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「受動的な感覚の自我喪失的表現」に関して質問です。
“牛乳を飲む動作が(何らかによって)止められた感じがした” に関して以下の回答を『国語』カテゴリで得ました。 自分が「受動的な感覚の主体的表現」で合っているかどうか知りたくなりました と質問したことに対し、 相手はこの場合「させられ体験」なので「自分自身が主体的に行っているという意識がありません」能動的ではなく受動的方向に意識が傾いています。 自我が健全には機能していない印象があり、自分の中に他者が入り込んだような表現になっています。 ですから、私はこの場合は「受動的な感覚の自我喪失的表現」だと思います。 「自我喪失的」とは言い換えるのならば「主体喪失的」ということになります。 しかし疑問に思ったことがあります。 受動的な感覚の自我喪失的表現は家族に伝えたところ、あまり使わないとのことをおっしゃってましたし、ややこしい表現に関してはわからないとのことでした。 それと、『視線をそらすのが(何らかによって)止められた感じがした』『まるで操られたような感じに陥った』『(何らかによって)頭の中の記憶が暴かれているような感じがした』なども「受動的な感覚の自我喪失的表現」だと考えられるのです。 ここで質問があります。 ★「受動的な感覚の自我喪失的表現」という言葉は本当に存在するのでしょうか? ★ここまでの文章に関して『牛乳を飲む動作が(何らかによって)止められた感じがした』『視線をそらすのが(何らかによって)止められた感じがした』『まるで操られたような感じに陥った』『(何らかによって)頭の中の記憶が暴かれているような感じがした』などは自らの意思に反して動いたり行動したりしたことだと思うのですが、『 』内の言葉が「受動的な感覚の自我喪失的表現」という解釈であることは間違いないですか? 最後に僕は抽象的な言葉、観念的な表現、比喩、皮肉などの難しい言葉を理解することが苦手なので抽象的ではない、具体的な表現であるわかりやすい言葉で答えて下さると嬉しいです。 ※以上のことでわからない箇所があったら、どこがどういうふうにわからないのかも回答下さい。
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- NiCr
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“受動的で自我侵入的な感じを表す表現” 確かにその方が「させれ体験」をよく表していると思いました。 私は簡潔に表現するのが好きですが、こういう難しい体験の場合は、より詳しく表現した方がしっかりと想像できるのかもしませんね。
- NiCr
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『牛乳を飲む動作が(何らかによって)止められた感じがした』 「感じがした」で主体性を表していて、「止められた感じ」で受動的な感覚を表しているのですから、「受動的な感覚の主体的表現」で良いのではないでしょうか。「自我喪失的」というの明らかに造語でしょう。 ただ、『 』内の状態はほとんどの人が経験しにくいものなので、存在する言葉だけでは表現しきれないとも思います。造語を使ってでもその『 』の状態を説明しようとするのはわかります。 『 』内の状態は「させられ体験」や「作為体験」と呼ばれる自我障害の一症状のことだと思います。この場合、自我が喪失しているというよりも、侵入が起こっていると思われます。私だったら「自我侵入的」とします。また、感覚というのはもともと受動的なものなので、すっきりと「自我侵入的な感覚の表現」とした方が『 』内の状態を表しているのではないでしょうか。 家族の方があまり使わない表現だというのは、こういう症状を経験する人がほとんどいないためだと思います。私は心理学を少し勉強しているので、少しは想像することができます。そうでないほとんどの人は、何を言っているのか分からないのではないでしょうか。説明が具体的でない所があったら教えてください。
お礼
ご回答ありがとうございます。 個人的に思ったのですが、『牛乳を飲む動作が(何らかによって)止められた感じがした』というのは「受動的な感覚の自我侵入的な表現」および「自我侵入的な感覚の表現」と書き表すというよりも、こう書き表したほうがいいと思いました。 “受動的で自我侵入的な感じを表す表現” 回答者さんはこのことについてどう思うかが知りたいです。 “ ”内の表現のほうがしっくり来ると思いませんか?
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実は自分の中だけで起きた出来事について質問があります。 それは受動的な感覚の表現である“発見された(=暴かれた)の客観的な認識の表現または客観的な認識の主体的表現が知りたいということです。 自分は、《§:幻聴と耳鳴りがきっかけだったり、テレビがきっかけの他、車・バイク・飛行機の音に接した、電話口や玄関先で話しているのに接した、喫茶店で働いていて利用者さんが職員さんに注意されているのに接したなどきっかけは様々》ですが、自分の意思で飲み食いする・起きる・冊子を読んでいてページを変えるなどの日常動作をしようとしたが、 様々なきっかけであるもの=《§:》 に気を取られて(?)意思に反してそれらの動作が緩慢になったり、停止したりしたことが過去に何度もありました。 例えばテレビ画面を少し見る→目をはなす→目をはなすのは束の間で再びテレビ画面のほうに視線が行ってしまうこともありました。 意思に反してテレビ画面から視線をそらすことができなかったときは、テレビ画面をじっと見ていたことがあって、《A:一点を見つめたまま視線が動かない状態》となったこともありました。 さらに、寝ている時でも起きている時でも体が固まったりして、寝ている間には意思に反して目が開かなかったりもありました。 ここまでのことが起きている際、自分の記憶の中の言葉『動くな』『食べるな』『飲むな』『ペンをとじるな』『裏返すな』『止める』『制限が入る』・・・・・・・・『ん〈故人の名〉』および過去に自分が体を動かしたり止めたりした記憶などが何らかによって《B:まるで暴かれた(発見された)ような感じ》が起こり、制止に至ったという訳だと思うのです。 ここまでのことは自分の中だけで起きた何らかの現象が起因していたと思われ、すべて自らの主体性を保てない状態だったと思うのです。 ここで質問です。 ★《A:一点を見つめたまま視線が動かない状態》を「目が据わる」と表現するのは、合ってますか?それとも間違いですか? 僕は、一点を見つめたまま視線が動かない状態だった時、“お酒に酔ったりしていた”訳ではありませんでした。 ★《B:まるで暴かれた(発見された)ような感じ》と文中にありますが、これは受動的な感覚の主体的表現です。 これを客観的な認識の表現または客観的な認識の主体的表現に言い換えた表現を教えて下さい。 1つだけでなく、いくつか知っていたらそれを教えて下さい。 最後に僕は抽象的な言葉、観念的な表現、比喩、皮肉などの難しい言葉を理解することが苦手なので抽象的ではない、具体的な表現であるわかりやすい言葉で答えて下さると嬉しいです。 ※以上のことでわからない箇所があったら、どこがどういうふうにわからないのかも回答下さい。
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お礼
ご回答ありがとうございます。 “受動的で自我侵入的な感じを表す表現”は家族に聞いたところ、造語だと言われました。 なので、単に「させられ体験を表す」と書いたほうが良いと思いました。 『牛乳を飲む動作が(何らかによって)止められた感じがした』『視線をそらすのが(何らかによって)止められた感じがした』『まるで操られたような感じに陥った』『(何らかによって)頭の中の記憶が暴かれているような感じがした』は全て「させられ体験(作為体験)」ですよね?
補足
補足です。 『(何らかによって)飲む・食べる動作を止められた』、『視線をそらす動きを止められた』、『眼球の動きを止められた』、『頭の中で言わされた感じがした』、『頭の中で発せられた感じがした』、『自分が何かに操られているような感じ』を自我侵入的な感じを表す表現、させられ体験を表す表現、受動的な感覚の主体的表現。受動的な感覚の自我喪失的表現、受動的な感覚の自我侵入的表現というのいずれも造語だし、しっくり来ないと思うのでこの質問を締め切り、新たに質問を立てようと思うのですが、どこのカテゴリに立てたほうが良いと思いますか? その際、どのように質問したほうがいいかも詳しく教えて下さい。