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カトリックの洗礼で3年は長すぎでは?
- カトリックの洗礼について、洗礼を受けるまでにかかる時間が長すぎるのではないかという疑問があります。
- 洗礼を受けるためには、通常は神父様の講座に1年間受講しなければならないとされていますが、話によっては3年かかる場合もあるようです。
- 洗礼を受けることで罪が許されるとされており、焦っている方もいる一方で、教会に籍が置かれないことで半人前と見なされる悩みも抱えています。洗礼の意味や救いの求め方について理解を求める声もあります。
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人が洗礼を求める場合、信仰があって求める場合とゼロから出発する場合があります。 私は幼稚園からキリスト教系でした。象がこうでは中断したものの、幾度と無く教会に通い、カトリック系中学に入りカトリックの洗礼を受けました。 中学での勉強期間は半年ほどですが、その後聖書研究会で3年間を過ごしました。また大学3年までは別の教会で学びました。 如何に教理を理解するか、それは単に聖書を覚えるとか解釈を理解することではありません。 自殺と言うものを完全否定しているキリスト教において、何年、何十年勉強しても、自殺を考えるなら永久に洗礼を受ける資格は無いということです。 私は残念ながら、大学時代に一度だけ失意のどん底にオチて発作的に自殺を試みてしまいました。だから私は自分が天国のものは閉ざされたと覚悟しています。でもだからこそ、真の自然の摂理を学ぼうと決意しました。 そして5年前に心労の極地に陥りました。何度と無く無意識に交通量の多い交差点に脚を踏み入れていく、その途端意識がよみがえり自分を止めることを繰り返しました。 それでもそのときは「もう地獄でも良いから命を終わらせてくれ」と毎日祈りました、それほどの心労でしたが目的は達成しました。一年後心筋梗塞になったときには「これで終われる」と喜びましたが、天は再び私を試練の道に戻しました。 まず生きることを決意しなければ、何年勉強したって洗礼を受ける資格など生まれないのです。 生きようと一生懸命になったって、奪われるときは奪われるのです。だから一日一日を一生懸命生きようとしなければ洗礼の段階には至らないのです。 更に言えば洗礼後は洗礼前より厳しい生活が待っています。資格者と無資格者では理解の度合いが違う。つまり理解している分、裁定も厳しいのです。私は知っていながら突発的とはいえ死を選んだ。だから天の門は閉ざされたのです。 洗礼前であれば、せいぜい何日間か煉獄の炎で焼かれるだけでしょう。煉獄の炎は地獄の炎より強大ですが有限です。その後には天国の門が開かれています。 あなたは過去の過ちを清算することしか述べていない。これでは洗礼は受けられません。 洗礼後の生き方、絶対に二度と死ぬことを選ばないと言う強い決意がなければ受ける資格が無い、というか受けないほうがマシです。 原罪があったら地獄に行くことではありません、ちょっと長い間煉獄に行くだけです。 洗礼を受ければ、煉獄の想像を絶する猛火に焼かれずに済む。それだけのことなんですよ。 どんなに悔い改めても、どの宗教であっても、自ら死を望むものは救われる事は無い。 どの宗教でも「二度と過ちを犯さない」と決意するものだけが受け入れられるのです。 それでも人は過ちをおかす。だから告解と懺悔が必要なのです。
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- saregama
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カトリックは自殺すると最後の審判で地獄に堕ちます。 天寿は全うしなければなりません。 あなたが自殺を考えているうちは洗礼は受けられないと思いますよ。 外国ののカトリック教会ですが、私は一週間でした。
お礼
ありがとうございます。 一週間で洗礼ですか? それでは信仰心は芽生えないのでは。 神父様はどちらかというと、理屈や知識ではなく信仰心そのもので判断なされるようで、3年というのがどのような判断だったのか、わかりません。本人に聴いたのですが、学生の頃から通信教育で勉強していたそうです。講座にあまり顔を出さなかったのかは不明ですが。 自殺未遂の件ですが、私は精神障害者2級です。頭の中が壊れてます。もはや正常な判断が出来なくなっています。 ツレが気が強くてわがままなので、ついかっとなると手を挙げ・・・とはならずに何故か内向的になってしまいます。何故あのくらいのことで、あんなに怒るのだろう? 考えれば考えるほど、自分に返ってきます。 意味は良くわかりません。ただ洗礼を受けると、自殺は絶対に出来ないと戒律で強制されるので、その時を待っています。 悲しい事ですが、私はもはや自分では、コントロールできない人間です。従って医療ではなく、信仰に走りたいのです。 医療の方では、1日に25錠も薬を飲まされてます。薬漬けです。
補足
補足しますが、リストカットは自殺未遂ではありません。カミソリやカッターナイフなどで、動脈まで達するのは不可能です。結局は自分の血を見て安心するような行為なのです。 これは精神科、共通の認識です。あれは[自虐的行為]です。こういう行為に対しては、神様は何度でも許してくださるそうです。 と言っても、限度というものがあるでしょうけれど。 変なことを書いてしまって、誠に申し訳ございません。
お礼
ありがとうございます。 私は精神障害者であると共に、身体障害者でもあります。身体障害で人工股関節の者に、「走れ!何やってんだ全力を出せ。」と言えますか? あなたは精神障害者の、地獄を知りません。何を言っても無駄です。 今の病気を何とか安定化するのに、10年かかったなんて理解できますか?
補足
あまりにも悲しいので、補足させていただきます。 精神科の医者や、看護師の中でも、患者の病気を理解しておられる方はまれです。単に表面上の行動によって、理解しようとするだけです。 私が言う自殺は、健常者の自殺とは、根本的に違います。まったく違うものだとお考えください。そしてそれは我々でなくては理解できないものです。健常者のあなたには、まったく理解でいないことです。たとへば男に女の気持ちは理解できないとします。健常者に、コントロールするのに10年かかったうつ病者の気持ちを理解できるかは、その10の10乗倍難しいでしょう。 イエス様は様々な病をお癒しになられました。私の病も癒してください。出来るだけの努力はいたします。ミサには欠かさず参加します。ただそれだけです。どうかお救いください。