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有神論者で宗教を信じていない人へ質問

一体何を持って毎日生きていこうと思えるのですか?私に生きるための動力を説いてください。 説得していただくのに役に立つかもしれない私についての情報 私は有神論者、決定論者、観念論者で、スピノザの神のようなものを信じていますがそれ以上のことは信じていません。 キリスト教福音派の教育を受けたので多少名残はありますが、聖書の細かな矛盾に触れていくうちに現在は現存の聖書に対しては疑いを持っています。 ただし、パスカルの思想から多大な影響を受けていて死後の重大性、彼の言う虚しさを抱えています。(もちろん人生は認識次第でどうにもなるということも理解していますが、死のように起こりうる重大な事実無視すべきではないと考えています) 感情的なものはトレーダーとしての若干の経験から非常に懐疑的に見ていて、それらは長期的な指針には成り得ないと思っています。 私はスピノザの神しか有神論で宗教に根ざさないものを知らないので、スピノザの神に近いものの信者以外の方はどういう概念の神を信じているか回答の端にでも記述してくださると助かります。 また、さほど哲学に詳しくないので難しい専門用語や、個人によって作られた言葉の使用は遠慮願いたいです。

みんなの回答

noname#259625
noname#259625
回答No.24

これは、A No.23 yangmaskへのお礼に対する返答です。 >すみません。文を読んでみても基準というのがどういうものかわかりませんでした。    すみません、文章が長くて分かりにくかったですね。要するに、本当にキリスト教的な見解であれば、裏付けとして必ず聖書を引用しているはずだということでした。多くのキリスト教と名乗る者の見解がすべて神とキリストを代弁しているというわけではないということです。 >マタイと使徒でユダの死に方が違うことやイエスの死に際のセリフの違いはどのように解釈してらっしゃいますか?    なるほど。例えば、同じ事件について、読売、毎日、朝日など、各新聞社によって文章が異なるのは当然のことですよね。それぞれの新聞社によって考え方が違うので、その取り上げ方とか評価というのも多少異なるものです。それでも、それらは同一の事件を扱っているわけです。これと同じように、マタイとルカ(使徒を書いた)やその他マルコ、ヨハネにしても、各人の人生背景が異なりますし、またその福音書を書く対象も異なります。    例えば、マタイはイスラエル人を対象にして書いたと思われ、マタイ1章のイエスの系図はアブラハムにまでしかさかのぼっていません。(イスラエル人にとってはそこまでで十分だったから。) 一方、ルカの方はイスラエル人ではない人向けの論調です。その証拠に、ルカ3章でイエスの系図を最初の人間アダム(人類の共通の先祖)にまでさかのぼっています。さらに、ルカはその冒頭の1:1-4で「テオフィロ様」という個人宛てに記したことを明らかにしています。    ところで、ユダ・イスカリオテの死に方についてですが、マタイは27:5で首をつって死んだと言っています。一方、使徒1:18では彼がまっさかさまに落ちて腸が注ぎだされたと言っています。ですから、ユダはがけの上に立つ木の枝にひもなどをかけて首をくくって死のうとした(あるいはそれによって死んだ)のですが、その後その木の枝が折れたか、あるいはひもが切れたかして、その死体はがけからまっさかさまに落ちたのです。ですから、マタイでは直接の死因(それが自殺であるということ)について述べており、使徒ではその悲惨な結末を強調しているのです。    文脈を見れば分かると思いますが、マタイはその前後でイエスが処刑される一連の出来事について記述しています。マタイにはそういうメインテーマがあったわけで、そこで逐一ユダの死に様の詳細を長々と述べるのを避け、あえて「首をつって死んだ」と最小限の一言に触れるだけにとどめたのでしょう。一方、使徒行伝では、十二使徒の欠員を埋める際に使徒ペテロが120名ほどの人々に話しているところですが、この話の中でユダがイエスを裏切ったゆえにどのように悲惨な最期を遂げたかを挙げたのは適切なことでした。    また、イエスの死に際のセリフについてですが、マタイ27:50では「しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた」、マルコ15:37では「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた」となっており、具体的に何を言ったのかは明らかにされていません。さらに、ルカ23:46では『イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた』となっており、ヨハネ19:30では『イエスは、このぶどう酒を受けると、「イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた』となっています。    問題はルカとヨハネの違いだと思いますが、矛盾はないと思います。ルカはイエスの死の目撃証人ではありませんでした。恐らく、彼の情報源はイエスの母マリアだったでしょう。その根拠にルカ2章などイエスの幼少期に関する詳細が記されており、これは母親マリアから聞いたものと思われます。一方、使徒ヨハネはイエスの死の目撃者の一人でした。それで、結局、ルカの情報源であるマリアと使徒ヨハネは同じイエスの最後の「大声」を聞いたに違いないのですが、それぞれで強く印象に残った部分が違ったのかもしれません。あるいは、書く筆者が文脈的にその言葉を抜粋することを選択したのかもしれません。それで、結局、マタイ、マルコ、ルカが言っているとおり、イエスは「大声で叫んだ」のでしょう。しかし、それが一言とはだれも言っておらず、総合的に考えると、「・・・成し遂げられた。・・・父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。(その他にもあったかもしれない)」と言ったのだと思います。    ですから、筆者による記述の違いは先に挙げた各新聞社の論調の違いと同じことで、むしろ、そこに違いがあるからこそ各々の存在意義があると言えるのではないでしょうか。もし、全く同じ記述なら重複して書いてもあまり意味はないでしょう。このように、一つの事実を多角的な観点(複数の福音書筆者の観点)から眺めることは、その事実を立体的に考察するのに大変役立ちます。この前、「電波の発生位置を特定するために複数の箇所から電波を測定する」というような話をしましたが、まさに、この例もそうで、複数の異なる情報が一つの事実をより詳しく理解するのに貢献するというわけです。    このように、一見矛盾と思える部分も意外とそうではないということは結構あるものです。神があえてそのように「矛盾」っぽく書いた目的については、先回読んでいただいたhttp://okwave.jp/qa/q7480217.htmlでも説明しました。今回の説明で疑問点があれば、また他の疑問があればまたどうぞ。

314h
質問者

お礼

質問と直接関わりない部分に対しても丁寧な回答をありがとうございます。 まず聖書が霊感(神を通して)されてないとすれば正しいと言っていいのは根本教義の部分だけになってしまいますよね? ですからあなたが聖書は完全であるということを信じている前提で話します。(もちろん誤字は避けられないでしょうから。意味が普遍だという意味の完全です。) >本当にキリスト教的な見解であれば、裏付けとして必ず聖書を引用している。多くのキリスト教と名乗る者の見解がすべて神とキリストを代弁しているというわけではないということです。 その基準は確かですかね? カトリックやプロテスタントの教義は相当違いますし、カトリックは煉獄の証明に聖書箇所を引用しますが、どれも苦しいものばかりです。 >使徒ではその悲惨な結末を強調しているのです。 真っ逆さまに落ちて死んだ。 という言葉は明らかに真っ逆さまというのが原因となる言葉の組立に思えます。首をつったも同様ですよね? キリスト教の死ぬ前の言葉についても同様で、・・・と言うようなことを言って息を引き取られた。 というようなふうでないと厳密に見えないように思えます。 と言った。というのは厳密に起こったことを限定する表現です。そういったことに完全で、無限である神様が気づかなかったとでも言うのですか? 確かに新聞社では論調は違います。ですがもしその新聞記事をまとめている人が完全なものから情報を得ていて、それに一切を委ねているとしたらそういった表現の仕方は避けるように思えます。 http://www.j-world.com/usr/sakura/bible/errors.html 私はこのサイトでこういったことを知りました。元々聖書には比較的肯定的であったため、表現方法によっては回避できることは確かにこのサイトにも多くあるように思えました。 しかしユダの死に方などは明らかに厳密性を欠く書き方です。人間の齢でさえ変えることのできる神様がそんなミスを犯すことは出来ません。 そして理解させるために矛盾することや他の箇所が危うくなることが欠くようにも思えません。 もしあなたがこれを比喩であって人間の目を通して書かれており、、、などというのであればそれは聖書をどこまで信じていいのかわからなくなります。 ノアの洪水を例え話として捉えることも可能になるでしょうし。

noname#259625
noname#259625
回答No.23

A No.22のyangmaskです。お礼ありがとうございました。「生きるための動力」を探すにあたって特にキリスト教と絞り込んでおられるようですので、以下の情報は役立つかと思います。ご参照ください。 >上に述べたように歴史上の真に祈りを捧げた人を見ても、真理には到達しなさそうです。キリスト教上の偉人の思想の違いを見れば一発ですが。    http://okwave.jp/qa/q7480217.htmlで私yangmaskがNo.1で回答している内容を参照していただきたく思います。確かに、求めるすべての人が真理に到達できていないのは明白です。真理に到達するための最低条件というものがやはりあるということです。例えば、「大金持ちにしてください」とか「世界を征服させてください」とか利己的な願望を満たしてほしいと神に祈っても多分聞かれないでしょう。では、逆にどのような祈りなら聞かれるのかということになります。実際、祈りは聞かれたと言う人たちも大勢いるわけで、私もまたそういう人の一人ですので。その「条件」についてどう考えますか。 >キリスト教信者の中でも、飛び抜けて賢いだとかすごいだとか言われている人の間で考え方が矛盾しているのを見れば信じるということがいかに当てにならないか。。。と思ってしまうのです。    http://okwave.jp/qa/q7478418.htmlで私がNo.6で回答している後半の内容をご参照いただきたいと思います。イエスご自身がキリスト教と名乗るものすべて神とキリストを正しく代弁していないということを明言されました。その部分では、どれがにせものでどれが本物なのかを区別する「基準」について説明してあります。その「基準」についてどう思いますか。    314hさんが納得できる「生きるための動力」が早く見つかることを祈っています。

314h
質問者

お礼

再度ご回答ありがとうございました。 >真理に到達するための最低条件というものがやはりあるということです。 私はパスカルのような賢く、敬虔なクリスチャンですら煉獄を信じていたことをとっても、真理には到達できないと考えています。 ただ真理ではなく人間の最高の幸福は精神にのみあり、肉体によるものではないということは共通して到達するところではあると思います。 >その「基準」についてどう思いますか。 すみません。文を読んでみても基準というのがどういうものかわかりませんでした。 質問とは完全にずれますがそれをわかった上で聞きます。マタイと使徒でユダの死に方が違うことやイエスの死に際のセリフの違いはどのように解釈してらっしゃいますか?

noname#259625
noname#259625
回答No.22

A No.19のyanagmaskです。お礼ありがとうございました。以下はそれに対する私の意見です。 >100%とはあらゆる100%を否定する可能性を退けなくてはなりませんが、100%を否定するにはたったひとつの否定で良いのです。    ・・・とのご指摘でした。しかし、退けるべき「あらゆる100%の否定する可能性」つまり、その反論の数は特定されてはいないのですよね? では、もしその反論の数が「0」だとしたら? つまり、それは全く反論の余地のない100%の証明もあり得るということを逆に示唆しているように思えたのですが。    先回指摘した「『100%の証明はできない』ということを100%証明する」ということが矛盾しているのと合わせても、「100%の証明はできない」ということはない、つまり、「仕方によっては100%の証明も可能」というふうに考えることもできると思いました。もちろん、「仕方(方法)によっては」という条件付きでですが。「>一応可能であるということで言わせて頂きます」というご意見だったのですが、ちょっと面白そうだったので意見を述べてみました♪ >門をたたく者には開かれる。-開かないときは全くといっていいほどない。- っていう聖句だったらどうします?(笑)この100%の否定は聖句をこのような意味合いに変えてしまう事ができるのですよ。    これはどういう意味なのかまだ未消化なので、もう少し解説をお願いしたいです。 >ただダメ元で(いるとすれば)無限で完全な神に啓示をくださいと祈るのもいいかもしれないですね。。。行ったことがないので不安ですが他の方々のススメもあるので近々やってみたいと思います。    是非! 私はかつて20年ほど前にうつ病で悩んでいた時期があり、図書館や各宗教を回って「答え」模索していました。今はキリスト教に落ち着いていますが、お陰でうつからも奪還できましたし、いろんな意味で人生が開けてきました。「答え」を得るために真剣に祈る人に神は導きをもって答えてくださると私は信じます。「答え」は棚ぼた式ではなく、やはり自分自身で体得すべきもの。しかし、その「答え」にたどり着くように314hさんを神が導いてくださいますように。

314h
質問者

お礼

100%の証明は100%出来ないと私が言ったかもしれませんが、これは多分語弊があります。すいません。 別の選択肢を証明すれば証明ができないというには十分だという意味です。 >全く反論の余地のない100%の証明もあり得るということを逆に示唆しているように思えたのですが。 真理は言うまでもなく100%ですがキリスト教において100%の証明は不可能です。 人間というのは真理を見る生き物ではなく周りにある環境や自分の精神を下に判断していますよね?数学のように誰がやっても同じ認識を導き出せるわけじゃありません。そういった場合人間には真実がどうであろうと真と偽の2つの選択肢が横たわります。ですから人間において信じると言うのは信用出来ないと私は考えているわけです。 仮にキリスト教を信じることができたとしてもキリスト教信者の中でも、飛び抜けて賢いだとかすごいだとか言われている人の間で考え方が矛盾しているのを見れば信じるということがいかに当てにならないか。。。と思ってしまうのです。 門をたたく者には開かれる。-開かないときは全くといっていいほどない。- これは感情に訴えかけるような言い方でした。無視してもらって結構です。 >真剣に祈る人に神は導きをもって答えてくださる 上に述べたように歴史上の真に祈りを捧げた人を見ても、真理には到達しなさそうです。キリスト教上の偉人の思想の違いを見れば一発ですが。 こちらこそ何度にもわたる返答ありがとうございます。

  • sheep67
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回答No.21

こんばんは。 >現在の私は到着点はひとつしかないと考えているので、多分合わない気がしますね。 到達点はもちろん一つなんですが、そこへ至る道は人の数だけあります。 人間には個性があるので、皆が同じ方法ルートを取るとは限らないんです。 多分到達点がひとつなのと、ルートがひとつなのを勘違いされてると思いました。

314h
質問者

お礼

いえ、あなたのいうような到達点に達した人を比べると、彼らの考えには矛盾した点がいくつもありました。 そういう観点において私は到達点に達した人は、その人達同士で矛盾を抱えないと今のところ考えているので、到達点がひとつしかないと考えました。 ご回答ありがとうございました。

  • sheep67
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回答No.20

参考図書ですが スピノザの神という間違ってはいないけど無味乾燥な神からどう発展するのかという時に 参考になるかどうかわからないけれど 例えばマイスター・エックハルトとか、バーナディットロバーツとか、奇跡のコースとか、ラメッシバルセカールさんらの 著書がうまく噛み合うかもと思ったのであげてみます。 前3つはキリスト教神秘主義、最後の人はインド哲学です。どれも抽象的で内面的です。 それぞれ方向性は違いますが、一つくらい気に入るかもしれないしーと思ったので。

314h
質問者

お礼

現在矛盾を自覚する地点に達したばかりですので、前3つの神秘主義は合いません。そして最後のインド哲学は、結局意味を持たせることは出来ないように感じました。 それにしてもあなたに合う思想をどうですか?とはまた不思議な神の概念を信じているのですね。現在の私は到着点はひとつしかないと考えているので、多分合わない気がしますね。 ご丁寧に紹介及びご回答ありがとうございました。

noname#259625
noname#259625
回答No.19

A No.17のyangmaskです。    お礼を読みました。とても面白い考え方だと思いました。いやー、私はそういう考え方をしたことがなかったもので・・・。でも、興味深いので一応お礼に対して私の意見を述べてみたいと思います。    まず、「100%の証明はできない」という主旨のご指摘でしたが、「100%の証明はできない」と100%証明できるのでしょうか。もし、「できる」と言えば最初にご指摘された「できない」とは矛盾しますし、「できない」と言うならやはり最初のご指摘は間違っているということになります。・・・と私なりに考えたのですが、どうでしょうか?    私は100%の証明も仕方によっては可能であると考えます。例えば、電波が発射されているある地点を特定するのに、他の一点から電波を測定するだけではその方角しか分からず、距離までは特定できませんが、二点以上の地点から測定すればその2点からの延長線が交わる部分が判明し、その発射地点を特定することができます。このように、(例えば)幾つかの要素を積み重ねていくことにより、ほぼ確実な(100%、それ以外にはあり得ない)という結論を引き出すことは十分可能であると思います。(私には今こういう例しか思い浮かばなかったのですが、何か他の似たような、つまり「ある事柄を複数の要素から(100%)特定する」という例があったらご自分の頭の中で置き換えてください。)    それで、重要な問題は神というものが存在するのかしないのかということだと思います。答えは単純に言うと「存在する」か「存在しない」のどちらかで、「そのどちらでもない」ということはまず100%あり得ないのではないでしょうか。その一方が「偽」であれば、他方が「真」であることが明白になります。消去法ですね。    まあ、その真偽については先回も述べたのでここでは割愛しますが、もし存在するというのであれば、No.17で示した後半の私の見解、つまり「神に祈って人生の目的を尋ね求める」という考えも有効ということになりますよね。それを(確率だけを根拠に)100%否定することはできないでしょう(?)。では、もしそのような可能性が少しでもあるのであれば、またお気持ちが許すのであれば、「生きるための動力」をお求めとのことですので、そのような方法を試してみる価値はあると思いますよ。

314h
質問者

お礼

>と私なりに考えたのですが、どうでしょうか? 確かにそうだと考えてしまいそうでしたがこういうことを思い出しました。 両者にはそれを成立させるために必要な要素の決定的な違いがあります。 100%とはあらゆる100%を否定する可能性を退けなくてはなりませんが、100%を否定するにはたったひとつの否定で良いのです。 >幾つかの要素を積み重ねていくことにより、ほぼ確実な(100%、それ以外にはあり得ない)という結論を引き出すことは十分可能であると思います。 この考え方は屁理屈に聞こえるかもしれませんが、一応可能であるということで言わせて頂きます。 電波というものが正しく動いているという前提のようですがそれも帰納法とそれに基づく理論によって証明されたものですよね?、、、確率はとんでもなく低いですがね(笑) 究極的に突き詰めると五感から感情や理性まで疑わしくなります。 しかしこれは実生活には悪影響を及ぼしません。そんなことはありえないと言うでしょうし、それを考えて生きることは現実的でなく馬鹿らしいことだからです。 しかし神の掲示によって信仰を100%得られるというようなことを言っているキリスト教のような宗教には有効なのです。 門をたたく者には開かれる。-開かないときは全くといっていいほどない。- っていう聖句だったらどうします?(笑)この100%の否定は聖句をこのような意味合いに変えてしまう事ができるのですよ。 ただダメ元で(いるとすれば)無限で完全な神に啓示をくださいと祈るのもいいかもしれないですね。。。行ったことがないので不安ですが他の方々のススメもあるので近々やってみたいと思います。 以下はキリスト教批判といっても完全じゃないことに関する弁明です。 ・・・キリスト教を完全に批判しているように思われるかもしれませんが、まだ完全に否定したわけではありません。ただこれらを除いてもユダの死に方の矛盾や人間の信じるということの容易さ(例えば百万人にランダムなくじを1万回引かせて全員で平均して99%あたりをに引き続けた時、次に全員ハズレの可能性があると誰かが言えば、それが重要な事柄であるほど馬鹿にされる可能性は高い)から疑っている部分が大きいです。 ただ、教えの根本という点ではキリスト教以上に明瞭な宗教はないと考えており、何かしらの宗教が正しいとすればプロテスタントしかないでしょうし、仮に他が正しくても、キリスト教の信仰というものは徹底する限り殆どの宗教における救いを含有してしまいますからね。 ご回答ありがとうございました。

  • sheep67
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回答No.18

まだ閉じておられないので、気になったところとかをちょっと・・ >理性によって神の性質はある程度までなら把握できるかもしれないと考えている私と全く反対の立場みたいですね。 いえ、だいたい同じ立場です。 理性というか、僕の場合、論理、ですが。 結論は、最初の8の投稿の頭に書いたようなもので、でもそれは僕の性格が反映された答えであり、他の人が納得するとは限らないんですが。 理性は使い切らないといけないですし、あましてたら自分で自分に納得行かない気もします。 恐怖のために理性を使いきれてないことはないでしょうか? つまり理性と感情の混同によって、理性も使い切れない、感情感性も使い切れない、両方中途半端になる、ということが僕の場合今もよくあるんですが・・ 感情を振り切るくらい理性を使い切ることがすごい勇気がいったりするので。 神の定義については、どんな言葉も表現できないんですが、 それでも無難な言い方をするなら、 僕にとっては完全性、規定値、デフォルト という言葉あたりは、多分無難だと思います。 でも概念で表したものは実質神ではないので、これはただの象徴です。 僕は小さい時から神様大好き、という気持ちがあったので、それがデフォであるのは確かです。自覚なきデフォルトです。 これらの言葉はいずれも直接神を指すものではないですが、僕にとって神にまつわる? 神の方を指差す、関連性のある概念ということで。 僕にとって デフォルトとは、時間的な性質を持つ概念です。 完全性とは、  空間的な性質を持つ概念です。 デフォである大好きも、完全性も、いずれもある種のパーフェクトさの体験なので。

314h
質問者

お礼

>恐怖のために理性を使いきれてないことはないでしょうか? これは今のところ逃れることができない問題ですね。キリスト教を根本から否定してくれる人が現れればほとんど解決しましょうが、、、 また私は理性を使い切ることはできず、結局感情や知覚が入ると考えていますね。人間ですし、数学みたいな分野についてじゃないですからやはり感情や近くによる飛躍がないと難しいと判断しています。 もちろん感情や知覚の影響を小さくしていくことは可能だと感じていますが。 残しといたらなんかツッコミ来るかなーなんて期待しながらおいておきました。 それにまだ応答をしてない回答者もいたし、気が乗らないと書けない性分なので。 ご回答ありがとうございました。

noname#259625
noname#259625
回答No.17

   参考までに、http://okwave.jp/qa/q7422217.html での質問で私yangmaskがNo.18とNo.19で回答している内容をご覧いただければと思います。その内容から、目に見えない神が存在することを証明することは可能だと私は考えています。    ここで私が言う「神」とはすべてのものを造った造物主、創造者のことです。(どちらかと言えばキリスト教的な神ということです。) 創造者なる神は万物を造ったゆえに当然人間をも造ったということになります。そして、神は明確な目的をもって人間を造りました。単なる思い付きで造ったのではありません。それで、「なぜ私は生まれてきたのか」、「私は何のために生きるのか」という人生の目的に関する答えを創造者なる神は知っているということになります。    人間は神から命と命を維持するもの(食物など)を与えられていますが、その他に神は「導き」をも与えておられます。つまり、どのように生きればよいか、何をすべきかを神は各人に教えておられるということです。しかし、その導きは神を真に求める人にのみ与えられます。創造者なる神は全知全能の神でもあり、宇宙のすべてを統御しておられるので、人間一人一人の心の中でさえもすべてご存知な方です。ですから、314hさんが「生きるための動力」を求めて神に祈るなら、その方はそれに思いを留めてそれにお答えになるかもしれません。神は心の正直な人にとって決して遠い存在ではないのです。

314h
質問者

お礼

私は神の存在する確率は高いであろうことは推測できても証明は絶対に不可能であることを証明します。 >人間は目に見えないものを識別する能力を持っている まずこれは帰納法に基づく(確実ではない)演繹であることを理解してもらえますね? 古代遺跡を見て、「それは偶然に発生した」などと言わない ええ、人間の社会は帰納法に基づいていますから。とんでもなく高い確率でそうであろうことが証明されればそれで「した」と人間はいうのです。 そしてここであなたの証明の欠陥が見えてきます。 神は確実で誤りが無い、つまり100%なのに対し、人間はいくら上手くやっても帰納法の積み上げでしかないということです。 そして100%に限りなく近づいていくものと100%には無限の隔たりがあります。それは埋めることができないのはわかると思います。 まずあなたの証明の基礎となる部分では唯物論を否定することは出来ませんね? その仮定において宇宙(もしくはあらゆる物の根源)の始まりがもともとあった。つまり無限年前のことだとすると偶然にしろこの今の地球ができる可能性がとんでもなく小さくてもあるとすれば、それは確実に起こることなのです。だってどれだけあたる確率が小さいくじがあったとしても無限回の試行の前には確実と変わらないですよね? それでも私はどちらかと言えば神を信じたい側のスタンスですが、こういった証明は否定できるということを示したかったのです。 ところでこの神の存在証明は不可であるという結論のために、最後に書いてある意見も間違った前提のもとに言われているということになります。 ご回答ありがとうございました。

noname#221368
noname#221368
回答No.16

 #10です。そんなに怒らないで下さいね。自分の言ってる事は、あくまで参考意見です。 >神が定まっていなくても関係性が持てるのですか?  自分は17の頃、生きる意味がなくたって生きていけると思いました。そのままこの歳まで来てしまったので、今さら後戻りはできないだけです。どこかで書きましたが、   (1)キリスト教(ユダヤ教)は、生きる意味を絶対的に付与する(この終端にニーチェがいます。だから、考えなければならない)。   (2)仏教は、生きる意味を積極的に却下する(考えるな・・・)。   (3)神道は、意味がなくたって生きていける事を、積極的に肯定する(考えても考えなくても良い)。 と思っています。どうやら自分は、(3)のようなのです。(1)と(2)の違いは、生きる意味がなければ生きていけないのか/そうでないのか?、の究極の選択にある気がしますが、(3)はどっちでも良い事になります。そのようなところには、人格進も理神の神も、発生しませんよ。自然神だって怪しい。   ・神道は体系化して、先の究極の選択に対する応えを用意していないので、とうぜん世界宗教にはなれません。   ・同祖神の集まりと言う方が、正しいと思います。 >ただ無限で完全な存在がいると漠然と思っているだけなのに、それに対して向きあってみろと言われてもいまいちどういうことを指しているのかわからない・・・  満開の梅の花を見て、そこから動力を得た時、自分は梅の神様を見た訳でもないし、自然神を信仰した訳でもありません。あるのは、そこから動力を得られたという事だけです。ただ、動力を得られたという事実だけはわかると思うんです。  宇宙を論理的に説明し尽くす過程は、デカルトやスピノザにとって、あるいはそれは、満開の梅の花を自分が観たような瞬間ではなかったのだろうか?、と思う訳です。怒らないで下さいね(^^;)。  本気でそう思うんですよ。彼らにとって、ただ無限で完全な存在は、同祖神のようなものではなかったのか?と。漠然と思っているだけでも、そのようになると思います。だから何故、そう思うのかです?。自分の理由は、はっきりしています。  17の頃、生きる意味がなくたって生きていけると確信したからです。自分に神はいませんが、あなたはあなたの神に向き合えば、良いと思います。  ちなみに死後の世界でも自分の意識があったら、意外な驚きという事になります。俺はなんて幸運なんだって思うでしょう。まぁ、死に際に達してみないと、わからないですけどね。

314h
質問者

お礼

回答が個人的な意見であろうが参考意見であろうが、それに対して何かしらの思いを持てば、思い切り意見をぶつけます。中途半端にするよりましでしょう?ですから反駁は喜んで受けますし、逆に反駁もやりたいと考えています。怒っていると感じたのであれば、それも多少はあるかもしれませんが、私の感情の全体的な高ぶりによるものでして、決して怒っていることが中心にあるわけではないです。 つまりあなたは私が歯車という作用などは見当違いで、すべて感性や感覚による一時的動力の連続性によって説明でき、還元することができると言いたいわけですか。 しかしそれに対して私は歴史上の人物を見て疑問に思ってしまう点があります。 例えばソクラテスは極限状態で肉体が失われる状況にあっても正しさを取りました。パスカルもとんでもなく重い病気の中で自分を律し様々な分野で活躍をし、根本において一貫性を持っていました。 こういったことはそういった私の言う歯車を持たない人に可能ですか。 つまり私が言いたいのは人生に意味を持たない人というのは本当の意味で一貫性を持ち得ないんじゃないか?ということなんです。 それに、、、これは確率的な話でパスカルの賭けを参考にしますが、死後の世界がある可能性があると思う限りはそちらを探求した方が有利だと思うんですよ。あなたの言うように意味があろうがなかろうがこの世界で意味がなくても生きていける方法を意味がある方を探求せずに探求するのもいいと思いますが、それは確率的に不利ですからね。私は意味がある方を探求したいと考えます。 ご回答ありがとうございました。

  • sheep67
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回答No.15

補足になります。 NO8の回答での3番における混同の意味ですが、 質問者さんが、神をある一面では観念空想だと思い、もう一面では現実と思おうとしている、 という事実があり、2種類を混同しています。 空想とリアリティーをミックスすることで、自己暗示的な、バーチャルリアリティーが出来上がります。 この2つを明確に切り離せば、とてもクリアになります。

314h
質問者

お礼

ちょっと自信はないですが、、、 私のある一定のドグマは心情や感覚によって定めることができないという部分とその他の神が存在しないはずはないという前提で話を進めている点ですか? 実は私も書いてしばらくしたあと気になってはいたし、そのころから迷い始めたんですよね。人間の感情を疑い、理性の最終的な根拠は感情や感覚にあると言えば、議論が成り立たなくなりますよね。そしてなぜこうするかといえば、結局現実に即しているのは前者だからなんですね。 つまり私がこの質問をする時点でそれが適切じゃないと。なぜならすべての動機は死後の安心を得て、かつ現在のことにも動力を得ようとしてやっているからということになってしまいますね。 また自己完結的な終わり方ですが良い指摘をありがとうございます。また出なおしてきます。

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     1. アブラム(のちのアブラハム)という人は 或る日 すでに七十歳をすぎているのに 神から――あたかもお告げがあるかのように――      故郷の地を去って 行きなさい。  と言われ そのようにしました。行き先も告げられずに。  2. その子孫としてモーセという男は その神に名を尋ねたとき      《わたしはある》 それが わたしである。     (エフィエー アシェル エフィエー.)  という答えを得たと言います。    3. 伝えによると ダヰデという人は      きょう わたしは おまえを生んだ。  という言葉を その神から聞いたそうです。すでに父母からは生まれているんですけれどねぇ。    4. イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に発展しました。     これは主がわたしに油を注いで      貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね      わたしを遣わして心の傷める者をいやし      捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。                  (『イザヤ書』61:1-3)  5. その後 さらに時は飛んで イエスという人が出たと言うわけです。  6. イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。         すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ     る箇所が目に留まった。       主の霊がわたしに臨み 油をわたしに塗った。       主がわたしを遣わしたのは 貧しい人に福音を伝え        捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。》                   (つまり『イザヤ書』61:1-2)     イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと     は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは        ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに        実現した。     と話し始めた。         (ルカ福音4:17-21)  7. 《神と人間――おのおの我れ――とのカカハリ》が――人間の言葉による表現上―― ここまで 及んだのだと捉えます。  8. ひと言で言って 《存在》――《わたしは ある》――をめぐる理論の問題である。そしてこれで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。  9. さらにその後 イエスは この存在論の実証をしたと伝えにはあるようです。  10. 十字架上において はりつけになるというコトを みづから欲して そのとおりになったことにおいてだと言います。  11. 生前には かれがユダヤ当局に捕らわれたとき かれを見捨てて逃げた弟子たちも その死後においては かれは 神であったと言い始めたそうです。じっさいイエスは 自分が神だと言っていた。  12. もしかれが 神ではなくただ人間であるだけであったとすれば そのような存在論の実証は もし信念の強い殊勝な人がいれば その限りで誰でも出来ると思われたでしょう。ようやったな 弱い人びとにとって必要があれば また誰かあとに続くだろうとうわさして おしまいである。  13. 存在論は 実証が《完成》していないことになります。アブラハムやモーセらは 自分たちからイザヤらにつらなった存在論の系譜とその言わば悲願は さらに 別の人によって実現するのを待つということになります。  14. もしイエスが 人間ではなく仮りに神であるだけだったとすれば そのままそれは 《うそ》ですから 張り付けの十字架から降りて行って 奇蹟を起こしたということに話は成るのかも分かりません。神のやることはおれたち人間には関係ねえよで おしまいとなります。  15. 父ヨハネと母マリアから生まれた人間であると同時に 聖霊によって身ごもった子つまりキリストと呼ばれる神の子でありみづからも神であると言うというところに その歴史的な一大事件としての《虚構》があり どうもそこで存在論を実証したのではないか。とうわさされているのかも分かりません。  16. アブラハムから始まった神の信仰は 一たんキリストの登場を俟つというかたちのキリスト史観として承け継がれた。そしてそのキリストが出たからにはこの《時を俟つ》キリスト史観は もう要らない。  17. われらが《存在》の成就である。さまざまな《貧困》の解消が 宗教抜きで成されるという課題が残った。  18. 言いかえると このキリスト・イエスをも 宗教の種にして おのれの支配欲を満たそうというヤカラがいつづけているということだ。  ご批判をどうぞ。

  • 宗教にお金を払うのは何故??

    宗教や神に対してお金を払う(寄付する)という行為について疑問があるので質問させてください。 よく宗教団体にお金を寄付する方がいらっしゃいますが、理由を聞いてみると 「お世話になった神様にお金を払ってお返しをする」 「教団ではなく神様にお金を払う」 と聞きましたが、何故神様にお金を寄付するのでしょうか。 食べ物を寄付する事や信仰を行う事はなんとなく理解できるのですが、 お金を寄付する事は理解できません。 なぜなら、そもそもお金とは人と人が物々交換を円滑にする為にできたものであるからです。 つまり、お金とは言ってしまえば紙切れもしくは硬貨です。 それに対して、物を交換できるというルールを決めた訳ですよね。 でもこれはあくまでも人と人の間で決めたルールであり、 他の動物や植物、神様に対してはこのルールは適応されないはずです。 神様が信者から受け取ったお金を使って市場で商品を買うことは普通に考えられませんし。 それで、 「結局、神様じゃなくて教団に寄付してるんでしょう?」と聞くと 「いやいや教団ではなく神様に寄付している」という回答が返ってきました。 これは一体どう捉えればよいのでしょうか。 信者がお金を寄付→教団が神様の代理に受け取る→神様の為に教団が使う というような間接的に神様に寄付していると捉えればよいでしょうか。 神様、宗教への布教活動や信仰にお金がかかるのはわかりますが、 結局は教団に寄付しているじゃないか、と思ってしまいます。 宗教(神様もしくは教団)に対してお金を払うことがどうしても理解できません。 どう理解すればよいかわからないのでご存知の方、回答をお願いします。 ちなみに私は宗教および信者の方を否定・軽蔑するつもりは全くありません。 私自身、熱心ではありませんが宗教に入ってますし。 宗教の考え方で良いなと思うものはあります。 (ただ、完全な無神論者ではありませんが有神論者でもありません) しかし、金銭を支払うことには理解できませんし、したくもありません。 神様に何かを捧げるのなら、人に優しくするとか、その考え方を大切にするとか祈る行為を行えばよいではないかと思っています。 また、どこの宗教に聞いたかは伏せさせてください。 長文になりましたが肯定的な意見、否定的な意見共に受けつけますのでよろしくお願いします。

  • 新約聖書と旧約聖書の整合性及び聖書は全ては神の霊感により書かれた時代を

    新約聖書と旧約聖書の整合性及び聖書は全ては神の霊感により書かれた時代を超えた普遍的真理の書物なのか? 教えて下さい。 私は中年の男です。20代後半で 洗礼を受けました。 その後人間関係に悩み、牧師に 相談をしたのですが、牧師の尊大な態度に失望し、教会へは行かなくなりました。 洗礼を受ける前は三浦綾子氏や遠藤周作氏の著作を 読んでいて、今にして思えば福音派とリベラル派の違う考えの本を同時に読んでいて、自分の中でも整理がついていませんでした。 しかし、ある日カール.ヒルティの幸福論を呼んで、福音派よりのリベラル的要素を持った著作にふれ、洗礼を 受けたのですが、上記説明のように牧師につまずき挫折。 最近も福音派の教会に2ヶ月程通いましたが、やはり 牧師に躓きました。私が最初に通っていた教会はリベラルな教会でした。福音派牧師の痛烈なリベラル派批判。カトリックは異端だと裁き、リベラル派はクリスチャンでないかのような発言。本当に参りました。 福音派の方で、神社.仏閣に悪霊がいる等。極端な 考えをお持ちの方も存在いたします。 福音派の中で聖書信仰と言うのがありますが、個人的に旧約の神とイエスが同一とはどうしても考えられないのです。聖書にも矛盾を感じるんです。 箴言 13:24 むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。 22:15 愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。 23:13 子どもを懲らすことを差し控えてはならない。むちで打っても、彼は死ぬことはない。 23:14 あなたがむちで彼を打つなら、彼のいのちをよみから救うことができる。 29:15 むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。 箴言を一部抜粋しましたが、これが神の言葉だと心から 思えません。 恐らく、理性的な日本人にこれを読んで頂きこれが 神の言葉だと思うかと問えば、恐らく殆どの方が「思わない」と回答するでしょう。 福音書のイエスの言葉には威厳があり、やはり非常に 高いタイプの何かを感じる事は出来るのですが旧約と パウロ書簡は懐疑的に考えてしまいます。 例を出すと1コリント11:5「女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります」この訳は新共同訳です。 聖書を時代背景も考えず、文字通りの真理だと考えるなら礼拝やまた個人の祈りの中で祈る時は女性は頭にかぶりものをしなければなりません。 私は神を信じない生き方は虚しいと思いますが、聖書に 矛盾、新約と旧約に整合性を感じられず、苦悩して います。信仰は捨てたくないのですが。今は正直どうしたら良いのか解りません。 リベラルな教会も考えてはいるのですが、それでも、聖書に確信が持てなくて 困っています。 乱文で申し訳ないのですが、よろしくお願い致します。

  • 私は無宗教?無神論者?こんにちは。私は無神論者なの

    私は無宗教?無神論者?こんにちは。私は無神論者なのか、ただ単に無宗教だけなのか診断して欲しいです。特徴を長文ですが下に書いていきますので診断してください。 (1)神はいないとおもっている 有神論者を愚かとは感じないが、何を根拠に語っているのかな~と感じる。 (2)心霊、占いも全く信じない。 占いや心霊で儲けてる人を見ると 『汚くて美味しい商売だ。なんの根拠もないアドバイスや予言をするなんて美味しい商売だなぁ。』 と感じる。 小学生の頃友達が盛り上がっていた占い本に自分だけが盛り上がれなかった。 占いについてボロクソ言っているが朝のニュース番組でやっている占いコーナーで上位だと少し嬉しく感じるという矛盾がある。 (3)葬式は亡くなった人の宗教に合わせる派で、例えば亡くなった母親が仏教信者だった場合は仏教の葬式をし、キリスト教の信者だった場合はキリスト教の葬式をする。 ちなみに自分が死んだら、葬式はせずに焼いて骨にしたあとは海に撒いて欲しいと思っている。 (4)初詣は行かないし、ハロウィンとクリスマスは祝わない。 願いが居もしない神が叶えるがないのにお賽銭にお金を入れるくらいだったら、コンビニとかに置いている募金箱にお金を入れる派。 ハロウィンとクリスマスで、はしゃいでる人を見ると 『この人達は人が亡くなったら線香立てるのになんでキリスト教のイベントに参加するのだろうか』 感じる。 ちなみにクリスマスプレゼントは友達が毎年勝手に行っている恒例の交換のために泣く泣く買っている。 (5)死後の世界、生まれ変わり、前世来世の概念はないものだと思っている。 死んだら終わり。眠る時のあの無の感覚がずっと続く感じだと思っています。 以上です。無神論者でもなく、無宗教でもなくただ単にひねくれてるだけかもしれませんがどちらかと言うとどっちなのか教えて欲しいです。

  • 三位一体論の十分な聖書的根拠

    私はプロテスタント系求道者です。 三位一体論について観念的な理解はしています。 聖書的にもその萌芽が見られますが… 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、 あなたがた一同と共にあるように。」(IIコリント13:13)、 「キリストは、神の身分でありながら、 神と等しい者であることに固執しようと思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。 人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 このため、神はキリストを高く上げ、 あらゆる何まさる名をお与えになりました。」 (フィリピ 2:6-9) しかし、「三位一体」という言葉はなく、 ニカイア信条の中で父と子は「同質」(ギリシャ語:ホモウーシオス) であるという、聖書にない言葉が使われた、ことはご存知かと思います。 プロテスタントが標榜している「聖書のみ」の立場からは、とても苦しく、 三位一体を認めない宗派の信者が訪ねてきたとき、この点を突かれ、 私は答えに窮しました。 その宗教団体の教義では、「イエスは神ではなく『神の子』である」と。 私が次のように自説を展開しました。 「それでは、イエス・キリストは、神でもなく人間でもなく、 御使いのような中途半端な存在になる。 そのどんな業も、全て父に帰せられて、 イエスは父の補完的存在に成り下がってしまう。 キリスト教を標榜する限り、 イエス・キリストを神と同等に信仰しなければ、 旧約すなわちユダヤ教へ回帰してしまう。」 しかし、「聖書にそう書いていないですから。 私たちはそう(イエスは『神の子』であると)信じていますから。」 と開き直られました。 そんな宗教団体は、明らかにおかしい論理も展開しているので、 無視するのが賢明だと思いますが、何か釈然としません。 説明が長くなりましたが、 聖書を根拠にして三位一体論を展開できませんか? 私は、口語訳、新共同訳、Greek New Testament、BHS、LXXを持っていて、 時間が掛かりますがギリシャ語もヘブライ語も読めます。 しかし、神学校を上がったわけでもないので、神学には全く明るくないです。 お勧めの神学書があれば、ご紹介して頂きたいのですが。

  • キリスト教改革は可能か?ここが変だよキリスト教?

    キリスト教は宗派は沢山有りますが信者も非常に多く、20億人を越えるそうです。 そして英語圏やヨーロッパ等に多いため、世界への影響力も大きいです。 しかしそのキリスト教の神は一つの筈なのに、もう信者は分派してバラバラです この宗教が一つに纏まれば相当大きな世界的改革が可能と思われます。 昔日本でも流行った世界基督教神霊統一協会(統一教会)もそれを実現しようと 文鮮明の元信者を増やしました。しかしその教えが妥当なものではなかった為 お金は集めましたが 日韓トンネルも実現しないまま 合同結婚式で色んな弊害を出し 霊感商法と呼ばれ、反社会的と言われついに教祖の文鮮明氏も達成を見ないまま 92歳で死去しています。他にもエホバの証人やモルモン教等のキリスト教新興宗教が 出ましたが飽くまで聖書的で 聖書自体から何を学び、何をどう解釈するかが定まらず イエスの復活 イエスの死 イエスの贖罪 三位一体説 進化論 言葉 永遠の命 神への愛 隣人愛 敵への愛  神の死 原罪 終わりの日 楽園追放 姦淫など 解釈が一定でなく 現実とも異なるためもはや現代にそぐわない所が出来て来て 日本の仏教と同じで 聖書もろくに読まない信者も多いと聞きます。 このキリスト教を改革しないとこの世界の精神状況は現実と乖離するばかりです。 キリスト教をどう活かし、どう改革すれば世界は変わるでしょうか? 日頃神について疑問に思うことなどお聞かせ下さると幸いです。

  • 三位一体論は そんなに不人気なんですか?

     《三位一体なる神は 無宗教である》と捉えその表題のもとに議論を展開することによって 人気の無さが 必ずしも根拠のある見方ではないであろうことを問います。あらためて問うものです。            *  三位一体なる神については ヨハネ福音を主なものとして聖書記事からみちびき出した神論です。純然たる神学です。  しかも この神論が経験思想の舞台にかかわり得て 次のような想定じょうの認識になると捉えられます。(図式以下の議論です)。  それによると イエスが指し示した神であることに変わりはありませんが そのキリストの神であることにはとどまっていない。ましてや クリスチアニズムなるオシエや宗教とは 何の関係もなくなっている。ユダヤ民族の神が もはや揚棄されている。と言ってよいと考えます。  これを問います。  つまり まづ  ▲ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。  ☆ という一つの聖書記事から伸びて 次の図式が得られると理解します。(基礎としては アウグスティヌスに拠っています)。   ○ (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~    ――ひとと社会の成り立ちについての図式――   光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)  三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)                ↓  ↓        ↓      ↓  ____________________________   スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )  ____________________________               ↓      ↓      ↓     ↓  身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)  [S者/S圏]  個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)  社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)  経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )  政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓   [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓  社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )   〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  1. 神を・つまりすでに普遍なる神を 光にたとえるなら こうです。    子の父は 光源であり     父の子は その発耀であり     父と子とのまじわりから発出する聖霊は その明るさ・あたたかさである。  2. ただし 光はただのタトエですから 本体の三位一体には時間的なへだたりはなく 三つの位格は つねに一体である。  3. 神はこの三つの位格(ペルソナ)に分かれるとは言え 無限を二で割っても三で割っても 商はやはり無限であるように 父と子と聖霊とは 互いにひとしく それぞれの個は全体とひとしく 全体はそれぞれの個とひとしい。というものです。  4. そこで 《ひとは 神の似像である》という命題については こうです。:   父なる神は 人間の自然本性にあっては 精神の秩序作用としての《記憶》に    子なる神は 精神が精神するというかのようなハタラキとしての《知解》に    聖霊なる神は 記憶と知解にもとづき生きることの中軸としての《意志》に  それぞれ当てはまるというタトエです。  5. 神にあって三つの位格が一体であるかのように 社会にあっても三権が分立して互いに――ただしこの場合は時間的なズレをともなって―― 分業=すなわち協業している。そのようにして 一体ではある。これが 共生のひとつのかたちであるというタトエです。  6. 真理(神)にあっては 時間の間を置くことなく 正解が得られているけれども 人間の経験世界では 時間的なズレをともなって ときに 正解が得られそれが実現されることもあるかも知れない。  7. すなわち 人間にあっては 記憶があいまいであり得 そこから得た情報とそれを加工(思考)するる知解も あやふやであり 記憶と知解とをにらみながら行為する意志も その心(記憶や知解の内容)にさからうことすらあり得る。  8. 人間と社会における小さなミクロコスモスとしての三位一体(三一性)は 時間的な制約を受ける。すなわち 記憶・知解・意志のそれぞれのハタラキが分立し得るような自由度を〔すなわち自由意志によって〕持っていてそれらのあいだの協業が 時間的なズレと人間の能力の有限さとによって マ(間)の違いを生じやすい。  9. 自由意志は 記憶とそのまた源泉である知覚(感性)の内容を無視してでも そして勝手な知解によってその無視ないし逆らいを正当化しようとしてでも その自由を発揮しようとすることがある。  10. なお この三位一体論もしくはそれの人間観ないし社会理論への応用は それをイエス・キリストは後世に託したと言ってよいものと思います。  11. もっともっとあたらしい理論づけが出て来るかも分かりません。  三位一体論は 役に立ちませんか?

  • 新約聖書における「与えよ、さらば与えられん」という意味について、宗教の

    新約聖書における「与えよ、さらば与えられん」という意味について、宗教の教義とそれが規定/記述する行動原理ついて教えてください。 宗教学、哲学、歴史学、キリスト教についてまったくの門外漢ながら質問させていただきます。 「与えよ、さらば与えられん」という、巷でよく使われる言葉、慣用句が誤用であるというのを聞いて、意味を調べてみました。 web上で探した慣用句辞典によると、 http://www.geocities.jp/tomomi965/ko-jien01/a03.html 新約聖書(ルカによる福音書第6章)での原義は、先に何かを与えれば見返りが後から回り回って帰ってくる、というような物的な報酬の関係を表すのではなくて、無償・無条件の奉仕によって、自己の内面や他者を通じて神の祝福が与えられるという、精神的な報酬の関係として説明されていました。 一方でこの慣用句は、レヴィ=ストロースの贈与論における一般交換のシステムについて、(個々人の意図や宗教に対する意識に関係なく)人間が古来から持つ法則を俯瞰的に説明しているようにも感じました。 そう考えると、新約聖書(ないしキリスト教の教義)には前者のような行動規範、行動のインセンティブ(=教えを守れば救われる、祝福を受ける)を人々に与える意味の他にも、後者のような種としての行動原理を読み解く様な面があると捉えられます。 不明瞭で抽象的な説明で申し訳ありませんが、(1)「与えよ、さらば与えられん」という記述の原義や解釈について、(2)このような新約聖書の持つ教義と人間の行動との関係について歴史上の解釈ではどう捉えられてきたのか、(3)さらにはキリスト教に限らず仏教の各宗派などの信仰のなかの規範的記述/説明的記述の役割と割合について、解説をいただけないでしょうか。 また、先の(2)(3)について一般向けに解説された書籍があれば教えていただければと思います。よろしくお願いします。

  • 三位一体なる神は 無宗教である。

     三位一体なる神については ヨハネ福音を主なものとして聖書記事からみちびき出した神論です。純然たる神学です。  しかも この神論が経験思想の舞台にかかわり得て 次のような想定じょうの認識になると捉えられます。(図式以下の議論です)。  それによると イエスが指し示した神であることに変わりはありませんが そのキリストの神であることにはとどまっていない。ましてや クリスチアニズムなるオシエや宗教とは 何の関係もなくなっている。ユダヤ民族の神が もはや揚棄されている。と言ってよいと考えます。  これを問います。  つまり まづ  ▲ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。  ☆ という一つの聖書記事から伸びて 次の図式が得られると理解します。(基礎としては アウグスティヌスに拠っています)。   ○ (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~    ――ひとと社会の成り立ちについての図式――   光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)  三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)                ↓  ↓        ↓      ↓  ____________________________   スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )  ____________________________               ↓      ↓      ↓     ↓  身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)  [S者/S圏]  個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)  社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)  経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )  政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓   [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓  社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )   〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  1. 神を・つまりすでに普遍なる神を 光にたとえるなら こうです。    子の父は 光源であり     父の子は その発耀であり     父と子とのまじわりから発出する聖霊は その明るさ・あたたかさである。  2. ただし 光はただのタトエですから 本体の三位一体には時間的なへだたりはなく 三つの位格は つねに一体である。  3. 神はこの三つの位格(ペルソナ)に分かれるとは言え 無限を二で割っても三で割っても 商はやはり無限であるように 父と子と聖霊とは 互いにひとしく それぞれの個は全体とひとしく 全体はそれぞれの個とひとしい。というものです。  4. そこで 《ひとは 神の似像である》という命題については こうです。:   父なる神は 人間の自然本性にあっては 精神の秩序作用としての《記憶》に    子なる神は 精神が精神するというかのようなハタラキとしての《知解》に    聖霊なる神は 記憶と知解にもとづき生きることの中軸としての《意志》に  それぞれ当てはまるというタトエです。  5. 神にあって三つの位格が一体であるかのように 社会にあっても三権分立が 互いに――ただしこの場合は時間的なズレをともなって―― 分業=すなわち協業している。そのようにして 一体ではある。これが 共生のひとつのかたちであるというタトエです。  6. 真理(神)にあっては 時間の間を置くことなく 正解が得られているけれども 人間の経験世界では 時間的なズレをともなって ときに 正解が得られそれが実現されることもあるかも知れない。  7. すなわち 人間にあっては 記憶があいまいであり得 そこから得た情報とそれを加工(思考)するる知解も あやふやであり 記憶と知解とをにらみながら行為する意志も その心(記憶や知解の内容)にさからうことすらあり得る。  8. 人間と社会における小さなミクロコスモスとしての三位一体(三一性)は 時間的な制約を受ける。すなわち 記憶・知解・意志のそれぞれのハタラキが分立し得るような自由度を〔すなわち自由意志によって〕持ってていてそれらのあいだの協業が 時間的なズレと人間の能力の有限さとによって マ(間)の違いを生じやすい。  9. 自由意志は 記憶とそのまた源泉である知覚(感性)の内容を無視してでも そして勝手な知解によってその無視ないし逆らいを正当化しようとしてでも その自由を発揮しようとすることがある。  10. なお この三位一体論もしくはそれの人間観ないし社会理論への応用は それをイエス・キリストは後世に託したと言ってよいものと思います。  11. もっともっとあたらしい理論づけが出て来るかも分かりません。  添削・批判を俟ちます。

  • 地震被災者援助する宗教の礼儀正しい勧誘の断りとは?

    こんにちは、お世話になります。 地震がありましたよね。 被害を受けた地域にいます。 スーパーに買い物に行ったら、「無料の食事配給あります!」と呼びかけている方がいました。 僕はてっきり、政府の援助かな? スーパー開いてるけど、、何故に?。 と思いつつも、まあ、これを機に地域の団結を強める時かな、色々な方とも被害情報(というほどでもないけど)の情報交換でもしようかな?と、思い行きました。 さて、公的な援助にしてはやや、違和感があるなと感じる間もなく、宗教勧誘が始まりました。  食べてしまった者の身として話くらいは聞いてあげないと、と思い会話をしたのですが(普段なら話も聞かない)、、僕自身に多少なりとも聖書の知識が有るぶん、、以下の会話はかえって失礼ですよね? どうすれば良かったでしょうか? 「宗教に興味ありません。」って言って話し聞かない方が良かったでしょうか? 会話内容: 勧誘者:「イエスの再臨の前に地震が多いと聖書で書かれているのをご存知ですか?」 僕:「月は、まだ赤くありませんので、まだかと思います。」 勧誘者:「もしも、地震で死んでいたらと考えたら、死後の世界に不安はありませんか?」 僕:「死後の事は分かりませんねえ。」 勧誘者:「私は、必ず天国に行けると確信しています。 イエスを信じているからです。 彼によって私たちは救われるんですよ。」 僕:「でも、イエスはさあ、自分で神だと言っていないし、『人の子』だっていってるんじゃ、、。」 勧誘者:「ヨハネの福音書で、「あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。」と言っています。 こんな事が言えるのは神だけだと思いませんか?」 (その同じセリフをあんたが引用して今言えたじゃん、、とは流石に言えず、、。) 僕:「じゃあ、イエスのよきサマリア人の喩えはご存知ですか? サマリア人はキリスト教徒でもユダヤ教徒でもないんですよ。 そんな事言う人が本当に自分を信じる人だけが救われると思っているんですか?」 勧誘者:「確かにサマリア人はユダヤ教徒ですらありませんが、イエスが十字架上で犠牲にならなかったならば、我々は救われなかったんですよ。 」 僕:「じゃあ、サマリア人はどうなったんですか?」 勧誘者:「、、牧師を紹介しますので、牧師様と話してください。」 、、、、、。こん会話を、(別にスーパーで普通に食べ物を買う金を持っているのですが)慈善事業しているかたにしてしてまい、、大変後悔しています。 というか、宗教の会話は苦手なので、これから災害にあった時に「無料配給」ですと言われても、「公的機関ですか?」と必ず聞こうと思います。(泣) 玄関先なら「結構です!」の一言で終わらせられると思うのですが、、、恩を受けてしまった者の礼儀正しい断り方を教えてください。 よろしくお願い致します。