は文化・社会などによって異なる相対的で、多極的なものという捉え方は駄目ですかね。 また、 善性の欠如、もしくは善性をねじ曲げることをもって悪を定義するのならば、同様に、 〈悪性〉の欠如や、〈悪性〉をねじ曲げることをもって「善を定義する」ことも可能になるのは。 bragelonneさんの論法をしたがうのならば、 (a’) 〈善〉は存在しない。 (b’) 主観としての〈悪〉をねじ曲げ傷つけることが、〈善〉である。 (c’) すなわち 〈悪〉は それとして存在するが 〈善〉はその〈悪〉の損傷としてこれをひとことで〈善〉と呼ぶ現象があるのみだ。 となりはしませんか。 人間という不完全な存在を考えた場合、むしろ〈善〉より〈悪〉を実在視し、そこから哲学を組み立てるべきなのでは、などとも思っています。 〈やましさ〉や〈後ろめたさ〉を善悪の判断基準とするのならば、〈悪〉を実在視する方が、理にかなっているようにも思うのですが。 ☆☆☆ ☆ ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。 ◇〈やましさ〉や〈後ろめたさ〉という心理的現象に善悪の根拠を置いているようですが、 bragelonneさんは、 そうした感情をいだくために、人間には本来的に善悪を知る、もしくは、善悪を感じとる能力が備わっていることを前提としているように思います。 はたして、人間にそのような能力が生得的に備わっているのかどうか、僕はかなり懐疑的です。 そうした能力といいますか判断力と言いますか、そうしたものは、生後に、「意志→行為→周囲に与える結果→その結果が行為者に与える印象・感情etc」の絶え間ない繰り返し、連鎖過程の中で、後天的に身につけるのではないでしょうか。 そこには当然、過ち(?)が起こります。そして、個々人における行為の〈過ち〉の判断材料は、心内に先天的に具わっている善悪を感じるとる能力ではなく、その行為の結果が行為者にとって感覚的に心地よいものであるか、あるいは、その行為の結果が行為者に有利に働くか、などの自己本位的な感覚的なものだと考えます。 そして、その個々人が参加する社会と、その社会を構成する個々人にとて、 ”(都合の)よいこと”(善いことではありません)の最大公約数的なものが善になるのではないでしょうか。 また、僕は、理性や悟性といったものは、道具的なものだと考えています。 理性や悟性といったものは、自己利益の追求のためにつかう道具的なものという意味です。したがって理性や悟性そのものには価値はない、というのは極論ですが、便利な道具、その程度のものでしょう。 そして、人間は、生物学的な進化の中で、そうした理性や悟性と言われるものを身につけ、いわゆる動物とは別な存在になった。 しかし、善悪の根源は、動物と比較すると複雑であるけれど、快・不快、楽・苦からの動物的な感覚の次元を脱していないのでは、と考えています。人間は動物はまったく別な存在ではなく、人間は動物の延長線上にある存在だと考えています。ただ、人間は行動様式などが動物と比較して複雑で高度(?)な存在であるだけ、と考えています。 ということで、bragelonneさんの性善説的な善悪論には、ちょっと異を挟みたいと気分です。 この善悪論の土台にある考え方は、全体的に、キリスト教的にすぎやしませんか。 ☆☆☆ (d)と(e)に出ている、〈うそ〉と〈いつわり〉という言葉が、何を意味しているのか、理解できません。 英語で言うと、〈うそ〉が”lie”の意味なのか、”false”の意味なのか、その判断がつきかねているもので。 (そのどちらもふくめているのかしら?) 〈いつわり〉、これは、老荘思想的な意味での〈偽り〉ですか? 老荘思想に見られる、この〈いつわり〉には人の為すこと、「人+為=偽」のような意味をこめているのですか。 で、人為、人の取り計らいを離れた、”自然本性としての善”という(g)の結論に達するのですか。 だとしたら、今回の質問の背景にある思想は、キリスト教ではなく、日本・中国などにみられる自然(じねん)の思想が背景ということになるのでしょうかねぇ~。 だとしたら、〈悪〉だけではなく〈善〉すら、最終的には否定しないといけないのではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  いそがしくなってまいりました。夕飯と夕刊を済ましました。  ★ (d)と(e)に出ている、〈うそ〉と〈いつわり〉という言葉が、何を意味しているのか、理解できません。  ☆ なるほど。これらの言葉について深く規定し終えてはいませんでした。  ★ 英語で言うと、〈うそ〉が”lie”の意味なのか、”false”の意味なのか、その判断がつきかねているもので。  ☆ ただしこれは 語源辞典をしらべたのですが どちらも《あざむく・だます》を共通としているようですが ご説明願いますか? 違いについてです。  ★ ~~~~  〈いつわり〉、これは、老荘思想的な意味での〈偽り〉ですか?  老荘思想に見られる、この〈いつわり〉には人の為すこと、「人+為=偽」のような意味をこめているのですか。  で、人為、人の取り計らいを離れた、”自然本性としての善”という(g)の結論に達するのですか。  ・・・  だとしたら、〈悪〉だけではなく〈善〉すら、最終的には否定しないといけないのではないでしょうか。  ~~~~~~  ☆ なるほど。そういう筋もあるのですか。ゆえに 大道廃れて仁義ありになるわけですね。  困りましたね。  ええ。分かりました。次のような方針を明らかにします。  ○ (ここでの問い求めの方針) ~~~~~  1. ここでの善悪論は あくまで実践論である。少々理論の不備があっても 実践に役立つことを旨とする。  2. 主観を基礎とし理論としてもそこから出発するかたちを取っていますが それは 必ずしも《心理》の問題を重んじて扱うことではありません。そうではなく 言うなれば むしろ《生理》です。  3. 広く生理として人には 《顔を赤らめる・動悸がはげしくなる・言葉がしどろもどろになる》といった反応があります。ここに少しく《心理ないし倫理》を含めて そのとき《やましさ・うしろめたさ》をも感じるとする。とすると それはおおむね《うそ・いつわり》という自己表現にかかわっているはずだという見方をする。  4. 《やましさ》でこれらの生理的心理的反応を代表させるなら この疾しさを持つということは 《しかるべき心の状態・また立ち帰るべき心の状態》から背き離れる心のウゴキである。と見る。  5. 《しかるべき心の状態〔とおのが心が思っているそれ〕》を《善》とよぶべき自然本性のあり方と規定する。したがって この善に背き離れる動きは 負の善であり ひとことで《悪》と呼ぶ。  6. このような定義から 次の命題をみちびく。  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~  ( a ) 悪は存在しない。  ( b ) 主観としての善をねじ曲げ傷つけること これが悪である。  ( c ) すなわち 善は それとして存在するが 悪はその善の損傷としてこれをひとことで悪と呼ぶ現象があるのみだ。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (7) ★ ということで、bragelonneさんの性善説的な善悪論には、ちょっと異を挟みたいと気分です。  ☆ 性善説 その孟子版については かなりここでの善悪論は違っていることに気づきました。No.21お礼欄をごらんください。  (あ) すでに表現が外に出てしまっている状態について 相手との関係において 善悪を規定する傾向が 孟子にある。こちらにない。《悪は人の外に存在する》とまで言っているそうです。こちらは《存在しない》と言っています。  (い) やはり外に出た表現行為とその人間関係について見て 善悪を規定しようとする。人間の性は善だという説は 《善の兆し》が先天的にそなわっているからだと言う。たとえば 《惻隠…他者の苦境を見過ごせない「忍びざる心」(憐れみの心)》だと。  でもこの兆しないし傾向は おそらく主観〔という動態〕における生理的心理的な反応をめぐって立ち帰るべき状態があると見たり その状態から離れようとする別種の反応が観察されたりすることなどから 《善》なる自然本性が捉えられるという原点があるから そう言えることではないか?  その善から 自己背反としてのような悪という現象が現われる。と捉えるかたちを ここでは採る。       *  (8) ★ この善悪論の土台にある考え方は、全体的に、キリスト教的にすぎやしませんか。  ☆ キリスト教・つまりオシエないし宗教は 知りません。嫌うという意味です。アウグスティヌスに――自分の解釈をとおして――拠っています。  (9) ★ ~~~~~~~~  しかし、善悪の根源は、動物と比較すると複雑であるけれど、快・不快、楽・苦からの動物的な感覚の次元を脱していないのでは、と考えています。人間は動物はまったく別な存在ではなく、人間は動物の延長線上にある存在だと考えています。ただ、人間は行動様式などが動物と比較して複雑で高度(?)な存在であるだけ、と考えています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《根源》は――実践論であるゆえ―― あつかわない。という方針です。  (10) ★ ~~~~~~~~  本来的に善悪を知る、もしくは、善悪を感じとる能力・・・  そうした能力といいますか判断力と言いますか、そうしたものは、生後に、「意志→行為→周囲に与える結果→その結果が行為者に与える印象・感情etc」の絶え間ない繰り返し、連鎖過程の中で、後天的に身につけるのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ といった過程そのものについての議論は 差し支えないかぎりで 扱いません。  (11) ★ ~~~~~~~~~~~  そこには当然、過ち(?)が起こります。そして、個々人における行為の〈過ち〉の判断材料は、心内に先天的に具わっている善悪を感じるとる能力ではなく、その行為の結果が行為者にとって感覚的に心地よいものであるか、あるいは、その行為の結果が行為者に有利に働くか、などの自己本位的な感覚的なものだと考えます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 能力が先天的か後天的か あるいはウソ・イツワリをめぐる感覚反応が快不快という判定の仕方によるべきか あるいは有利不利かによるべきかなどなど これらは 出来る限り扱いません。  主観が何を最終的にもとめているか。ねがっているか。立ち帰りたいと思っているその場は なにか。これによって判断し あとはそのしかるべき場ないし状態を善ととらえ それにさらかうウゴキと状態を悪とよぶ。これのみで 話をすすめるという方針です。  (12) そうしておくなら   ★ ~~~~~~~~  そして、その個々人が参加する社会と、その社会を構成する個々人にとて、  ”(都合の)よいこと”(善いことではありません)の最大公約数的なものが善になるのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ といった別様の理論に対しても 同等の位置を持ち得る。こう見ます。  わづかに 質問趣旨のほうが 有益だと思われるのは 主観がただちに善悪の判断が分かるかたちを取っているそのことです。  (13) ★ ~~~~~~~~~~~   ☆(a)悪は存在しない。  「善悪は相対概念と言うか相依的な概念なので、悪がなければ、善もないのでは」  ということになるのでは、というのが率直な疑問です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この反論についても 主観が何をもとめているか ここに焦点を当てるかたちで なお持ちこたえ得て行くものと考えます。上のご見解は あまりにも《客観的》すぎましょう。実践論を構成しがたい。と思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~  とりあえず このあたりでひとまづとします。もし取りこぼした論点などありましたら 申し訳ないですが そのとき考えます。  

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回答No.94

たとえ『繰り込み』が可能になっていましょうとも%、 アカウントの中にも隠れていませんね。 http://okwave.jp/qa/q7696258.html

bragelonne
質問者

お礼

 残念ながら 分かりません。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.93

#87です。 > ★ つまり、自然本性は善でも悪でもあり得る、とおっしゃっていますか?  ☆ 《意志の発動にかかわって 道具の発明が 善にでも悪にでもなる》です。 : 自然本性というものは《意志の発動にかかわって 道具の発明が 善にでも悪にでもなる》ものである、ということですね。 ということは、自然本性自体に善なり悪なりの属性は備わっていない、ということは否定していないわけですね。 この質問で何を言おうとしているのかは別問題として、この点に関してだけ率直にお応えいただけますか? > ★ この場合だと、(広義の好奇心の発露という意味で)ダイナマイトの発明自体に善も悪もないでしょう、とわたしは言っているわけです。  ☆ 《主観》がかかわらなければ 善悪観は現われない。です。 : 同じことを言っていると思うのですが・・・。 「好奇心(本性)の発露としての、ダイナマイトの発明自体に善も悪もない」ということは否定なさらないのでしょう? > ★ ブラジュさんは、人間は信頼関係を築くという善としての属性を本性として備えている、と強引に設定しているにすぎません。  ☆ 《生きること》 これが 言わば善です。自分と相手がいる場合には 《ともに生きること》となりまう。むろんこれを損ねる悪もありえます。  信頼関係は 生きることのために必要と見るからです。 : いや、それはわかっていますよ。(そうした論理展開であるということわかっているという意味であり、おっしゃっている内容に賛同している、という意味ではありません。むしろ逆です) その根拠を示さずに結論だけを述べているという意味で強引だと言っているわけです。 なぜに『《生きること》 これが 言わば善です』という断定が可能なのですか? > ★ 最初から悪が存立している状況は容易に想定できます。  ☆ この一文は 文脈の中で浮き上がっています。その例証がないからでしょう。 : 「最初から悪が存立している状況」というのは、あくまで「善の損傷」云々という解釈を加えるまでもなく、という意味です。 いくら例証を挙げても、それは、その基である善が損傷されたに過ぎない、とおっしゃるに決まっているでしょう。 コインの裏を見て、「これは裏ではない。表ではない面である」と主張する人に、どのような例証が可能でしょうか?(これもあくまで例ですので、コインという例自体に関して突っ込むのは勘弁してください。どうしてもの必要性があれば別ですが) >  ひとつには やましさ無しなら――その特定の主観においてですよ―― 悪ではないのです。なら 善でも悪でもないこと(左利きか右利きかにかかわる事例を挙げました)をも含めて大きく善であると捉えます。不都合はないはずです。 : やましさを感じるか否かで(その特定の主観における)全ての善悪を判定できる、ということになってしまいますが、果たしてどうでしょうか。 赤ん坊が(当然、やましさを感じることなく)核弾頭のスイッチを押したとしても悪でないことは確かですが、しかし、スイッチを押さないことが善だという理屈には至らないのではありませんか? 現段階ではあまり詳しく述べることができず申し訳ないのですが、わたしが一番気になっているのは、「善でも悪でもない」という概念を否定する方向に、ブラジュさんの質問は導いてしまう危険性があるのではないか、ということなんです。 いずれにせよ、善悪は相対的な価値観である、というのは、むしろ当然ですが、しかし、それは、あくまで現状分析にすぎないでしょう。 そこからの脱却を図るのが哲学の課題じゃないんですかね。 現状を追随分析して、それでお終いですか?   

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~~  自然本性というものは《意志の発動にかかわって 道具の発明が 善にでも悪にでもなる》ものである、ということですね。  ということは、自然本性自体に善なり悪なりの属性は備わっていない、ということは否定していないわけですね。  ~~~~~~  ☆ そうですが ただし気をつけなければならないことがあります。  まづ やましさ反応からは遠い意志内容は 善と呼ぶわけです。これは 《生きること》を内容としていると考えられます。《生きること》を内容としているゆえ やましさ反応が起きるわけがない。というかたちです。  だとすれば 自由意志なりこの意志の座としての自然本性なりは 《生きること》を共通の基礎としているはずです。その限りで 意志も自然本性も 善であると見ることになる。  こういう見方です。  ★ 「好奇心(本性)の発露としての、ダイナマイトの発明自体に善も悪もない」ということは否定なさらないのでしょう?  ☆ 結論が同じであっても その推論が違う場合があります。  《善も悪もない》と判断して そうなるのではない。ということを言いたいからです。  つまり まだ善悪の判断をする以前の状態にあるのだから という筋道です。    もっともその発明者においては その発明の段階において何らかの意志を持っていたかも知れません。破壊力のあるものをつくろうといった心つもりであれば ただしそうであっても その用途が決まっていないときには 中立なのでしょう。    ★ ~~~~  その根拠を示さずに結論だけを述べているという意味で強引だと言っているわけです。  なぜに『《生きること》 これが 言わば善です』という断定が可能なのですか?  ~~~~~~  ☆ ひとつに それが 仮説法の議論の仕方だからです。   ひとつに 《生きている》のでなければ 意志を発揮することは出来ないからです。意志行為として 善悪が生じるというのに これが生じないようになれば 議論じたいが成り立ちません。  そういう作業仮説の仕組みです。別にその本質が善であると哲学の議論をして《断定》しているのではありません。  ★ コインの裏を見て、「これは裏ではない。表ではない面である」と主張する人に、どのような例証が可能でしょうか?  ☆ コインの裏表というひと組みと 善悪というひと組みとが 同じように扱えると思っていますか?  意味を成さない。として取り下げなさい。  ★ ~~~~  赤ん坊が(当然、やましさを感じることなく)核弾頭のスイッチを押したとしても悪でないことは確かですが、しかし、スイッチを押さないことが善だという理屈には至らないのではありませんか?  現段階ではあまり詳しく述べることができず申し訳ないのですが、わたしが一番気になっているのは、「善でも悪でもない」という概念を否定する方向に、ブラジュさんの質問は導いてしまう危険性があるのではないか、ということなんです。  ~~~~~~  ☆ ひとつの目的は 《悪は存在しない》という認識が 人びとの常識になることです。  ですから 《善でも悪でもないこと》という部分は――たしかにありますが―― 焦点を当てていないと捉えてください。  ★ いずれにせよ、善悪は相対的な価値観である、というのは、むしろ当然ですが、しかし、それは、あくまで現状分析にすぎないでしょう。  ☆ その過ぎないことだけで 《悪は 存在しない》と言えたら それでよいのです。  ★ そこからの脱却を図るのが哲学の課題じゃないんですかね。  ☆ どうぞご自由に取り組んでください。  ★ 現状を追随分析して、それでお終いですか?  ☆ そのとおりです。用を足すからです。    

noname#161051
noname#161051
回答No.92

>★ ご自身はどういう認識を『悪』と言っているのでしょうか?『やましさに発生した行為』=『悪』なんでしょうか?どの辺を悪と定義するかによって存在するか否かは変わります。  ☆ その人が 或る思いあるいは行ないを頭に思い描いたとき 胸騒ぎをおぼえたとすれば それが やましさ反応である この反応があるということは――その人にとって―― 善の損傷であると見なす。こういうことです。>  なるほど個人個人の話というわけですか >あくまで 主観によって決まります。つまり悪がです。> 『悪』の定義が個人個人の話ならそうなります >そのあと 相手があるおこないの場合などは 相手とのかかわりで どういう振る舞いとなって現われたかで また そのおこないについての見方は 決まって来ます。そのつど《主観》が 決めます。>  個人個人の主観ということでいいですよね?bragelonneの主観のみではないですよね?   >★ しかし同じ実在する石を見てますよね?それを存在しないと言うのであれば  ☆ そこに石があるという事態だけでは このやましさ反応の仮説では 悪かどうか決まりません。あくまで主観が決めます。主観の意志が作動するときに やましさを覚えるか否かで 決まります。きわめて独り善がりで自己満足的な決め方です。>  石は例として出しただけで石があるという事態の話をメインにしている訳ではありません。 >《わたし》もしくは ワタシは それぞれその人のことです。やましさ反応を持つかどうかの具体的なその人のことです。  ですから 善悪観は ヒトの数だけあります。きわめて勝手な決め方になっています。しかもこれが 持ちこたえるというから 不思議です。>  持ちこたえるというのは全般的な法律とかそういうのですかね?それならno.48に書いた回答が解答の一部になっていると思います。 >やましさを覚えたなら その思いや行ないを悪と見止めますが その悪が 悪として存在しているとは 見ません。  なぜなら やましさを覚えたゆえにそれは 善の損傷行為だと見るからです。ただ それをひと言で言えば 悪と呼ぶというだけのことです。呼び方があるから 実在するだろうというのは どうですかね。>  ここも矛盾してしょうがないんですが 『やましさを覚えたなら その思いや行ないを』=(A) 『悪』=(C) 『と見止めます』 『その悪が』=(A) 『悪』=(C) 『として存在しているとは見ません』 というのが意味不明で支離滅裂な発言になっているように思うのですが?まず前提として『やましさを覚えたゆえにそれは 善の損傷行為だと見るからです。ただ それをひと言で言えば 悪と呼ぶというだけのことです。』というのはA=(Cの一部)ということですよね?それなのに『A=(Cの一部)でCと認めます。しかしA=(Cの一部)は存在しません』と書いてある。この辺がよくわからないのですが? >河童とか麒麟とかあるいはアンパンマンとか そう呼んでいるから みな実在しているのだよとは言わないでしょう。>  確かにいいません。そはなぜかというと『架空の存在だ』=『実在していない』と実在化してるから実在していないと思い込んでいるだけです。もしそれを言うなら《主観》が『この世の中主観が認識した現象しか存在しない。だから自分が空を飛ぼうと思えば飛べるんだ!「それ自分よ飛べ!」』と念じて飛べますか?飛べないでしょ?なんでかというと重力という存在が存在するからです。飛べないということは飛べない何かが実在してないと説明がつかないでしょ?ならば『やましさを感じた』という反応が発生し、しかもそれを悪の一部というなら、悪の一部が派生したと言えるわけで悪の派生事実を無い出来事には至らないと思いまがね? <その悪というそれ自体の存在は どこにもない。こういう話です。> そういうなら『存在』の定義をはっきりさせないと話が前に進んでいかないと思います。 <いつも いちいち善の損傷と言っていたのでは めんどうです。だから ひと言で 悪と言います。それだけのことです。> だから『善の損傷』=『悪』もしくは『善の損傷』=『悪の一部』なんでしょうよ? >人の通るところに石を置いておくとか 石を人に向かって投げるとか そういう考えや行ないを頭の中に想い描いたとき やましさを覚えるはずですから それは その人にとって悪となります。そして そのとき実在することと言えば 何でしょう?> 石をぶつけるというやましさです。 >石というモノはあるのだから そのおこないも同じようにあるということになりますか?>  行った場合「ある」・・・というか「行った」ということになると思います。しかし「行っていない」場合「行っていない」といことになると思いますが何を言わんとしてるのか今一分からないのですが・・・? >そこにあるのは 他人の意志や自由を阻んでやろうというその人の心つもりです。これは 悪という言葉で呼ばれますが 実在するのは 意志をないがしろにすることや 相手の自由を妨害するということ> 妨害するというのは妨害行為が発生しないと起きない出来事ですよね? >つまりは《善の損傷》です。ただこれを 悪とも呼ぶというだけです。悪が存在するわけではありません。> 『善の損傷』=『悪とも呼ぶ』=『悪が存在するわけではありません。』 存在の可能性を否定するなら善の損傷は悪と呼べないのではないでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ならば『やましさを感じた』という反応が発生し、しかもそれを悪の一部というなら、悪の一部が派生したと言えるわけで悪の派生事実を無い出来事には至らないと思いまがね?  ☆ ここで   ★ 悪の一部というなら、悪の一部が派生したと言えるわけで  ☆ の部分が 違います。  ○ 悪と呼ぶなら、悪と呼ぶ現象が起きたということであるが その内容は 《善の損傷が生じた》ということである。  ☆ つまり 悪と呼ぶだけである。  ★ 妨害するというのは妨害行為が発生しないと起きない出来事ですよね?  ☆ あたまの中に想い描いた場合にも やましさは発生します。《妨害するという行為を想い描いたその描像》が 発生しています。それにつれて やましさ反応も出て来ます。  あるいは 妨害しようとすでに意志を決めて いざそうしようとするその場合その時点でも すでに これから為そうとする行為の描像をあらかじめ認識することによって やましさ反応が出ます。  つまり あくまでその人の主観の内での出来事です。  もちろん そのあとさらに 実際の行為に及ぶ場合もあるわけです。  そこにあるのは 《相手の意志ないしウゴキを妨害しようとする本人の意志》です。つまりその意志内容としての《善の損傷》が 言わば存在します。    これを悪と呼びますが この呼び名としての悪があるのではありません。あるのは 《善の損傷》です。せいぜい悪は――そう呼んだからには―― 現象として見られるとは言わなければならないかたちです。  すなわち では 悪とは何か? と問うてみればよいのではないですか?  善の損傷である。と答えるなら 損傷という実態は存在し その損傷すべき善というものも それとして 存在している。    けれども そのように存在するものの組み合わせにおいては 善の損傷という存在のほかにあらたな別の存在が現われるわけではありません。悪が 善やその損傷とは別に あらたに 存在し始めたというわけではありません。  善の損傷という存在するもの これを 悪となづけたというだけです。  

noname#161051
noname#161051
回答No.91

>★ ・読み直して分かったのですが、bragelonne が言いたいのは現象の認識が『悪』としない限り『悪』は存在しないという意味ですかね?☆ そういうことでしょう。>  まあそういうことなら当たり前です。パンチを人に向けずに誰も居ないところでパンチしただけならそれはただのパンチであり暴行にはなりませんw。がパンチを食らった人を警察官が見かけたら最低「暴行行為」という認識で捉えて手錠かける位するでしょう(真ともな警察官ならばの話ですが・・・)しかしbragelonne の悪という定義がわからないのでその行為が善悪にあてはまるのか善でも悪でもないものに当てはまるのか分からないという疑問があります。私が不当にパンチ食らったら「犯罪行為」と認識しますがね、ご自身はどういう認識を『悪』と言っているのでしょうか?『やましさに発生した行為』=『悪』なんでしょうか?どの辺を悪と定義するかによって存在するか否かは変わります。 >★ 現象の認識が『悪』としない限り  ☆ というくだりは 一般のひとにはわかりづらいと思います。>  ・・・・確か似たような定義を1年か2年位前に定義づけたことがあって私が作った定義と同じなんですが・・・まあそれは置いておいて、>★ 現象の認識が『悪』としない限り☆ というくだりは 一般のひとにはわかりづらいと思います。>なぜわかり難いと思いますか?それはその現象そのものが実在しているからなんですよ。実在を認識するから存在するという表現でも変ではないんですよ。あと『悪』は一回置いておきますが暴行なり犯罪が引き起こったのを認識した人がいたとしましょう。そうするとその時点で暴行なり犯罪が引き起こっているという事実(実在)を否定できないのではないかと思うわけです。つまり石という実在は日本語を知っている人なら『石』になりますよね?しかし『石』という語をしらない英語を公用語としていて日本語を公用語としていない人からしてみると『stone』なんですよ、それは認識ですが実際に『石』は存在すると言いますよね?しかし英語を公用語としていて日本語を公用語としていない人からしてみると『stone』なんですよ。しかし同じ実在する石を見てますよね?それを存在しないと言うのであれば『悪』という定義をキッチリbragelonneさんが示さないと質疑応答にはなりませんよと言っているんですよ、前々から。まずそこハッキリさせましょうよ? >○ 《悪》は存在しない ~~~~~  1. ワタシは自分の主観として やましさ反応が起きたときその思いやおこないの中身は 善の損傷になると捉える、つまりそれを悪とよぶ。  2. このように悪を定めたかぎりで 悪という現象が起こるわけですから 定めていない場合には 悪が起きる起きないとは いちおう別である。(つまり 別様の定義や理論において起きていると捉えられるかも知れないけれど この《やましさ反応》の仮説とは 別である)。  ~~~~~~~~~~~  ☆ と言っています。>  と言われると『ワタシは自分の主観として やましさ反応が起きたときその思いやおこないの中身は 善の損傷になると捉える』=『悪』というわけですよね(bragelonne の勝手な定義ですが・・・)?ならその「ワタシ」というのは誰を指すんですか?bragelonne さんですか?まあ誰でもいいですが、もしその定義を『悪』と捉えるなら『悪』は実在しているという事になりませんか?していないというのであればその反証を > ★ 『エロDVDは見てはいけない』と感じる自然本性  ☆ これは 言っていません。そういう別の見方――倫理規範としての行き方――があるかも知れませんが やましさ反応仮説とは別です。そうではなく 《冷汗が出たり 行動があやふやになったりする》そのやましさ反応で 悪を決めます。主観的にです。もし  ★ 『エロDVDは見てはいけない』と感じる自然本性  ☆ の部分を 《エロDVDを見ようとしたら 冷や汗が出て来るわ 口は振るえるわで困った困ったという反応》と言いかえ  また  ★ エロDVDが見たいという自然本性が派生して  ☆ という部分を そうですね 《自然本性から 外界のものごとについて見たい知りたいと欲したとき》というふうに言いかえましょうか。> >つまり○ 自然本性から 外界のものごとについて見たい知りたいと欲したとき エロDVDを見ようとしたら 冷や汗が出て来るわ 口は振るえるわで困った困ったという反応。この感覚をおぼえた。  ☆ ということだと見ます。ということですが?>  その『この感覚をおぼえた。』のであればそう感じる側が『悪』という反応として実在したわけだ?それを実在しないと言うのであれば「『石』なんてないあるのは『石と認識した私』だけだ!」という矛盾を孕んでませんか?と補足要求しています。つまり『石』自体が勝手に認識して決めた定義であるわけだから『石』=『石の認識』になるわけだから『悪』=『ワタシは自分の主観として やましさ反応が起きたときその思いやおこないの中身は 善の損傷になると捉える』ならば『やましさ反応を善の損傷と捉える』という現象は実在してないんですか?と聞いています。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ご自身はどういう認識を『悪』と言っているのでしょうか?『やましさに発生した行為』=『悪』なんでしょうか?どの辺を悪と定義するかによって存在するか否かは変わります。  ☆ その人が 或る思いあるいは行ないを頭に思い描いたとき 胸騒ぎをおぼえたとすれば それが やましさ反応である この反応があるということは――その人にとって―― 善の損傷であると見なす。こういうことです。  あくまで 主観によって決まります。つまり悪がです。  そのあと 相手があるおこないの場合などは 相手とのかかわりで どういう振る舞いとなって現われたかで また そのおこないについての見方は 決まって来ます。そのつど《主観》が 決めます。    ★ しかし同じ実在する石を見てますよね?それを存在しないと言うのであれば  ☆ そこに石があるという事態だけでは このやましさ反応の仮説では 悪かどうか決まりません。あくまで主観が決めます。主観の意志が作動するときに やましさを覚えるか否かで 決まります。きわめて独り善がりで自己満足的な決め方です。  道徳や倫理規範でまた法律でこれこれこうだと決まっているから それは悪だ いや悪ではないという問題ではありません。  《わたし》の主観が――それも やましさ反応の有る無しが――決めるのです。  《わたし》もしくは ワタシは それぞれその人のことです。やましさ反応を持つかどうかの具体的なその人のことです。  ですから 善悪観は ヒトの数だけあります。きわめて勝手な決め方になっています。しかもこれが 持ちこたえるというから 不思議です。  やましさを覚えたなら その思いや行ないを悪と見止めますが その悪が 悪として存在しているとは 見ません。  なぜなら やましさを覚えたゆえにそれは 善の損傷行為だと見るからです。ただ それをひと言で言えば 悪と呼ぶというだけのことです。呼び方があるから 実在するだろうというのは どうですかね。  河童とか麒麟とかあるいはアンパンマンとか そう呼んでいるから みな実在しているのだよとは言わないでしょう。  ★ その『この感覚をおぼえた。』のであればそう感じる側が『悪』という反応として実在したわけだ?  ☆ 《悪とよぶコトとして実在した》とまでは言えましょう。  ところが そのコトは 《善の損傷》であるというのが その実質的な中身なわけです。悪とは呼んでいるけれど その悪というそれ自体の存在は どこにもない。こういう話です。  いつも いちいち善の損傷と言っていたのでは めんどうです。だから ひと言で 悪と言います。それだけのことです。  石と悪とは 別でしょう。  人の通るところに石を置いておくとか 石を人に向かって投げるとか そういう考えや行ないを頭の中に想い描いたとき やましさを覚えるはずですから それは その人にとって悪となります。そして そのとき実在することと言えば 何でしょう?   石というモノはあるのだから そのおこないも同じようにあるということになりますか?  そこにあるのは 他人の意志や自由を阻んでやろうというその人の心つもりです。これは 悪という言葉で呼ばれますが 実在するのは 意志をないがしろにすることや 相手の自由を妨害するということ つまりは《善の損傷》です。ただこれを 悪とも呼ぶというだけです。悪が存在するわけではありません。そう呼んでいるだけです。  

noname#161051
noname#161051
回答No.90

>あなたとのやり取りを 初めから 読み直してみてください。  ぜんぶ答えています。> ・読み直して分かったのですが、bragelonne が言いたいのは現象の認識が『悪』としない限り『悪』は存在しないという意味ですかね?  それならその通りだと思います。否定する要素はないです。  わたしの言っているのは自然本性の捻じ曲がり損傷のみが<やましさ>に転ずるというところがそれだけとは言いがたいと言っているわけです。エロDVDで説明しましたがエロDVDが見たいという自然本性が派生して『エロDVDは見てはいけない』と感じる自然本性が損傷して引き起こった反応だと考えます。つまりやましさというのは『自然本性の派生+自然本性の損傷』なのではないかと思うわけです。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ・読み直して分かったのですが、bragelonne が言いたいのは現象の認識が『悪』としない限り『悪』は存在しないという意味ですかね?  ☆ そういうことでしょう。  ★ 現象の認識が『悪』としない限り  ☆ というくだりは 一般のひとにはわかりづらいと思います。  ○ 《悪》は存在しない ~~~~~  1. ワタシは自分の主観として やましさ反応が起きたときその思いやおこないの中身は 善の損傷になると捉える、つまりそれを悪とよぶ。  2. このように悪を定めたかぎりで 悪という現象が起こるわけですから 定めていない場合には 悪が起きる起きないとは いちおう別である。(つまり 別様の定義や理論において起きていると捉えられるかも知れないけれど この《やましさ反応》の仮説とは 別である)。  ~~~~~~~~~~~  ☆ と言っています。  ★ わたしの言っているのは自然本性の捻じ曲がり損傷のみが<やましさ>に転ずるというところがそれだけとは言いがたいと言っているわけです。  ☆ 分かっています。例証をどうぞと言っています。  なお精確には やましさ反応は 自然本性としての心に逆らって へそを曲げその反抗心のようなもののほうを自由意志が欲するとき 起きるという説明です。起きたら 心としての善を損傷させる行為だと見る。これを 悪と呼ぶと。  次が 例示のようです。  ★ ~~~~~~~~  エロDVDで説明しましたがエロDVDが見たいという自然本性が派生して『エロDVDは見てはいけない』と感じる自然本性が損傷して引き起こった反応だと考えます。つまりやましさというのは『自然本性の派生+自然本性の損傷』なのではないかと思うわけです。  ~~~~~~~~~~  ☆ まづ  ★ 『エロDVDは見てはいけない』と感じる自然本性  ☆ これは 言っていません。そういう別の見方――倫理規範としての行き方――があるかも知れませんが やましさ反応仮説とは別です。  そうではなく 《冷汗が出たり 行動があやふやになったりする》そのやましさ反応で 悪を決めます。主観的にです。  もし  ★ 『エロDVDは見てはいけない』と感じる自然本性  ☆ の部分を 《エロDVDを見ようとしたら 冷や汗が出て来るわ 口は振るえるわで困った困ったという反応》と言いかえ  また  ★ エロDVDが見たいという自然本性が派生して  ☆ という部分を そうですね 《自然本性から 外界のものごとについて見たい知りたいと欲したとき》というふうに言いかえましょうか。  つまり  ○ 自然本性から 外界のものごとについて見たい知りたいと欲したとき エロDVDを見ようとしたら 冷や汗が出て来るわ 口は振るえるわで困った困ったという反応。この感覚をおぼえた。  ☆ ということだと見ます。ということですが?

回答No.89

原罪を特定のアドオン群が取り除けましょうか? http://okwave.jp/qa/q7694027.html

bragelonne
質問者

お礼

 わっかんねえよ。

回答No.88

たとえ対照勘定の様なセットへの監査を外部に委託しませんでしても、 価値による拘束からの解脱が維持されるのでしょうか? http://kanauka.com/kakomon/au/h23t/002.html

bragelonne
質問者

お礼

 つづきますね。  ★ 監査  ★ 価値による拘束  ☆ このふたつは 別のことですよね。  監査――つまりこの場合は 外部によるだけでなく 自己による監査――をしなくても 《価値による拘束》から解脱するかどうかの課題があると思います。  監査したからと言って――きちんとマチガイが指摘され修正されたからと言って―― 価値へのこだわりが それぞれの人において なくなるわけではない。  あるいは 価値へのこだわりは 初めからなかったかも知れない。  ・・・

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.87

#84です。 > ★ 「基礎である」の主語はなんでしょうか。  ☆ 自然本性です。また その中核としての自由意志を取り上げています。 : ということは、 「> つまり生きるという意味では善であり そして現象としての善悪の選択がなされる意志の座として基礎である。重ねて述べれば 善ないし悪を選択して実行することになる意志の座として基礎である。(#77お礼欄)」という文の意味は、 「つまり生きるという意味では善であり そして現象としての善悪の選択がなされる意志の座として基礎である。自然本性とは、善ないし悪を選択して実行することになる意志の座として基礎である。」 ということになります。 自然本性が善でも悪でもないことをご自身でお認めになっていることになります。 > ○ 《道具の発明》を実現する能力は 自然本性のうち特には知解という行為能力であり 《道具の発明》という中立のコトは 《善でも悪でもない》というよりは そのあとその人の意志の発動にかかわって 善でも悪でもありうる。 : つまり、自然本性は善でも悪でもあり得る、とおっしゃっていますか? > つまり 石斧という道具を発明した。  ★ 具体的なものごとにつながる目的で  ☆ 発明されたわけです。そしてそれは 自然本性のうちの知解能力を用いておこなったと考えられます。 : #77でも述べたことですが、獲物の屍骸の中に、細くて長く堅い骨の一振りを見つけたとき、一匹の猿が、「こりゃ何かに使えるかも・・・。使えそうだ・・・」と感じた。 それが好奇心という本性でしょう、ということです。 叩いて音を出すためか、仲間と遊ぶためか、獲物を狩るためか、仲間をしばくためか、という目的が浮かぶ以前に好奇心が頭をもたげる。 鉱山の発掘に寄与するか、戦争の道具にするかを考えずにダイナマイトが発明されたのと似ているといえば言える。 この場合だと、(広義の好奇心の発露という意味で)ダイナマイトの発明自体に善も悪もないでしょう、とわたしは言っているわけです。 > 《こわれた信頼関係》という悪が 初めにあって わづかにその修復をおこなうという善が 二次的に現われる。それだけだとすれば 悪も それ自体として存立していると言えないか? という問いは 成り立たないでしょうね。 : 食い違いが浮き彫りになっていてわかりやすいですね。 少なくとも、この論理は成立しません。 「信頼関係」は本性ではない、という点が大きな違いです。 信頼関係が築かれれば善ですし、信頼関係が築かれない状態は悪と仮定するとわかりやすくなるでしょう。 最初から悪が存立している状況は容易に想定できます。 ブラジュさんは、人間は信頼関係を築くという善としての属性を本性として備えている、と強引に設定しているにすぎません。 あくまで論理上の筋について言っています。 その内容の是非についてここで今論じるつもりは特にありません。 > 極端なことを言えば 《やましさ反応》仮説による善悪観と そして別様の理論構成による善悪観とが 両立するということも ありうるのかも知れません。  ですが いまは この質問趣旨の検証を質問者としては 問い求めます。  いえいえ けっきょく別様の仮説理論をどうぞとも言って来ました。 : わかりました。 悪は存在する、ということについて説得力のある見解を展開しないのであれば、他人の質問にケチをつけるな、というわけですね。 まあ、それはある程度認めます。しかし、 > 善悪を決める意志は 基礎として善だと見るという仮説であり その意志の座としての自然本性は 善であろうと同じく仮説するというに過ぎません。 : とおっしゃるわけですから、 「>善悪を決める意志は 基礎として善だと見る」と仮説する根拠を教えてください、と言いたくもなるでしょう。 それ無しに、「>その意志の座としての自然本性は 善であろう」と言われてもなあ・・・、という感じでしょうかね。 > やましさ反応で やましさをおぼえない場合の心のあり方 これを善と言っており 意志というその全体やその座である自然本性は やましさ無しの善と同じ地盤であろう。こう見て 作業仮説の検証をしている。それだけです。 : 「>やましさ無し」が(必ずしも)善だとは特に思いませんので、最初から食い違いがあるということのようですね。 ただ、悪の際にやましさ反応が起こる場合【も[しばしば]ある】とは思いますし、「やましさ無し」に戻そうとする営為は善と思います。 だからといってやましさの無い状態が特に善ということにはならないのではないか、つまり、それは単に自然本性であるだけで、ということです。 いずれにしても、多様に発展する課題を含んだ面白いご質問でした。 以前からの懸案事項とも関連するため、ほとん整理がつかないままで、今回はこんなところではないかと思います。 因みに、わたしのような俗人はせこくて、現実社会で明日からでも実践できる哲学でなければ意味がないだろう、と思ってしまいますが、それにしても、やはり確信的な根拠は必須ですね。        

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 自然本性が善でも悪でもないことをご自身でお認めになっていることになります。  ☆ 善および悪は やましさ反応にしたがって その意志選択の内容について言っています。その本質が善だだとか悪だだとかというのではなく 善と呼び悪と呼ぶというふうにです。     そのあと 善または悪を選択する意志またはその意志の座としての自然本性 これは それら自身が存続していないことには 善悪の選択や実行が出来ない相談なのですから 善悪なる行為をなすことの基礎でもある。  つまり この意味でも《生きること》が 存在や基礎と地続きであると見られる。  そうして およそこの《善悪の全体》を捉えて言うときには この生きることや意志や自然本性が 基礎であり それは言うとすれば 善であろう。と見ています。    ★ つまり、自然本性は善でも悪でもあり得る、とおっしゃっていますか?  ☆ 《意志の発動にかかわって 道具の発明が 善にでも悪にでもなる》です。  ★ この場合だと、(広義の好奇心の発露という意味で)ダイナマイトの発明自体に善も悪もないでしょう、とわたしは言っているわけです。  ☆ 《主観》がかかわらなければ 善悪観は現われない。です。  ★ ブラジュさんは、人間は信頼関係を築くという善としての属性を本性として備えている、と強引に設定しているにすぎません。  ☆ 《生きること》 これが 言わば善です。自分と相手がいる場合には 《ともに生きること》となりまう。むろんこれを損ねる悪もありえます。  信頼関係は 生きることのために必要と見るからです。  ★ 最初から悪が存立している状況は容易に想定できます。  ☆ この一文は 文脈の中で浮き上がっています。その例証がないからでしょう。  ★ 「>善悪を決める意志は 基礎として善だと見る」と仮説する根拠を教えてください、と言いたくもなるでしょう。  ☆ これは 今回の冒頭で説明しています。《生きること》関連は すでに説明していると思うのですが。  ★ 「>やましさ無し」が(必ずしも)善だとは特に思いませんので、最初から食い違いがあるということのようですね。  ☆ ひとつには 《主観》が発動してこそ善悪観が現われるということ。これに留意してください。  ひとつには やましさ無しなら――その特定の主観においてですよ―― 悪ではないのです。なら 善でも悪でもないこと(左利きか右利きかにかかわる事例を挙げました)をも含めて大きく善であると捉えます。不都合はないはずです。  ひとつには ここでも 例証をなすべし。さもなければ ケチをつけているに過ぎない。  このくだりでは さらに書いてありますが これまでと同じだと見なします。  ★ 因みに、わたしのような俗人はせこくて、現実社会で明日からでも実践できる哲学でなければ意味がないだろう、と思ってしまいますが、それにしても、やはり確信的な根拠は必須ですね。  ☆ 《悪は 存在しない》という認識がもたらす実践を知るべきでしょう。  《確信的な根拠》うんぬんは 《主観》をとおして初めて善悪観が現われるという説明を 最後まで留意しないままだったことに起因しましょう。やましさ反応は うむを言わせない事態です。

noname#161051
noname#161051
回答No.86

>困りましたね。>  困ったということは今のところ私の補足要求に答えられる理由を書けないということですね。どうします?答えられないんですか?困りましたね?何回読んでもご自身は支離滅裂な発言が多いですし、意味不明です。ご自身もう少し素直に答えたらどうでしょうか? 質問文を借りると >(g)自然本性と言うべき心としての善――おのれが捉えている善です―― これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。> これと >ならば 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。> という文章の意味も不明なんですよ。(g)に『~状態のことも 悪と呼ぶ。』と書いて置いて最後に『ならば 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。』と書いてあるのも今一つピンと着ません。    補足質問1・『ならば悪は存在しない』と表現するのは分かりますがどのような悪が存在しないのか?    補足質問2・『その名で呼ぶ現象がある』で『ある』と書いてあるのに『存在しない』となるのか?    補足質問3・主観として良かれと思って行動する行為が自然本性なら、なぜ自然本性が(ご自身の定義で言えば『自然本性=基なる善』故に)損傷するのか? ここを分かりやすく詳しく説明してください。

bragelonne
質問者

お礼

 あなたとのやり取りを 初めから 読み直してみてください。  ぜんぶ答えています。  あなたの文章が支離滅裂であることを指摘しようとは思いません。

noname#161051
noname#161051
回答No.85

>『的が外れてる理由をなぜ言わないのですか?』> ・と補足要求してるんだから、まずそこを答えて下さい。 >『何回読んでも的を外れているとは思いませんがね。(まあ多少表現の違いは見当たりましたが・・・)どこが外れているんですか?』> >ほんとうに分かりませんか?> ・分かりませんね。何回読み直しても、bragelonneが的を外すような言い回しをしてbragelonne が都合が悪くなったから、「ご自身(私)が的外れなことを言っている」という風な書き方をしてるとしかとれませんが?

bragelonne
質問者

お礼

 困りましたね。

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     この詭弁におつきあいください。そして その当否について吟味・検証しつつ ご教授ください。        *  ひとは なにゆえ うつろいゆくことになるのか?  なにゆえ うつろいゆく側に心を置いてみようとするのか?  その心の片向きは 弱さから来るのか?  思うようにならないことにやけを起こすことからか?  ひとと心をかよわすことが出来ずにくじけてしまったからか?  けれどもその片向きをえらび取るのは おのれの意志である。  おのれの心の・おのれの存在のうつろいゆくことを おのが意志が欲する。ということが起きる。  やがて朽ちるそのことをえらばざるを得ないかのように おのれの心の腐る側へと おのが意志が向かう。  はっきり言えば おのれの死〔への道行き〕を意志がえらぶ。  けれどもこれは タナトスなどという死の本能などではない。  愛である。  社会に生きるというその存在の互いの関係性にもとづく愛である。  おそらく生きることを欲するゆえに 生きることとしての善を損傷させるかたちを取ってでも 世の中の人びとのうつろいゆく姿を見て見なかったことにはできない。という愛 からである。  世の悪を 《わたし》は 引き受けるのである。  なぜなら 《悪は存在しない》とそのおのが自然本性において信じているから。  愛が そこに すでに起こってしまったそれだけのこととして そういう生き方をわたしたちはえらんでいる。    知らなかったけれども 《わたし》はそれを欲したようなのである。悪を引き受けるという選択を。        *  《うつろいゆく・朽ちる・腐る》といった――つまり要するに ひとは時間的な存在であるから 死を死ぬというさだめにある――性質がある。  この《うまれて来て 生きて やがて寿命をまっとうして死ぬ》という《わたし》の時空間のウゴキに問題はない。  それは 言うなれば善であると思われる。  その善なる基礎としての自然本性・そしてそのうちの自由意志には この朽ちるウゴキをみづからが早めたりわざと欲したりする向きへも片向きそのように出来上がったヱクトルとして作用することが起きる。  これを 負の善 つまり 善の損傷と捉え 悪と呼ぶと考えた。  さらにはこの《悪》としてのウゴキ あるいは《悪》を――すでに身の周りや世界には起きているのを見てそれらを受け留め さらに――みづからが引き受けるという〔言ってみればコジツケのような〕《愛》のチカラおよびそのハタラキがある。のか?  悪に同調することと悪を引き受けることと。    考えてみれば 前者のよわいハタラキも すでに言うなれば愛である。ひとの存在をめぐって社会性ないし関係性の関数だという意味である。       *  《悪は 存在しない》という命題は 《悪に同調すること および 悪を引きうけること》といった《愛》の問題であった。  愛は すでに理屈抜きで 自然本性にあって――この自然本性なる心にさからって作用した自由意志にも対抗するかのように どん底より持ち上がり湧き上がって――その底力なるハタラキを表わす人間のチカラであるらしい。  《善に根差しつつ悪をも引き受ける》ところの《愛》  悪につき合う悪。  それは 死のほうへ寄って行くようなことだが  しかも愛だ。        *  愛とは何だ? と言われるでしょうから さしづめ おのれを活かし相手をも活かすハタラキでしょうか。

  • 悪は 善と同じように存在していますか?

     1. ひとには 良し悪しという感覚とそしてやはりそれとしての主観的なともかくの判断があります。  2. 《良し》と見なしたことを 広く《善》と呼ぶとします。  3. この善なるものごとは 存在しています。何らかの危険に遭って助かったというとき そのわれなる存在の存続は 善だと一般に呼べるはずですから。  4. このとき・だとすると 《助からない》ことが 善ではなく負の善であり 一般に悪とよばれることだと捉えます。とにかく《良くない》ことでしょう。  5. このように捉えた悪は それとして善が存在するのと同じように 存在しますか?  6. 回答は ふたつに分かれると思います。   6-1. この趣旨説明での悪の規定にしたがって それが善と同じように存在する・または存在しないとして見解を述べる場合が ひとつ。     6-2. もうひとつは いやいや そのような悪の定義では 話が成らない。ゆえに これこれの定義を提示します。それによると 悪も存在すると見るか または 別の定義によっても 悪は存在しないと見るか。として見解を述べる場合です。  どうでしょう。  

  • 善と悪についての問答

    善と悪についての問答   問う人:  善とは何や。 「人の道」:   善とは嘘偽りなく物事の有るがままを有るがままとして捉えることや。 つまり善とは見えるもんを見えると言い、見えんもんを見えんと言うことや。 善とは聞こえるもんを聞こえると言い、聞こえんもんを聞こえんと言うことや。 善とは知っとるもんを知っとると言い、知らんもんを知らんと言うことや。 善とは無いものを無いと言い、有るものを有ると言うことや。 問う人:   では悪とは何や。 「人の道」:   悪とは善の対極にあるもんや。  つまり悪とは偽ることや、そして物事を捻じ曲げることや。 問う人:   偽るとはどういうことや。 「人の道」:   偽るとは見えるもんを見えんと言い、見えんもんを見えると言うことや。 偽るとは聞こえるもんを聞こえんと言い、聞こえんもんを聞こえると言うことや。 偽るとは知っとるもんを知らんと言い、知らんもんを知っとると言うことや。 偽るとは無いものを有ると言い、有るものを無いと言うことや。 偽るとは語るべきを語らず、語らざるべきを語ることや。 問う人:   なぜ偽ることは悪なんや。 「人の道」:   偽ると真理の探究は出来んからや。 問う人:   如何なる場合も偽ることは悪なんか。 「人の道」:   そーや、如何なる場合も偽ることは悪や。 問う人:   最大の悪とは何や。 「人の道」:   最大の偽りや。 問う人:   最大の偽りとは何や。 「人の道」:   神や仏、天国、地獄を語ることや 問う人:   なんで神や仏、天国、地獄を語ることは偽りなんや。 「人の道」:   だから言うたろ。  見えんもんを見えると言うことは偽りや。  聞こえんもんを聞こえると言うことは偽りや。  知らんもんを知っとると言うことは偽りなんや。 「人の道」:   どうや、これで善と悪が何かよー分かったろう。 問う人:   はい、よー分かりました。善とは偽りの無いこと、悪とは偽ることや。 「人の道」:   では最大の悪が何かも分かったか。 問う人:   はい、よー分かりました。嘘八百並べ神や仏、天国、地獄を語るのが一番悪い。 「人の道」:   皆にも聞く。宗教漬になって嘘八百並べるのが一番悪いちゅーこと、よー分かったな。      

  • 真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第九章 いわゆる真善美について  1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問います。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には 善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。  6. では 美はどこに位置づけられるのか?  7. 善と悪とのいづれも相対的な主観真実をたずさえて生きるとき どこに重きを置くか? ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(家族から出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素を採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものがあってそれが起こるのではなく 善(存在ないし生きること)があってそれの損傷行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする、このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔を赤らめ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでない悪かが決まると捉えます。つまり 主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を知性として(つまり 認識した上で言葉に表わし)その主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 共同主観として認められる。主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観とて 絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり 《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツワリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ規範をも超えてうつくしきものを見たいという美の渇きは必然的なことだと見ます。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたに形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めの真理ないし善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。  30. それは 侵したウソ・イツワリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツワリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が共有され得ます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をすすむ。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその差は 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも 普遍性がある。  38. このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。