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天皇制と国内平和

kuroneko3の回答

  • kuroneko3
  • ベストアンサー率42% (250/589)
回答No.9

 「最悪でも名目上は国家の頂点に存在し続けてきた」という認識がまず誤りです。  明治時代に,天皇を中心に日本国をまとめるという方針になったので,権威付けのためにそれまでの歴史も大きく書き換えられました。天皇という名称自体明治時代になって初めて統一的に用いられたものであり,江戸時代には単に「院」と呼ばれていた天皇もいました。  特に鎌倉時代~江戸時代にかけては,天皇が国内の安定に寄与する力はほとんどゼロか,あるいはマイナスだったと言わざるを得ません。例えば・・・ ・承久の乱では,朝廷と鎌倉幕府が正面から争ったが,結局は幕府が勝ち,当時の天皇(4歳)も廃位された。この人が仲恭天皇と呼ばれるようになったのは明治時代のことで,それ以前は後廃帝などと呼ばれていた。 ・建武の新政では,後醍醐天皇自身の悪政により武士や民衆の不満が高まり,室町幕府の成立を招いた。 ・足利義満は,自ら「日本国王」と名乗って明との国交を行っていた。江戸時代の将軍家もほぼ同様で,将軍こそが日本の王であると対外的にも認識されていた。 ・江戸時代の儒学者は,征夷大将軍こそが日本の皇帝であるという学説を唱えていた(この儒学者によれば,天皇は単なる神道の最高祭司者兼京都の地方領主に過ぎなかった)。 ・明智光秀は,京都で謀反を起こし織田信長を殺害したが,織田信長には明らかに天皇家を軽んじる動きがあったにもかかわらず,謀反の大義名分に「尊皇」は掲げなかった。つまり,当時の社会情勢では,天皇は反政権の大義名分としても有効でなかったことが窺われる。 ・江戸時代,禁中並公家諸法度により,天皇は「学問に専念すべし」という幕府の規制を受けていた。つまり,名目上も天皇は「日本の頂点」だとは思われていなかったことになる。 ・幕末には,たしかに天皇の存在が倒幕の精神的原動力になったが,これは吉田松陰によって,天皇こそが日本の中心であるという新たな思想が「発明」されたことによるものであり,逆に言えば,それ以前ではそのような思想は一般的でなかったということである。 ・吉田松陰の思想も,本質は天皇の下に「民衆を平等化」することにあり,天皇を日本の支配者として復権させようというものではなかった。もし,明治天皇が後醍醐天皇のように政治の実権を握ろうとしていたら,おそらく天皇制は明治時代で終わっていただろう。

ntttm
質問者

お礼

ご解答ありがとうございます。 ご指摘の点、参考になりましたが、 天皇が頂点であり続けた、と思うのはあくまで「名目上」です。 形の上では、です。 お分かりください。

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