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有神論者で宗教を信じていない人へ質問

一体何を持って毎日生きていこうと思えるのですか?私に生きるための動力を説いてください。 説得していただくのに役に立つかもしれない私についての情報 私は有神論者、決定論者、観念論者で、スピノザの神のようなものを信じていますがそれ以上のことは信じていません。 キリスト教福音派の教育を受けたので多少名残はありますが、聖書の細かな矛盾に触れていくうちに現在は現存の聖書に対しては疑いを持っています。 ただし、パスカルの思想から多大な影響を受けていて死後の重大性、彼の言う虚しさを抱えています。(もちろん人生は認識次第でどうにもなるということも理解していますが、死のように起こりうる重大な事実無視すべきではないと考えています) 感情的なものはトレーダーとしての若干の経験から非常に懐疑的に見ていて、それらは長期的な指針には成り得ないと思っています。 私はスピノザの神しか有神論で宗教に根ざさないものを知らないので、スピノザの神に近いものの信者以外の方はどういう概念の神を信じているか回答の端にでも記述してくださると助かります。 また、さほど哲学に詳しくないので難しい専門用語や、個人によって作られた言葉の使用は遠慮願いたいです。

みんなの回答

noname#259625
noname#259625
回答No.24

これは、A No.23 yangmaskへのお礼に対する返答です。 >すみません。文を読んでみても基準というのがどういうものかわかりませんでした。    すみません、文章が長くて分かりにくかったですね。要するに、本当にキリスト教的な見解であれば、裏付けとして必ず聖書を引用しているはずだということでした。多くのキリスト教と名乗る者の見解がすべて神とキリストを代弁しているというわけではないということです。 >マタイと使徒でユダの死に方が違うことやイエスの死に際のセリフの違いはどのように解釈してらっしゃいますか?    なるほど。例えば、同じ事件について、読売、毎日、朝日など、各新聞社によって文章が異なるのは当然のことですよね。それぞれの新聞社によって考え方が違うので、その取り上げ方とか評価というのも多少異なるものです。それでも、それらは同一の事件を扱っているわけです。これと同じように、マタイとルカ(使徒を書いた)やその他マルコ、ヨハネにしても、各人の人生背景が異なりますし、またその福音書を書く対象も異なります。    例えば、マタイはイスラエル人を対象にして書いたと思われ、マタイ1章のイエスの系図はアブラハムにまでしかさかのぼっていません。(イスラエル人にとってはそこまでで十分だったから。) 一方、ルカの方はイスラエル人ではない人向けの論調です。その証拠に、ルカ3章でイエスの系図を最初の人間アダム(人類の共通の先祖)にまでさかのぼっています。さらに、ルカはその冒頭の1:1-4で「テオフィロ様」という個人宛てに記したことを明らかにしています。    ところで、ユダ・イスカリオテの死に方についてですが、マタイは27:5で首をつって死んだと言っています。一方、使徒1:18では彼がまっさかさまに落ちて腸が注ぎだされたと言っています。ですから、ユダはがけの上に立つ木の枝にひもなどをかけて首をくくって死のうとした(あるいはそれによって死んだ)のですが、その後その木の枝が折れたか、あるいはひもが切れたかして、その死体はがけからまっさかさまに落ちたのです。ですから、マタイでは直接の死因(それが自殺であるということ)について述べており、使徒ではその悲惨な結末を強調しているのです。    文脈を見れば分かると思いますが、マタイはその前後でイエスが処刑される一連の出来事について記述しています。マタイにはそういうメインテーマがあったわけで、そこで逐一ユダの死に様の詳細を長々と述べるのを避け、あえて「首をつって死んだ」と最小限の一言に触れるだけにとどめたのでしょう。一方、使徒行伝では、十二使徒の欠員を埋める際に使徒ペテロが120名ほどの人々に話しているところですが、この話の中でユダがイエスを裏切ったゆえにどのように悲惨な最期を遂げたかを挙げたのは適切なことでした。    また、イエスの死に際のセリフについてですが、マタイ27:50では「しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた」、マルコ15:37では「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた」となっており、具体的に何を言ったのかは明らかにされていません。さらに、ルカ23:46では『イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた』となっており、ヨハネ19:30では『イエスは、このぶどう酒を受けると、「イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた』となっています。    問題はルカとヨハネの違いだと思いますが、矛盾はないと思います。ルカはイエスの死の目撃証人ではありませんでした。恐らく、彼の情報源はイエスの母マリアだったでしょう。その根拠にルカ2章などイエスの幼少期に関する詳細が記されており、これは母親マリアから聞いたものと思われます。一方、使徒ヨハネはイエスの死の目撃者の一人でした。それで、結局、ルカの情報源であるマリアと使徒ヨハネは同じイエスの最後の「大声」を聞いたに違いないのですが、それぞれで強く印象に残った部分が違ったのかもしれません。あるいは、書く筆者が文脈的にその言葉を抜粋することを選択したのかもしれません。それで、結局、マタイ、マルコ、ルカが言っているとおり、イエスは「大声で叫んだ」のでしょう。しかし、それが一言とはだれも言っておらず、総合的に考えると、「・・・成し遂げられた。・・・父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。(その他にもあったかもしれない)」と言ったのだと思います。    ですから、筆者による記述の違いは先に挙げた各新聞社の論調の違いと同じことで、むしろ、そこに違いがあるからこそ各々の存在意義があると言えるのではないでしょうか。もし、全く同じ記述なら重複して書いてもあまり意味はないでしょう。このように、一つの事実を多角的な観点(複数の福音書筆者の観点)から眺めることは、その事実を立体的に考察するのに大変役立ちます。この前、「電波の発生位置を特定するために複数の箇所から電波を測定する」というような話をしましたが、まさに、この例もそうで、複数の異なる情報が一つの事実をより詳しく理解するのに貢献するというわけです。    このように、一見矛盾と思える部分も意外とそうではないということは結構あるものです。神があえてそのように「矛盾」っぽく書いた目的については、先回読んでいただいたhttp://okwave.jp/qa/q7480217.htmlでも説明しました。今回の説明で疑問点があれば、また他の疑問があればまたどうぞ。

314h
質問者

お礼

質問と直接関わりない部分に対しても丁寧な回答をありがとうございます。 まず聖書が霊感(神を通して)されてないとすれば正しいと言っていいのは根本教義の部分だけになってしまいますよね? ですからあなたが聖書は完全であるということを信じている前提で話します。(もちろん誤字は避けられないでしょうから。意味が普遍だという意味の完全です。) >本当にキリスト教的な見解であれば、裏付けとして必ず聖書を引用している。多くのキリスト教と名乗る者の見解がすべて神とキリストを代弁しているというわけではないということです。 その基準は確かですかね? カトリックやプロテスタントの教義は相当違いますし、カトリックは煉獄の証明に聖書箇所を引用しますが、どれも苦しいものばかりです。 >使徒ではその悲惨な結末を強調しているのです。 真っ逆さまに落ちて死んだ。 という言葉は明らかに真っ逆さまというのが原因となる言葉の組立に思えます。首をつったも同様ですよね? キリスト教の死ぬ前の言葉についても同様で、・・・と言うようなことを言って息を引き取られた。 というようなふうでないと厳密に見えないように思えます。 と言った。というのは厳密に起こったことを限定する表現です。そういったことに完全で、無限である神様が気づかなかったとでも言うのですか? 確かに新聞社では論調は違います。ですがもしその新聞記事をまとめている人が完全なものから情報を得ていて、それに一切を委ねているとしたらそういった表現の仕方は避けるように思えます。 http://www.j-world.com/usr/sakura/bible/errors.html 私はこのサイトでこういったことを知りました。元々聖書には比較的肯定的であったため、表現方法によっては回避できることは確かにこのサイトにも多くあるように思えました。 しかしユダの死に方などは明らかに厳密性を欠く書き方です。人間の齢でさえ変えることのできる神様がそんなミスを犯すことは出来ません。 そして理解させるために矛盾することや他の箇所が危うくなることが欠くようにも思えません。 もしあなたがこれを比喩であって人間の目を通して書かれており、、、などというのであればそれは聖書をどこまで信じていいのかわからなくなります。 ノアの洪水を例え話として捉えることも可能になるでしょうし。

noname#259625
noname#259625
回答No.23

A No.22のyangmaskです。お礼ありがとうございました。「生きるための動力」を探すにあたって特にキリスト教と絞り込んでおられるようですので、以下の情報は役立つかと思います。ご参照ください。 >上に述べたように歴史上の真に祈りを捧げた人を見ても、真理には到達しなさそうです。キリスト教上の偉人の思想の違いを見れば一発ですが。    http://okwave.jp/qa/q7480217.htmlで私yangmaskがNo.1で回答している内容を参照していただきたく思います。確かに、求めるすべての人が真理に到達できていないのは明白です。真理に到達するための最低条件というものがやはりあるということです。例えば、「大金持ちにしてください」とか「世界を征服させてください」とか利己的な願望を満たしてほしいと神に祈っても多分聞かれないでしょう。では、逆にどのような祈りなら聞かれるのかということになります。実際、祈りは聞かれたと言う人たちも大勢いるわけで、私もまたそういう人の一人ですので。その「条件」についてどう考えますか。 >キリスト教信者の中でも、飛び抜けて賢いだとかすごいだとか言われている人の間で考え方が矛盾しているのを見れば信じるということがいかに当てにならないか。。。と思ってしまうのです。    http://okwave.jp/qa/q7478418.htmlで私がNo.6で回答している後半の内容をご参照いただきたいと思います。イエスご自身がキリスト教と名乗るものすべて神とキリストを正しく代弁していないということを明言されました。その部分では、どれがにせものでどれが本物なのかを区別する「基準」について説明してあります。その「基準」についてどう思いますか。    314hさんが納得できる「生きるための動力」が早く見つかることを祈っています。

314h
質問者

お礼

再度ご回答ありがとうございました。 >真理に到達するための最低条件というものがやはりあるということです。 私はパスカルのような賢く、敬虔なクリスチャンですら煉獄を信じていたことをとっても、真理には到達できないと考えています。 ただ真理ではなく人間の最高の幸福は精神にのみあり、肉体によるものではないということは共通して到達するところではあると思います。 >その「基準」についてどう思いますか。 すみません。文を読んでみても基準というのがどういうものかわかりませんでした。 質問とは完全にずれますがそれをわかった上で聞きます。マタイと使徒でユダの死に方が違うことやイエスの死に際のセリフの違いはどのように解釈してらっしゃいますか?

noname#259625
noname#259625
回答No.22

A No.19のyanagmaskです。お礼ありがとうございました。以下はそれに対する私の意見です。 >100%とはあらゆる100%を否定する可能性を退けなくてはなりませんが、100%を否定するにはたったひとつの否定で良いのです。    ・・・とのご指摘でした。しかし、退けるべき「あらゆる100%の否定する可能性」つまり、その反論の数は特定されてはいないのですよね? では、もしその反論の数が「0」だとしたら? つまり、それは全く反論の余地のない100%の証明もあり得るということを逆に示唆しているように思えたのですが。    先回指摘した「『100%の証明はできない』ということを100%証明する」ということが矛盾しているのと合わせても、「100%の証明はできない」ということはない、つまり、「仕方によっては100%の証明も可能」というふうに考えることもできると思いました。もちろん、「仕方(方法)によっては」という条件付きでですが。「>一応可能であるということで言わせて頂きます」というご意見だったのですが、ちょっと面白そうだったので意見を述べてみました♪ >門をたたく者には開かれる。-開かないときは全くといっていいほどない。- っていう聖句だったらどうします?(笑)この100%の否定は聖句をこのような意味合いに変えてしまう事ができるのですよ。    これはどういう意味なのかまだ未消化なので、もう少し解説をお願いしたいです。 >ただダメ元で(いるとすれば)無限で完全な神に啓示をくださいと祈るのもいいかもしれないですね。。。行ったことがないので不安ですが他の方々のススメもあるので近々やってみたいと思います。    是非! 私はかつて20年ほど前にうつ病で悩んでいた時期があり、図書館や各宗教を回って「答え」模索していました。今はキリスト教に落ち着いていますが、お陰でうつからも奪還できましたし、いろんな意味で人生が開けてきました。「答え」を得るために真剣に祈る人に神は導きをもって答えてくださると私は信じます。「答え」は棚ぼた式ではなく、やはり自分自身で体得すべきもの。しかし、その「答え」にたどり着くように314hさんを神が導いてくださいますように。

314h
質問者

お礼

100%の証明は100%出来ないと私が言ったかもしれませんが、これは多分語弊があります。すいません。 別の選択肢を証明すれば証明ができないというには十分だという意味です。 >全く反論の余地のない100%の証明もあり得るということを逆に示唆しているように思えたのですが。 真理は言うまでもなく100%ですがキリスト教において100%の証明は不可能です。 人間というのは真理を見る生き物ではなく周りにある環境や自分の精神を下に判断していますよね?数学のように誰がやっても同じ認識を導き出せるわけじゃありません。そういった場合人間には真実がどうであろうと真と偽の2つの選択肢が横たわります。ですから人間において信じると言うのは信用出来ないと私は考えているわけです。 仮にキリスト教を信じることができたとしてもキリスト教信者の中でも、飛び抜けて賢いだとかすごいだとか言われている人の間で考え方が矛盾しているのを見れば信じるということがいかに当てにならないか。。。と思ってしまうのです。 門をたたく者には開かれる。-開かないときは全くといっていいほどない。- これは感情に訴えかけるような言い方でした。無視してもらって結構です。 >真剣に祈る人に神は導きをもって答えてくださる 上に述べたように歴史上の真に祈りを捧げた人を見ても、真理には到達しなさそうです。キリスト教上の偉人の思想の違いを見れば一発ですが。 こちらこそ何度にもわたる返答ありがとうございます。

  • sheep67
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回答No.21

こんばんは。 >現在の私は到着点はひとつしかないと考えているので、多分合わない気がしますね。 到達点はもちろん一つなんですが、そこへ至る道は人の数だけあります。 人間には個性があるので、皆が同じ方法ルートを取るとは限らないんです。 多分到達点がひとつなのと、ルートがひとつなのを勘違いされてると思いました。

314h
質問者

お礼

いえ、あなたのいうような到達点に達した人を比べると、彼らの考えには矛盾した点がいくつもありました。 そういう観点において私は到達点に達した人は、その人達同士で矛盾を抱えないと今のところ考えているので、到達点がひとつしかないと考えました。 ご回答ありがとうございました。

  • sheep67
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回答No.20

参考図書ですが スピノザの神という間違ってはいないけど無味乾燥な神からどう発展するのかという時に 参考になるかどうかわからないけれど 例えばマイスター・エックハルトとか、バーナディットロバーツとか、奇跡のコースとか、ラメッシバルセカールさんらの 著書がうまく噛み合うかもと思ったのであげてみます。 前3つはキリスト教神秘主義、最後の人はインド哲学です。どれも抽象的で内面的です。 それぞれ方向性は違いますが、一つくらい気に入るかもしれないしーと思ったので。

314h
質問者

お礼

現在矛盾を自覚する地点に達したばかりですので、前3つの神秘主義は合いません。そして最後のインド哲学は、結局意味を持たせることは出来ないように感じました。 それにしてもあなたに合う思想をどうですか?とはまた不思議な神の概念を信じているのですね。現在の私は到着点はひとつしかないと考えているので、多分合わない気がしますね。 ご丁寧に紹介及びご回答ありがとうございました。

noname#259625
noname#259625
回答No.19

A No.17のyangmaskです。    お礼を読みました。とても面白い考え方だと思いました。いやー、私はそういう考え方をしたことがなかったもので・・・。でも、興味深いので一応お礼に対して私の意見を述べてみたいと思います。    まず、「100%の証明はできない」という主旨のご指摘でしたが、「100%の証明はできない」と100%証明できるのでしょうか。もし、「できる」と言えば最初にご指摘された「できない」とは矛盾しますし、「できない」と言うならやはり最初のご指摘は間違っているということになります。・・・と私なりに考えたのですが、どうでしょうか?    私は100%の証明も仕方によっては可能であると考えます。例えば、電波が発射されているある地点を特定するのに、他の一点から電波を測定するだけではその方角しか分からず、距離までは特定できませんが、二点以上の地点から測定すればその2点からの延長線が交わる部分が判明し、その発射地点を特定することができます。このように、(例えば)幾つかの要素を積み重ねていくことにより、ほぼ確実な(100%、それ以外にはあり得ない)という結論を引き出すことは十分可能であると思います。(私には今こういう例しか思い浮かばなかったのですが、何か他の似たような、つまり「ある事柄を複数の要素から(100%)特定する」という例があったらご自分の頭の中で置き換えてください。)    それで、重要な問題は神というものが存在するのかしないのかということだと思います。答えは単純に言うと「存在する」か「存在しない」のどちらかで、「そのどちらでもない」ということはまず100%あり得ないのではないでしょうか。その一方が「偽」であれば、他方が「真」であることが明白になります。消去法ですね。    まあ、その真偽については先回も述べたのでここでは割愛しますが、もし存在するというのであれば、No.17で示した後半の私の見解、つまり「神に祈って人生の目的を尋ね求める」という考えも有効ということになりますよね。それを(確率だけを根拠に)100%否定することはできないでしょう(?)。では、もしそのような可能性が少しでもあるのであれば、またお気持ちが許すのであれば、「生きるための動力」をお求めとのことですので、そのような方法を試してみる価値はあると思いますよ。

314h
質問者

お礼

>と私なりに考えたのですが、どうでしょうか? 確かにそうだと考えてしまいそうでしたがこういうことを思い出しました。 両者にはそれを成立させるために必要な要素の決定的な違いがあります。 100%とはあらゆる100%を否定する可能性を退けなくてはなりませんが、100%を否定するにはたったひとつの否定で良いのです。 >幾つかの要素を積み重ねていくことにより、ほぼ確実な(100%、それ以外にはあり得ない)という結論を引き出すことは十分可能であると思います。 この考え方は屁理屈に聞こえるかもしれませんが、一応可能であるということで言わせて頂きます。 電波というものが正しく動いているという前提のようですがそれも帰納法とそれに基づく理論によって証明されたものですよね?、、、確率はとんでもなく低いですがね(笑) 究極的に突き詰めると五感から感情や理性まで疑わしくなります。 しかしこれは実生活には悪影響を及ぼしません。そんなことはありえないと言うでしょうし、それを考えて生きることは現実的でなく馬鹿らしいことだからです。 しかし神の掲示によって信仰を100%得られるというようなことを言っているキリスト教のような宗教には有効なのです。 門をたたく者には開かれる。-開かないときは全くといっていいほどない。- っていう聖句だったらどうします?(笑)この100%の否定は聖句をこのような意味合いに変えてしまう事ができるのですよ。 ただダメ元で(いるとすれば)無限で完全な神に啓示をくださいと祈るのもいいかもしれないですね。。。行ったことがないので不安ですが他の方々のススメもあるので近々やってみたいと思います。 以下はキリスト教批判といっても完全じゃないことに関する弁明です。 ・・・キリスト教を完全に批判しているように思われるかもしれませんが、まだ完全に否定したわけではありません。ただこれらを除いてもユダの死に方の矛盾や人間の信じるということの容易さ(例えば百万人にランダムなくじを1万回引かせて全員で平均して99%あたりをに引き続けた時、次に全員ハズレの可能性があると誰かが言えば、それが重要な事柄であるほど馬鹿にされる可能性は高い)から疑っている部分が大きいです。 ただ、教えの根本という点ではキリスト教以上に明瞭な宗教はないと考えており、何かしらの宗教が正しいとすればプロテスタントしかないでしょうし、仮に他が正しくても、キリスト教の信仰というものは徹底する限り殆どの宗教における救いを含有してしまいますからね。 ご回答ありがとうございました。

  • sheep67
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回答No.18

まだ閉じておられないので、気になったところとかをちょっと・・ >理性によって神の性質はある程度までなら把握できるかもしれないと考えている私と全く反対の立場みたいですね。 いえ、だいたい同じ立場です。 理性というか、僕の場合、論理、ですが。 結論は、最初の8の投稿の頭に書いたようなもので、でもそれは僕の性格が反映された答えであり、他の人が納得するとは限らないんですが。 理性は使い切らないといけないですし、あましてたら自分で自分に納得行かない気もします。 恐怖のために理性を使いきれてないことはないでしょうか? つまり理性と感情の混同によって、理性も使い切れない、感情感性も使い切れない、両方中途半端になる、ということが僕の場合今もよくあるんですが・・ 感情を振り切るくらい理性を使い切ることがすごい勇気がいったりするので。 神の定義については、どんな言葉も表現できないんですが、 それでも無難な言い方をするなら、 僕にとっては完全性、規定値、デフォルト という言葉あたりは、多分無難だと思います。 でも概念で表したものは実質神ではないので、これはただの象徴です。 僕は小さい時から神様大好き、という気持ちがあったので、それがデフォであるのは確かです。自覚なきデフォルトです。 これらの言葉はいずれも直接神を指すものではないですが、僕にとって神にまつわる? 神の方を指差す、関連性のある概念ということで。 僕にとって デフォルトとは、時間的な性質を持つ概念です。 完全性とは、  空間的な性質を持つ概念です。 デフォである大好きも、完全性も、いずれもある種のパーフェクトさの体験なので。

314h
質問者

お礼

>恐怖のために理性を使いきれてないことはないでしょうか? これは今のところ逃れることができない問題ですね。キリスト教を根本から否定してくれる人が現れればほとんど解決しましょうが、、、 また私は理性を使い切ることはできず、結局感情や知覚が入ると考えていますね。人間ですし、数学みたいな分野についてじゃないですからやはり感情や近くによる飛躍がないと難しいと判断しています。 もちろん感情や知覚の影響を小さくしていくことは可能だと感じていますが。 残しといたらなんかツッコミ来るかなーなんて期待しながらおいておきました。 それにまだ応答をしてない回答者もいたし、気が乗らないと書けない性分なので。 ご回答ありがとうございました。

noname#259625
noname#259625
回答No.17

   参考までに、http://okwave.jp/qa/q7422217.html での質問で私yangmaskがNo.18とNo.19で回答している内容をご覧いただければと思います。その内容から、目に見えない神が存在することを証明することは可能だと私は考えています。    ここで私が言う「神」とはすべてのものを造った造物主、創造者のことです。(どちらかと言えばキリスト教的な神ということです。) 創造者なる神は万物を造ったゆえに当然人間をも造ったということになります。そして、神は明確な目的をもって人間を造りました。単なる思い付きで造ったのではありません。それで、「なぜ私は生まれてきたのか」、「私は何のために生きるのか」という人生の目的に関する答えを創造者なる神は知っているということになります。    人間は神から命と命を維持するもの(食物など)を与えられていますが、その他に神は「導き」をも与えておられます。つまり、どのように生きればよいか、何をすべきかを神は各人に教えておられるということです。しかし、その導きは神を真に求める人にのみ与えられます。創造者なる神は全知全能の神でもあり、宇宙のすべてを統御しておられるので、人間一人一人の心の中でさえもすべてご存知な方です。ですから、314hさんが「生きるための動力」を求めて神に祈るなら、その方はそれに思いを留めてそれにお答えになるかもしれません。神は心の正直な人にとって決して遠い存在ではないのです。

314h
質問者

お礼

私は神の存在する確率は高いであろうことは推測できても証明は絶対に不可能であることを証明します。 >人間は目に見えないものを識別する能力を持っている まずこれは帰納法に基づく(確実ではない)演繹であることを理解してもらえますね? 古代遺跡を見て、「それは偶然に発生した」などと言わない ええ、人間の社会は帰納法に基づいていますから。とんでもなく高い確率でそうであろうことが証明されればそれで「した」と人間はいうのです。 そしてここであなたの証明の欠陥が見えてきます。 神は確実で誤りが無い、つまり100%なのに対し、人間はいくら上手くやっても帰納法の積み上げでしかないということです。 そして100%に限りなく近づいていくものと100%には無限の隔たりがあります。それは埋めることができないのはわかると思います。 まずあなたの証明の基礎となる部分では唯物論を否定することは出来ませんね? その仮定において宇宙(もしくはあらゆる物の根源)の始まりがもともとあった。つまり無限年前のことだとすると偶然にしろこの今の地球ができる可能性がとんでもなく小さくてもあるとすれば、それは確実に起こることなのです。だってどれだけあたる確率が小さいくじがあったとしても無限回の試行の前には確実と変わらないですよね? それでも私はどちらかと言えば神を信じたい側のスタンスですが、こういった証明は否定できるということを示したかったのです。 ところでこの神の存在証明は不可であるという結論のために、最後に書いてある意見も間違った前提のもとに言われているということになります。 ご回答ありがとうございました。

noname#221368
noname#221368
回答No.16

 #10です。そんなに怒らないで下さいね。自分の言ってる事は、あくまで参考意見です。 >神が定まっていなくても関係性が持てるのですか?  自分は17の頃、生きる意味がなくたって生きていけると思いました。そのままこの歳まで来てしまったので、今さら後戻りはできないだけです。どこかで書きましたが、   (1)キリスト教(ユダヤ教)は、生きる意味を絶対的に付与する(この終端にニーチェがいます。だから、考えなければならない)。   (2)仏教は、生きる意味を積極的に却下する(考えるな・・・)。   (3)神道は、意味がなくたって生きていける事を、積極的に肯定する(考えても考えなくても良い)。 と思っています。どうやら自分は、(3)のようなのです。(1)と(2)の違いは、生きる意味がなければ生きていけないのか/そうでないのか?、の究極の選択にある気がしますが、(3)はどっちでも良い事になります。そのようなところには、人格進も理神の神も、発生しませんよ。自然神だって怪しい。   ・神道は体系化して、先の究極の選択に対する応えを用意していないので、とうぜん世界宗教にはなれません。   ・同祖神の集まりと言う方が、正しいと思います。 >ただ無限で完全な存在がいると漠然と思っているだけなのに、それに対して向きあってみろと言われてもいまいちどういうことを指しているのかわからない・・・  満開の梅の花を見て、そこから動力を得た時、自分は梅の神様を見た訳でもないし、自然神を信仰した訳でもありません。あるのは、そこから動力を得られたという事だけです。ただ、動力を得られたという事実だけはわかると思うんです。  宇宙を論理的に説明し尽くす過程は、デカルトやスピノザにとって、あるいはそれは、満開の梅の花を自分が観たような瞬間ではなかったのだろうか?、と思う訳です。怒らないで下さいね(^^;)。  本気でそう思うんですよ。彼らにとって、ただ無限で完全な存在は、同祖神のようなものではなかったのか?と。漠然と思っているだけでも、そのようになると思います。だから何故、そう思うのかです?。自分の理由は、はっきりしています。  17の頃、生きる意味がなくたって生きていけると確信したからです。自分に神はいませんが、あなたはあなたの神に向き合えば、良いと思います。  ちなみに死後の世界でも自分の意識があったら、意外な驚きという事になります。俺はなんて幸運なんだって思うでしょう。まぁ、死に際に達してみないと、わからないですけどね。

314h
質問者

お礼

回答が個人的な意見であろうが参考意見であろうが、それに対して何かしらの思いを持てば、思い切り意見をぶつけます。中途半端にするよりましでしょう?ですから反駁は喜んで受けますし、逆に反駁もやりたいと考えています。怒っていると感じたのであれば、それも多少はあるかもしれませんが、私の感情の全体的な高ぶりによるものでして、決して怒っていることが中心にあるわけではないです。 つまりあなたは私が歯車という作用などは見当違いで、すべて感性や感覚による一時的動力の連続性によって説明でき、還元することができると言いたいわけですか。 しかしそれに対して私は歴史上の人物を見て疑問に思ってしまう点があります。 例えばソクラテスは極限状態で肉体が失われる状況にあっても正しさを取りました。パスカルもとんでもなく重い病気の中で自分を律し様々な分野で活躍をし、根本において一貫性を持っていました。 こういったことはそういった私の言う歯車を持たない人に可能ですか。 つまり私が言いたいのは人生に意味を持たない人というのは本当の意味で一貫性を持ち得ないんじゃないか?ということなんです。 それに、、、これは確率的な話でパスカルの賭けを参考にしますが、死後の世界がある可能性があると思う限りはそちらを探求した方が有利だと思うんですよ。あなたの言うように意味があろうがなかろうがこの世界で意味がなくても生きていける方法を意味がある方を探求せずに探求するのもいいと思いますが、それは確率的に不利ですからね。私は意味がある方を探求したいと考えます。 ご回答ありがとうございました。

  • sheep67
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回答No.15

補足になります。 NO8の回答での3番における混同の意味ですが、 質問者さんが、神をある一面では観念空想だと思い、もう一面では現実と思おうとしている、 という事実があり、2種類を混同しています。 空想とリアリティーをミックスすることで、自己暗示的な、バーチャルリアリティーが出来上がります。 この2つを明確に切り離せば、とてもクリアになります。

314h
質問者

お礼

ちょっと自信はないですが、、、 私のある一定のドグマは心情や感覚によって定めることができないという部分とその他の神が存在しないはずはないという前提で話を進めている点ですか? 実は私も書いてしばらくしたあと気になってはいたし、そのころから迷い始めたんですよね。人間の感情を疑い、理性の最終的な根拠は感情や感覚にあると言えば、議論が成り立たなくなりますよね。そしてなぜこうするかといえば、結局現実に即しているのは前者だからなんですね。 つまり私がこの質問をする時点でそれが適切じゃないと。なぜならすべての動機は死後の安心を得て、かつ現在のことにも動力を得ようとしてやっているからということになってしまいますね。 また自己完結的な終わり方ですが良い指摘をありがとうございます。また出なおしてきます。

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