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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:なぜ けんかをしては いけないのか?)

なぜけんかをしてはいけないのか?

kulara_isの回答

回答No.23

哲学に詳しくもない、妄想好きの素人です。 僕はけんかとかしないししたくない、しちゃいけない派です。 もし世界中の全員が同じ議題で口喧嘩を始めたら嬉しいですか? 僕はそんな世界は嫌です。 もし世界中のみんなが毎日笑ってたら?嬉しいですか? 僕は幸せがわからなくなるからこれも嫌です。 笑ったり怒ったり泣いたりがぐちゃぐちゃになってバランスがあって、落ち込む時間があるから笑った時が楽しかったり。 だから人間は基本的に笑いたい願望があると思うんです。 じゃあ喧嘩をやめようって言えるかな。 妄想でした。

bragelonne
質問者

お礼

 くららさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ 僕はけんかとかしないししたくない、しちゃいけない派です。  ☆ このように一般的に言う場合 わたしは けんかはしないし したくない。そして けんかは ただし 好きです。《しちゃいけない派》ではありません。  これまで長いこと生きていますが なぐり合いのけんかは いちどもしたことがありません。取っ組み合いの寸前にまで行った場合が 二・三度ありました。  けんかが好きというのは けっきょく討論が好きというようなものだとは思います。  で ここから飛びますが  ★ ~~~~  だから人間は基本的に笑いたい願望があると思うんです。  じゃあ喧嘩をやめようって言えるかな。  ~~~~~~  ☆ とおっしゃるとき このとき 《やめようって言う》のなら すでに始まっている場合もあるのですね?  もしそうだとしたら その場合 どのように言ってやめようと言うか? これが問題ではありませんか?  つまりたとえば仲裁に入るとした場合 どうか? ともかくけんかは よしましょう 二人とも落ち着いて冷静になって ともかく落ち着いて・・・と言うのではないですか?  つまり まあまあまあ 二人とも落ち着いて 冷静になって の次は 《話し合いましょう》が来るのではないですか?  つまりこの《話し合いましょう》が ここで言う《口論 としてのけんか》であり 基本的に《自己批判としてのけんか》だというその内容です。  と一気に 自分の田に水を引きましたが 果たしてどうでしょう?  批判 つまりは特に自己批判 これとしての言わば《自分自身とのけんか》 これは してはいけない理由はない。こう やはりまだ 考えますが どうでしょう?

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