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卑弥呼と稗田阿礼について

以前、考古学カテで「出雲」に関する質問しました。 「 邪馬台国は九州にあった  何故かって?卑弥呼が何とか天皇の姉じゃないことをみれば辻褄があう」 とアドバイスいただいたのですが、 回答の内容がよく理解できずにいます。 補足をお願いしたのですが、いただけず、歴史カテで新しく質問させていただきます。 どなたか、解説していただけると幸いです。 もう一つ、 稗田阿礼の生誕地は、現在の奈良県でよろしいでしょうか。 2点よろしくお願いいたします。

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回答No.9

最近、卑弥呼は存在しなかったという説が広まっています。 正しいです。卑弥呼という人物は存在しませんでした。 しかしずばり日御子姫命は存在していました。 だけれども日子(比古、彦)という名前のついた男性はたくさん存在しても、日子と名のついた女性は見かけません。 当時は日子は天皇などに許された高貴な名前でした。 ゆえに天孫降臨した瓊瓊杵尊や神武天皇に日子(彦)の名前がついていました。 さて日本書紀や古事記では神功皇后時代しか卑弥呼に当てはまる時代はありません。 しかし卑弥呼らしき人物が出てこないのです。 神功皇后は近いのですが、微妙に異なります。 弟に息長日子王がいて、豊姫なる妹もいるので本当に近い存在なのですが、何かしらしっくりきません。 さて話を卑弥呼に戻して魏志倭人伝の卑弥呼の死直前の記述を見てみましょう。 (魏志倭人伝 引用) その8年、太守王キ官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。 倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。 塞曹エン史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。 卑弥呼以て死す。大いにチョウを作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、國中服せず。 (引用 終わり) よく見てみると卑弥呼は男王の卑弥弓呼と仲が悪く魏の国に援助を求めていることがわかります。 そして魏の国が動くとすぐに卑弥呼は死んでしまいます。 そしてこの男王というのはなんだか息長日子王に似ていますね。 しかも神功皇后の弟にあたります。 そうなんです。そのままなのですが、この息長日子王こそ、この狗奴國の男王の卑弥弓呼なのです。 当時は日御子王と呼ばれていました。 それでは卑弥呼とは神功皇后のことなのでしょうか? 違います。記紀の作者もそれには違和感を抱いています。 ここで視野を広げて、当時の倭の国の天皇を見てみましょう。 天皇は神功皇后の夫であった仲哀天皇こと帯中日子(足仲彦)天皇です。 ここにも日子の名前がありますね。 后は帯姫(神功皇后)と大中姫と弟姫です。 ここであることに気が付く人はいないでしょうか? そうなんです。帯中日子(足仲彦)天皇は自分の名前を分割して、帯姫(神功皇后)と大中姫に与えているのです。 なぜ?弟姫だけ、弟姫なのでしょうか? ここが問題なのです。 実は帯中日子(足仲彦)天皇は弟姫にも自分の名前を分け与えて日子姫と呼ばせようとしていたのです。 しかし日子は男性が着ける名前ですので、中に御の文字を入れて日御子姫(日美子姫、日魅子姫)と呼んでいました。 そうです。この弟姫こそが、今まで謎とされていた日御子(姫)だったのです。 しかしなぜに卑弥呼と男王の卑弥弓呼はこんなに似た名前なのでしょうか? 答えは簡単です。 この息長日御子王と日御子姫は夫婦だったのです。 それは三韓征伐が終わって神功皇后が都に帰還してからのことです。 既に帯中日子(足仲彦)天皇は亡くなっていますので、日御子姫は再婚させられたのです。 日御子姫は帯中日子(足仲彦)天皇の子である誉屋別皇子を出産していましたから、いわば政略結婚です。 しかし仲があまり良くなかったのです。 当時は神功皇后が政権を握っていました。 日御子姫は小さな護衛隊しか持たずに魏の国に度々貢物を出して頼ったのです。 しかし魏に援助を求めたところで息長日子王と神功皇后の怒りを買って処罰されたのです。 一緒にいた百名あまりの家臣も処罰されて日御子姫は死にました。 魏の国と組んで政権を乗っ取ろうとたくらんだとみなされて処罰されたので日御子姫の名前は取り上げられて弟姫になり今は日本書紀にわずかに名前が出ているだけになっています。 これが日御子姫の謎で記紀の人々もこの事実に気がつかなかったようです。 帯方郡も実は帯姫(神功皇后の三韓征伐が原因) そして204年にできた魏の帯方郡の由来についても帯姫で説明できる。 旧暦の200年12月には倭の国(日本)は出兵をして南朝鮮を手中に収めた。 そこで北朝鮮半島を支配していた公孫氏は帯姫(神功皇后)がいる方角の国という事で帯方郡と名付けたのでしょう。 年代測定の謎は? ずばり、すぐれた巫女としての先祖を思いやる気持ちの陵墓整備が現代の年代測定による時期の特定を惑わせているのです。 まさか神功皇后がそんな事をしていたなんて現代の学者や歴史小説家にさえ想像できなかっただけなのです。 三韓征伐にしろ、先帝らの陵墓整備と巨大化にしろ、神功皇后は驚くほど聡明な女性だったのです。 現代人の想像(固定観念)を軽く超えている神功皇后は只者ではありません。

回答No.8

邪馬台国所在地論争で一番重要なのは年代の問題です。 畿内説の皆さんは一様に箸墓を卑弥呼の墓に比定しますが、箸墓周壕から出た鐙の問題を回避して箸墓築造は3世紀中ごろとしています。 鐙の出現は3世紀末の事で、中国南部と言うのが定説です。 そして、鐙が中国南部で三世紀末に出現してもその普及には時間がかかり、朝鮮半島に鐙があらわれるのは早くても4世紀後半の事とされます。 有名な高句麗古墳の壁画でも鐙は5世紀に入ってぼちぼちみられるようになる程度です。 三世紀末に発明された鐙が日本列島に来るのは5世紀に入ってからでしょう。 鐙が箸墓築造後数十年経ってから箸墓周壕に廃棄されたのだとしても、箸墓の築造年代は4世紀後半にしかなりません。 国立歴史民俗博物館で箸墓周壕出土の土器の付着炭化物(早い話がスス)を炭素年代法と言う新しい年代測定法で測定した所、3世紀半ばになったと発表し、箸墓が卑弥呼の墓であることが確定したかのような雰囲気になっていますが、国立歴史民俗博物館が行うAMS法と言う測定法では世界各国の歴史が文献で確認されている年代より古くなり、困っています。 餓死墓の年代が4世紀後半になれば、たとえば吉野ヶ里遺跡など、2世紀の遺跡とされた九州の遺跡が3世紀になり邪馬台国である可能性が高くなるでしょう。

参考URL:
http://avantdoublier.blogspot.jp/2007/12/blog-post_07.html
  • reflector
  • ベストアンサー率7% (37/491)
回答No.7

545 :日本@名無史さん:2012/07/31(火) 05:41:10.38 テレ東 新説日本のミステリー番組で、2回目に卑弥呼について語られていました 卑弥呼は大日霊女(おおひみこ)が有力説とのことです 西暦247年と248年に2回ほど日食になったとか http://www8.tok2.com/home2/rekishi/himiko.htm 大日霊女(おおひみこ) 別名:大日霊女貴尊(おおひみこむちのみこと) 諡号:撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊 (つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと) 日向王国国王伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の娘として151年頃生まれる。 須佐之男命の侵攻により、降伏し彼の妻となり、三女を儲ける。 須佐之男命の死後、跡を継いだ大国主を補佐する。 大国主の死後は、相続人の事代主が幼少だったため、九州王国の女王として君臨する。 相続反対派との間で数年間争いがあったが、武御名方を出雲から追放することによって終結する。 大国主時代に九州統治の責任者だった猿田彦に出雲を統治させた。 末子3人の子には有力な南日向豪族の娘達を娶わせ統治させた。 239年に魏の皇帝に使者を出し、241年には孫の伊波礼彦尊を大和王朝の伊須気依姫の婿として送り込むことに成功する。 247年に西都にて亡くなる。 大日霊女は、弟子を卑弥呼とし何代も就任させ長生きしているように偽装した? 場所は、徳島県徳島市だそうです。 また、猿田彦は、紀元前の人物なので除外するように。 ニニギの尊も紀元前なので、記紀の虚偽内容に触れないよう配慮して下さい。

himekomachi
質問者

お礼

ありがとうございます。 結局、卑弥呼は、九州の西都、西都とは違う九州のどこか、徳島・・・どこにいたのでしょうか? もう一つ >また、猿田彦は、紀元前の人物なので除外するように。  ニニギの尊も紀元前なので、記紀の虚偽内容に触れないよう配慮して下さい よくわからないので、わかりやすく教えてください。

回答No.6

卑弥呼は崇神天皇の姉では?

himekomachi
質問者

お礼

前回は「邪馬台国は九州にあった」と回答くださったのに 今回は「邪馬台国は大和にあった」と回答されているように思うのですが・・・ 卑弥呼を箸墓古墳に関係ある倭迹迹日百襲媛命としてお話しくださったと思うのですが、 倭迹迹日百襲媛命は、崇神天皇の姉ではないと思います。 また前回 「イザナギだのヤマトタケルだの全員架空の産物 仁徳天皇あたりから日本の皇統は始まった」 と回答くださいました。 とすると、崇神天皇も架空・倭迹迹日百襲媛命も架空になりそうな。。。 ますます、混乱しています。 やはり、私の頭では理解不能みたいです(苦笑)。 ごめんなさい。 邪馬台国の卑弥呼と大和王権のヒメミコとの違いからくるのかなと思いました。 長々とありがとうございました。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.5

卑弥呼の原資料は三国志 http://www.chuko.co.jp/shinsho/2012/05/102164.html 三国志という史料に関して、中国古代史の先生が解釈した書籍で、もっとも妥当な解釈だと思います。

himekomachi
質問者

お礼

アドバイスありがとうございます。 早速、ご紹介いただいた書籍を注文いたしました。 届くのが楽しみです。

noname#188107
noname#188107
回答No.4

邪馬台国の所在地については諸説ありますし、 稗田阿礼の生誕にも諸説あります。 一族が奈良に居を構えていたので、奈良出身と考えても 不自然ではありませんが、あくまでも一説の域を出ません。 こういう場でいえるのは、こういう説があって、 私はそれを信じています。という程度です。 邪馬台国については、各地の陵墓の調査研究が進めば 解明できるのではないか。という程度です。 あの時期の歴史の空白というのはあまりにも不自然ですから。 賣太神社の徒歩圏に住んでいるものとしては、 そうであって欲しい。というのはありますけど(笑) 邪馬台国が奈良にあった。。というのは 今のところ断言するには苦しい気がします。

回答No.3

多分卑弥呼の回答をしたのは私です 邪馬台国が九州にあったのなら卑弥呼は天皇の姉ではないと考えるのが普通です 当時すでに朝廷は大和にあり 卑弥呼は弟の天皇を補佐して占星術などで政治に影響力があったといわれています そんな人物が朝廷からはるか離れた九州で影響力を持てるでしょうか? しかし卑弥呼は系図では天皇の姉となっています とするなら九州でなければやはり邪馬台国は大和にあったと考えるべきです 箸墓古墳も大和にあるわけですし これでわかりました? 稗田阿礼の誕生地はよくわかっていません 大和 出雲 備前 土佐 日向と諸説あります

himekomachi
質問者

お礼

補足に対するアドバイスをいただけたらうれしいです。 お願いいたします。

himekomachi
質問者

補足

真摯にアドバイスくださり、ありがとうございます。 補足お願いいたします。  卑弥呼の弟にあたる天皇は誰か。  それが示された系図とは何か。 2点の補足をお願いいたします。

  • mekuriya
  • ベストアンサー率27% (1118/4052)
回答No.2

邪馬台国があった場所についてはいまだ結論は出ていません。無理やりな詭弁をひねり出して調略を試みる論者もいるかも知れませんが、惑わされてはなりません。何回、同じことを聞かれても誰にも分からないのです。 稗田阿礼については資料が少なすぎて何も分かりません。稗は古代において主要な穀類の一つであり、稗田という地名は奈良県に限らず、全国至るところにあります。 奈良県大和郡山市の賣太神社が主祭神として稗田阿礼を祀っているとしても、それは稗田阿礼の生誕地である証拠にはならない。順番が逆であって、奈良県を稗田阿礼の生誕地と信じた人が稗田阿礼にあやかって、賣太神社に祀ったということです。資料が無いから、言ったもの勝ちみたいな話なのです。 何度聞かれてもタイムマシンがあるわけではない。誰にも分からないものは分からないというしかない。

  • ennalyt
  • ベストアンサー率29% (398/1331)
回答No.1

質問事項が二つの時は別々に質問して下さい。 以前の質問のURLを貼って下さい。

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