われわれ一人ひとりがブッダであるとは何か?

このQ&Aのポイント
  • われわれ一人ひとりがブッダであると何故言わないかについて議論する。
  • ブッダの範囲や過去の仏陀たちについて解説し、何を言おうとしているかを明らかにする。
  • 唯我独尊や宇宙の原理について考え、われわれがブッダであることについて疑問を提起する。
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われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか

 次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

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回答No.31

こんばんは。 ☆☆☆ 《方便品 第二》に答えはすべて出ています。 《唯仏与仏》つまり《仏と仏でないと分からない》は、法華経が説かれる以前、すなわち、釈尊によって真理が開示される前の話で、法華経前史、pre-historyです。つまり、法華経が説かれた段階で、法華経前史の《唯仏与仏》は、もはや成立しない。《真理の開示》があったからです。 法華経の方便品を聞き、聴聞者は仏の立場に立った。(その場を立ち去った高慢の人間はいますが、それは、ここでは、ひとまず除外) だから、《若有聞法者 無一不成仏》。《法華経を聞いた者は、一人として成仏できないものはない》となる。 なので、《唯仏与仏》は、《若有聞法者 無一不成仏》の観点から、もう一度、考え直さなければならない。少なくとも《法華経前史》の立場で《唯仏与仏》は語られるべきものではない。 法華経の説く《生命の普遍平等性》の哲学を理解していない。 それでもなお《唯仏与仏》を口にしたいのなら、 これは《ただ法華経と佛の立場に立つ私》と理解するべきものと考えます。 《唯仏与仏》は、法華経と向き合う自分でよい。もっとも純粋な信仰の形と解釈すればいい。 あるいは《同じ仏の立場にたつあなたと私》でいい。 《一切衆生 悉有仏性》が本当なら、《あなたと私》でもよい。 法華経の至る所に出ている、「法華経の一句たりとも、ホニャララホニャララ」みたいな言葉の意味は何ぞ!! 部分でとらえるな!!! 少なくとも《唯仏与仏》を排除の理由に使うな!!!! などと、《眠り猫》の分際で、生意気なことを考えています。 ☆☆☆ ◇わたしの《唯我独尊》解釈 わたしは、ゴータマブッダが語ったとされる《唯我独尊》の意味を《ゴータマブッダだけがただひとり尊い》とは解釈していません。 アートマンという言葉を使うと御幣がありますが、 《ただアートマンのみが尊い》 このアートマンを仏性、如来蔵と呼ぶのなら、仏性、如来蔵の本来の一味・平等性から、《唯我独尊》を 《万人すべてが平等に尊い》 と読み替えることもできます。 あるいは、もっと卑近に 《人間、誰しも、自分がいちばん大切》 でもいいと考えています。 「《唯我独尊》は人間の自己愛の強さ、我執の強さを言ったものだ。悟りを開く前のゴータマ・ブッダにも強い我執があったのだ」と解釈してもいい。 でないと、《唯我独尊》が薄っぺらいものになって、まったくつまらない!! ゴータマブッダの真意をまったく読み違えているけれど、この方が《唯我独尊》って言葉に深みが増すじゃないですか(笑い) 《あほう》ですんで、わたし。 ☆☆☆ と思い切り脱線したところから出発しました。 ○ 法を知らぬ者は仏を語りえない  となるのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~  ☆ 一応そうではあっても 《法を知らぬ者》も まったくのかたちでシャットアウトされているのではないと ひとこと添えていただきたい。こう思いますが どうでしょう? ◇「真理の体得は難しい」という意味ならば別ですけれど、 「法を知らぬ者は仏を語りえない」など論外でしょう。 この論理に従えば、ブッダ以外は、誰も仏について語れないことになってしまう。 日蓮を含め、あらゆる宗派の祖師たちを含めてです。 《法華経前史》の《唯仏与仏》の論理ですよ、これは。 すでに真理の全面的開示はあったのですから。 あとはそれから何を読み取るか、個人の問題だと思います。 ○☆ これは ゴータマ・ブッダと日蓮とのあいだの《唯仏与仏》を言っているところですが もし――もし です もし――このことがほんとうであるならば このことを持ち出している けいえす5518さんご自身も そのゴータマ氏や日蓮氏とほぼ同じ境地にあると 自認し自称しているということになると思います。  そういう理解でよろしいでしょうか? つまりは おまえらには――いえ ぶらじゅろんぬには――分からないことだ というご回答なのでしょうか? ◇だと思います。《ぶらじゅろんぬ》さんと私には分からない話だ、いう意味でしょう。 そして、おそらく、控えめな表現での《仏道修行の勧誘》です。 ☆ (え) この(あ)は 仏性ないし如来蔵の立ち場と矛盾しないと理解します。≒(う)。 ◇はい、本当に悟ってしまえば。 そして、悟ってしまえば、《本覚》《始覚》の区別も生滅します。 《本覚》は《勝義諦》の立場で述べたもので、《始覚》は《世俗諦》(世間的な道理)で説かれたものですから。般若経的な言葉を借りれば、《本覚即始覚・始覚即本覚》なので。あるいは、《本覚始覚不二》なので。 始覚的な《仏の種》も、法界・法身から流出したものなので、梵我一如の観点からその差別は消失してしまいます。《仏の種》は、法身から来たと言ってもいいし、それは実は《如来蔵》であると言っても、同じことを言っているにすぎません。 ☆(こ) それとも キリストも背景にしりぞき ブッダも背後へ隠れてしまうのだという・《あたらしい天とあたらしい地》の世界と時代を言っておられましょうか? ◇「はい」とはっきりと明言するほどの勇気も度胸もありませんが、「YES」です。 超越者としての、支配原理としての《キリスト》と《ブッダ》は、もうこの世にいない。 《キリスト》、《ブッダ》というこの世で作り上げられた偶像を信じ、そんなものに祈っても、けっして答えてはくれない。 キリストやブッダの残した言葉などを頼りに、あとは自分で何とかせい!! という立場です。 ☆◇ (う) 《客塵煩悩 自性清浄心》「煩悩はお客さん。だから、心はキラキラと光り輝けるんだよ」で十分であるならば    ☆☆(趣旨説明欄) (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか? の問題をも通り越して ひょっとして《地涌の菩薩》たちのあたらしい時代の到来なのでしょうか? 末法も弥勒菩薩も 屁の河童であると。 ◇ 《末法も弥勒菩薩も屁の河童》 たぶん。《弥勒菩薩》が下生して救ってくれるなど、到底、信じていません。 が、こんな私でも「救ってくださる」とおっしゃるのなら、そのご厚意には甘えちゃいます。 《地涌の菩薩》の新しい時代ですかぁ~。《地涌の菩薩》について考えたことがないので.... どうでしょう....、《(地涌の菩薩+地涌の声聞)÷2》くらいでしょうか。 ☆ もし印象だけで述べてもよいのでしたら 法華経は それまでの集大成であって ほかのオシエを捨ててしまえというのとは違うような感じなのですが そんなあやふやな言い分は通らないでしょうか。 ◇どうでしょう、正直、法華経自体、その立場が曖昧なように感じられるので。 法華経を受持し、六波羅蜜を行ずる修行者は尊いといったような記述もありますし..... 中立の立場から言うと、法華経は矛盾に満ちた部分を多くはらんでいますので。 特に融和性と排他性!! 個人的な意見ですが、法華経には不足している部分が多いと思います。 いわゆる小乗の教えは切り捨てても問題はないと考えますが、他の大乗経典の理解は必須と言ったところではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 うわぁ こりゃあ たまげた!  驚天動地とは このことぢゃわい。  ねむりねこさん まづは ご回答をありがとうございます。  ◇ ~~~  《地涌の菩薩》の新しい時代ですかぁ~。《地涌の菩薩》について考えたことがないので....  どうでしょう....、《(地涌の菩薩+地涌の声聞)÷2》くらいでしょうか。  ~~~~~  ☆ ぢゃあ 《(地涌の菩薩+地涌の縁覚+地涌の声聞)÷3》ではどうでしょう? 音楽家も絵描きさんもいてくれるとよいです。  もう仏界は どうでもよいでしょう。あると分かっているのですから。  実際のはたらきは それぞれだと思えます。地獄も畜生も それとして はたらくのかも知れません。  あとは そのまま引用してお応えすることになりますので 引用したことにして みなさんは 回答欄のほうをご覧ください。  次は 知る前と知ったあととで ギャップが大きいので かかげます。  ◇ ~~~  《方便品 第二》に答えはすべて出ています。  《唯仏与仏》つまり《仏と仏でないと分からない》は、法華経が説かれる以前、すなわち、釈尊によって真理が開示される前の話で、法華経前史、pre-historyです。  ~~~~~    *  ふさわしい参照資料をと思って探しましたが  いまひとつだったかも知れません。が かかげます。  ▲ (イザヤ書65:19-25) ~~~~  わたしは エルサレムを喜び わが民を楽しむ。  泣く声と叫ぶ声は 再びその中に聞こえることはない。  わずか数日で死ぬみどりごと  おのが命の日を満たさない老人とは  もはやその中にはいない。  百歳で死ぬ者は なお若い者とせられ  百歳で死ぬ者は のろわれた罪人とされる。  彼らは家を建てて それに住み  ぶどう畑を作って その実を食べる。  彼らが建てる所に ほかの人は住まず  彼らが植えるものは ほかの人が食べない。  わが民の命は 木の命のようになり  わが選んだ者は  その手のわざを ながく楽しむからである。  彼らの勤労は むだではなく  その生むところの子らは 災いにかからない。  彼らは 主に祝福された者のすえであって  その子らも彼と共におるからである。  彼らが呼ばない先に わたしは答え  彼らがなお語っているときに わたしは聞く。  おおかみと小羊は共に食らい  ししは牛のようにわらを食らい   へびはちりを食物とする。  彼らはわが聖なる山のどこでもそこなうことなく   やぶることはない と主は言われる。  ~~~~~~~~~~~~  ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ いましばらく開いていましょうか。

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  • ks5518
  • ベストアンサー率27% (469/1677)
回答No.32

No.16です。 質問主旨から離れてしまいますので、日蓮聖人・『南無妙法蓮華経』の事は、ひと先ず置いておきましょう。 質問者様の冒頭にある、首題についてお話したいと思います。 ☆われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか ■仏陀 仏の十号の一つ。 一切の法を如実に知見し、その性相を通達了解した人で、等正覚を成じた大聖者をいい、他にも正覚を成じさせる智者をいう。 仏陀⇒仏の相対にあるのが衆生でしょうか。 ■衆生 無明、煩悩をもって迷いの世界に住む人。 ・衆生界=衆生の境界のこと。十界のうち仏界をのぞく、九界の総称。 上記の様な違いがあると思います。 ですから、仏性を備えているとはいえ、成仏の“法(達磨)”を知覚していなければならないと考えます。 もし、この先質問者様が様々な研鑽をされ、いずれかの“法(達磨)”を信受し、その“法(達磨)”のもとに衆生を成道へと導くならば、仏陀と呼ばれるでしょう。  ☆ゴータマ・ブッダは この法華経として伝わるその中身を説くまでは 仮りのオシエをのみ説いていて けっきょく《諸仏の秘要》としての最高の法を出し惜しみしていたということでしょうか? ■これについては、それまで導いてきた声聞・縁楽(辟支仏)を始めとする弟子・衆生の機根を整える為に、先ずは方便の意味で権経を説き、機根が整ったところで肝心に当たる法華経を説いたと言われています。 尚、法華経以前の教え(爾前経)を捨てるとありますが、捨てるというのはそれまで説いてきたところの迹仏の事で、爾前経を全く用いないという事ではありません。 ※法華経の解釈、日蓮聖人につきましては、また、別の機会にお話ししたいと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 けいえす5518さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ■ もし、この先質問者様が様々な研鑽をされ、いずれかの“法(達磨)”を信受し、その“法(達磨)”のもとに衆生を成道へと導くならば、仏陀と呼ばれるでしょう。  ☆ 今までよりもっと端的なかたちで 質問をいたします。  (Q‐1) 《地涌の菩薩》は 《ブッダ》と呼ばれないのでしょうか?  (Q‐2) けいえす5518さんは 《衆生を成道へみちびき》ましたか?  (Q‐3) 《さまざまな研鑽》とありますが こういう場合は考えられませんか? つまり すでにこの世に生まれてこのかた 人びととともにあゆみ来て そのそれぞれの言わば《小宇宙》なる存在に接した経験から ふと思うと すでに自分は《境智冥合》を果たしていたとさとり あぁ これが《研鑽》だったかぁと思う体験。こういう場合は あり得ませんか?  (Q‐4) 《“法(達磨)”のもとに衆生を成道へと導く》 この命題についてですが けっきょく《成道へとみちびく》のは 人ですか? 法ですか?   (Q‐5) 法(ダルマ)は 経験世界に〔も〕属していて これを人間が《知覚》することが出来るのでしょうか?  ■ 仏性を備えているとはいえ、成仏の“法(達磨)”を知覚していなければならないと考えます。  ☆ この命題との関連です。     *  《爾前経と法華経との関係》についてですが:  ■ これについては、それまで導いてきた声聞・縁楽(辟支仏)を始めとする弟子・衆生の機根を整える為に、先ずは方便の意味で権経を説き、機根が整ったところで肝心に当たる法華経を説いたと言われています。  ■ 尚、法華経以前の教え(爾前経)を捨てるとありますが、捨てるというのはそれまで説いてきたところの迹仏の事で、爾前経を全く用いないという事ではありません。  ☆ そうしますと:  (Q‐6) 現代人が成道へと到るには 爾前経での《機根のととのえ》をやはり同じように経たうえで 法華経による境智冥合の実践へとすすむ ということでしょうか? それとも いきなり法華経という段階に自分を位置させることから始めるのでしょうか?  (Q‐7) しつこく尋ねますが (Q‐3)のように 《肝心に当たる法華経》に拠らなくても 世の中を勤勉に仕事をし生きたという経験のうちに 境智冥合を果たしていたという場合は あり得ますか?    どうぞよろしくお願いいたします。

回答No.30

ks5518さま NemurinekoNyaさま 質問者さま そして 逆質問者さま 皆さん いい議論になってきました 確かに 逆質問者さんのいうように 質問それ自体にたいし. 何も法華経まで 持ち出して 議論するのはそこまでしなくても ても の 感もあります しかし 質問に対し 法華経を学ぶ事は有意義と 思います。各位より 教学が低い私ですが ここに出てる各位が 教学の先輩や先生と 思います。一番近い NemurinekoNya 様の 解答に深謝します。法華経の読みこなしには 私 正に 教学と信心がたりません。

bragelonne
質問者

お礼

 みけねこ1178さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  さらに 参考資料をかかげるかたちのお応えとします。  ▲(ヰキぺ:教相判釈) ~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%99%82%E5%85%AB%E6%95%99  § 五時八教説(天台)  五時八教の教判、あるいは五時八教説(ごじはっきょうせつ)とは、天台智顗(ちぎ、538年 - 597年)が、一切経を五時八教に分けたものである。日本へは最澄が紹介した。これを日蓮が採用し、法華経が最高の教えであるという根拠とした。  § 五時  最初に華厳経を説き、その教えが難しいため人々が理解できなかったとして、次に平易な阿含経を説いたとする。人々の理解の割合に応じて、方等経、般若経を説き、最後の8年間で法華経と涅槃経を説いたとする。そして最後に説いた法華経が釈迦のもっとも重要な教えであるとしている。  五時を、説法した期間・会座(えざ=説法の場所)・経典などを分類すると次の通り。   1.華厳時 期間 - 21日間(一説に31日間とも)  会座 - ガヤー城近郊、ナイランジャナー河の菩提樹の下など、7処8会  経典 - 華厳経(大方廣仏華厳経)  位 - 乳酥、別・円を説く頓教、擬宜の教え  2.阿含時 期間 - 12年間  会座 - バラナシー国の鹿野苑  経典 - 増一、長、中、雑、小の阿含経、法句経などの南伝大蔵経  位 - 酪酥、蔵のみを説く漸教(秘密・不定教もあり)、誘引の教え  3.方等時 期間 - 16年間(一説に8年間)  会座 - シュラバスティーの祇園精舎、マガダ国の竹林精舎、ヴェーサリー国のアンバーパリー園など  経典 - 大方等大集経、阿弥陀経、大日経、金光明経、維摩経、勝鬘経、解深密経など権大乗経  位 - 生酥、蔵通別円の4教を対比して説く漸教(秘密・不定教もあり)、弾訶の教え  4.般若時 期間 - 14年間(一説に22年間)  会座 - マガダ国のラージャガハ附近の霊鷲山など、4処16会  経典 - 大般若経、金剛般若経、般若心経など  位 - 熟酥、円教に通別を帯ばしめて説く漸教(秘密・不定教もあり)、淘汰の教え  5.法華涅槃時 期間 - 8年間(うち涅槃経は一日一夜)  会座 - マガダ国のラージャガハ附近の霊鷲山など、2処3会(法華経)、クシナガラのアジタパティー河辺の沙羅双樹の下(涅槃経)  経典 - 法華経28品を中心とする法華三部経、涅槃経  位 - 醍醐、円教を説く頓教(秘密・不定教なし)、開会の教え  ただしこれは、経典に書かれている時間・時期的な記述や場所、またその内容から、あくまでも順序だてて分けただけで、必ずしも釈迦が絶対的に必ずその順番で説いたわけではない。  そのことは、日蓮も守護国家論で、   「大部の経、大概(おおむね)是の如し。此れより已外(いげ)諸の大小乗経は次第不定(しだいふじょう)なり、或は阿含経より已後に華厳経を説き、法華経より已後に方等般若を説く。みな義類(ぎるい)を以て之を収めて一処に置くべし」  と述べている。したがって、対機説法(たいきせっぽう)、臨機応変という言葉が示すように釈迦仏が衆生の機根(教えを聞ける器、度合い)に応じて、教法を前後して説いたことを留意しなくてはならない。また智顗が分類した五時説を日蓮が採用しつつも、次第不定で前後していることを既に認知していたという事実があることを、大乗非仏説及び経典成立史の観点から留意しなくてはならない。したがって今日の仏教学では五時説は歴史的事実とは言いえないが、宗学的には仏教学の成果をどのように受容するかという新たな課題を生んでいる。  なお、智顗は、涅槃経に対しては、法華経とほぼ同内容で、その真理は既に法華経で明かしており、法華の救いに漏れた者達のために説かれた教えにすぎない、という位置づけから、また涅槃は一日一夜の説法なので法華の八年間に摂したため、法華と涅槃とを分けず「法華涅槃時」としたが、華厳経から法華経までは次第不定に説かれたのに対して、涅槃経は経典の内容や場所から判断して唯一、釈迦が入滅の時に至って説いた教法である、としている。  ~~~~~~~~~  ☆ ねむりねこさんのご回答を受けて 法華経は集大成であるというように受け取ることが出来ましたが その優位性にかんしては まだ愚かなままでいます。

回答No.29

おはようございます。 ☆☆☆ ☆ そうしますと 《ブッダはブッダとだけ互いに分かり合える》  という見方は 《さとり》の度合いに応じて言っているという理解でよろしいでしょうか? ◇はい、わたしは、それで構わないと考えます。むしろ、そう解釈すべきだと思います。 《ブッダはブッダとだけ互いに分かり合える》では、 仏陀以外は、最高の真理とされる《法華経》を読んでも分からないことになってしまう。 修行の意味がなくなってしまう。救いがなくなってしまう。 《悟り》かどうか分かりませんが、  法華経の理解が深まれば、それだけ法華経に対す見方が深まる。色々なことが見えてくる。  修行が深まれば、それだけ世界の真実が見えてくる。 それで何にも問題がないと考えます。 そして、仏道が完成したその時、つまり、仏陀になったとき、はじめて、世界の真実がすべて明かになる、でよい。 でないと、《方便品》の《若有聞法者 無一不成仏》が光らない。 と考えます。 《唯仏与仏》を排除の論理に使うべきではない、と考えます。 法華経は現に釈尊によって説かれ、この世に存在している事実を重視すべきだ、と考えます。 ☆☆☆ ◆ つまり、迷いにある段階ですでに《人間は悟っている》と考えます。(これが天台本覚思想!!違ったかな、ポリポリ) ☆ これは 《一切衆生悉有仏性》とは 微妙に違うようでした。《本覚》と言ってしまっていると 実際問題としては 努力を怠る向きが増えるでしょうね。 ◇bragelonneさんもご存知のように、わたしは《本覚》の立場をとりません。 また、かと言って、《始覚(門)》(修行によって初めて悟りへの機根が生じる)という立場もとりません。 《客塵煩悩 自性清浄心》「煩悩はお客さん。だから、心はキラキラと光り輝けるんだよ」で十分と考えています。 ☆☆☆ ○ 《〈爾前経〉に任せている部分》というのは もし《方便として》であるなら その方便はなくても 法華経だけで済む。ということになりませんか? ◇法華経の論理に従えば、そういうことになります。 《堤婆達多品 第十二》では、文殊菩薩が説いた法華経のみで龍王の娘は、《無上正覚》を得て、ブッダになったことになっていますので。 法華経を飛ばし飛ばしに斜め読みしたところ、 《四聖諦・苦集滅道》、《十二因縁》、大乗の《空》、完全ではないけれど《六波羅蜜》らしきことも書いてあるので、大乗・小乗の主要な教えは、いちおう、法華経に含まれていることになるのかな。新しい世界観も示されていますし.... なので、仏教の学問的詮索をあれこれするのでなければ、法華経だけで十分という気がします。 特に在家信者には。 でも、無明の闇に包まれている《あほう》で詮索好きの僕には、正直、物足りない....。哲学・形而上学的な議論がもっと欲しい。 教義的には、法華経だけでは足りていないような.... 中国の天台教学は、その教学形成において、華厳経や般若経をはじめとする他の大小乗の経典が必要であったことは、紛れもない事実です。つまり、《〈爾前経〉に任せている部分》の理解がどうしても必要になる。 宗派内の教学・宗学にとんと疎いのでよく分かりませんが、宗学の本とかを読めばそれでいいような気がしますけれども、それでは《オラが宗派の教え》に無批判に.... 大局的観点が欠如してしまうような.... 《あほう》で縁なき衆生の僕には、そう感じられます。 法華経をよりよく理解するために、他の経典もあわせて読んだ方が良いというところではないでしょうか。 日蓮も一切経を読んだと言いますから、他の経典、特に般若経くらいは読んでもバチはあたらないでしょう。 偉い人が「絶対に駄目」と言ったら、それは《自・己・矛・盾》!! 法華経が本当に《最勝経王》、すなわち《もっともすぐれた釈尊の教え》であることを信じていな~い! 法華経をまったく信じていな~い!! 法華経の功徳・威力を、全然、信じていな~い!!! 《論語読みの論語知らず》ってこともあるので。 ☆☆☆ ◆ 法華経以外(以前?)の教えは、部分的で、真理の一面だけしか解き明かしていない、ということです。 ◆ なお、天台智ギは五時八教の経判をたてて、法華経の優位性を主張しています。 ☆ 法華経は そんなに優位なのですか? 例示をひとつ挙げておしえていただければと思いますが。 ◇天台智ギによれば、そうらしいです。 時に、一番最初に釈尊がその自内証を説いたとされる《頓教》の華厳経との優劣が問題になりますけれど.... 無明の闇に覆われた《あほう》な僕には、大乗経典それぞれの優劣はつけられませんが.... それでも、法華経のいいところをあげれば、 (1)三乗一乗、会三帰一 (2)女人成仏 (3)五逆罪を犯した者で成仏できる。《一闡提》救済の道が開かれた。 と言ったところでしょうか。 日本のブディストはほとんど大乗仏教徒なので(1)は問題になりませんから、注目すべき点は(2)と(3)。 法華経の《堤婆達多品 第十二》に、(2)と(3)は出ています。 (2)女人成仏。仏教では、女性には五障があるとされていて、その中に《女性は絶対にブッダになれない。女性はけっして成仏できない》というものがあります。 法華経による修行の功徳によって、龍王の娘が一度男になってから成仏するという裏技を使っていますけれど、この問題を解決しています。 もっとも、《勝鬘経》では、勝鬘夫人が釈尊から成仏できるという予言を得ているので、法華経だけかと言えば、少し微妙な気が.... ですが、平安時代に女性の間で女人成仏を明確に説く法華経が心の支えになったのは事実です。女性蔑視の激しかった時代に、信仰の上での女性と男性の平等性が示されていた。 (3)五逆罪を犯した者でも救われる。 仏敵とされる堤婆達多、無間地獄に落ちますけれど、釈尊は「過去に法華経を釈尊に説いた功徳によって、堤婆達多が遠い未来に仏になる」ことを予言しています。 僕はここに注目したいです。 つまり、この堤婆達多の成仏予言によって、万人に対する救済の道が開かれた。ここから、(仏教信仰上での)人間の普遍的平等性が導き出せる。 さらに一つ上げれば、仏教に関する知識がなくても、法華経は、誰でもそれを読めば、比較的容易にその教えを知ることができる。 と言うと、法華経信者には怒られるかもしれませんが、少なくとも書かれていることの表面的な意味は理解できる。 大乗の高邁な教えに容易に接することができる。 こういう大乗経典は少ないですよ~。 その意味だけでも、貴重です、法華経!! 分かりやすく書いてあるということは、けっして、その教えが低いということを意味しない!!

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ◇ ~~~  《ブッダはブッダとだけ互いに分かり合える》では、  仏陀以外は、最高の真理とされる《法華経》を読んでも分からないことになってしまう。  修行の意味がなくなってしまう。救いがなくなってしまう。  ・・・  《唯仏与仏》を排除の論理に使うべきではない、と考えます。  ~~~~~  ☆ だとすれば この句を持ち出して いかにまったきブッダであることを自認し自称する人も その境位をひけらかすべきではない。また ひけらかすブッダたちの言い分を 自分の見解として持ち出すべきではない。      *    ☆ へたのすけさんに向けて 質問者からの応答です。  次のご見解を――それはそれとして成り立つとしても そこにとどまらず―― 一般の人びとに向けての言葉へと開いてくださるとよいと思いますが どうでしょう? よろしくお願いします。すなわち  ◆(回答No.17) ~~~~   ・・・   法を知らぬ者は仏を語りえない  となるのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~  ☆ 一応そうではあっても 《法を知らぬ者》も まったくのかたちでシャットアウトされているのではないと ひとこと添えていただきたい。こう思いますが どうでしょう?  ☆ けいえす5518さん。けいえすさんにも 同じような苦情があります。  ■(回答No.16) ~~~~   ※ 釈尊のいう『唯我独尊』ということは、釈尊  個人を指しているものではなく、「法を知覚し  ている当体」を指している。これは、世間の学  者は「正しい法」に帰依もせず、認識だけで  理解しているためである。    ■ これは言いかえれば、唯仏与仏ということでしょう。  仏の知恵の浅深を現している言葉です。  ~~~~~~~~~  ☆ これは ゴータマ・ブッダと日蓮とのあいだの《唯仏与仏》を言っているところですが もし――もし です もし――このことがほんとうであるならば このことを持ち出している けいえす5518さんご自身も そのゴータマ氏や日蓮氏とほぼ同じ境地にあると 自認し自称しているということになると思います。  そういう理解でよろしいでしょうか? つまりは おまえらには――いえ ぶらじゅろんぬには――分からないことだ というご回答なのでしょうか?  もしそうではなく 推測で持ち出しただけだとなれば それは 独り言にはなりますが 質問に対する回答ではないはずです。つまり そこらあたりを いやしくもブッダの道をあゆむ人であるならば しっかりときちんとわきまえ表現し尽くしていただきたい。  ■ 世間の学者は「正しい法」に帰依もせず、認識だけで理解している  ☆ または 認識だけで吹聴している と言われないためです。      *  ◇ ~~~~  (あ) bragelonne さんもご存知のように、わたしは《本覚》の立場をとりません。  (い) また、かと言って、《始覚(門)》(修行によって初めて悟りへの機根が生じる)という立場もとりません。  (う) 《客塵煩悩 自性清浄心》「煩悩はお客さん。だから、心はキラキラと光り輝けるんだよ」で十分と考えています。  ~~~~~~  ☆ (え) この(あ)は 仏性ないし如来蔵の立ち場と矛盾しないと理解します。≒(う)。  (お) 本覚思想批判つまり 袴谷憲昭の《批判仏教》は かなり読みました。そこでは 如来蔵をも仏説からはしりぞけていたと思います。  (か) この(い)のご見解は あざやかな内容があるように思います。袴谷氏と手紙でやり取りをしたことがあるのですが そこでわたしは 《名字即・即・究竟即》と言って食い下がったことがあります。  たとえば むしろキリスト信仰にのっとって言うのですが 聖書の中身や神学について何も知らなくてもよい ただ イエス・キリストという名を聞き受け容れたなら 信仰は成り そこから信仰の動態がつづくという意味で言っています。  つまり それを ブディズムに当てはめて 名字即・即・究竟即 だと言いました。  (き) すなわち この場合の名字即は ブッダの法を聞いたというよりは ブッダという名を耳にしたという意味です。  (く) それとも 《始学〔門〕(修行によって初めて悟りへの機根が生じる)》説を退けるということは 理即と言うのでしょうか  この理即の立ち場に立つということでしょうか? つまりブッダのブの字も キリストのキの音も知らずそのような名字を聞かない前から 《自性清浄心》が 活きて いるということでしょうか?  (け) 潜在性という見方をすれば 生まれたままの姿で《ブッダである》でしょうが 名字を聞くだけはしないと 《われは ブッダである》とは言えないと思います。《われは 〔大文字のではなく小文字の〕クリストなり》とはまだ言えないことになると。  (こ) それとも キリストも背景にしりぞき ブッダも背後へ隠れてしまうのだという・《あたらしい天とあたらしい地》の世界と時代を言っておられましょうか?    *    法華経のもんだいです。    これは 上に見てきた議論にもとづくなら 《法華経だけで済む》という問題であるよりは 法華経も要らないというあたらしい視点であるように考えられます。  もし さとりにとって《始学〔門〕》が関係なく    ◇ (う) 《客塵煩悩 自性清浄心》「煩悩はお客さん。だから、心はキラキラと光り輝けるんだよ」で十分    であるならば    ☆☆(趣旨説明欄) (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?  の問題をも通り越して ひょっとして《地涌の菩薩》たちのあたらしい時代の到来なのでしょうか? 末法も弥勒菩薩も 屁の河童であると。     *  ◇ ~~~  (3)五逆罪を犯した者でも救われる。  仏敵とされる堤婆達多、無間地獄に落ちますけれど、釈尊は「過去に法華経を釈尊に説いた功徳によって、堤婆達多が遠い未来に仏になる」ことを予言しています。  僕はここに注目したいです。  つまり、この堤婆達多の成仏予言によって、万人に対する救済の道が開かれた。ここから、(仏教信仰上での)人間の普遍的平等性が導き出せる。  ~~~~~~  ☆ この内容に反対する者はいないでしょう。  しかもわたしは 感覚の問題として 《神のえこひいき》説が好きです。そう思えば――《神は憐れもうと思う者を憐れみ 慈しもうと思う者を慈しむ》と思えば―― 来世を問わず ただちにいま・ここで 人はさとると思います。《真理がすべてにおいて真理である》世界が 間髪を入れずに 開けると感じます。    *  ◇ (2)女人成仏。  ☆ これは ブッダが その成道の初めから明らかにしようと思っていたが 世の中の情況を見つつその機が熟するのを俟って 法華経で説いたということなのか? あるいはつまり 出し惜しみをしていたのか? それとも法華経として説くことが目的だったので 法華経として説いたということなのか。ブッダの心やいかに? と問わねばならないのではないでしょうか?     *  ◇ ~~~~~~  法華経を飛ばし飛ばしに斜め読みしたところ、  《四聖諦・苦集滅道》、《十二因縁》、大乗の《空》、完全ではないけれど《六波羅蜜》らしきことも書いてあるので、大乗・小乗の主要な教えは、いちおう、法華経に含まれていることになるのかな。新しい世界観も示されていますし....  なので、仏教の学問的詮索をあれこれするのでなければ、法華経だけで十分という気がします。  特に在家信者には。  ~~~~~~~  ☆ ありがとうございます。  もし印象だけで述べてもよいのでしたら 法華経は それまでの集大成であって ほかのオシエを捨ててしまえというのとは違うような感じなのですが そんなあやふやな言い分は通らないでしょうか。  如来寿量品の引用したくだり(No.27お礼欄)は 残念ながら まだピンと来ません。  みなさんとともに いましばらく議論は つづきましょうか。

回答No.28

ちょっと逆質問させてください。 長文のやり取りが多くて何を論議しているのかさっぱりわかりません。 単純明快である今回の質問がなぜこのような長文になっているのか教えてください。 ついていけません。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ なぜこのような長文になっているのか  ☆ 文献――つまり 経文のことですが――にもとづこうとする態度から来ています。学問としてふつうだと思います。  文献を離れても 定義や用語の表現を精確なものにしておこうといういとなみです。  あるいは ブディズムやさらにはそれに先行したブラフマニズムにおけるやはり用語にかんして それらが経験事物のことを言っているのか それとも非経験の場のこととして持ち出されているのか この仕分けをきちんとしておくことは 大事だと考えます。  信仰の部分とそして経験思想の部分との仕分けです。  そんなところでしょうか。

回答No.27

こんばんニャーのオニャンコ 秋元康 や-もうタイトル出尽くして ks5518 NemurinekoNya のお二人の解答で 法華経にも詳しくですね。十界互具 をご存知ですね。 それぞれの生命状態にそれぞれの生命状態が備わる 十界論をここまでくると 凄い 法華経とそれ以前の経の関係を すべて捨てるかは 確かに 釈尊の言葉を 鵜呑みにするかは 一刀両断とはいかんかな- 日蓮が釈尊の生まれ変わりかは 本人も 我こそは釈尊の生まれ変わるべき姿 とはいってないが. 末法における法華経の行者とはいってます。 四個?の格言は4種の宗教を破釈したの ですが 法華経の優位制をもてば 簡単だな-。 創☆☆☆の経は 法華経 寿量品 第16ですね 余談でした。 尚私mikeneko1178は キリスト教の神とは との質問にたってます。 暗いと不平をゆうよりも 進んで 明かりを点けましょう。では。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 十界互具  ★ 四個?の格言  ★ 法華経の優位制  ★ 法華経 寿量品 第16  ゴータマ・ブッダは語っています。  ▲ (いわゆる如来寿量品) ~~~~  考えられないほどの幾千万億劫の昔・・・  そのとき余は最勝の《さとり》に達し それ以来いつも余は教えを説いている。  多くの求法者たちを鼓舞し 《さとり》の智慧に安住させた。・・・  《さとり》の境地を示し 人々を教え導くために  余は巧妙な手段を語る。  そしてそのとき余は 《さとり》の境地に入ることなく  この世に教えを弘めるのだ。  その場合 余は霊妙な力によって みづからの姿を現わし  そしてすべての人々に加護を垂れるのだ。  人々は理性が転倒して愚かであり  余がそこに立っているにもかかわらず  余を見ることはない。  かれらは余の肉身が完全に滅したと考え 遺骨にさまざまの供養をする。  余を見ることなく 渇望を生じ かくてかれらに正しい心が生じる。  この世の人々が心ただしく おだやかで 愛欲を離れた者となったとき  そこで余は弟子の集団を集め ここグリドゥラ=クータ(霊鷲山)に余は姿を現わす。  そして そののちに 余はかれらに このように話すのだ。  《あのとき この世で余は入滅したのではない。僧たちよ。  あれは余の巧妙な手段なのだ。余は繰り返し繰り返し人間の世界にいるのだ。》  他の国土の人々から崇め尊ばれたときには 余はかれらにも余の最勝の教えを弘めるのだ。  ・・・(中略)・・・  余の智慧の力はこのように光り輝き その際限はない。余の寿命も長く  無限の劫のあいだ続く。余は前世の所行を果たして この寿命を得たのだ。  賢き人々よ この点について疑うではない。疑う心を残らず捨てよ。  余はこの真実の言葉を語る。余の言葉は未だかつて偽りではないのだ。  ・・・(略)・・・  余は世間の父 みずから存在して 一切の人間の庇護者であり医者である。  愚かな者たちの意識が転倒して 判断力を失ったことを知り  入滅しないで入滅したと見せるのだ。  それは 何故か。余がいつも姿を現わしていることにより 理性なく無知な人々は  信じなくなり 愛欲に狂い 快楽のために不幸な境遇に落ちるであろう。  しかし 余は絶えず世間の人々のあれこれの行為を知り  《どのようにして かれらを〈さとり〉に導こうか。どのようにして  かれらに仏の教えを得させようか》と考えて 世間の人々にそれぞれ語るのだ。   (《正しい教えの白蓮 Saddharma-pundariika 》十五    〈如来の寿命の長さ〉 岩本裕訳 岩波文庫《法華経》・下)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わっかんないもんね。

回答No.26

みけねこさん、こんばんはです。 現在飼ってはいませんが、猫、大好きです。 野良猫に本気でガブリと噛まれて指から血が流れ出ようが、「あっ、噛まれた」とヘラヘラ笑うくらい好きです。 三毛猫を飼っていらっしゃるのですか。 わたし、三毛猫のオスが欲しいです。 で、高い金額で売り飛ばしちゃいます(笑い) ☆☆☆ ちょっとしゃしゃり出て、 #No.23での、bragelloneさんから三毛猫さんへの質問の回答。 ☆それとも マチガイではないが 部分的であったり程度が低かったりするということでしょうか? ◇法華経以外(以前?)の教えは、部分的で、真理の一面だけしか解き明かしていない、ということです。  こうした考え方は、なにも法華経だけに限ったものではなく、程度の差はあれ、他の大乗経典にも共通してみられます。  一番典型的なのが、唯識の根本経典である《解深密経》の三時の教判説でしょう。  初時として、いわゆる小乗などの《有教》(人空は説くが法空は説かない)を教え説いた。  二時として、般若経などの《空教》を説いた。  三時として、華厳や法華経などの《中道教》(一方的な有でもない、一方的な空でもないとする教え)を説いた  なお、天台智ギは五時八教の経判をたてて、法華経の優位性を主張しています。 ★ 爾前経といって それ以前の経は法華経に至る方便なのですべて捨てよ。と釈尊はいっており ☆ ということのようですが 《方便》は たしかにそれをそのまま受け取るならマチガイになる場合もあるし 単なるタトエ程度のことと受け取っていればそれほど害はないという場合もあるかと考えます。 ◇これは、法華経の《方便品》《比喩品》をどう読むかで立場が分かれると思います。  悟りへ至る手段として三つの教え、声聞乗、独覚乗、菩薩乗(大乗)を説いた。でも、最終的には一つの立場しかない。 その唯一の立場を、《法華経を含むすべての大乗経典》とするか、《法華経》のみとするか。つまり、法華経を説く以前のすべての教えは、最終的に《法華経》へと導引するためのものであるとするか、この見方の相違です。 なので、後者の考え方に従うと、「★ 法華経に至る方便」という結論になります。 なのですが、問題は、法華経がすべての教えを包摂しているかどうか。 で包摂していなかったら、つまり、《爾前経》に任せている部分があるのならば、その部分は《爾前経》を読めば良いということになります。 けっして、法華経以外の教えがすべて無価値だと言っているわけではありません。 ☆☆☆ ☆それとも 《万人が ブッダである》という土台に立つのか? ◇法華経は《万人が仏陀である》という立場です。三乗一乗(三乗虚仮 一乗真実だったかな?)、会三帰一は、まさしくこのことを言っています。 さらに、法華経の方便品には《無一不成仏》という言葉があります。「一人として成仏しない者はない」と明言しています。 天台智ギの《十界互具説》からも、この結論を導き出すことはできます。人間界にいるすべての人間は《仏界》を有している。 つまり、迷いにある段階ですでに《人間は悟っている》と考えます。(これが天台本覚思想!!違ったかな、ポリポリ) ☆☆☆ ちょっと、いやいや、 結構、でしゃばった真似をしました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ◇ ~~~  法華経は《万人が仏陀である》という立場です。  ・・・  さらに、法華経の方便品には《無一不成仏》という言葉があります。「一人として成仏しない者はない」と明言しています。  ~~~~~  ☆ そうしますと     《ブッダはブッダとだけ互いに分かり合える》  という見方は 《さとり》の度合いに応じて言っているという理解でよろしいでしょうか?  言いかえると よほど特殊な――または きわめて限られた人数の人しか到り得ないような――境地を 一般の人びとにひけらかすために言ったものでしょうか?    *  ◇ つまり、迷いにある段階ですでに《人間は悟っている》と考えます。(これが天台本覚思想!!違ったかな、ポリポリ)  ☆ これは 《一切衆生悉有仏性》とは 微妙に違うようでした。《本覚》と言ってしまっていると 実際問題としては 努力を怠る向きが増えるでしょうね。     *  ◇ ~~~  法華経を説く以前のすべての教えは、最終的に《法華経》へと導引するためのものであるとするか、この・・・考え方に従うと、「★ 法華経に至る方便」という結論になります。  なのですが、問題は、法華経がすべての教えを包摂しているかどうか。  で包摂していなかったら、つまり、《爾前経》に任せている部分があるのならば、その部分は《爾前経》を読めば良いということになります。  けっして、法華経以外の教えがすべて無価値だと言っているわけではありません。  ~~~~~  ☆ ここは 重箱の隅をほじくりますが:  ○ 《〈爾前経〉に任せている部分》というのは もし《方便として》であるなら その方便はなくても 法華経だけで済む。ということになりませんか?     *  ◇ 法華経以外(以前?)の教えは、部分的で、真理の一面だけしか解き明かしていない、ということです。  ◇ なお、天台智ギは五時八教の経判をたてて、法華経の優位性を主張しています。  ☆ 法華経は そんなに優位なのですか? 例示をひとつ挙げておしえていただければと思いますが。  よろしくどうぞ。

  • ks5518
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回答No.25

No.16です。  ■ ~~~   『妙法蓮華経(法華経)』の中で説かれている法  は、妙法蓮華経という仏の当体の事です。これに  対し“帰命をする”という事で、“南無”を付けてい  ます。   ~~~~~  ☆ これは おそらくいわゆる大乗仏教の《法身(ダルマ・カーヤ)》のことなのでしょうね。だとすれば 仏性ないし如来蔵とも同じだということになりそうです。  つまり そのかぎりで 《南無妙法蓮華経》が ほかの特別の《成仏の種》であるという見方にはまだ成らないように見られます。 ■『妙法蓮華経』は、妙法蓮華経の中で、諸仏を 仏成へと導いた根本法としての記述があるから です。 方便品第二にある『当知是妙法 諸仏之秘要』が これに当たります。 ですので、仏性ないし如来蔵とは少し違うと思い ます。あくまでも、『法』ですから。ですから、質問 者様の仰るところの《ブラフマン》に相当するので しょうか。もっとも、ここで議論する『妙法蓮華経』 と《ブラフマン》については、出典も違うでしょうし 全く同じ概念のものとは断定できないかと思いま す。  ■ 成仏の定義については、変わりは無いと思います。  ☆ だとしますと 《南無妙法蓮華経》の以前と以後とで――《時(時代)が違い これにより、衆生の機根が変わってきます》としても―― 《成仏の種》はまったく同じひとつ(如来蔵)であると推察されますが どうでしょう? ■前項回答参照のうえ、研鑽願います。    *  あとはですね。法華経ないし日蓮に拠る宗派とそうではなく またそれぞれの拠り所を持つという宗派とで おのおのそれとしての根拠を述べている。その一端を明らかにしてくださった。というような受け取りにしか いまのところ 成らないのですが どうしましょう。理解が浅いでしょうか。 ■いえいえ。私こそ未学にて確信にいたる回答 を差し上げられず申し訳御座いません。 そもそも、日蓮聖人の鎌倉時代における開宗は 天変地異や飢饉、疫病、戦乱などによる人間の 身に降りかかるそうした根源をつきとめ、安穏で 平和な世の中を作ることを目的とされました。 鎌倉、京都(叡山を拠点)、奈良、大阪への修学 の中で、釈尊⇒中国天台⇒伝教へと繋がってき た法が、いつの間にか滅し、他宗の独自の理論 が展開されている事を発見し、千葉に戻られ開宗 した事が始まりです。 この事については、質問者様は良く御存じかと思 います。 その開宗の際、当時ほぼ日本に広まる宗派につ いて、先ず破折します。これが“四箇の格言”です。 そして日蓮聖人は、本来の仏教修行の“法”として 『南無妙法蓮華経』を広めます。この時点では、未 だ曼荼羅御本尊は有りません。 その後、『立正安国論』を幕府に提出するわけです。 様々な法難の中、上行菩薩の再誕としての立場を 現し弘安二年に本門の本尊を現します。 確かに一宗の歴史かも知れませんが、本来であれ ば各宗において良く研鑽され、正邪を明確にし、広 く共通の認識が持てれば良かったのかと思いますが、 歴史の上では、そうされる事もなく、現在においても 何が真で、何が誤りかという議論もされず、宗教さえ も形骸化し、人間生活から遠のいていることも事実と して有ると思います。    *  中で次の一点について 何とか触れてみます。  ■ ~~~  これは言いかえれば、唯仏与仏ということでしょう。  仏の知恵の浅深を現している言葉です。  ~~~~~  ☆ もしこのように《唯仏与仏》を言うのでしたら 誰もが《わたしは ブッダである》というところから出発していなければ この《唯仏与仏》としての成仏ないしさとりが 分からないということになりませんか?  つまり 人はすでに生まれた姿においてこの《仏》であるというのでなければ ブッダがいくら何を説いてもいっさい分からないということになりませんか? ■この『唯仏与仏』ということは、当時の声聞にたい して仏の知恵の深さを示した文言です。釈尊の『法 華経』の説法は、声聞にとって理解しがたい事だっ たと思います。それは、始成正覚を払って、久遠実 成の立場を開くのですから当然でしょう。 だから、声聞は法華経を説く釈尊の言葉に疑問を 持つのです。理解が出来ないのです。そこで、多宝 如来の証明を持って、法華経を真実とするのです。  あるいはつまり そうではなく 人はすでに生まれた姿においてこの世界の中に位置するというその存在のあり方だけによって《境智冥合》している。潜在性としてですね。というところから出発しないなら いくら《南無妙法蓮華経》なり日蓮の《生命の当体》という《境》に接しても 冥合し得ないのではないですか? ■“以信得入”を持って、境智冥合に至ります。“信” が無ければいくら剛情に祈っても、冥合しません。 また、十界互具が説かれている以上、個々の生命 には仏性がり、その仏性を開いて仏(仏陀と呼ばれ るかは別として)と成るのです。  もっと簡単に言えば 《唯仏与仏》というときの《仏》は われわれ一般の人間〔における仏性〕とどう同じでどう違うのか? まったく違っているのならば――渡りえない海を隔てているのならば―― いくら説法を聞いても境として接しても ついぞ分からないし冥合もし得ない。ということになりませんか? ■先ず良く『十界互具』を理解されるべきでしょう。 これは地獄界から仏界までの十の境涯が個々の 生命に具し、瞬間瞬間にそれぞれが変化して現わ れます。 その上で、本来、衆生である人間は、六道の内に 治まる(巡る)と言われています。その上で、仏界だ けが現じがたく、本尊に縁する(題目を唱える)事で 現われるのです。仏界が現われたからといって、 永劫に仏界かというとそうではありません。それは、 私たち衆生は、生活の上様々なものに縁し、境涯 を変化させてしまうからです。それも、瞬時瞬時に です。 そこが、貴方の言う『仏』と我ら衆生の大きな違い でしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ですが そしてまた ていねいに説明をそれとして していただいていますが どうも要領を得ません。得難いです。  日蓮は ほかのブディストと 名前も人格も違う。ゆえに 日蓮という人は ほかの人たちとは違うのだ。こうおっしゃっているとしか聞こえません。  法華経は ほかの経文とは違うことが書いてある。ゆえに 法華経は ほかの経文とは違うのだ。こういうご主張であるということまでは分かります。それ以上は 分かり難くあります。  日蓮は えらいそうだ。ゆえに 日蓮がえらい。こういうご議論であるように受け取るしかないのですが どうしましょう。      ★ 方便品第二にある『当知是妙法 諸仏之秘要』が / これに当たります。  ☆ この《知るべき是の妙法》は  ★ 諸仏を仏成へと導いた根本法 としての『妙法蓮華経』  ☆ のことだと受け取ることができますが それが どんな中身であるのか? 一向に分かりません。といった状態です。  ゴータマ・ブッダは この法華経として伝わるその中身を説くまでは 仮りのオシエをのみ説いていて けっきょく《諸仏の秘要》としての最高の法を出し惜しみしていたということでしょうか?

回答No.24

オハコンバワ 毎度です NemurinekoNyaさんも凄い知識で尚 ネコずき でしょうか 私は 三毛猫とスコティシュフォ-ルドの長毛種を飼ってます。 ネコはめんこい ちょつと法華経の談議は中断します。 皆さんの学識の高さに挫折してます。 また後で。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  あいにく ネコもイヌもわたしは だめです。  といった情況です。

回答No.23

どーもです。(時間帯が微妙なので、挨拶の言葉に困ってしまいます) ☆☆☆ (1) ブディズムは それとしての観念体系がしっかりと築かれている。この準拠枠を破るわけには行かない。けれども この準拠枠は 知としてふつうに経験合理性にもとづくという経験科学の立ち場である。 (2) ただし マハーヤーナー・ブディズムでは《法身》を言う。このかぎり いまひとつ別の枠があって 《非経験の場》としての神を想定するという前提を持ったものである。類型としてなら 《梵我一如》を説いている。 (3) 上の(1)の学知は 実践がつきものである。  ★ ゴータマ仏教は、《修行をすれば》という前提がつくので、裏を返せば《修行しなければ悟れない》。 (4) そうして (2)の立ち場に立てば 次のように神学を交えた哲学としての構成になっている。 ◇わたしは、かねがね大乗は形而上学だと考えていましたが、おっしゃる通り、神学的哲学とした方が適切なようです。大乗経典は高邁な哲学をといていますが、神話そのものですから。(1)~(4)については異論はありません。 ☆☆☆ (5) こうだとして進めますが わたしの立ち場としましては じつは (1)の経験哲学としての観念体系と(2)の神学的哲学とは 両立するという見方を持ちます。 ◇これ以降、わたしは次のような作業仮説をたてました。ヒントは#No.14で書いたJ.ゴンダの 《多種多様な大自然の出来事は、この偉大な「業の法則」の結果に他ならない。》 の宇宙を統べる、偉大な《業の法則》です。 J.ゴンダの頭の中にはおそらく12支縁起もしくはブッダのオリジナルの業の法則があったものと考えられますが、わたしはこの偉大な「業の法則」に、《縁起の法則》を支配する原理、すなわち宇宙の掟である最高原理《天則・リタ》、そして天則の守護者《ヴァルナ》をみました。これは、《ブラフマン》と言っていいです。 《業の法則》、つまり、みずからの行為=業が、みずからの善悪を決定するという思想は、この当時のインドでは常識だったので、ゴータマ・ブッダ自身、このことに気づいていなかったのかも知れません。あるいは、気づいていたけれど、気づかないふりをした。 輪廻の思想をアプリオリの原則として仏教の中に取り入れているのですから、論理的に当然のことです。 《縁起の法則》を支配するスーパー《縁起の法則》、あるいはメタ《縁起の法則》とはなんぞ。 これを大乗の創始者たちは、《空》《空性》と考えた。 (たぶん、これにはヨーガが深く関係しています。ヨーガが《非思考の庭》あるいは《非経験の庭》なのかはのいずれなのか、判断がつきません....) 《空》の意味の拡大です。そして、大乗の《空》が現象界と真理界を統べる最高原理となり、神となった。 大乗仏教において、《空》は《虚空》にたとえられます。何にもない空っぽの空間。それが虚空です。空のイメージとしてぴったりです。そして、空の性質としては、以下のものが上げられます。 【虚空の性質】 (1)広大で無辺。つまり、無限、 (2)一味・平等。無差別 (3)あらゆる事物にゆき渡っている(遍行)。遍在、遍満。 (4)その本性はいかなる汚れをともなっていない。《自性清浄》 これは、神や宇宙の最高原理の定義にふさわしいように思われます。 これで、なぜ、大乗仏教のはじまりが《般若経》であったのかが分かります。 つまり、《縁起の法則》の拡大、すなわち、形而下の現象をすべて多い包む新しい《空》の理論が大乗の誕生を産んだ。 これはそれほど荒唐なことではありません。大乗仏教の発展史は、論理的にはどうしても解明できない大乗の《空》がどのようなものであるのか、その解明史といっても過言ではありません。それは現在においても同じこと。空とは何ぞ、日夜、多くの人がその問の答えを求めて、自問自答していますので。まさしく、神です、大乗の《空》は。 大乗においては、《空(性)》《真如》《法界》《法身》などはどれもほとんど同義です。なので、 大乗の《空(性)》→大乗の《法身》→《如来蔵》 と、発展したのではあるまいか。 この仮説は、それほど不自然なものではありません。事実、暦史上、この順序で大乗経典の創作・編纂が行われたからです。《法身》思想から、大乗の《空》が生まれたわけではないので。 《非思考?・非経験?の庭》が大乗仏教を生んだといったところでしょうか。 ☆☆☆ (8) 《神》としてのブラフマンであれば その定義にのっとるかぎりで 経験科学としてのゴータマ・ブディズムとしても きちんと扱い得る。 ◇大乗仏教者のその理解が正しかったかは別にして、 大乗は、ゴータマブッダが《修行をすれば分かる》と棚上げした部分を補完した。ブラフマンとなった《空》という新たな概念で補完したと言ったところでしょうか。 大乗の教義は、小乗(上座部仏教)の教義を包括しているので。 (10) なにしろ 縁起の過程から自由であるという《非経験の場》として 想定しているのですから 自由自在です。ゴータマ・ブディズムなる経験思想にとって この神学は なんら邪魔者にはなりません。むしろ   ☆この欠落を埋める神学的哲学だと見られます。 ◇ご指摘の通りだと思います。 ただ、形而下をあつかう上座部仏教の側からすれば、大乗はおとぎ話、荒唐無稽な話に見える。「実証不可能じゃないか」となる。 取り扱っている次元のちがう話ですから。 (11) すなわち  ☆ ゴータマ仏教は 言わば《する(人為・作為)》の経験哲学であるようです。  それに対して と言いますか むしろそれをふくむかたちで 《なる(つまり人為を容れた自然史過程)》の神学的哲学が 大乗仏教の精神であるのではないでしょうか?  後者は 前者と矛盾しません。前者が 無記とするところは 想定するという仮構において扱うだけですから。  ◇まったく異議がありません、 (12) まとめますと (4)の《神を非経験の場として想定する》補助線によって (2)の大乗仏教の神学的哲学は (1)のゴータマ・ブディズムなる経験科学と相いたずさえて 世界観の構築にすすみうる。(3)の修行につきましては わたしは分からないという立ち場です。よく知りません。ヨガも知りませんし。(保留となりましょうか)。  ◇おっしゃる通りです。ヨガや坐禅をしたことがないので、わたしも本などで読んだこと以外は、ヨガについてはまったく分かりません。 ☆☆☆ (13) ブッダ あやまてり。なのでは? ◇さあ、これはどうでしょう。 大乗誕生に直接つながる契機・手がかりは、ゴータマブッダの教えの中にすべてありますから。 般若の空の完成者と言ってよい龍樹は、自身を《ブッダの(直接の)弟子》と言っていますので。 また、上座部のアビダルマ教学がなかったならば、大乗の《空思想》は誕生しなかったであろうからです。 また、インド大乗仏教の完成である唯識思想の誕生の背景には、上座部の一つの学派である《経量部》の思想があります。そして、のちに唯識の一派である《有相唯識派》は《経量部》と合流します。僅かの差(心の外に物があるか、ないかの差です)が残る、完全な形での合流ではありませんでしたが、神話哲学と経験主義的哲学の合流です。 ○心の外に物がある、ないかは重要な差ではないか? ◇仏教では、この差はそれほど重要じゃないです。仏教は誕生当時から、心を問題にしていますので。 まして、《経量部》は、「外界に物が存在しているかもしれない。あるかどうかは、推測の妥当性から判断するしかない」ってきわめて表象主義的な考え方をするので、唯識とあまり変わらない考え方をするんで。 話戻って、《ブッダ過てり》。 こればっかりは、ゴータマブッダに直接聞いてみる以外、方策はないのではないでしょうか。 ゴータマブッダが《修行すれば分かる》と棚上げした部分を神話的手法で解き明かしたつもりの大乗仏教、実はとんでもない勘違いを犯しているのかもしれないので。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  祝杯を挙げましょうか。  乾杯!    《空》が 補助線だったということでしょうか?  かつまた 鍵語であると。  縁起説はもちろんのこと 無我ないし非我を言うことにおいて すでに《空》は ゴータマ氏も言っていたということでしょうか?  あるいは ブッダないしブッダに成ると言ったからには 仏性ないし如来蔵も言っていたのだと。  つながりましたか?  整合性が成りましたか?  そこで あらためて 乾杯!  (完熟ぶどうのワインを買って来ました。手頃のもの)。  それまでの哲学は《実体》をやかましく言って来ていたので 構造主義は これを否定するのにやっきとなった。  のとあたかも同じように ゴータマ氏は アートマン=ブラフマンの実体主義(その傾向)に反をとなえようとしたのでしょうか。  きびしく言えば アートマンの想定も アン-アートマンの想定も 神としては 同じなのでしょうけれど。  別様に言いかえると 《わたしは ブッダである》と公言したほうがよいという見解は 人間としてのブッダとわれわれ一般の人間とのあいだに あまりにも深い溝があるという見方が人びとを覆ってしまっているのではないか。もしそうだとしたら このことを解消しておくことは 大事だと思われるという考えに立っています。  神と人間とのあいだには たしかに超えられない隔たりがあると言わねばなりません。しかも 神は この経験世界にもあまねく存在しているという見方が出来ます。  《ブッダ あやまてり》は アートマンとアン‐アートマンとの間に 神としては 何の違いもないということを言い損ねているとしたら そう言えるのではないかと考えます。  もういちど見直して お応えすべきはお応えすることとします。

回答No.22

5度目です 日蓮と創価学会のよもやま話はこの辺にして 法華経については釈尊の集大成です。 爾前経といって それ以前の経は法華経に至る方便なのですべて捨てよ。と釈尊はいっており 偶像崇拝も捨てよと語っているのですが。はい。 尚 涅槃経が釈尊の最後の経だとの反論があり たしかに これは死への旅立ちの経です 葬式で坊さんが読みますね。 貴方様は法華経をどう解釈されているか 簡単にお言葉を.はい。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 貴方様は法華経をどう解釈されているか  ☆ 特に法華経についてこれといった見解はありません。つまり ブッダないしそのオシエを全体として捉えています。  言いかえると  ★ 爾前経といって それ以前の経は法華経に至る方便なのですべて捨てよ。と釈尊はいっており  ☆ ということは ブッダ自身が書いたわけではないので それまで説いたオシエは 全部捨てよということになるとまづ思われます。ということは 爾前経としてのちに編まれるオシエは ぜんぶマチガイだったということでしょうか?  それとも マチガイではないが 部分的であったり程度が低かったりするということでしょうか?    でも捨てよと言ったということは 弟子たちは そのブッダの言葉にさからって のちに編んだということになりますね。  捨ててしまって 法華経だけにまなべばよいという根拠は どこにありますか?  ★ 法華経に至る方便  ☆ ということのようですが 《方便》は たしかにそれをそのまま受け取るならマチガイになる場合もあるし 単なるタトエ程度のことと受け取っていればそれほど害はないという場合もあるかと考えます。  そのへんのことが明らかにされるべきだと考えます。  けれども このように みなさんがブッダについて解説されているということは 《誰もがそれぞれブッダである》という出発点に立っているからではありませんか?  そうでなければ みんなそれぞれ世迷いごとを繰り出しているだけだとなります。《ブッダはブッダとだけ互いに分かり合える》といった回答も寄せられています。すべて 戯れ言になるのか? それとも 《万人が ブッダである》という土台に立つのか?  そのあたりに焦点をあててさらにご見解を寄せてみてくださいませ。

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     『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』(中村元訳 1980)から次の主題を取り上げ問います。  § 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは アーナンダの不明の所為か?  ▲ (アーナンダにおける悪魔憑き) ~~~    ――・・・アーナンダよ修行を完成した人(如来)は・・・もし望むならば 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まり得るであろう。  と〔ブッダが言った〕。こういうわけであったけれども 若き人アーナンダは 尊師がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたのに 洞察することができなくて 尊師に対して《・・・寿命のある限り この世に留まってください。――多くの人びとの利益のために・・・幸福のために》といって尊師に懇請することをしなかった。  それは かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕五)   ~~~~~~~~~~~  【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか?  【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(?)を食べて体調をくづしたとき ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしているのに このアーナンダの悪魔憑きについては どう振る舞ったのか?  § 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか?  ▲(苦か楽か。涅槃?) ~~~~  ・・・尊師はこのように言われた。   ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・     修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)  ~~~~~~~~~~~  【Q‐3】 生老病死なる苦 とりわけ生なる苦――《根本的な生存欲》(?)なる苦――を言い続けたのではなかったか? けれども 死を前にして 《楽しい》と言っている。  (つぎの【Q‐4】をも合わせて捉えるなら おかしいと考えられる。つまり 苦は楽に変えることが出来ると明言しなければいけない。あるいは 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆ではないのだと)。  【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダのあり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。  § 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか?  ▲(自灯明・法灯明) ~~~~    ――・・・この世で自らを島とし 自らをたよりとして 他人をたよりとせず 法を島とし 法をよりどころとして 他のものをよりどころとせずにあれ。  (中村訳 前掲書 第二章〔九、旅に病む〕二六)  ~~~~~~  【Q‐5】 《島》を 灯明として解される説を採らないにせよ ここで《たよりとする自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐アートマン)》を説いているのだから その区別を明らかにすべきではないか?  【Q‐6】 けれども 《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 《自らを頼りとし 〈灯明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただそのときその場での《明かり あるいは 光》とするだけではないのか?  つまり 医学などの科学としての光明や思いやり・愛情としての温かみやは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と心において得られるものである。  ゆえに 問題は 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? そうでなければ《自己のチカラ》は かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまる。こういう主題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか?   みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか?    《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情によって一隅を照らす》こととは 微妙に違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。    これらの問いをくつがえし得ないとすれば ゴータマ・ブッダは 阿呆である。  以上について よろしくご教授ください。

  • ゴータマ・ブッダは何をさとったのでしょう

     ▼ (ヰキぺ:釈迦) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6  § 3 生涯  § 3.3 成道  そこで(* 難行苦行を要らぬこととして捨てたあと) 釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。  ナイランジャナー(nairaJjanaa、尼連禅河、にれんぜんが)で沐浴し、村娘スジャータの乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、気力の回復を図って、ガヤー村のピッパラ (pippala) の樹(後に菩提樹と言われる)の下で、「今、証りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で観想に入った。  すると、釈迦の心を乱そうと悪魔たちが妨害に現れる。壮絶な戦闘が丸1日続いた末、釈迦はこれを退け大悟する。これを「成道」という。・・・  7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起・十二因縁を悟った。  8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。  22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって考えた。  その結果、「この法(悟りの内容)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうし、了ることはできないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。  ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた5人の仲間に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むヴァーラーナシー (vaaraaNsii) まで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  さて 《さとり》の中身は 何でしょう? おしえてください。    つまり 中身はありますか? という問いです。  つまり 何もないのではないか? 何もないのに ただ《目覚めた(ブッダ)》と言ってみただけなのではないか?  つまり 人びとはこれを真に受けて それはとうといものだと 何の根拠もなしに・また根拠がないからこそ 受け留め あたかも正負の正の意味でのいけにえの小羊としてのように受け容れるようになっている。だけなのではないか? これが問いです。   つまり 《さとり》の中身は 何でしょう?  なければ 世界史上まれにみるペテン師であったと考えられます。  集団催眠のごとくであり それは 人びとも自分たちのほうから積極的に(?)その催眠事業に参加して行っている。と分析すべきでしょうか。    自分に対してマインドコントロールをおこなうことは 自由なのでしょうが それによって ものごとを見るふつうの目が曇らされているなら 哲学の問題になります。  たとえば 上に引用したくだりについてなら なぜゴータマは梵天勧請を受け容れたかの理由がさだかではありません。そういう子供だましの話に人びとが乗って行ってしまっていることは 理性も感性もダメにされている証拠だと考えられるからです。――これは 社会公共にとっての問題です。  すなわち人びとは ゴータマ・ペテン宗教によって骨抜きにされ 二千年以上にわたってみづからすすんで たましいまでもふにゃふにゃに成ってしまった。のではないか?

  • ブッダは 神か? ――仏性をどう扱うか――

     あらためて問いたいと思います。  【定義1】 神とは ひとり満ち足りている存在を言う。   * (わざと この舌足らずのまま・あいまいなままとします)。  【問い1】 ブッダは 神か?  【問い2】 ブッダないし仏性は 人間の境地か?  【問い3】 ブッダがもし神であり人間の境地であると捉えられたとすれば それは――表現の問題を問わないとして―― ブラフマン(梵)でありアートマン(我)であるということではないのか?    【問い4】 つまり 梵我一如ではないのか?    【問い5】 けれどもそれでは 諸法無我なるおしえに反する。つまりは 神ではなくその神のもとなる人間の境地でもないとすれば ブッダは いったいどういう現実なのか?

  • それでは ブッダのさとりとは何だったのか

     以前に次の質問を立てたとき おそわったことがあります。それについて問います。    【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】     http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html  わたしがおそわった内容の出だしは こうなると述べました。  ☆☆ (ブッディスム=常識論)~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ゴータマ・シッダルタなる人が 真理についての見方として 空観=縁起説に到達し 目覚めた(ブッダとなった)。  空の覚りは 世界を 四方サンガ(縁起共生体)と名づけて捉え 関係性(相依相即性)のもとに見る。この空の覚りは世界をつらぬいており ブッダはそのことを見通している。  みづからの存在が社会的に孤独であってその意味で独立していると捉えているが それでいて他者の存在と孤独関係をもかたちづくりその社会的な関係性としても存在するわれわれ人間――このような人は 空の覚りとともに 大悲の実践を はからずしておこなう。  慈悲は この世のあらゆる対立を超えているので その空観のもとに 人は互いにみな対等であると見えているからには 人それぞれの持ち前の能力や特徴を発揮することができるように ほんの少し他人に対しても 声をかけたりするのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち ブッディスムとは 常識のことであり その判断力を言うと知りました。  そのようにおしえてくれた人は ただしそのほかに輪廻転生説もしくは不死永生説に立つというようでした。こちらの問題(課題)などがあるので ふたたび問います。  【Q1:《ブッディスム=常識論》にご見解をしめしてください。  ここで 無我とは この空観=縁起説に立つことだというものです。これを焦点にするかたちでおしえを乞います。】  【Q2: 次の議論においては さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見したと言います。では 生きるちからをそのままに現わしていくためには 《さとりを得ようという意欲をあきらめればよい》のだろうか?】  次です。この議論についても 最初にかかげた質問でおそわったものです。   ○ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか   http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ さとりを得ようとするはからいから自由になれば 常識なる判断力としてのさとりに到る――こういうことなのでしょうか?

  • ゴータマ・ブッダは 世界一の詐欺師なり。

     1. 《空》を 神と見立てればよいものを あくまで人間の境地だと言い張った。  2. すなわち 《目覚めた(ブッダ)》状態としてであり 言ってみれば《神として》ではなく 《神の場に行き来できる存在》として にんげんなる《われ》にその境地があるのだと言い張った。  3. ブッダ状態としての《さとり》とは ここで あくまで《確率》として存在するというものである。言いかえると その存在についてもその状態についても ついぞ人が確定して認識しえず言葉によって表現しえない場なのだと。  4. 言いかえると ブッダよ あんたのさとりを 示せという疑いや要求に対しては あくまでシラを切る。《表現しえず》と。  さとったのなら 人びとに分かるように説明せよと言われても 沈黙をまもる。  人びとが それはこれこれの状態を言うのではないか? と尋ねた場合には いやいや さとりとは そんな生ぬるい境地などではないと答える。  では どうなのか? という問い返しには だんまりを決め込む。  5. したがって ブッダのさとりは 表現の問題におさまるかとさえ考えられる。  人びとに分かるように説明しえないならば そのさとりは インチキではないか? という問いに対しては いやいや われははるか昔からはるかこの先までブッダである。と言って聞かない。  説明が出来ていないではないか? という問いに対して いやいや われは その現場を取り押さえられても姦淫はしていないとどこまでも言い張るごとく ブッダなりと答える。ブッダはブッダなんだよおーんと。  ――このような《表現およびやり取りの問題》にすべてをおさめようというおそろしく決意の固い宗教家なのではないか?  6. 一方で 人びとの求道の心を引き出し ただし他方では さとりの証明にかんしては 量子を特定して示すことは出来ないというような論理で どこまでも逃げ しかもブッダ論をぶちつづける。      *  この質問は 下記の質問でのやり取りを承けています。   【Q:ブディズムの再生はあるか。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7563932.html  その趣旨説明から 次のくだりをふたたびかかげます。上の    1. 《空》を 神と見立てればよいものを・・・  について説明している箇所ですから。  ☆☆ (信仰の類型) ~~~~~  ( d ) 有神論および無神論それぞれとしての信仰を 類型的にまとめてみます。互いに同等であると見るというものです。  |非経験の場|経験世界の分身|信仰の形(非思考の庭)|  ○ 神道  |かみ|かみがみ|もののあはれを知る;きよらかなおそれ|  ○ ヒンドゥーイズム  |ブラフマン|神々|アートマンなるわれ|  ○ ブディズム  |空|神々|如来蔵(信じないと信じる)|  |マハーワイローチャナ|マンダラ|秘密なるわざ|  |アミターユス|無し|絶対他力;自然法爾|  ○ 聖書  |ヤフヱフ|無し|名を受け容れる|  |キリスト|無し|名を受け容れる|  |アッラーフ|無し|クルアーンに拠る|    ○ 西欧古典古代  |宇宙霊魂;世界霊魂|神々|《わたし》|  ~~~~~~~~~~  7. 有神論(たとえば 梵我一如)をしりぞけ それでも無神論〔という信仰〕の立ち場をも採らないならば その存在論・その人間の境地論は 《非思考の庭》としての信仰と 思考としての経験思想とのあいだで どっちつかずのままに終わる。というおそれが 大きいと思われる。  果たして どうか?

  • 梵我一如に仏教は密着したのでは?

     ブラフマニスム(バラモン教)に言う梵我一如 すなわち   《真理としてのブラフマン(梵)》なる一元に 《人間存在つまり〈存在〉ということ としてのアートマン(我)》が 一体となり 輪廻から解脱するという思想 この思想を けっきょくのところ ブッディスムは 採り入れたのではないでしょうか。  真理(ブラフマン)を 法身なるブッダないしダルマとして そして 個人個人の存在(アートマン)を 人間の内なる仏性としてです。つまり これら両者は 同じであるなら 一如であると言っていると思われます。そうではないでしょうか。以上について おしえを乞います。 * 参考: ・《梵我一如》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E6%88%91%E4%B8%80%E5%A6%82 ・《ブラフマン》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3 ・《アートマン》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3 ・《三身》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%BA%AB ・・・以上は 短い解説です。次が 分かりやすかったです。 ・《Q:梵我一如と仏教の悟り 》:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1106940.html⇒そのANo.1およびANo.3が参考になります。

  • 【宗教・仏教・過去6仏】仏教の過去6仏とはどれを指

    【宗教・仏教・過去6仏】仏教の過去6仏とはどれを指しますか? 大昔の仏陀の時代の仏は釈迦と過去6体の仏しかいなかったそうです。 いっぱい他の仏が創造されたのは仏陀の死後の大分あとの話だそうですが、釈迦と過去6仏と他の仏が誕生したのは西暦何年くらいでどれくらいの時代の空きがあるのか知りたいです。よろしくお願いします。

  • 仏教の仏陀ブッダが悟りを開いたのはガジュマルの木の

    仏教の仏陀ブッダが悟りを開いたのはガジュマルの木の下だったのに、インドのヒンドゥー教はボダイジュ菩提樹の木を崇拝して仏様の木として信仰して菩提樹の木の伐採をインド政府は禁止して国民が勝手に菩提樹を伐採すると犯罪になる法律まで整備してガジュマルの木は保護していないのにブッダと何の関連も縁もゆかりもない菩提樹をなぜ大事にするのでしょう? インド政府はブッダが悟りを開いた木はガジュマルではなくボダイジュであったと今も思っているのでしょうか? それとも今更気付いたけど、菩提樹の数珠はインドの大事な外貨獲得の輸出品になっているので訂正してインド産菩提樹数珠が売れなくなるのが怖いので訂正していないのでしょうか? インド政府は国民に真実は黙ったままなのでしょうか?