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中学の歴史 日中戦争ぐらいがよくわかりません

今、満州事変から日中戦争あたりの勉強をしています。 教科書には説明がないので、疑問点がでてきました。 日本は実質あんなに大きな満州国を手に入れ、 しかも、当時日本の景気は回復しているという状況で、 なぜ二二六事件がおこったり、日中戦争へと進んだのですか? また、犬養毅で、政党政治は終わったのに、二二六事件当時の総理も 命を狙われたというのはどうしてですか? 中学生にわかりやすく教えて頂けると助かります。

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回答No.1

満州事変は昭和6年から9年までです 日本はこの事変によって昭和8年に世界恐慌から脱しました ところが9年に戦争が終わり、7・8年に起きた大冷害で東北太平洋岸が大打撃を受けます 冷害は4・5年と続き、6年は大豊作(豊作貧乏状態)でした 7・8年は大冷害で壊滅的な被害を蒙ります これに昭和大津波が発生して岩手・宮城は泣きっ面に蜂な状態だったのです ですが、当時の議会は東北復興より朝鮮半島への助成を優先しました(議事録が残っています) 東北は立ち直れない状態だったのです 農村は4年の凶作と豊作貧乏が重なって崩壊しますが、政府は無策だったのです これに我慢しきれなくなった青年将校がクーデターを起こしたのが226事件です 日中戦争の発端は偶発事件ですが、世論は戦争特需を期待します。政府も戦争を止める勇気が持てませんでした。少なくとも戦争が続く限りは国債発行を行って公共事業を行う事ができるのです。 もしも今、クーデターが起きたとしても何もしない&増税ばかり考える野田政権に同情する人はほとんどいません あの当時と現在はほとんど変わらないと思うと解りやすいかもしれません

usagi567
質問者

お礼

当時の東北がそんな状況だったとは全く知りませんでした。 教科書では、年号、出来事、人物名をただ単に暗記させられるだけで、 疑問点ばかりでてきます・・。 当時の真の姿を知れば、理解も深まりました。 回答、ありがとうございました。

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  • mekuriya
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回答No.4

まず言っておきたいことは、教科書を書いているのは神でも仏でもなく無知蒙昧な現代日本人の一人に過ぎないってことです。無知蒙昧な現代日本人が自分の頭で理解できる範囲で、自分の頭で理解できるレベルの事を書き連ねているのに過ぎません。昔の人が日食を見て、神様が隠れたと解釈したのと同じことです。質問者さんは、そういう教科書に疑問を持つ分、大多数の無知蒙昧な子羊たちよりは少しはマシなだけ。でも他人に聞くだけではダメ。それは一生かけて自分で勉強しなければ足元にも近づけない世界です。それは教育基本法にも明記されています。それが生涯学習の理念です。さて、これからの私の回答は、私が自分の頭で理解できる範囲で、自分の頭で理解できるレベルの事を書くだけです。私だって神でも仏でもない。私も無知蒙昧な現代日本人の一人に過ぎませんから。 2点目。「日本は実質あんなに大きな満州国を手に入れ、」と、さも大手柄のように認識しているなら、それは間違いです。満州国の存在意義は、3つあります。共産主義・ソ連との間の緩衝地帯となった事。農民の一部にとって移住先となった事。官僚の一部にとって天下り先になった事。 日本近代史は、ロシア・ソ連の脅威に日本がどう対抗しようとしたかという歴史です。ロシア帝国の南下政策に対抗しようとしたのが日英同盟・日露戦争までの歴史。ロシア帝国は、伝統的にバルカン半島方面の南下政策が国策でオスマン帝国の領地と利権を侵食していましたが、南下しすぎて英仏の利権を犯して英仏を敵に回してしまう。それがクリミア戦争でのロシア帝国の敗因です。英仏を敵に回しては勝てないと悟ったロシア帝国は南下の矛先を極東に向けます。それが北京条約で清からロシアが外満洲を入手したことにつながる。現在、沿海州と呼ばれているウラジオストクを中心とした一体です。さらにロシアは樺太への侵略、内満州への進出も推進します。日本は明治8年樺太千島交換条約を結び、樺太をロシアに割譲せざるを得なかった。当時の日本にロシアと対抗する国力が無かったからです。それ以来、日本は文明開化・殖産興業・富国強兵を進めて国力充実を図った。その間にロシアは、清の弱体化につけこんで内満州へも進出していました。義和団事件に便乗して内満州を軍事占領します。ロシアは日清戦争に便乗して、三国干渉で清に返還させた遼東半島の大連・旅順を租借地として入手します。シベリア鉄道でモスクワから大連・旅順まで結ばれれば、日本は大変な窮地に陥る。なんとしてもロシアの南下政策を挫く必要があった。それが日露戦争の意味です。米英を味方につけた日本は辛勝しました。長い間、日本を脅かし続けたロシアがようやく極東を去って、再びバルカン半島方面に進出を図った。バンザイバンザイです。 ロシアは清から脅し取った南満州鉄道、旅順・大連の租借地を日本に割譲して、内満州から去っていった。今までロシアを追い払う為に、どれだけ血と汗を流して歯をくいしばって頑張ってきたか。八甲田山雪中行軍では多くの犠牲者も出した。一度は手放した南満州も奪回した。欧米列強の仲間と認められて、不平等条約の改訂にも成功した。外の問題は解決した。張り詰めていた緊張が解けると、次は国内問題です。外の次は内です。それが大正デモクラシーなのです。 満州国を入手したのではない。辛亥革命で清が倒れた後に清から租借していた旅順・大連、南満州鉄道の利権が不安定になりました。旅順・大連は誰から借りているのか。それを明確にしたのが、対華21ヶ条要求の目的だった訳です。袁世凱の北京政府(北洋軍閥政府)に対して、日本の利権を認めさせた訳です。 ところが蒋介石の北伐で北京政府も倒れてしまう。蒋介石は、北京政府は倒したが、北洋軍閥の分派の張作霖の軍閥が支配する満州へは深入りしなかった。中国を統一する為にはソ連の後押しを受けた中国共産党を打倒する必要があったからです。中国共産党は瑞金を本拠地にして中華ソビエト共和国を樹立します。北京政府が倒れると対華21ヶ条要求が無意味なことになった。じゃあ今度は旅順・大連は誰から借りていることになるのか。張軍閥か?南京国民政府か?中華ソビエト共和国か?在満日本人の安全を守ってくれるのは誰なの?それが満州国だった訳です。清の最後の皇帝だった溥儀を擁立して満州国建国にこぎつけた。満州人民にすれば国共内戦など知ったことではない。満州は満州で勝手にやらせてもらう。関東軍は、そういう満州人民に協力する意味は大いにあったわけです。関東軍は、南満州鉄道を防衛する為に設立された陸軍省の外郭団体みたいなものでしたが、ついに満州国からも満州国防衛の業務を受託するまでに業容拡大に成功したわけです。ただし、それは関東軍にとっては業容拡大ではあったが、大多数の日本国民にとっては何も関係がありません。官僚にとっては新しい天下り先ができてめでたしめでたしであったが、それで農村部の小作人の小作料が減額されるといった事にはなりません。小作人にとっては地主に納める小作料がどうなるかだけが全てでした。小作料以上の収穫が挙げられるかどうかだけが全てでした。 明治維新以来、文明開化・殖産興業・富国強兵と日本は江戸時代と一線を画す近代化路線を驀進したけど、それは都市部だけです。農村部は江戸時代と何も変わらない。逆に地租改正以来、地租が払えない農民は地主に土地を売って、小作人に転落する他なかった。江戸時代、農村は農村共同体として村全体で協力して年貢を収めていました。収穫が悪い農民の分は収穫が良い農民がカバーすることもできた。助け合い、教え合い、手伝いあって村全体で年貢を収めてきた。困ったことがあると庄屋さんが相談に乗ってくれたし、庄屋さんが代官に掛け合ってくれたりもした。交渉して年貢の減免や繰延もできた。年貢は米です。領主に対して毎年決まった量の米を収めてきた。ところが地租改正によって農村の様相が激変します。江戸時代と変わらないどころか逆に江戸時代より悪くなったのです。個人個人が納税の主体になったので、もう誰も助けてくれない。一人一人が自分が納める税金で精一杯なので、村の中の助け合い、教え合い、手伝い合いがなくなってしまった。庄屋さんに相談しようにも、もう庄屋さんがいない。農村部には文明開化・殖産興業・富国強兵も大正デモクラシーも何も関係がない。満州国?なんのこっちゃ?全然関係ない。教科書は地租改正の意義を「政府の税収が安定し、財政基盤が固まった」と書いているでしょうが、それは余りにも一面的な見方です。農村部の農民にとってはとてもそんなものではない。 年貢は物納でしたが地租は金納です。江戸時代は米の価格変動リスクは領主が負っていました。米がいくら値下がりしようが百姓には関係ない。一定量の米を年貢として納めるだけですから。しかし領主はそうではない。米が値下がりすると大ピンチです。米の量は一定で、米が値下がりすると藩の収入が半分になってしまうということになる。だから江戸時代はどの藩も新田開発に注力し、治水工事、利水工事、灌漑にも投資した。米だけでは危ういから多角化経営も図った。ところが地租改正で税金が金納に変わると、米の価格変動リスクは全面的に農民が負うことになった。米が値下がりすると、より多くの米を売る必要が発生してしまった。そうしないと納税資金が手当できないからです。農村共同体が崩壊し、一人一人の農民が経営者にならざるを得なくなってしまった。ところが農民には経済学も経営学も分かりません。米の収穫は毎年変動する。豊作の年もあれば、不作の年もある。商人だけがズル賢く立ち回って、収益を増やしたが頭の悪い農民は商人に騙されるばかりであった。借金が増える。娘を売るか、土地を売るかの究極の選択を迫られる。それが教科書が書かない農村の近代史です。 1930年代東北の農村を世界大恐慌、昭和東北大凶作、昭和三陸大津波の三重苦が直撃します。 Amazon.co.jp: 昭和東北大凶作―娘身売りと欠食児童 山下 文男 本 何が景気の回復か。そんなもの都市部だけだ。農村部には何も関係がない。 地租改正以来、農村では寄生地主制が進展しました。日本全国が同時に同じように豊作になったり不作になったりするのなら、それほど大きな問題とはならない。豊作になれば米価は低くなる。不作になれば米価は高くなる。ところが日本全体では豊作だが、一部の地域だけが不作になればどうなるか。日本全体では豊作だから、米価は安くなります。納税資金として、より多くの米を売る必要がある。ところが一部の地域では逆に不作なわけですから、その米が無い。だから借金してしまう。それが続くと返済期限が来ても、返済できない。ついに土地を売るハメに陥る。すなわち自営農から小作農への転落です。では誰が土地を買っていたか。高級官僚、戦争成金、商人、高利貸しといった人たちです。 小作人は税金を収めません。税金は土地の所有者である地主が収めます。納税者である地主だけが選挙権を持ち、納税しない小作人には選挙権は無かった。つまり政党政治とは地主による地主の為の地主の政治のことです。小作人の利害を代表する政党が存在しなかった。 だから東北の農民は、自分たちの救済を軍部に期待するようになった。藩閥政治、元老政治の時代が終わり、陸軍から長州閥が追われて、軍人にも東北出身者が多くなっていきました。満州事変を主導した石原莞爾、板垣征四郎の2人とも東北出身です。戊辰戦争で賊軍となり、明治維新後冷遇され続けた東北にすれば軍が唯一の立身出世のルートだった訳です。昭和東北大凶作に無為無策を貫く政治に対する東北人の憤激を知れ。文字数制限!

usagi567
質問者

お礼

詳しい回答ありがとうございました。 教科書には載っていない裏にはいろいろあったのだということがわかりました。 今の私にはちょっと難しい部分もありますので受験が終わったらじっくり勉強させていただきます。

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.3

 だいぶ歴史的事実の把握に齟齬があるようですので、「日中戦争」に至る経緯を国内の情勢と日本を取り囲む国際情勢の変化を中心として説明します。 先ずは「日中戦争」の定義から 【日中戦争の経過】 1937年7月7日の廬溝橋事件に端を発した日中間の戦争を指す。戦争は中国北部だけの北支事変から上海にも飛火し(第二次上海事変)する。日本軍は上海・南京・広東・武漢三鎮を占領し、宣戦布告をせず事変という名称のまま中国との全面戦争に発展する。国民政府は重慶に移り抗戦を続け、1945年日本の降伏まで戦争が続くこととなる。この間、戦火の拡大で名称も変化した。 【日中戦争に至る国際情勢の変化】 (1)「日露戦争後の課題」…ポーツマス講和条約で日本は、遼東半島の旅順・大連の租借権や長春‐旅順間の鉄道(南満州鉄道)などの利権を獲得した。一方アメリカは満鉄の日米共同経営を提案するなど中国大陸への進出を試み日本側と対立した。  こうした列強との緊張関係の中で、陸海軍は軍備増強を求め、大型戦艦の建造や中国での辛亥革命の勃発(1911年)が軍拡の主張に拍車をかける形となった。 (2)「第一次世界大戦と日本」…1914年7月、ドイツ・オーストリアとイギリス・フランス・ロシアというヨーロッパの大国を二分する形で世界大戦が勃発する。第一次世界大戦である。これに対する日本の対応は日英同盟を根拠とする形で8月にドイツに対する宣戦布告を行うと共に中国の山東半島に上陸し、ドイツの拠点であった青島・膠州湾を占領した。また赤道以北のドイツ領南洋諸島に艦隊を派遣し占領した。  日本の参戦目的は「東洋に対する日本の利権を確立する(元老・井上馨)」ことにあった。1915年、大隈重信内閣(外相・加藤高明)は中国に対し21ヶ条に及ぶ膨大な要求を突きつけた(対華二十一ヶ条要求)。  要求の内容は(A)山東省におけるドイツ権益の日本への引き渡し(B)南満州や東部内モンゴルの日本権益の拡大(C)漢冶萍公司の日中共同経営(D)中国沿岸の港湾・島嶼の他国への不割譲(E)日本人を政治・財政・軍事顧問への採用、警察を日中合同で運営すること、などからなっていた。これに対し米英の反対で(E)の要求は取り下げたものの、日本は中国に対し最後通牒を突きつけ、同年5月、中国に要求を飲ませた。中国民衆は、これに対し激しい抗議運動を起こしていく。 (3)「第一次大戦の戦後処理と日本」…1911年11月、ドイツの降伏という形で第一次世界大戦は幕を閉じる。アメリカ大統領ウィルソンが民族自決・国際連盟設立などの理念を掲げる中で、1919年1月からパリで戦後処理を巡る講和会議が開かれた(ヴェルサイユ講和会議)。  そして6月、講和条約が調印され、ドイツは本国の一部と植民地全てを失い、多額の賠償金を払うことになった。講和会議で日本は山東半島の旧ドイツの利権の引き継ぎを強硬に要求し、条約に盛り込むことに成功した。これに対し中国では学生を中心に講和条約調印反対、日本製品ボイコット運動(五・四運動)が拡大し、中国代表は講和条約調印を拒否するに至った。 (4)「ワシントン軍縮体制」…第一次大戦中、中国での日本の膨張は英米に警戒感を抱かせることとなり、また戦勝国間の軍拡競争(建艦競争)はそれぞれの政府でも大きな負担となっていた。こうした問題への対応として、1931年11月から翌年2月にかけてワシントンで開かれた国際会議がワシントン会議である。会議の結果、英米日の主力艦の保有量の制限、日英同盟の撤廃、「中国」での門戸開放・機会均等が取り決められ、中国における日本の突出した権益が牽制されると同時に、英米日の3ヶ国による東アジアの国際秩序が確認された。 以上は【日露戦争から第一次大戦そして日中戦争へと至る国際関係】です。長くなりましたので、【日本国内の政治および経済状況の変化】に関してはあらためて回答させていただきます。

usagi567
質問者

お礼

教科書よりも大変詳しく解説して頂いて、勉強になりました。ありがとうございました。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.2

19世紀と20世紀 日本史というのでなく世界史という目線で考えると、19世紀は政府は個別の国民の世話を焼かなかった。 20世紀は政府が国民ひとりひとりの世話を焼かないとならないんじゃないの?どう見ても差があるしぃ・・・で、どういう世話の焼き方をしましょうか?やりかたはよくわかりませんが・・・ というのが、19世紀の終わりから20世紀の前半の話です。 社会保険制度とか生まれたのが1880年代のドイツ ビスマルクの時代。 やんなきゃいけないのにやり方がわからない・・・ という時代は言い換えると 「現在の責任者は無能か、悪者だ」と断定しやすい時代です。 現代の政治が全員「政治改革」を唱えているのといっしょ。 全員が政治改革を唱えているのであれば、全員で政治改革をすればいいのに、政治改革の内容が全員違うので、政治改革という掛け声が政敵倒しと同じ結果になります。 あんなに大きな満州国を手に入れたのに・・・ 石原莞爾がうまくやったのなら、自分はもっと上手くできると思ったわけです 226事件で政党政治家でない総理も命を狙われた 天皇陛下のそばにいる奴が、悪いやつだから日本が上手く(殺害者の目から見たら)いっていない

usagi567
質問者

お礼

まだまだ日本という国が安定からはほど遠い混乱の時代だったのですね。 回答ありがとうございました。

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