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高校入試の国語と英語の出題範囲
- 高校入試の数学で積分が出題されることは反則であり、出題範囲外です。
- 高校入試の英語や国語の出題には境界線がありますが、その区分は曖昧な場合もあります。
- 高校入試の国語や英語の出題については、出題範囲内か出題範囲外かについて議論があります。
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「補足」拝見致しました、なるほどね。 >貴殿はクイズ番組に参加したとします。入試問題を見て、これは大学入試なのか高校入試なのかを当てる2択クイズです。現代国語の問題をみて、貴殿は2択クイズに正解できますか? 私は、数学や理科なら百発百中だと思います。しかし、科目が現代国語だと、大学入試なのか高校入試なのか、私は迷うと思います。正答率も7割くらいだと思います。 貴殿は分かりますか?この文章なら大学入試、この文章なら高校入試、こんな感じに見分けられますか?見分けるコツはありますか? 実際に私も大学教育に携わる者の一人ですのでその立場でお答えさせていただきます。 「数学や理科の問題なら百発百中だと思います」このご見解に対して、質問者は「問題とそれに対する回答」それぞれの「言葉の意味」をもしかしたら誤解しているのではないかとの危惧を感じます。 理科や数学の答案は数式や条件を示しただけでは答案になりません。それがどの様な意味を持っているのかを行間から読みとらねばならない作業があります。実際に試験者はこの部分を重視します。 これは国語や社会科での「説明しなさい」との説明問題と同じ理屈です。鎌倉時代の永仁の徳政令は中学校でも高校でも教えます。けれどその説明に関して中学校では「武士や御家人の貧窮を救済する目的で」としてこの法令の意味を教えますが、高校ではそれが得宗専制体制下での武士階層の分離やら鎌倉幕府の崩壊に至る要因の一つでもあることなど「鎌倉時代とそれに続く室町・南北朝期への政治的移行過程への位置付け」など歴史全体の中での意味を教える事での歴史を如何に認識するかなどの問題に触れてもいきます。 国語の問題でも中学校・高校で共通して採り上げられる作品に丸山眞男の文章がありますが、同じ文章の中にこれは中学生向けの表現・これは高校生向けの表現などの明確な区分けはありません。全て丸山眞男の言葉であることに変わりはないことによります。ですから「二択」とすることはさほどの意味がないと申し上げさせていただいたにすぎません。 高校生でも作品の読み方に難点のある生徒もいれば、中学生でも読解力に長けた子供もいることは確かです。英語の「英作文」でも同様です。教える側のキャパシティと学童側に「指定枠(学習指導要領)」以上のものがあれば、別に中学二年でも原形不定詞の使い方を教えても構わない。どちらかといえばガイドラインにそっただけの授業の進め方ならば楽です。これだけやっていれば他には必要はないとして、悪く言えば手を抜くことができる。 けれど中学生や高校生の知的好奇心をさして意味のない枠の中に押しとどめることが学童の発達という意味に置いて意味のあることかと考えるなら、私はそうした行為に余り肯定的ではありません。 中学校の教育課程と高校の教育課程の相関関係を積み重ねと表現することは一般的ですが、その一般的な捉え方を子供達はあっさりと飛び越えることなど珍しいことでもありません。中学校では古典に接する機会もあります。その古典を理解するには漢文の基本的な読み方などにも触れます。それが大学生レベルになると返り点の打ち方一つもあやしい学生に出くわすことも珍しくはありません。 彼らは受験科目として必要ないからその領域に接する機会がなかっただけで、決してその能力が劣っていることとはいえないのです。こうした部分を見るにつけ、私は彼らに申し訳なさを感じることもしばしばあります。それは教育に携わる全ての者が自らの責務を放棄してしまっているとの解釈からです。 クイズでは「蓄積された情報量の多寡」を問うことはできても「理解できているかどうか」を判断する基準とはならない。 中学校の理科で習う「慣性」やら「遺伝」も、高校では寄り詳しく学ぶ。中学校で学ぶ三角関数はサイン・コサイン・タンジェントの三種類ですが、高校ではこれにコタンジェント・シーカント・コシーカントどが加わります。数学では確かにこうした部分で見分けを付けることもできますが、生物や物理では一見して見分けを着けることが可能かといえば疑問符も付きます。 数学の話をしましたが、これも一つの事象を中学校レベル・高校レベルのそれぞれ別の切り口で説明することも可能です。 ご質問分の最後にある「高校教育の成果を試すにはズレた出題になりますか?ごんぎつねでも、大学入試レベルまで設問を難しく出来るんじゃないかな? 」のご指摘には私も賛同致します。決して質問者様とは隔たりのあるように感じられませんが如何でしょうか?。
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- ennalyt
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中学入試の国語や理科を見ていると、 東大の問題と何ら変わらないのに驚かされます。 社会はむしろセンターでさえ出さない人名を書かせたりする。 中学の頃、新聞に載っていたセンターの問題ちょっとやってみたけど、 意外にできたので拍子抜けしたことがありました。 どんな教科、どんな学年であっても、 学問が向かっている先は「真理」です。 そのベクトルがずれていなければ、 入試で合格最低点を取ることはさして難題ではなくなります。 それに高校入試はメインストリームでないから、 そんなにやっきにならなくてもいいんじゃないかな。 最優秀層は中学入試と大学入試しか受けないから。
- TANUHACHI
- ベストアンサー率31% (791/2549)
日本では児童文学や絵本が不当に低く評価される傾向がいまだ根強くあります。それは「絵本や子供の読む本など程度が低い」とのいわれない根拠に基づくものであることに疑いの余地はありません。逆にカタカナや意味のない形容を延々と綴る「大人の男の読み物」が果たして本当に実のある作品として成立しているのかと問われればその多くに疑問符がつくことも事実です。ノウハウ本やコミュ力などといった何処から出てきたのか解らない(定義不明なもの)ものをこねくりまわすだけで「では貴方の考え方はどうなの?」と聴かれても納得の出来る答を得られないものなどはざらにあります。 児童文学や絵本が持つ最大の特徴は「誰にでも理解することのできる表現」を用いて書かれている点にあります。わざわざ難しい言葉や表現を使うということは逆に言えば、それを使っている人間がその言葉なり表現の意味する内容を的確に理解しているかどうかの裏返しであって、もし本当に理解出来ているならば簡潔そして簡単な言葉で同じ物語を物語ることができるはずになります。それができないから以て回ったような言い方や難解な言葉を羅列して読者を煙に巻くことになります。 そしてその上で話の作者は読み手に下駄を預ける形で、自らが放った言葉が次にどの様な言葉を紡ぎ出すかを恃む形になります。 例えば同じ新美南吉さんの作品に『二匹の蛙』という作品がありますが、この作品を読み進めていくと、そこからは井伏鱒二の『山椒魚』が想起されるなどの広がりをとらえることもできます。全て読み手に任された許容です。とはいえ新美南吉さんの作品を理解するには新美南吉さんの言葉を知らねばなりません。読み手が如何に好意的に読みとったとしてもそれが新美南吉さんの本意とたがうものであれば、それは新美南吉さんの言葉と響き合うことにはなりません。ですから作品を読むことは言葉を紡ぐ行為であり、言葉を恃む行為でもあると僕は勝手に考えています。 入試問題には文学作品がそのまま引用されることはめったにありません。それは先にお話しした文学が持つ広さがあり、読解力としての文脈を読み解く事などには適していないことによります。専ら採り上げられたのは小林秀雄や唐木順三、堀田善衛や丸谷才一といった文芸評論やら丸山眞男の文章です。これらは作品を成り立たせるために明確なロジックを依って立つべき視座とすることに他なりません。つまり言葉の内容、意味、定義が予め作者自身によって規定されていることにより、両者(文学作品と論理の文章)の間には言葉に対する距離の違いを感じさせます。 むろん、文学の言葉にもロジックはありますが論理の文章に比べれば遙かに緩やかです。論理があることで論理的でないものを際立たせることが初めて可能となり、論理的でない言葉が論理の逞しさを補完する形にもなります。 拙い話でしたがご参考になりましたか?。お返事を楽しみにしています。
補足
貴殿はクイズ番組に参加したとします。入試問題を見て、これは大学入試なのか高校入試なのかを当てる2択クイズです。現代国語の問題をみて、貴殿は2択クイズに正解できますか? 私は、数学や理科なら百発百中だと思います。しかし、科目が現代国語だと、大学入試なのか高校入試なのか、私は迷うと思います。正答率も7割くらいだと思います。 貴殿は分かりますか?この文章なら大学入試、この文章なら高校入試、こんな感じに見分けられますか?見分けるコツはありますか?
お礼
丸山眞男の作品は、高校入試でも大学入試でも両方出題されるのですね。 積分の出題は、高校入試だと反則で大学入試だとOK。一方、丸山眞男の作品は、高校入試でも大学入試でもOK。これが数学教育と国語教育の性格の違いですね。 さんきゅー