対立物の一致 〜神と人が共存するための命題〜

このQ&Aのポイント
  • 対立物の一致、coincidentia oppositorumとは、有るは無いであり無いは有るという命題であり、善は悪であり悪は善であるという考え方です。
  • この命題は古代ギリシャの哲学からインスピレーションを受けており、神の本質はあらゆる対立の統一であり、すべての被造物は神の映しであり、相互に調和しているとされています。
  • しかし、人間と神の間にはへだたりがあり、対立物の一致は人間にとっては見ることができないという問いもあります。また、対立物の統一は時間の過程や社会の変化によって解決する可能性があります。
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コインキデンチア・オッポシトールム

 ・ coincidentia oppositorum  ・ coincidence( unity ) of opposites  ・ 対立物の一致(合一・統一)  これは 有るは無いであり 無いは有るだと言い 善は悪であり 悪は善であるというような内容を持つ命題だと思いますが それは 所謂る《神のもとにおいて成り立つ》かも知れないとしても 実際に経験現実と成りましょうか? これが 問いです。  この命題は 調べてみますと すでに古代ギリシャの哲学に現われており インドや道教などにも見られると言います。  中で 次のような情報をこの質問のたたき台を述べるためのたたき台とします。  ▲(ヰキぺ:ニコラウス・クザーヌス) ~~~  ( a ) クザーヌスによれば神の本質は、あらゆる対立の統一=反対者の一致である。  ( b ) 無限の中では極大と極小(神と被造物)が一致する。  ( c ) すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。  ( d ) 中でも人間は自覚的に神を映し出す優れた存在であり、認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ( d )については すでに【Q:ひとは カミの似像である】で問い求めました。《フラクタル構造》を成すのではないかという回答を得て これを一つの結論としました。  ただし  ▲ 認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。  ☆ とは わたくしは 捉えていません。人と神とのあいだには へだたりがあると見ています。  ( c )の前半すなわち《すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも》については ( d )と同じようであり そのとおりだと見ます。ただし 後半の  ▲ それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。  ☆ については 疑問を持ちます。《相互に調和している》のは 神の目から見てであろうと考えますが いまさきほど述べたように《神と人とのあいだには へだたりがある》と見ますので その《調和している状態》を人が見ることはむつかしい。こう考えます。  ですから すでに 《対立物の一致》は 人間にとっては 見ることが出来ないであろうというここでの問いになっています。すなわち  ( b )も《極大と極小(神と被造物)が一致する》のは  ▲ 無限の中では  ☆ ということであり すなわち《神の目から見て》なのだと捉えます。すなわち( a )につながります。    *  たとえば  (α) 坂道は 上りと下りとが互いに対立するかのごとくあるが 道として一致している。  といった説明には従えません。気持ちや能力が上がるのと下がるのとを例に取れば その対立状態にあることをないがしろにすることは出来ません。  (β) 有ると無い あるいは生と死 あるいは善と悪とは 神のもとで互いに違いがない。  と言ってもその《神のもとで》という条件は 人間にはただその想像においてしか分からない。つまり 現実においては 対立しつづけている。     *  あるいは いわゆる弁証法過程として この命題を肯定する場合があります。すなわち  (γ) 対立物の統一なる命題を解く鍵は 時間過程にある。自然の事象をも含めて 人間の社会と歴史は その時間的な行為とその錯綜関係として成る。ゆえに時間が解決する。(縁起共生?)  これは 一般に  (γ‐1)  矛盾する対立物が互いに闘争することをつうじて 新たなより高い次元においてそれぞれが変わった状態となり互いに調和を見い出すということだ。  とすると そういう場合には その中間の過程やそこにおける闘争が 人間にとっての人生であり現実だということになります。果たしてそうか? それ以外に 《和》はないのか?  またもしその  (γ‐2) 《中間の闘争過程》は やがて社会における所謂る格差の問題が適宜に根本的に解決されたなら 対立物の統一がその限りで完全に成った状態が出現する。  といった《いまの闘争の勝利の暁には》というかたちの《統一》理論には 与し得ません。《神の目から見て / 無限のもとで》という条件よりもわるいと考えます。それは 《人間が――つまり ヒトが生物として――変わる》と言っているのであり そのことだけを言っていればまだしも それが必ずや未来には社会全体として実現するといった展望を立てるのは お呼びでありません。仮りにそのことがほんとうだとしても 実際にその芽が出て来て兆しが現われたときに言い始めても遅くはないと考えます。     *  この対立物の一致なる命題は 西田幾太郎にも影響をあたえたようで   (δ) 絶対矛盾的自己同一  という表現として打ち出されたそうです。  このとき ここでは 形而上学として分かるなどとすら言わないで 次のようにたたき台を立てて問います。  (ε) いやいや 有るは有る 無いは無いだ。善はそれとして善であるが 悪は飽くまで悪であり 主観としてだが心の思いや判断としての善なる要素が欠けている。それらの対立する二項は 互いに相容れないのが 現実である。  とです。この問いを自由に大胆におしすすめていただければ さいわいに存じます。よろしくどうぞ。  

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回答No.1

こんばんは。 私は鼻水がすごく出ていて辛いのですが、鼻水に負けるのもプライドが許さないので頑張って回答しようと思います。 >これは 有るは無いであり 無いは有るだと言い 善は悪であり 悪は善であるというような内容を持つ命題だと思いますが 幸せとは外部にあると思っていたのですが、まさか鼻水が出ないことが幸せの基礎だったとはと驚いております。 ここで言いたいのは、有る無し・善と悪の根拠はあると思い込んでいた場所にはないのではということです。 もっと内面に、相対的にあるもので、固定的に存在するものではないのでは。 身近な例で言えば、探し物が目の前にあるのに気がつかないとかありますね。 特に、「黒いケーブル!黒いケーブル!」とか急いでいるときは、本当は白いケーブルだったとかあります。 私、あほですね。 ということは「お前の探したは探してない」であり、「お前の善は俺にとっては悪であり」という誰でも心辺りのあるお叱りを考察してみればいかがでしょうか? ところで、これを難しい言葉で言えば、なんなんでしょうね? 抽象的な事柄を現実的な事柄に当てはめるときに、すきなように当てはめられるでしょうか・・・ 壁の銃弾の跡に的の絵を描いて自慢をするというのに近いかもしれません・・・ 自分の理論を元に社会現象を解釈して「俺って凄い!」というのも近いでしょうね・・・

bragelonne
質問者

お礼

 もぐさん お早うございます。  ★ フラクタル構造  ☆ これを遣わせてもらっています。  前回のやり取りで得られた内容を重ねて述べます。  ○ (世界のフラクタル構造) ~~~  1. 神は 自分のすがたに似せて ヒトをつくった。  〔創造主と被造物というのは そういう表現の問題である。特には 次から述べるように 両者のあいだには埋めつくせない隔たりがあるということを言っていると取るべきです〕。  2. 神は三位一体の神として 光にたとえると 父なる神は光のみなもとであり 子なる神はそのかがやきであり その父と子とから発出すると言われる聖霊なる神は 光の明るさやあたたかさである。  3. 光の比喩は まだまだ 経験事象に例を取っているだけに 神のことを表わし得ていない部分がある。  4. その分かりづらい部分としては:   (あ) ひとつに 光源と発耀と明・暖とは 神において時間差がないこと。   (い) ひとつに 神の三位一体においては――フラクタル構造にたとえるごとく―― 父も子も じつは聖霊と同じくそれぞれ聖霊である。光源も発耀も それぞれ明・暖である。子だけが発耀であるのではなく 父もそして聖霊もそれぞれ発耀としての光である。また父だけが光源であるのではなく 子も聖霊もじつはそれぞれ光源である。  5. ひとは 神に似せてつくられているとすれば その自然本性が 神のその三位一体なるすがたに類似していると捉えられる。  〔繰り返しますが 創造主と被造物といった規定は ただ表現の問題であると思われる。生まれつきの存在の成り立ち――自然本性――を問題にしています〕。  6. ひとは身と心とから成るが 心の領域について 三位一体の似像を捉える。  自然本性は 記憶と知解とそして意志とから成る。三つの行為能力ないし能力行為。  7. 《記憶》は おぼえるというとき整理整頓といったかたちにおいてその秩序作用にむしろ焦点があたる。精神の中核である。   この記憶から人間存在の公理――すなわち自由や平等あるいは愛――を引き出して来ると思われるごとく そしてまた法の精神がそこにやどり 自然法としてもやがて人定法としての法律の淵源となるように 自己秩序というはたらきが 記憶の基軸である。  8. 人の存在が自由であるなら 人は互いに自由である。自由であることが互いに平等であるかたちになっている。よってこの《自由――または先取りして 自由意志――》は互いにとうとばねばならない。これが 愛である。といったことがらを精神の中核たる記憶から引き出して来るのは 知解という二つ目のハタラキである。《知解》が 父たる光源からの発耀としての子なる神に喩えられる。  9. 一人ひとりが自由な存在としてある ゆえにこれを互いにとうとぶという知解を得て これを心つもりとして持ちさらに自己表現に移すのは 自然本性の三つ目のハタラキである《意志》である。この意志が 聖霊なる神に似るものとして 光の明るさやあたたかさに喩えられる。《愛》である。ただし 人間の意志は その自由意志の中身として 明るさに背きあたたかさを踏みにじる負の愛も くわだて得る。おのれの心にしたがうという意味での善に背き 負の善すなわちそれとしての悪をもおこない しかもときにはこの悪を好むことすら 《自由に》おこなうようである。  10. これら三つのハタラキから成る自然本性は 神の三位一体に似ているが はなはだ隔たりのある類似であると言わねばならない。  神は (4‐あ / い)により 存在が存在であるしかなく 自由が自由であるしかなく 愛は愛であるしかない。そしてそこに・つまり三つのペルソナ(位格)のあいだに 時間差がない。つねに《一体》である。《無限》とはそういう意味である。  11. しかるに 人間の場合は 存在がほかの意志のハタラキによって傷つけられ侵され得る。自由がへそ曲がりを起こす。愛が マイナスの世界に沈んでしまう。みなおのれの自由意志が ときには好き好んでこれらをおこなう。  12. そうして――理論上は――それでも 三つのハタラキはその自然本性において 時間差を持ちつつも 一体であるとも見なされる。自由にはそれと裏腹の責任があると。とにもかくにも辻褄が合うように 神との類似性としての自然本性が 最後にはハタラクと見なされる。(このことを 仏性がひとにやどると言っているのだと考えられる)。    13. これを 人間の三一性( trinity )と言うらしい。三位一体( Trinity )に似ているゆえ。   つまりは 意志にも自己秩序としての記憶やその知解なるハタラキがやどり 記憶や知解のそれぞれのハタラキにすでに意志もやどるといったようにフラクタル構造を成していると。自省や自浄作用が効くはずだと。  ~~~~~~~~~~~~  ここまでを 前身の質問で もぐさんとやり取りしたと思います。さらに詳しく展開しました。  この質問での問いは 自然本性にさからう自由意志の自由によって 負の善なる悪をおこない マイナスのつめたい愛をも発言し行動に移す。そのような状態に人間があるとき それでは 三一性において 善は悪であり 悪は善なのだとか 愛は憎悪であり憎悪は愛であると言って 対立物の一致をそのまま説いていてよいものかどうか? これです。  悪は 悪という存在があるのではなく 飽くまで存在とその持続そして共生という善を損傷させる意志のハタラキであり その行為があるのみである。ただその意図や行為を 現象として悪と名づけるのみであると。   cf.【Q:悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみだ。】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5552729.html  あるいはまた 愛は ヒトという存在にかんする限りまた存在が善だとする限り その自然本性に従順なる場合も逆らう場合も おおきく愛である。その広義の愛に やさしさや暖かい愛情もあれば いがみ合いや憎しみもある。つまり愛情と憎悪とをふくめて《愛》とよぶのがよい。と考えられます。  以上このように 悪は存在せず 善とその善の損傷行為としての悪とが この世界にはあるのみだということ および 愛情と憎悪とをまとめて《愛》と呼ぶのだということ この二点は 一見すると この対立物の合一ということに似ている。  ところが 善なる行為と悪なる行為とは――後者が 善なる要素を欠如しているからには―― 互いに別である。また 憎悪は 愛という意志が マイナスの世界に下りて行ってしまっているからには 愛情とは正負の違いがある。  あまり長くなるので ここらで端折りますが 果たしてどうでしょう?  つまり 西田幾太郎の《絶対矛盾的自己同一》というときにも まづは目の前に起きていることは 《絶対矛盾》なる現象だと言ってよいと考えます。正と負 あるいは 共生としての肯定とそうでなく抹殺をもくわだてる否定 これらの対立する二項は どうしても相容れないのではないか?  というのも きわめて通俗的に言って 人びとはそして特に日本では おとなであることは物分かりがよいことだと考えられているようで まづ初めに けんかはいけない まあまあまあというところから入ります。ところが そうしているなら いつまで経っても その実際の対立状態は解消されません。そういうことが 決して少なくありません。  もっと卑近なことを例にあげれば ここでたとえば回答をブロックするということがあります。わたし自身もしたことがあるので言うのですが その手段では一向に解決は見られないという事態。つまり《対立物の一致》は その命題だけでは ウソになる。という問題です。そこから この問いは来ています。  あるいは どうなんでしょう もうひとつ例示しますと あいつは今はすねていてその自由意志もマイナスの世界に足を突っ込んでいる。いい加減したい放題で暴れまくっている。だが それも大きくは《愛》に含まれるのだから あたかもお釈迦さんの掌の上を飛び回っている孫悟空のようなものに過ぎない。だから じっと見守っていてやればよいのだ。という場合 果たして それでよいのか?  対立状態という現実から出発しなくてよいのか?  以上まづは 趣旨説明をさらに詳しくのべました。  ご回答へのお応えは 補足欄にておこないます。あしからず。

bragelonne
質問者

補足

 もぐさん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。  お礼欄では ご回答内容にほとんど触れずじまいでした。でも出発点における風景をさらに明らかにし得たかと思います。もう回答は来ないかなと思っていたところへ 三件重なって来ました。  さて 鼻水の哲学でしたね。いや 鼻水はなぜ出るか? いや 鼻水を垂らしている小学生をとんと見なくなったのは なぜか? いや 鼻水は口に通じている ゆえに 一致している。  ええっと 何でしたっけ。鼻に栓をすると 息が出来ない。ゆえに鼻水と呼吸とは対立物である。けれども からだの維持にはどちらも必要である。ゆえに 一致する。  ええっと  ★ 幸せとは外部にあると思っていたのですが、まさか鼻水が出ないことが幸せの基礎だったとはと驚いております。  ☆ 内部と外部とは 《わたし》なる人間として まとまった存在である。人間は 社会的な動物であると言うなら その存在はすでに 社会的な関係としてある。みづからの内に社会関係・人間関係を有している。外部としてなのであるが つまり 無いであるが その存在の性格からして 内部につうじていて あるとも言える。ゆえに 一致する。  いやいやいや。鼻水が出ると出ないとは 対立物であるが これらの互いの相転移は ひとのしあわせに関係してくるから どちらでもよいとは行かない。ゆえに 対立物が一致する気遣いはない。これで反証できたか?  いやいやいや。  ★ ~~~~  ここで言いたいのは、有る無し・善と悪の根拠はあると思い込んでいた場所にはないのではということです。  もっと内面に、相対的にあるもので、固定的に存在するものではないのでは。  ~~~~~~  ☆ No.2のあともなどすさんへのお応えで書いたのですが おそらく 対立物が 同じひとつの《自己》の内にある場合には それを人間がみづからの意志のもとにおさめて 全体として取り計らうものであるゆえに その対立関係というのは――きびしい葛藤をもたらすことはありましょうが―― それほど経営しがたい問題であるとは思われない。とも考えました。  対立物が互いに外部どうしである場合に その対立関係が 扱い難いものとなる。  その二項ないし二者の 共通の根拠は たとえば人間どうしという基礎としてないわけではない。けれども 互いににくしみ合って 対立関係があたかも永続するというのも 実際である。おそらくどこにその調和を求めるかというときの根拠も どこにもないと言うのが正解なのかも知れません。  つまり 根拠がどこかにあると思い込むのがいけないのであって ただしだからと言って ほかのところを探せばよいということに じつは ならないのではないか? こうも思うのですが どうでしょうか?  それとも  ★ ということは「お前の探したは探してない」であり、「お前の善は俺にとっては悪であり」という誰でも心辺りのあるお叱りを考察してみればいかがでしょうか?  ☆ というように まだ探し足りないでしょうか?   この後者の《善と悪》の判定の問題は おそらく主観の問題でしょうから 一概に言えるとも思えません。その当事者どうしで じっくりと話し合うしかないでしょう。そうすれば 善と悪との定義で互いに歩み寄れましょうから。  ★ 抽象的な事柄を現実的な事柄に当てはめるときに、すきなように当てはめられるでしょうか・・・  ☆ これも 定義の問題に帰着しましょう。二人の間なら二人の間で 話し合い歩み寄ることになりましょう。  ★ 壁の銃弾の跡に的の絵を描いて自慢をするというのに近いかもしれません・・・  ☆ これは レトリックでしょうか。言葉の表現として 確かにそのような話を聞くと 対立物が一致しているかに思われます。なぜ対立しあっているのかと疑問に思うようになります。それゆえ あるいはその対立関係を溶かし合って行けるかも分かりません。  ★ 自分の理論を元に社会現象を解釈して「俺って凄い!」というのも近いでしょうね・・・  ☆ これは ありますね。あり得ますね。俺って凄い!と思うというよりは ううーんとうなる場合があります。つまりは 所謂るジョウシキとは違った見方が出来ると そしてその見方が現実にあてはまっているとするなら まづはうなります。そんな歩みを社会はして来ていたのかと 何度も言うようですが うなります。もののあはれを知った瞬間です。あはっ! というひと言です。  なるほどそのジョウシキとは違ったあたらしい見方は それとしてジョウシキと対立しているわけですから そしてしかもそれらが見ている社会の実態は同じひとつの事実関係なのですから そこからは《対立物の一致》が言えるかも知れません。  でもこれも どうなんでしょう? つまりは それならば・それゆえに まさに両者は《対立しあっている》ということにもなります。  社会のお二階さんの見方とそれがクウキとなったジョウシキ およびそれを一階から見てどうなっているのかを明らかにしたもの これら二つの見方は 同じひとつのものを見てその世界観を述べているのですが 互いにやはり対立しています。互いに批判しあっているといったかたちになります。  スサノヲ市民が お二階に上がる・そういった出世志向を アマアガリ症候群と見るのが スサノヲ史観ですし いやいや それでこそ社会の・国の秩序と発展のためにみづからの能力を活かして仕事ができるというアマアガリ史観とくらべるならそれらは 対象としての歴史社会が一致していつつ 見方は対立していましょう。  たぶん そのように勘違いではなく  対立する史観が打ち出される場合というのは  ★ 自分の理論を元に社会現象を解釈して  ☆ というのではなく そうではなく 社会現象がまづあって それを捉えた結果 自分の理論を導き出す こういったあたらしい見方である場合ではないでしょうか?   こういうそれとして有効な見方が出された場合には 対立物の一致はむつかしく 互いに対立しあって行くものと考えられます。  というよりも ほんとうは 一般に一方の見方が時代の移り変わりとともに ふるくなりその理論としても不備となり間に合わなくなるということなのでしょう。  しかもここで質問者がこだわったことは そのように《時間行為としての解決》を見ることによる合一や一致を言うのではなく なぜなら むしろおおきく歴史が自然史過程であることは 大前提であるのであって そのあと 個人個人が どのように《対立物の一致》を見ることができるか? こういう問いになっています。  一致を見ていない。見えない。なら 見えないと言って つまり対立しあっているとはっきり言って そのあと 互いに対立を超えてとは言わなくとも 話し合いに入りこれをつづける。そういう姿勢と態度が まづ出発点に必要なのではないか。こういう問いです。

その他の回答 (13)

  • MOG777
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回答No.4

お礼ありがとうございます。 >6. ひとは身と心とから成るが 心の領域について 三位一体の似像を捉える。  自然本性は 記憶と知解とそして意志とから成る。三つの行為能力ないし能力行為。 改めて読むと、これは興味深い。 これはbragelonneさんが着想したものなんですか?もし文献があれば教えてください。 奇遇にも、この着想と「知行一致」に関するarakanさんの質問がかかわってくるんですね。 あるお坊さまの言うことには、腑に落ちれば行動はついてくるらしく 私はそれが「知行一致」だと思ったわけです。 この質問と対応させれば 知=知解、行=意思 となります。 また、お坊さまの言うことには、(正しく?)認識すればおのずから智慧はいずると 私の「ひらめきのしくみ」という質問とかかわってきます。 ここで言えば 認識=記憶、智慧=知解 です。 残りの 行=意思 と 認識=記憶 の関係ですが 対象に対する立体的な理解というのは、視点の移動が不可欠ですから 視点の移動=行=意思、立体的な理解=知解 となるかと思います。 ひとまず、こんなところで。

bragelonne
質問者

お礼

 なるほど。いくつかの質問が 同じひとつの問い求めにおいてつながっていますね。  もぐさん ご回答をありがとうございます。  なるほどと受け留めましたので いまは それにとどめたいと思います。  なおここでわたしが述べている三位一体論は 基本的にアウグスティヌスによる理論にもとづくものです。  ○ アウグスティヌス:『三位一体論』 中澤宣夫訳 1975  これは今では 定価が一万円を超えてしまいました。検索では 次のような研究論文があるようです。わたしもまだ読んでいません。  ○ 中川秀恭:アウグスティヌスの『三位一体論』について (再論)   http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/33311/1/15(1)_PR21-48.pdf  子の父と 父の子と 両者から発出する聖霊 これら三つの位格(ペルソナ)を 人間における記憶と知解と意志とにあてはめるのは アウグスティヌスの議論です。  これを 光における光源と発耀と明・暖とにたとえるのは――犬養道子が 同じように《水》の水源と流れとその水による生活の潤いとに喩えていたのを真似て―― わたしが考えたものです。そして 個人や社会におけるそのフラクタル構造――つまり わたしの場合は 相似形としてだったのですが――へとすすめたのも わたしの勝手な解釈です。  知行一致とそしてヒラメキの問題 これらについて さらに問い求めが成されて行くことでしょう。  ここで触れられたことに反応するとすれば それは 《記憶》のハタラキが案外見逃すべきではないと考えられることです。  自己秩序の作用であり 法の淵源であります。人間の自然本性の中軸である意志つまり自由意志も 存在の中核としての記憶(自己秩序)にもとづくものだというかたちです。むろんこれらを知解しなければ 何も明らかにならないというそのハタラキもあります。  さてこの問いは ここからどうすすんで行くでしょうか?

  • Tefu_Tefu
  • ベストアンサー率27% (87/322)
回答No.3

お早うございます。 絶対的自己統一矛盾 要するに、人間の衣食住等の物質的欲望が満たされないで、感情が不安定になることだと思います。どう人々の物欲・欲求を満たし、感情を安定させるかということですよね。 それは、人間の文明の発展と時間による進化により、将来可能になるであろう。 情報や輸送手段の整っていなかった過去に於いては小さな共同体が沢山あったので可能だった。しかし、現在のように世界中何処でも情報、交通が盛んな時代に於いては、もはや小さな共同体は崩壊し大きなピラミッド型の組織へと変貌した。そこに於いては、もはや、1%だけの裕福な人達に支配された世の中に変わってしまった。 (1)つは、市場の規模の拡大による競争の激化による分業の大規模化である。沢山のお金と人材等の集約が必要である。 (2)つは、集約的な工場の出現により集約出来ない生産現場との収益の違いによる賃金の格差である。 (3)つは、優良な地下資源が有るところと無いところでの格差である。 (4)つは、気侯や立地場所、あるいは十分な設備・整備がなされているかによるものである。 (5)つは、それに見合った労働者がいるかということである。 人は、これらを解消し生活を安定させるために、家族、地域、国家といった共同体を造ってきた。また、その補完として宗教を取り入れた。しかし、上述の理由により、もはや、宗教は争いの火種となっている。 さて、これらを解決するには、人間の物欲等の欲求と感情をどう満たすかということである。 我々が当面しなければならない課題は、 (1)宗教対立の回避である (2)貧しい人に教育をし自給率を上げさせ、足りなければ食料援助をすることである。 (3)文明の発展を速めることである。教育の充実である。 (4)人生を楽しむことがいいことだという意識改革である。 (5)貧困者を何がしかの労働、イベントに参加させることによるお金の支給である。 これらが、人間の感情の新たな手助けになるかもしれない。私は、人の欲求が満たされ正しく生きる喜びが感じられれば絶対的自己統一の矛盾も解消できるかと思います。それは、まさに生きているという実感です。

bragelonne
質問者

お礼

 てふてふさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  まづお伝えしたいと思うことは 前二者のご回答でのやり取りを参照していただきたい。これです。頑張って書きましたし そのお応えの中身が 質問の全体として問い求めの基本となっていますから。  ★ 私は、人の欲求が満たされ正しく生きる喜びが感じられれば絶対的自己統一の矛盾も解消できるかと思います。それは、まさに生きているという実感です。  ☆ なるほど。つまり なるほどというのは てふてふさんの場合は すでに《対立物どうしの対立》じたいは それはそれとしてあるのだという前提に立って お答えを寄せてもらっている。こうだと思われます。  《時間過程における解決》に近いかとは思われますが 具体的に人びとの知恵と努力とで 相当程度については解決できるはずだということ。そのゴールがいま見えているはずだということ。ゆえに いま対立しあっている二項は その統一がいまわれわれの視野にはおさまっているのだと。  対立ということを声高に言って 危機をあおるなかれと。  反論するつもりはありません。じっさいそういうふうにして努力して行くよりほかに道はないと考えます。  ただし 現状をどう見るかという点で もっときびしく見つめようとも言おうと思います。  たとえば  ★ ~~~~  我々が当面しなければならない課題は、  (1)宗教対立の回避である  ~~~~~~  ☆ このひとつの課題を取ってみても 世界の根幹をゆるがすような問題です。あるいは 《宗教とは何か? そしてそれは 個人の信仰とはどう違うのか?》 このような主題ひとつを取ってみても 人びとの見方は一致していません。この哲学カテでも いつまでも――わたしから言わせれば――勘違いが絶えません。《宗教を信じる》といった勘違いから始まって いくつもあります。  そもそも宗教というのなら そのような世界観をめぐる人びとのあいだの勘違いやすれ違いを きちんと明らかにして 相互理解を図る これが おそらくいちばんのつとめなのではないでしょうか? けれど実際の宗教者は そんなことにはおかまいなしにいるか・もしくは 自宗の存続のためにそういう気配りをするようになっているだけであって 一向に自分たちの内部の課題には無頓着です。そのヒエラルキアにおける権限関係によって 個人の信教の自由を左右するほどの実態があるのではないか? などの問題です。  てふてふさんのこの問いへの取り組み方は まづ問題のあり方を  ★ 絶対的自己統一矛盾  ☆ と捉えての上だと見ます。西田幾太郎の《絶対矛盾的自己同一》とは微妙に違って したがって《自己同一》において《絶対矛盾》が生起しているというのではなく・必ずしもそうではなく 《自己同一における自己統一は成る。成るはずだと見た上で そこにも確かに矛盾はある。起きる。そしてこれに対処しよう》という出で立ちであるように見受けられます。形而上学的な後ろ向きと実践的な前向きとの違いでしょうか。  言いかえれば・そして言ってみれば その《矛盾》というものをすでにおのれの中にあるものとして――絶対的なものとしてあるのだとして――すでに引き受けよ。こう初めに言っているように思われます。この意志行為からの一歩によるのでなければ 何にもならないであろうとさえ。  わたしはそれは 人間の意志行為として 正統なことだと考えます。  そのあと 経済・教育・文化のあり方を問うていくのだと。  万機公論に決すべし。であると。みなで話し合い 知恵を出し合っていくしかないのだと。  ★ ~~~   これらが、人間の感情の新たな手助けになるかもしれない。  私は、人の欲求が満たされ正しく生きる喜びが感じられれば絶対的自己統一の矛盾も解消できるかと思います。  それは、まさに生きているという実感です。  ~~~~~  ☆ おそらくこの《生きているという実感》は 初めの一歩すなわち《意志行為において すべての問題をわが身に引き受けるということ。負える荷だけでよいから これをわが身に引き受けるということ》 ここから来るとわたしも思います。なぜなら そのときすでに《欲求》の問題は 雲散霧消していましょうから。  感覚を手掛かりにしてすすむこと これも 大事だと考えます。  果たして みなさんは どうでしょう?

回答No.2

 論理を保持したまま論理の限界を超えるために,ぼくが用いる考え方は,顕在相と潜在相の二相が表裏一体としてあるとするものです。弁証法的思弁へのちょっとした表現の工夫ですが。  生成消滅する現象において,無から有が生まれるかにみえる生成は,潜在層の「有」が顕在相の「有」へ相転移することであると言えます。このとき同時に顕在無は潜在無へと転じます。また,有が無となるかに見える消滅も同様です。  互いに相転移する者どうしは,相補的な(そして相互に隠覆し合うようような)関係にあり,これは対立関係にあるのではなく,協調関係にあると言えます。  そして,対立者の一致というのは,論理破綻することなく,次のように言えます。  顕在相の有(対象1)と顕在相の無(対象2)が対立者です。 ─────────────────────────────  潜在層の無(対象1)と潜在相の有(対象2)が協調者です。  対象1が単独に相転移しますと,顕在相の無(対象1)と顕在相の無(対象2)が同一者として顕在することになります。無性において識別不可能でありこれらは同一です。相対者から絶対者に転じると言えます。 >これは 有るは無いであり 無いは有るだと言い 善は悪であり 悪は善であるというような内容を持つ命題だと思いますが それは 所謂る《神のもとにおいて成り立つ》かも知れないとしても 実際に経験現実と成りましょうか? これが 問いです。  神を持ち出すまでもなく,実際に経験事実として成るでしょう。 >(ε) いやいや 有るは有る 無いは無いだ。善はそれとして善であるが 悪は飽くまで悪であり 主観としてだが心の思いや判断としての善なる要素が欠けている。それらの対立する二項は 互いに相容れないのが 現実である。  その通りですね。そして,肯定的主張と否定的主張があるのも現実です。どこまでも相容れぬとしても,調和のへの道が閉ざされているわけではありませんね。

bragelonne
質問者

お礼

 あともなどすさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。(回答No.1のもぐさんへの補足欄でのお応えより先に 書き込みます。あまりお待たせしないほうがよいと思ってです)。  ★ 肯定的主張と否定的主張があるのも現実です。どこまでも相容れぬとしても,調和のへの道が閉ざされているわけではありませんね。  ☆ と結論づけておられるとまづ受け取ります。つまりは たたき台の見方としての対立する二項の状態は 安易にその一致を言えるわけではないが それでも  ★ どこまでも相容れぬとしても,調和への道が閉ざされているわけではありませんね。  ☆ という方向を捉えておられる。  具体的に見てまいりたいと思いますが その前に 趣旨説明を書いたあとに気づいたこととして 次があります。そのことに先に触れさせてください。西田幾太郎の   (δ) 絶対矛盾的自己同一  これについて それは《自己同一》と言っていることにふと目が行きました。つまり 《一致・合一》というのは 《自己》の内部における《対立物》のことを言っているのかと思ったのです。内部で互いに闘争していてもいいのですが 外部どうしが対立し闘っているのとは ちょっと違うのではないかとも思ったのです。  そしてそれなら まづ一般にまた基本的に成り立つと思われます。自己組織化というようなことさえ言われますが そのように個々の要素はそれぞれ大きくひとつの《自己》のもとにあり その《自己秩序》のもとにあると考えるからです。  さて あともさんのお考えですが たぶんそれはまづ 内部における対立と外部どうしの対立と その両方を扱われていると思います。  ★ 生成消滅する現象において,無から有が生まれるかにみえる生成は,潜在層の「有」が顕在相の「有」へ相転移することであると言えます。このとき同時に顕在無は潜在無へと転じます。また,有が無となるかに見える消滅も同様です。  ☆ さて どうでしょう?   まづ根から芽が生じ やがて太い幹にも成り枝葉を繁らせる。これは 《自己》の内部で――必ずしも対立していたわけではありませんが―― 潜在するチカラがはたらいたと見られます。  自己の内部で 今度は卑近な話になりますが このケーキを食べようかやめとこうかという対立する考えがあるとき これはおそらく それらを一段高いところから自己のもとにおさめて判断する意志によって どちらかが決められます。  相手にウソをつこうか どうしようかと迷うとき これも 同じく全体としての意志による決定が それとしての対立物の統一を果たします。  例示がすべてを網羅しているかどうかあやしいようですが それでも一般に 同じひとつの《自己》の内部における二項対立は あまり問題にならない。のではないかとも考えられます。《自己経営》の範囲内におさまるものごとは 葛藤や問題がつづくとしても いちおうその《自己》の判断にまかせられるという意味において。  そうしますと   ○ 潜在有が 顕在有となるというときには その以前の状態において顕在有であったものというのは あらたな顕在有となったものと 同じ自己であるのかないのか。  これが問われて来ます。《対象1 / 対象2》と記されていますが いま簡単に《 A / B 》と言うことにしますと そして A ≠ B なのだとしますと どうでしょう?   ○ A なる潜在有が 顕在化して有となった。これは それ以前の B なるものの顕在有とは別のものではないか? それとも B と見えていたものも じつは A と同じものだったということなのか?   ○ もし A と B とが別のものであるなら 同じ一つのものの相転移であるのではなく そうではなく別々のものの顕在と潜在との交替である。  となります。そしてそれは 対立物の一致ではないはずです。よね?  ★ ~~~~~~~~~   顕在相の有(対象1)と顕在相の無(対象2)が対立者です。   ─────────────────────────────   潜在層の無(対象1)と潜在相の有(対象2)が協調者です。  対象1が単独に相転移しますと,顕在相の無(対象1)と顕在相の無(対象2)が同一者として顕在することになります。無性において識別不可能でありこれらは同一です。相対者から絶対者に転じると言えます。  ~~~~~~~~~  ☆ これについてつまり:   ○ A が潜在化して 顕在相では無となったし B は もともと潜在化しており 顕在相で無である。そのとき A も B も 顕在相では 無である。と言っているだけですよね?   つまり  ★ 同一者として顕在することになる  ☆ かどうかは A と B とが もともと同じ一つの《自己》のものにあるという場合に限られて来ます。  ★ 無性において〔* つまり 顕在相では 無であることにおいて A も B も〕 識別不可能でありこれらは同一です。  ☆ というのは どちらも潜在しているから その潜在性において同一であるのであって ものが同一であるかどうかは まだ分かりません。ですよね?  ★ 互いに相転移する者どうしは,相補的な(そして相互に隠覆し合うようような)関係にあり,これは対立関係にあるのではなく,協調関係にあると言えます。  ☆ ここで 次のような例として考えます。  ○ 《相転移する者》を 人間とし たとえば《やさしさ》と《にくしみ》とが互いに相転移すると見ます。つまり 同じ人間どうしが 相向かい合っている場合です。  この場合 どうでしょう? つまり 二つの――互いに対立しうる――ものを 実際の存在としては A ≠ B だと仮定し 《自己同一》ではないとした場合です。人間という存在なら 互いに意志の自由において社会的に独立していると言えるでしょうからその意味で A ≠ B です。  1. 人間 A と 人間 B とは 《相互補完する(そして 相互に隠覆し合うような)関係にある》と言えるか? そういう場合があるか? ――これは ふつう言えましょうね。ふつうにそういう場合はあるでしょうね。互いに助け合うことがあります。  2. よって  ★ これは対立関係にあるのではなく,協調関係にあると言えます。  3. のですが そうなのですが これは そういう場合があるというだけでもあります。つまりは やさしさが 憎しみに相転移することがあり得ますから その意味で対立関係に成り得ます。潜在していたものが 顕在してくることがあり得ます。  4. そのときこの二項対立は つねに一致へと・つまりは協調関係へと必ず成ると言えるか?  こういう問いになってます。  もっと言えば じつはこのとき:  5. このときには A なら A という一人のひとの《自己同一》の中でじつは この《やさしさ》と《にくしみ》との内部の葛藤にかんしてなら 調和を得ることが出来るかも知れません。《わたし》という全体としての存在そして中んづくその《意志》においては 憎しみを超えて 相手の B の《わたし》としての存在をそれとして――何も具体的には出来なくとも――受け容れていることは出来る。  6. そのとき A なる《わたし》には B に対する気遣いや心配こそあれ すでに心は晴れあがっています。すがすがしき心で B を見守っていることでしょう。  7. でも・それでも B だけだとしても そこには《対立》が起きています。そして おそらく A なる人物の努力も人徳も かなしいかな 及ばず それはふつう一般に《けんか状態にある》という対立関係のこととなります。  ★ ~~~~~~~~   >(ε) いやいや 有るは有る 無いは無いだ。善はそれとして善であるが 悪は飽くまで悪であり 主観としてだが心の思いや判断としての善なる要素が欠けている。それらの対立する二項は 互いに相容れないのが 現実である。  その通りですね。そして,肯定的主張と否定的主張があるのも現実です。どこまでも相容れぬとしても,調和のへの道が閉ざされているわけではありませんね。  ~~~~~~~~~  ☆ とおっしゃったこと この同じ方向を質問者も向いていますし 見ようとしていますが まだその具体的な道が見えて来ない。残念ながら こう思うのですが 果たしていかがでしょう?

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    西田幾多郎の『善の研究』の第二編第十章に「実在としての神」という章があります。 この第二編は「真の実在」を規定する部分です。 「実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである」(第二編第二章) 意識現象は、刻々と移りゆくものである。 その意識の根底に不変の統一力(「統一的或者」)が働いている。 この「統一的或者」は、我々の思惟意志の根底にあるもので、同時に、宇宙現象における統一力でもある。 「神」が出てくるのは、そうした流れです。 「この無限なる活動の根本をば我々はこれを神と名づけるのである。神とは決してこの実在の外に超越せる者ではない、実在の根柢が直に神である、主観客観の区別を没し、精神と自然とを合一した者が神である」 さらにこの神は 「この点より見て神は無である」 「ただよく無なるが故に、有ならざる所なく働かざる所がないのである」 という存在でもあります。 西田の「純粋経験」の原理から導き出されたこの「神」の概念が、何度読んでもよく理解できません。 すでにお読みになり、ご理解していらっしゃる方に教えていただければ、と思っております。よろしくお願いいたします。

  • 貶すだけでは 前へすすまない。

     よしあしの二項対立を立てる思考から自由になろう。という問いです。  1. 悪は 存在しない。もしそうとすれば善を損傷させる・もともとは善なる意志からの――わが心にさからう心としての――思惟と想像とその実行のことを・つまり負の善を 悪と呼ぶだけである。  2. 聖と俗とは 人間とその思想や意志行為のあいだには 相い対立するふたつの事柄としてはありえない。これを互いに隔たりのある二項として捉えるなら そのときの《俗》であるしかない。  3. 自律と他律というのは それぞれが一面を捉えて言ったものであるに過ぎない。  親が決めた仕事をするのは 他律か? もしそれに従ったなら けっきょく大きく広くおのれを取り巻く情況を捉えて みづからの意志としてそれをえらんだに過ぎない。  自律と言っていても 社会の要請にこたえたり歴史の中からその要請のような流れを捉えてそれにこたえたりするに過ぎない。自他一体であるはずだ。  4. だから その世の中にあってさえ 自律を説く側に回るのは けっきょく《憂き世》を《浮き世》と言いかえているに過ぎない。  世の中は他律人間ばかりぢゃないかとうそぶく思想は 憂き世を乗り越えて出世したときには その身の保守のためにむしろ上にへつらう他律人間になるか それともあいにく成功しなかった場合には 浮き世ぢゃ浮き世ぢゃと騒ぎながら やはりこのわれこそが宇宙なんだとさらに嘯くことになるかだ。  これを問います。

  • おなじみ:悪は存在しない。その名の現象があるのみ。

     少し違った角度から 問い求めます。  ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義あるいはつまりそれらの互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を保ち守ることを言うのではないか?  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉鎖する行為を言うのではないか?  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始するという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  ( h ) 対話に対する鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提に固執して話をすすめる場合ではないか?  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?

  • 悪に片向くことは 煮詰めて言えば 愛である。

     この詭弁におつきあいください。そして その当否について吟味・検証しつつ ご教授ください。        *  ひとは なにゆえ うつろいゆくことになるのか?  なにゆえ うつろいゆく側に心を置いてみようとするのか?  その心の片向きは 弱さから来るのか?  思うようにならないことにやけを起こすことからか?  ひとと心をかよわすことが出来ずにくじけてしまったからか?  けれどもその片向きをえらび取るのは おのれの意志である。  おのれの心の・おのれの存在のうつろいゆくことを おのが意志が欲する。ということが起きる。  やがて朽ちるそのことをえらばざるを得ないかのように おのれの心の腐る側へと おのが意志が向かう。  はっきり言えば おのれの死〔への道行き〕を意志がえらぶ。  けれどもこれは タナトスなどという死の本能などではない。  愛である。  社会に生きるというその存在の互いの関係性にもとづく愛である。  おそらく生きることを欲するゆえに 生きることとしての善を損傷させるかたちを取ってでも 世の中の人びとのうつろいゆく姿を見て見なかったことにはできない。という愛 からである。  世の悪を 《わたし》は 引き受けるのである。  なぜなら 《悪は存在しない》とそのおのが自然本性において信じているから。  愛が そこに すでに起こってしまったそれだけのこととして そういう生き方をわたしたちはえらんでいる。    知らなかったけれども 《わたし》はそれを欲したようなのである。悪を引き受けるという選択を。        *  《うつろいゆく・朽ちる・腐る》といった――つまり要するに ひとは時間的な存在であるから 死を死ぬというさだめにある――性質がある。  この《うまれて来て 生きて やがて寿命をまっとうして死ぬ》という《わたし》の時空間のウゴキに問題はない。  それは 言うなれば善であると思われる。  その善なる基礎としての自然本性・そしてそのうちの自由意志には この朽ちるウゴキをみづからが早めたりわざと欲したりする向きへも片向きそのように出来上がったヱクトルとして作用することが起きる。  これを 負の善 つまり 善の損傷と捉え 悪と呼ぶと考えた。  さらにはこの《悪》としてのウゴキ あるいは《悪》を――すでに身の周りや世界には起きているのを見てそれらを受け留め さらに――みづからが引き受けるという〔言ってみればコジツケのような〕《愛》のチカラおよびそのハタラキがある。のか?  悪に同調することと悪を引き受けることと。    考えてみれば 前者のよわいハタラキも すでに言うなれば愛である。ひとの存在をめぐって社会性ないし関係性の関数だという意味である。       *  《悪は 存在しない》という命題は 《悪に同調すること および 悪を引きうけること》といった《愛》の問題であった。  愛は すでに理屈抜きで 自然本性にあって――この自然本性なる心にさからって作用した自由意志にも対抗するかのように どん底より持ち上がり湧き上がって――その底力なるハタラキを表わす人間のチカラであるらしい。  《善に根差しつつ悪をも引き受ける》ところの《愛》  悪につき合う悪。  それは 死のほうへ寄って行くようなことだが  しかも愛だ。        *  愛とは何だ? と言われるでしょうから さしづめ おのれを活かし相手をも活かすハタラキでしょうか。