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神は自ら悪人を創っておいて地獄に落とすのか?

人間の死後、悪人は地獄に落ちるとすれば、 神がその悪人を創っておいてあまりにも酷くないですか? 悪行というのは人の弱い心がまねくものだと思う。 その弱い心をもつ人間を創ったのも神であり、神がその気に なれば善人ばかりの世の中を創る事も当然可能であろう。 小説「沈黙」でキチジローが役人に脅されて、宣教師のロドリゴを 裏切る場面があるが、キチジローも同じようなことを言っていた。 弱い人間、悪人をつくったのも神だ。 神は自らそれらを創っておいて、後で地獄に落とすようなまねを するほど残酷なものなのか? と、いう事で僕の結論としては、「やはり神はいない。」 ちなみに、小説「沈黙」は史実に基づている、といわれてはいるが、 一番肝心なところは、史実とは違い、キリスト教を美化した作品です。

みんなの回答

回答No.11

今晩はです。 ☆☆☆ 神の存在論的証明ですね。でも、論理にはかなり穴があるのではないでしょうか。 【反論1】  人間を作った《神がいい神である》とは限らない。じつは、とんでもなく邪(よこしま)で極悪非道な神であり、ただ、地上で苦しむ人間の様子を楽しそうに眺めているだけかもしれない。 そのような神であったなら、あなたの証明からは「神はいない」と結論できない。 【反論2】 また、人間を作った神が、愚かで、その力も限定的なものであったのなら、必ずしも矛盾しない。 したがって、これでは「神が存在しない」ことの証明にならない。 なので、 まず、神が何であるのか、その定義を明確にしなければいけない!! のではないでしょうか。 なのですが、あなたが存在を否定した神とは、おそらく《人間にどもまでも好都合な神さま》という意味なのでしょうね。 ならば、いないのではないでしょうか。 わたしは、あなたの考えを否定しません。 わたし、神の存在論的証明ができるなんて、端(はな)から思っていませんし.... ☆☆☆ ○人間の死後、悪人は地獄に落ちるとすれば、神がその悪人を創っておいてあまりにも酷くないですか?  ひどいって言えば、まぁ、ひどいですね。わたしが神さまなら、地獄は作らないかな。今のこの世と同じくらいの死後の世界をもう一つ作って、地獄に落ちる人はそこに送ります。で、いい人は天国に。  でも、死後の世界があるかどうかわからないし、もし神さまがいたとしても、はたして地獄や天国を用意してくれているとは限らない。生命はこの世限りかもしれないし、あるかどうか存在が疑わしい死後の話をしてもしょうがないのではないでしょうか。  キリスト教の人とかは、あなたのこの意見に対して、 「神は人間を悪人には作っていない。本来、人間をよきものとして創造した。善の欠如としての悪を作ったのは、人間である」と真っ向から反対するんでしょうけれども.... ☆☆☆ ○小説「沈黙」でキチジローが役人に脅されて、宣教師のロドリゴを裏切る場面があるが、キチジローも同じようなことを言っていた。弱い人間、悪人をつくったのも神だ。  キチジローを(生物学的に)作ったのは、キチジローの両親でしょう。そのキチジローのパーソナリティー形成は、キチジロー自身とキチジローをとりまく環境が行ったもの。何もかにも、すべて神さまのせいにするのは、どうなんでしょう。ちょっと安易にすぎませんか。 「今の自分が悪いのは、不幸になったのは、みんな世の中のせいだ」と、自分の責任をすべて世の中のせいにしているのと同じなのではないでしょうか。(誤解しないでくださいよ、「あなたが悪い人だ、不幸だ」と言っているんじゃないですから) それでは人間の主体性や自由意志がが出てこないと思うんですけれど。 わたし、自分が神や世の中のただの操り人形だなんて信じたくないですから。 ☆☆☆ ○神は自らそれらを創っておいて、後で地獄に落とすようなまねをするほど残酷なものなのか?  残酷なのではないでしょうか、神さまって。  少なくとも、こちらの世界の論理に従えば、残酷に見えるんでしょうね。  でも、神さまにあまり多くのことを期待するというのも、どうなんでしょう。神さまに甘え過ぎでは、ないのでしょうか。  神さま、地獄に落ちないように、《教え》や《戒め》を与えていますから。  「それを守らなかった人間には、まったく非がない」とは言えないのではないでしょうか。情状酌量の余地はあるけれど、自業自得ですよ、これはやっぱり。 ☆☆☆ ○と、いう事で僕の結論としては、「やはり神はいない。」  わたしは、《超越的な存在》をまったく信じていませんけれど、いるんじゃないですか、神さま。  かつてヨーロッパなどのキリスト教社会を統(す)べていた原理としての神の存在は、今やいませんけれど、お金や欲望などが、新しい神さまになっているのではないでしょうか。ただ、それを神と呼ぶか、名称の違いだけだと思いますよ。

回答No.10

あなたの言われる通りですね。 神は悪の可能性を持たせたわけですね。 神ですから何でもできるとしますと悪の可能性を奪って作ることも可能だったわけですからそれをあえて盛り込んだ確信は揺るぎ様が無いですね。 神がいたならその理由が説明できるわけですから聞きたいです。

  • Interest
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回答No.9

siyuusukexxxさんのイメージされている「神」はおそらくキリスト教の「神」なのですね。 「神」の概念は宗教によって、または時代や地域にによって大きく異なることを思い出してください。日本的な「神」の概念は古代には「火や水などの自然の働き」であり、「尋常ではない力を持つもの」であったのが、いつしか人格化された「神」になってきたわけです。ここには天国も地獄もなかった。 天国と地獄、天使と悪魔という概念は紀元前500年頃、ペルシャのゾロアスター教で「発明」され、ユダヤ教に影響を及ぼし、キリスト教にもその概念が伝わってきたという歴史的経緯があります。 話を元に戻しますと、「人間の死後、悪人は地獄に落ちる」というのは社会に迷惑をかける人を戒めるための「方便」なのだと思います。 > と、いう事で僕の結論としては、「やはり神はいない。」 これは、その人が考える「神」の概念によるんじゃないでしょうか。siyuusukexxxさんのイメージされている「神」が一神教的な「全知全能の創造主」であれば、存在しないかもしれない。しかしながら、存在しないことを証明する手段がないかもしれない。(不可知論) 一方、「自然界の働き」を以って「神」とするなら、これは存在するでしょう。 さらに、 > 悪行というのは人の弱い心がまねくものだと思う。 善と悪とはなんでしょうか? 生き物を殺すのは悪でしょうか? ライオンが獲物を殺して食べるのは悪でしょうか? 人間と動物の違いがあると、善と悪ができるのでしょうか? 結局のところ、人間社会があるから、社会秩序を乱すものを悪、社会にとって好ましいものを善というだけではないのでしょうか。言い換えれば、善悪は社会的な基準なのだと思います。 ではこの社会的な善悪はどのようにして決まるのか。このあたりは、近年ベストセラーになった、マイケル・サンデル教授の、「これから『正義』の話をしよう」で詳しく述べられています。 http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/112569.html  世の中キリスト教が全てではないということで。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.8

神がその気になれば善人ばかりの世の中を創る事も当然可能であろう。 ○それもあるでしょうね。 例えば、学校でクラス全員が同じテストを受けて、実際は各人の努力によって100点から0点までばらつきますが、それを先生が全員100点とすることと同じですね。 最近はマラソンでも早いものも遅いものも全員同タイムにする先生もいると聞いたことがありますが、そのようなものが神ということですね。 スポーツでも社会でも何もやっても皆同じだと努力など必要ないですね。共産国家ですね。それが神様というのなら、面白味はありませんね。 少なくとも私はそのようなところには住みたくはありませんね。 天国地獄思想は人生の評価として、落第もあるというのなら面白いと思いますね。 小説、沈黙にあるように「宣教師のロドリゴ」を裏切ったことが人生の評価として落第に当たるかどうかということですね。試験も何度でも再チャレンジできますから、それを考えると一度や二度の失敗で地獄にというのは教えとして正しく無いように思いますね。キリスト教的罪悪意識の刷り込みでしかないように思いますね。事実、イエスを売ったユダはいまだに地獄にいますが、それ以外の石を投げた当時の人々は誰も地獄にはいませんしね。 神は何度でもチャンスを与えるよき教師ですよ。ただ、努力もしない人に100点は与えないというだけでしょうね。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.7

これはキリスト教の神の話ですね。 その通りだと思います。 どこが全知全能なのだ、と抗議したい 気持ちです。 ただ、これにも抜け道は用意されて います。 『神の御心は、人間などに理解出来よう  はずは無い』

  • 4921
  • ベストアンサー率17% (23/130)
回答No.6

この世は試練の場であり、神は人間が多くの試しを受け、成長することをお望みなのではないでしょうか。 それは悪人にとっても、善人にとってもです。

回答No.5

神は思想のひとつです。 物理的存在はいえません。

  • skip-man
  • ベストアンサー率22% (344/1529)
回答No.4

地獄を造ったのは,神ではなく、堕天使ルシファーじゃ無かったかな? 楽園から追放はしたが,地獄に落としたわけではない。 イブを誘惑した蛇も、手足を取り上げたが,地獄に落としてはいない。 そのころ地獄が無かったから,ハッキリは言えないけどね。 もし,神が自ら地獄を造ったのなら,「天国までの階段」も用意したんじゃないかな。 あれぇ、神様っていつ天国を造ったんだろう?

回答No.3

遠藤周作はクリスチャンですから 美化はするでしょう わたしはこの本では美化されているとは思いませんが。。。 ここでいう悪人とはクリスチャンではない人物のことですね 神を信じない人物を悪人とよび 生まれたままの悪人ではありません 地獄に落とされる運命の人物が 「やはり神はいない」と言った段階で 信者ではなくなります 地獄に落とされるとわかっていても 信じていなければ 本当の信者とはいえない 神はギリギリまで 本物かどうかを試されているということです あ、わたしは信者でもなんでもありませんので。。。

noname#255857
noname#255857
回答No.2

プログラマーがプログラムしたソフトが予定通り動作することは無い。 悪いバグはデバックで潰すものです。 神「悪人に作ったんじゃなく、悪人ができることもある種になっちゃってた、テヘペロ」 神がいるならこうかな

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     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて 子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼ 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。ユダヤ民族内部で そのような神と人との関係がととのった。(だから そのことが 理論どおりに実現するとまでは言っていない。神が要らなくなると言っている)。  (γ‐4) そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神の名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  ご教授・ご批判を俟ちます。賛成票をもどうぞ。

  • 神はみづからを揚棄しちゃった:クリスチャン批判

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は   みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて 子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  けっきょくイエスによって  そしてそれがルカおよびパウロをつうじて  成就したと語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ▲ (ルカによる福音書 22:17-20) ~~~~~~~~  そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。  ・・・       「この杯は〔十字架じょうのはりつけにおいて〕     あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシヘ〔を人間のチカラのみによって守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼ 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシヘ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシヘは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシヘは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。ユダヤ民族内部で そのような神と人との関係がととのった。(だから そのことが 理論どおりに実現するとまでは言っていない。神が要らなくなると言っている)。  (γ‐4) そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神はそれぞれの名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  (δ) ならば 宗教という宗教 オシヘという〔それを守るべきという意味での〕オシヘ そしてその組織・教会・聖職者 これらはみな・すべて・いっさい 要らない。  なぜ存続しているのか? おしえて欲しい。

  • 神みづからによる自己の揚棄:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。すべての民族において そう成るということだ。  (ハタラキを及ぼすということは 何もしない・つまり人間にすべてをまかせるということでありうると考えられる)。  添削・ご批判を俟ちます。

  • 地獄へあえて落ちる方法はありますか?

    冗談な質問ではありません。 私と彼女、それぞれの家族は信頼のあると噂される前世 占いやチャネリングで聖書でいう天使の魂であると確認 しました。 聖書を読めば地球には堕天使の悪魔、類似猿が進化した 人間(魂は動物)、天使の3種類がいることがわかりますが 、この世の仕組みというか何のために地球があり、3者が 生まれるのかを聞いて、何度も永遠に生まれ変わる天使 であることが嫌になりました。 猿(人間)と悪魔は不純な魂なのでいわばドブ水で、天使 は同じ地球に生まれる清流の水で、ドブ水が権力を持ち、 清流がたとえば千利休のように豊富秀吉(有名な猿代表) に囲われて、無駄な時間を過ごし、怪我されて処刑された り、自殺したりの繰り返しだそうです。 ちゃんとした神父や霊能者に聞いたら、神はある意味で 天使にさえも残酷で、天界戦争でミカエル率いる天使が 悪魔のサタンらを殺したが、火星などに逃げたサタンらの 魂までも消すために、人間として悪魔や猿(人間)を生ま れさせ、天使を汚したり、時間とエネルギーの無駄をさせ てサタンとサルの魂を消すという、時間がかかり、天使に 負担がかかるシステムなのだそうです。 これテレビ朝日の江原さん、インチキの噂もありましたが 、この切磋琢磨でサルと悪魔を宇宙から消す説は信頼 のある神父や霊能者の多くと一致します。 なので私たちはもうそのシステムにつかれたので、悪魔 同様に地獄へ落ちても構わないので、神が望むクソ味噌 ミックスのアベノミクスから脱却したいと思っています。 自殺をすると地獄へ落ちるという説は本当でしょうか? たとえば、彼女と私がお互いを同時に刺して、天使同志 を殺せば地獄へ落ちられるでしょうか? いずれにしても今世が最後と思い、生きられるとこまで 生きますが、面倒な人間(サル)や悪魔との関わりは避 けて、神には逆らうつもりですが。 ちゃんとした霊能者や神父さんにお話を聞きたいと 思います。勘で答えるのはご遠慮ください。

  • 童話が好きなのに性格悪い なぜでしょう?

    小説の中で主人公が疑問に思っていたことです。この主人公の疑問と同じことを思っていたので質問します。 小説の中の話ですが、童話が好きな人がいて、どう見ても性格が悪いのです。 童話は悪人と善人がいるとして、読み手は善人の行動などから心洗われ、混み終わってすっきりする。ものですよね。 読み手は、善人の主人公になって読んでいると思うのです。 なのに現実の本人はなぜこんなに性格が悪いのか、なぜだ~と書かれていました。 小説に限らず、ドラマや映画を見ている人って、皆自分は主人公側に立ってみてますよね。なのに、日々の暮らしの中でそんなに性格が悪い人が多いのですか?