スーパーフラットの関係性と浅田彰の評価

このQ&Aのポイント
  • スーパーフラットは日本のアートムーブメントであり、日本の消費文化や平面絵画、アニメーション、ポップカルチャーなどを示す概念です。
  • また、スーパーフラットは現代の日本社会の階層性のなさやフラットさをも示すものであり、欧米市場へのブランド戦略やニッチ市場販売の成功例でもあります。
  • 浅田彰はスーパーフラットについて、日本文化の平板化や後のクール・ジャパンを思わせる一種の商標としての側面を指摘しています。
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スーパーフラットってやっぱ天皇制と関係ありでは?

 村上隆のことをよく知りませんが もし次のような意味であれば 表題のように考えられるのではありませんか?  すなわち あとにかかげる解説の中の次の説明文です。  ▲ 現代の日本社会の階層性のなさやフラットさをも示すものである。  ▲(ヰキぺ:スーパーフラット) ~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%88  § 概要  スーパーフラットという言葉は日本の消費文化独特の浅はかな空虚感をはじめ、日本における様々な時代の様々な種類の平面絵画、アニメーション、ポップカルチャー、ファインアート、キャラクター文化といったものを示すときに村上が使用する言葉である。日本のアートムーブメントであり、欧米に向けられたブランド性をもったアートの現象であり、ニッチ市場販売の成功例でもある。  特徴として、平面的で二次元的な絵画空間を持ち、余白が多く、また、遠近法などの技法をあまり使わないことが挙げられる。これは日本の伝統的な絵画から現代の漫画・アニメにまで共通してみられる、画面の立体感のなさ、平面性、装飾性、遊戯性を示すものであり、    また現代の日本社会の階層性のなさやフラットさをも示すものである。  平面作品だけでなく日本のアニメーション関連の立体作品(フィギュアなど)もこれに含まれる。  ~~~~~~~~~~~  ☆ むろん 《現代の》というのは 制度としての身分制が廃止されたことをもって言うのだと見ます。逆に言いかえると 身分制が敷かれていたとしても 権威としては 《おほやけ=公共性ないし普遍性》をになっていたのが アマテラシテ天皇である。一君のもとに万民が平等であるという思想であり建て前である。  しかもこの平等性は 誇って言うこともあれば おそらく皮肉って言うこともある。身分制がその中身として敷かれたのも然ることながら やはりお二階さんは威張っているからには建て前に過ぎないと見られることもあるからである。  でもヰキぺ氏は 《階層性の無さ》と言っている。  この質問の前身は 【Q:村上隆のフィギュアは 天皇へのオマージュか? それとも パロディなのか?】でしたが それを閉めたところ あらたに疑問が起こりました。  くわしい方がいらっしゃれば おしえてください。   なお同じヰキぺ解説の中に 例の浅田彰による評言もしるされています。その内容についてわたしは 批判的なのですが それは どうしてそのような見方が出て来るのかがピンと来ないというような状態での批判的見解であるに過ぎませんので やはりくわしい方がおられれば さらに解説をしてくださいますか?  ▲(ヰキぺ:スーパーフラット) ~~~~  § 評価  浅田彰は渋谷パルコギャラリーで開催された「SUPER FLAT展 at PARCO」とそのコンセプトブックについて、    「日本の伝統美術の中からとくに平面性を取り出してくるのも、それ   をアニメの平面性とつなげてみせるのも、世界市場に向けてのマーケ   ティング戦略に過ぎないことは、言うまでもない。    それを、『自虐史観』(彦坂尚嘉)を逆手にとった捨て身の戦術と言   うこともできるだろう。    さらに問題なのは、それが『自閉的〈村〉空間』(同)に根ざして   いるところだ」  と評した。さらに浅田自身も先行して1987年にアメリカで行った短い講演「子供の資本主義と日本のポストモダニズム」のなかで「資本主義の幼児化」によって「日本の子供のポストモダニズムこそ世界の未来を先取りする」と発表していたことに触れながら、その講演から13年後に現れた村上隆のスーパーフラット宣言については    「ただ、彼が『日本は世界の未来かもしれない。そして、日本のいま    は super flat。』と宣言するとき、そこにはもはやシャープなアイ    ロニーは感じられない。     それは、いわば『スーパーフラット』なアイロニー――つまりはナイ    ーヴな自己肯定に基づく、『J-POP』とほぼ同レヴェルでの『Jアー    ト』の自己主張なのだ」  と、日本文化に対する自己言及性や批評性すらも平板化し、後のクール・ジャパンを思わせる日本文化の輸出を目論んだ一種の商標にすぎないことを指摘した。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この中で  ● 『自虐史観』(彦坂尚嘉)  ☆ は一応わかっています。前身の質疑応答の中でおそわりました。ただしわたしの感触としては そういう感じ――自虐性や自嘲性――はあまり受け取りませんでした。例の《マイ・ロウンサム・カウボーイ》なる作品についてです。  ● 『自閉的〈村〉空間』(同)  ☆ についてはまだ知りません。ただこの場合は――つまり日本で《村》という場合は―― まだ経験合理性にもとづく思惟と行為の形式を身につけた近代人の登場して来ない・自己閉鎖的な社会だと推し測られます。  そしてこの評言内容と スーパーフラットとが どのようにつながるのか。これが分かりません。前近代人ならば ふるい慣わしによって生活しており 或る程度は上下の格差があることを前提としているとも思われるからです。  しかしてさらには 次の浅田の評言はどういうことを言っていますか?  ▼ 「資本主義の幼児化」によって「日本の子供のポストモダニズムこそ世界の未来を先取りする」  最後に 次の評言については 別の意味でそのとおりのように質問者は思っていますが 果たしてどうでしょうか?  ▼ 彼(=村上隆)が『日本は世界の未来かもしれない。そして、日本のいまは super flat。』と宣言するとき・・・  ☆ つまりは 上に触れられていた《資本主義の幼児化》というのは 分かり難いのですが こちらの命題そのものとしては いまこの質問における天皇制の問題からしてかかわりがあり それだけにとどまらず 天皇制というかたちに社会形態をおさめさせた古代日本人の知恵がひそんでいるのではないか。こう考えるからです。  ○ 日本は世界の未来かもしれない。  ☆ これは 社会が対話型として成り立っており その中の一部分の――のちにアマテラス公民となるそれはそれは優秀な――人びとが 自分たちに社会の経営を任せてくれと言って来たときに そのまま《くにゆづり》をしたというスサノヲ市民たちの思想(生活態度)が 世界の未来であろうと予感されるからです。  社会にも神棚をこしらえて そこにアマテラス公民を住まわせた。つまり二階建ての造りとした。お山の大将に成りたいと言って聞かないものだから そのおねだりに《くにゆづり》した。  その結果 国家の権力者あるいは権威としての特別の存在――《おほやけ》――をまつりあげつつ しかもそのほかは 公地公民であってみな平等だという・建て前だけとしてでものスーパーフラット社会。  果てさて 村上隆とは関係ないところへ脱線してしまったでしょうか? そうでもないでしょうか?  ○ スーパーフラット・村上隆・アートの世界と社会との関係・資本主義・天皇制 そしてこれらをめぐる浅田彰・彦坂尚嘉・・・  ☆ これらを解きほぐしていただけますか?

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.8

勿論それでいいと思いますよ。 全体主義ではないし、それで問題ないです。 ただ、今までこの時代にくる課程で、さまざまな規制の置換が あったことは確かです。 例えば、今後、お前の国はどうして高い税金を集めて、そんなに 公安にお金をかけて財政をあっぱくしているんだ。もっとそこは 緩和して自由化すれば、銃もうれてお金もまわるんじゃないか、 人間は自分の命は自己責任で守るべきだ。それじゃあ、全体主義 に片足つっこんでいるようなもんだぞ。弱肉競争の精神でなければ 世界には通用しないぞ。 などと言われて、この国の風土や歴史にもとづいた特質も考えず 丸飲みしない方がいいような気がするんだけどな、というような、 ただの独断的な独り言ですね。

bragelonne
質問者

お礼

 ☆☆(上記質問の趣旨説明欄) ~~~~~~  村上隆のフィギュアは 天皇へのオマージュか?  それとも パロディなのか?  それは 例の16億円で売れた・《自己満足》の象徴のようなフィギュア作品を言います。  次が そのたたき台です。歴史的な背景の説明を添えた・フィギュアの心の解明です。     *  フィギュアをめぐる萌えと燃え。  そこには負け組と勝ち組と規定したかたちに現われた階級闘争があるかないか?  たしかに 現代の日本社会としての固有のあるいはそれとして特殊な事情や情況はあるだろうが 問題はやはり通史的に捉えた日本人の社会そして特には 国家の誕生からその展開過程を焦点とする歴史 にその答えを解く鍵があるだろうね。  展開過程と言っても じつは 何にもない。誕生のあとそこで成立したその国家の仕組みが 内部での組み替えは起きたとしても――征夷大将軍や市民資本家が 実権を握るお上になったとしても―― まったくと言っていいほど その体制は変わっていない。  この社会の成り立ちとしては    スサノヲ( S )市民‐アマテラス( A )公民   この連関制である。これは 二階建て構造を有する。そして A 圏における権力と権威の分離をも考慮に入れるなら こうである。   市民社会圏( S )‐〈政府公民圏 ・ アマテラシテ(象徴)〉( A )     * アマテラシテ( amatérasité; amaterasity; Amaterasität ):     アマテラス( amaterasu )公民ないし天皇の抽象名詞化。  アマテラス圏のアマテラス政府は じつはすでにスサノヲ市民政府である。主権者スサノヲによって権力が構成されている。ただし 国家として成り立った《 A - S 連関制》じたいは いささかも変わっていない。  そして アマテラス圏なるお二階さんが スサノヲ市民らによって形成されているにもかかわらず 一般的なクウキないし社会通念としては 相変わらずその第二階なるあたまで立っているかのごとく 逆立ちした連関制である。  けっきょくことは――問題は―― アマテラス圏における象徴アマテラシテを どうするかにある。  そもそも――神話としての伝承によるとは言え―― スサノヲ市民らが もともと平屋建ての社会にあって生活しており そこから第二階をこしらえて アマテラス族をそこに住まわせたのは そのように《くにゆづり》をしたことからだったからである。  どうしてもアマテラス族が――かれらは それはそれは品行方正・学力優秀だったからのようだが―― この世の中を 自分たちにまかせて欲しいと頼みに頼んで拝みに拝んで それにとうとう根負けしたスサノヲらは 社会にも やしろを作ってそこにかれらをまつりあげた。これが くにゆづりだったことに起因する。    スサノヲらにしてみれば あまりにも駄々をこねるゆえに しばらくは特別の場所をあたえたという程度に過ぎなかったかも知れない。ところが 一たん第二階ないしあたかも 雲の上のスーパー・ヤシロなる神棚に腰を据えたが早いか あとは そのまれにみる能力をほしいままに使い切るまでに使いこなすほどに 国家経営にはげんだことになる。権力と権威との分離がなされたあとも このお二階さんとしてのまとまりは びくともしなかった。  結論である。  要するに 駄々をこねる子供から早く人びとと自由に対等に話し合いができるおとなに成って欲しい。千五百年経ったが どれだけ経ってもまだまだ待っているんだぞというメッセージを送り続けていることになる。これが フィギュアのねらいだという読みである。  その思いを大枠として――その解決がなされなけれ人間存在の話としては何ごとも始まらないほどの枠組みとして―― あとはその時代時代のなかでさまざまに文化的・経済的な進展に応じて そのメッセージの具体的な中身が変遷して来ている。反抗と言っても せいぜいが 一揆ていどである。  つまりは現代としては フィギュアもオタクも萌えも――そして 燃えは A-S 連関制におけるむしろ A 圏の側からの応答としてのごとくであるようなのだが―― このメッセージをそれとして体現していると考えられる。  むすび:  アマテラス圏は 社会のどう考えても主役であるしかないスサノヲ圏のスサノヲ市民らに その大政を奉還すべきである。はやくおとなにならねばならない。  権力をただちにスサノヲ圏に返すと 国際関係において チカラの均衡がくづれるおそれがあるとするなら その安全保障のことをも考慮しつつ 大政奉還していけばよい。  おまけ:  だから フィギュアに自分の時間を割く人びとは いわゆる階級関係における権力闘争をしようとしているのではない。日本においては それは 筋がちがう。  逆立してしまった連関制なる二階建ての成り立ちを 風通しのよい・おとなの話し合いができる自由な仕組みに作り直そうと言うのみ。  だから けっきょく自己満足でしかない世界において自己満足でしかない手段によって 心の内なる心の奥の心にうったえている。もともと くにゆづりをしたからには 返せとか下りて来いとか なかなか直接には言いづらい。まして 引きずりおろそうとは していない。心への呼びかけにおさまる。    *  天皇が存在することによって ほかの人びとはすべて平等であって そのぶん社会の風通しがよいから 皇室(その制度)はたとえ自己満足であったとしても(*1) 存続している。それゆえ オマージュをささげている。というのか?  それとも このようなそれぞれの立ち場でのそれぞれの自己満足は起きていると思われるが これではやはり風通しはわるいのだ いつまで経ってもよくならないのではないかというパロディなのか?    *1 《皇室(その制度)はたとえ自己満足であったとしても》:これ    は ほかのすべての人びとが平等であると言っても ひとり(ひと    つの家系)は 特別な存在とされている。したがって その設定が    特別視の根拠や理由などについて 社会的な虚構を構成すると    いうような意味において 民族にとっての自己満足でたといあった    としても の意です。   ~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《ゆづりあい》の社会であり くにであるのだと。  ゆづりあいが スサノヲ人間語にもとづく市民社会の伝統であると。見倣いたまえと。

bragelonne
質問者

補足

 それでしたら われわれは すでに通って来た道であります。  ――ご回答をありがとうございます。――  日本人は社会づくりに際して 《くにゆづり》をしたと言っています。西欧の競争型に対しては 対話型であると。  【Q:村上隆のフィギュアは 天皇へのオマージュか?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7238149.html  ☆☆(No.3お礼欄) ~~~~~ ○ くにゆづり ないし 非戦論としてのゆづりあい〔のこころ〕  ☆ これが アマテラス(ないしアマテラシテ)天皇をいただく社会構造を作り上げたところから来ているとすれば それは 欧米人から見ると 異質な社会制度であり その限りでオリエンタリズムであると見られるではないか? こう問い返されるなら 説明を継がなければなりません。  くにゆづり によってスサノヲ市民とアマテラス公民とに分かれたといった《くにづくり》の方程式 これは 競争型ないし闘争型のヨーロッパ社会の社会形態とは異質であると言っても そしてそのことを フィギュアは表わそうとしていると見たとしても それが自虐でもなければ自嘲でもない。このことは すでにいま 添えておかねばならないとは思います。むしろ この謙譲の精神および非戦論の社会づくりは ほこってもよいと思われるからです。  社会づくりの方式にかんして 次の三つに分けます。  (α) 対話型:日本  (β) 競争型:西欧  (γ) 暴君型:アフリカ      (これは スサノヲ市民の側が アマテラス公民に対して その国家     の経営がうまく行かなかったときには 引きずりおろし それだけでは     なく ころしてしまうという意味で 暴君として振る舞う型)  この土地は おれのものだと宣言した者が その所有主だと成る(もしくは 見なされる)というのは 競争に勝ったからだと捉えられます。所有権が確立されていなかったなら 闘争によって奪うという方式になります。    イヅモのスサノヲ共同体は そのときすでに子孫のオホクニヌシが市長でしたが そこへ アマテラス帝国から 服属の要求が来ます。そこは おれの土地だから おれたちに従えと。  じつは その使いは 何度も何人も来ています。そのうちの一人は イヅモのムラが居心地がいいものだから とうとう住み着いてしまって 帝国へ帰らなかったと言います。何年かのちに イヅモの海岸にちょっとは武装した者が来て 服属を迫ります。  オホクニヌシは ふたりの息子の考えにしたがうと答えます。そして じつは 息子のひとりは 非戦論でしたが もうひとりは 〔じつは〕主戦論の持ち主でした。実際にたたかい イヅモから信濃の諏訪まで逃げてそこでころされたとか。  コトシロヌシでしたか その息子とオホクニヌシとは けっきょくくにゆづりをしました。主戦論も非戦論も 人の心の弱さから来る。だったら 殺し合わないほうを採ろうと。  アマテラス側は けっきょく帝国主義的行動をしているのですから 言ってみればヨーロッパの競争型です。そのような方式を相手に迎えた場合にも ゆづるという方式で行動したなら 対話型だと考えられます。対話を拒否され 有無を言わさずの暴行を受けたのですが でも対話型をつらぬいた。  したがって 《人は人に対してオオカミである》やあるいは《万人の万人に対するたたかい》といった自然状態を オホクニヌシないしスサノヲは 想定していない。その自然状態は放っておくと 共倒れになり皆殺しになるからというので 国家というそれとしての絶対的権力を秩序維持のために設定したという社会契約説 これも おそらく日本人は採らないでしょう。なじまないでしょう。国家のお二階に 暴れん坊は追いやりつつまつりあげつつ 社会全体の秩序をおもんじた。    * スサノヲこそが 暴れん坊だと誰れもが見ているし そのように   書かれてもいますが おそらくその場合には 二つの側面において見る   必要があるかと考えます。    スサノヲ市民は スサノヲどうしのあいだでは けんかをし合うとい   うこと。それほど仲が良い。しかも《和を以ってとうとしと為して》い   る。    もうひとつの側面は ヨコの関係ではなく タテの関係では はじめ   は――という意味は スサノヲのミコトその人に限っては―― じつは    その実の姉のアマテラスオホミカミに対して 姉さんがまるでかれを取   り合わなかったとき 神の宮にくそをしただの 皮を剥いだ馬を機織り   家に投げ込んだだのと大暴れをします。    スサノヲが 亡き母のところへ帰ると言って 姉のアマテラスのとこ   ろに暇乞いに来たとき 姉は これは弟のスサノヲは わが権力を奪い   に来たに違いないと言って 女ですが武装して待っていたと言います。    この信頼関係の破綻 人間不信に際して スサノヲはしたい放題のこ   とをして 暴れました。    そのあとは いっさいおとなしくなりました。オホクニヌシなどは    まるで その兄さんたちに数々のいじめに遭っても 反抗することなく   しかもその難を切り抜けるという行動をつらぬきました。もっとも 兄   たちをしのいだあと 近隣のムラを襲うという挙にも出ていますが。  こうして 競争型社会においては その社会でのアマテラス公民とスサノヲ市民とのあいだは その連関制が けっきょくこれも競争・闘争型になるようです。A-S 連関制がその上下が回転(レヲ゛リューション)します。そして対話型社会では この回転は ないようです。くにゆづりのあと ゆづりっぱなしです。  そのような対話型社会における人間の生活態度ないし生活実感 これをフィギュアに表わすなら マイ・ロウンサム・カウボーイなる姿になるであろうと考えた人間がいた。のだろうか?  こういう問いです。  ~~~~~~~~~~~~

その他の回答 (40)

回答No.11

日本は世界の未来像というのは的を得ていると思いますよ。 経済成功させた先進国であるにも関わらず、人間的な部分が きわめてナイーブにできている。 だから、いきすぎた市場原理のゆがみにいちはやく反応してしまう のです。平気で奴隷を売買したりする様な人間の尊厳を無視する行為 に対して、自分は自分と割り切れないところがいつも奥の方で、くす ぶっているのです。時代を先取りした相似です。 予想できますよ。そのうちメディアは今まで「人と人とのつながり」 といっていましたが、そのうち口を揃えて「個の自立」と洗脳を、 こころみるでしょうが、好きにさせておけばいいのです。 自分達も本当は一蓮托生なんだということが、全く理解できていない のですから。

bragelonne
質問者

お礼

 おおっ。久しぶりか あるいは初めてかなぁ。  意見が一致したのは。  ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~   予想できますよ。そのうちメディアは今まで「人と人とのつながり」  といっていましたが、そのうち口を揃えて「個の自立」と洗脳を、  こころみるでしょうが、好きにさせておけばいいのです。   自分達も本当は一蓮托生なんだということが、全く理解できていない  のですから。  ~~~~~~  ☆ メディアのことを マスゴミと言うそうですね。ひどっちさんにおそわりました。  さぁ 日本のるねさんす。  そして世界にあっても日本人の出番です。  日本の世紀になりそうです。  へへっ。  ★ ~~~~   経済成功させた先進国であるにも関わらず、人間的な部分が  きわめてナイーブにできている。   だから、いきすぎた市場原理のゆがみにいちはやく反応してしまう  のです。  ~~~~~~  ☆ こういうところは 大々的に広報活動をしてもよいのでは? またそれでいいのだ それがいいのだと積極的にです。アメちゃんは 目を白黒させるでしょうか? ほら見たことか。へへっ。

回答No.10

理として、当然そうだといっているだけです。 凶悪犯人の収監コストを圧縮するには収監の環境を 居心良くして心に安らぎを与えるのがいいそうですよ。 要するに罪の意識を鈍感にさせて、前向きに社会復帰 させる方が功利主義としては合理的なんですね。 人間のナイーブさなんかは、功利主義には合わないんです。 鈍感で腕力がある方が社会には貢献できるってことなんですね。 大味なバケツアイスを食べてなるべくドライに生きていけば いいってことだと思いますよ。 いいか悪いかは、まずおいといて。 そんな風に価値変換することが、この国に本当にできるのかなあ ということと、その価値変換に表だってなかなか見えない社会的 コストがかなりかかりそうだなということ (今でこそいろいろありますからね) 「痛み」っていうのは、 「自己責任論」からすれば「個人の我慢の範疇」ってなりますが、 軋轢による社会的コストは計算外ですからね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。 たぶんその  ★ 功利主義   ☆ は崩壊します。もしそうならなければ やはりじんるいが崩壊します。  ★ そんな風に価値変換することが、この国に本当にできるのかなあということ  ☆ は 価値観を変更する必要はないし してはならないと考えます。変換されてしまったら たとえ生き延びたとしても 人間として生きてはいないでしょう。と申し上げています。  けっきょくのところでは  ★ いいか悪いかは、まずおいといて。  ☆ というわけには行かないということだと考えます。  ○ 日本は世界の未来である。  ☆ という命題が出されているということでした。言った人の真意は分かりませんが いまここで用いるとしたら たとえば《ゆづりあい》による社会の形成 これが日本人の社会づくりとして伝統である限りで その日本は世界の未来だと解釈します。そういう価値判断の段階にも入って来ています。そういう命題を回答No.8ないしNo.9でそちらが提起なさった。それに応じての対話です。    こういう価値判断ばかりをしていては 哲学として空回りになりかねませんが こういう価値判断の話も 哲学のおこなうところだと考えるからです。  TPP の問題になるようですし 特にはアメリカ文化の形式の問題であるようです。スーパーアマテラス族が裕福に暮らせれば もうあとはどうでもよいという価値観が 世界を席巻するかどうかの問題だと見ます。スサノヲ市民一般は そのおこぼれにあづかるといった社会運営の方式のようですね。  ★ ~~~~  「痛み」っていうのは、  「自己責任論」からすれば「個人の我慢の範疇」ってなりますが、  軋轢による社会的コストは計算外ですからね。  ~~~~~~  ☆ 我慢などする必要はないでしょう。ただただそのアメリカ方式は 狂気の沙汰であるということをるる説明していくことに尽きましょう。  じんるいがほろぶか否かの瀬戸際にあるとさえ考えられます。

回答No.9

つまるところ 「自己責任」は「我欲」で担保するしかないということです。 純粋な人がどっちも真に受けたら、拮抗してるのに気づかないで 自害しちゃいますよね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 純粋な人  ☆ これは 昔はいると思われていました。人の悪意を認めない・あるいは知らない・つまりは知らないをつらぬきとおす それゆえ悪意によるしわざに遭ったら それはその人にとっては なかった事象であることになる。なかった事象には 無いをつらぬきとおすしかない。つまりは 被害に遭うそのままの状態に甘んじます。  このような人はいると思われていました。テレビドラマでしばしば出て来ました。そのあと悪に染まるという筋書きの場合もあるわけですが。  ですから 思うことは この《純粋な人》を持ち出す意味は何か? です。    おそらく ひとりとしての個人はよわい。でしょうか? それゆえ 純粋な人間という物指しのような基準を持ってくるのでしょうか。    おそらくいま問い求めている主題にかんしては むろん基本的に言っては個人の思惟および行動が どう成るのかに問題を解く鍵ないし社会が発展しうるかどうかのやはり鍵があるのでしょうが それでも社会としての事柄なら 話し合いをとおして対処することになると考えます。  すなわち民主的な手続きを経ての政策の実施などなどです。あるいは政府じたいの衣替えです。あるいは アマテラス政府が スサノヲ市民社会――ムラ(市町村)――に大政奉還するかどうかです。  これが   ★ 「自己責任」は「我欲」で担保するしかないということです。  ☆ というかたちのご批判に対するお答えになると思います。  もっと辛口に応答するならば 《我欲》を持ち出しているあいだは 民主的な話し合いはのぞむべくもない。ということになりましょう。  これが質問者のこころです。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄をおぎないます。  ☆☆ もっと辛口に応答するならば 《我欲》を持ち出しているあいだは 民主的な話し合いはのぞむべくもない。ということになりましょう。  ☆ わたしはつねづね《我欲》をおとしめることはしていません。欲望を否定することはまづありません。それにもかかわらず上の一文で用いたその意味は 《内向きの我欲・我欲の存続のために用いる我欲》というものでした。  言いかえると もはやだれと話しても埒が明かない 話し合いは断たれたというときの我欲であり その情況を受け容れるしかもうすべきことは無いと判断してしまうときの我欲です。  この我欲で生き残ったとした場合 それはもう人間が生き残ったとは言わないのだと考えます。

回答No.7

それでは、浅田氏は、「なぜアイロニーなどというのか」について ですが、 推測でしかありませんがこういう感じじゃないでしょうか。 世界資本によるいきすぎた世界市場原理主義による資本の偏在化し、 それが内を向いたマーケットに対して、 もともとは悪気がないほほえましい日本の村人の悪ふざけが、 真面目な悪ふざけと成熟していったのだけど、 ここまではいたって健全で何の問題もなかったんだけど。 やがて、日本が共同体主義的な資本主義から、個人主義的な資本主義に 変容しはじめると、「社会的な公共心」から「個人の内省的」なものに 関心がいくようになり、趣味的ともいえる技術も極端に発展してって。 そこに、偏在化した世界資本の「世界サロン」とシンクロしてしまって、 シンボルのようになってしまった。 ほんとうはもっと、ほのぼのとしたものだったのに。 と悲観的にみれば、こういう現象にみえるのではないでしょうか。 やっぱり普通に考える理想は(あくまで理想ですが)、 サロン資本がサロン市場を刺激するのではなく、 世界資本であれば、深刻な社会問題意識が市場を刺激して解決の方向に向かうとか。 市民の共同体でくくってみても、それも同じことで。 だって本当はみんなのレクリエーションだったんだもんってこと じゃないでしょうか。 そもそも覇権が目的な人達とは価値観が違うから、それはそれでいいとしても、 そういう価値観なんだなっていう認識は必要ですよね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  今回は 総論ではなく広い視野の中に捉えなければならないとしても 焦点が絞られています。  明らかに  ★ それでは、浅田氏は、「なぜアイロニーなどというのか」について  ☆ の一点になります。  わたしの読み違いであったら 分かった時点でなおさなければなりませんが 今回は 理論の問題ではない。そう思いました。  どういうことか?   たとえば こういうふうに尋ね返してみましょう。  ★ ~~~~  〔* 村上のスーパーフラットなるアート作品は〕  偏在化した世界資本の「世界サロン」とシンクロしてしまって、  シンボルのようになってしまった。  ほんとうはもっと、ほのぼのとしたものだったのに。  ~~~~~~  ☆ ともし言えたとすれば 次のように問い返します。  ○ スサノヲ人間語に立脚した庶民文化は 世界サロンとシンクロしてしまおうが・しまうまいが 《ほんとうはもっと、ほのぼのとしたものだった》し いまもそうなのではないか?  ○ つまりは 《世界サロンのシンボルのようになってしまった》というのは 世界資本の側の見方であるに過ぎないのでは? そんな見方になぜ右へならえしなければならないのか?  ☆ これです。スサノヲ語の生活文化は 根を深く強く地中に張り巡らせているので ちょっとやそっとでは その伝統は変わらない。のではなかったのですか?  なんで 見方を変えてしまうのか? つまりは 世界資本の側の見方に 自分たちのスサノヲ人間語をなぜ合わせてしまうのか? どうしてそのような付和雷同が起こるのか?  ★ だって本当はみんなのレクリエーションだったんだもんってことじゃないでしょうか。  ☆ であるのだし いまもそうであるはずです。あちらの見方が別のものだったから こちらもその見方にどうして合わさなければならないのでしょう?  ですから 他方で世界資本に対する物言いは 別にあってよいし しかるべきなのでしょう。  ★ ~~~~  やっぱり普通に考える理想は(あくまで理想ですが)、  サロン資本がサロン市場を刺激するのではなく、  世界資本であれば、深刻な社会問題意識が市場を刺激して解決の方向に向かうとか。  ~~~~~~  ☆ この声を強く打ち出していけばよいのではないでしょうか?  そのとき ひと言 《世界サロンのシンボルと見なされてしまったかも分からないのだけれど そのアートは もともとそうだし いまもつねに〈ほのぼのとしたもの〉でありつづけているのですよ》と言い添えてやればよいだけです。  ▼ アイロニー  ☆ もへちまもありません。見方は その見方をする人のものです。その見方をしないならば アイロニーもへちまもありません。と言い続けて行けばよいはずです。もしそうしないのなら ただのやっかみだったと笑われましょう。違いますか? どうでしょう?

回答No.6

そうですね。すいません、また話が違う方向にいっちゃいました。 「たすきがけ問題」ですが本当にいいたかったことは、 風土としては内向的であり閉鎖的で空気を気にする傾向があり、 近視眼的にとりくみがちだが、しかし、それを補完する役割が 空気を気にする機能やサービス精神や公共心になるのだろう。 全体の最適なアウトラインの決定をしようとする場合は、 「熟練した近視眼」の目をリセットする努力が必要になる だろうが、もしそこが閉じたサロン的空気の中だったら、 むずかしくなってしまうかもしれない。 たぶんこんなことが言いたかったんだと思います。 ニッチ市場とか、自閉的言語とか、 他にもなんか気になっていたことがあるんですが、忘れて しまいました。 よくわからないけど、ブロジェロンヌさんは、 もう解決したってことですか。 もしそうだったら、いつでも閉じてください。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~  ニッチ市場とか、自閉的言語とか、  他にもなんか気になっていたことがあるんですが、忘れて しまいました。  ~~~~~~  ☆ そうですね。忘れさせるような姿勢を取ってしまったかも知れません。でも ふたつの主題は覚えているようでしたら あらためてどうぞ。  ★ ~~~  よくわからないけど、ブロジェロンヌさんは、 もう解決したってことですか。  ~~~~~  ☆ というふうに思わせてしまう姿勢だったようですね。  それはですね。まづ問いは  ○ スーパーフラットってやっぱ天皇制と関係ありでは?   ☆ なのですから 例の彦坂氏の評言のように天皇制とかかわらせた見解が聞いてみたかった。そしてこれが ほかに回答者もなく はあとまいんどさんも触れないということでしたら 浅田・彦坂らの評論の取り扱いが一たんはっきりしたなら この質問はお開きにしようかと思いました。  けれども 取り扱いがはっきりしたことと それらの評論がはらむ問題が そのまま続いて行くということは別です。それで後者の問題は 別仕立ての質問へ移行させようかと思ったというところです。  この質問での補足的主題についての問い求めというかたちにしても わたしは構いません。一つひとつ片づけていくことを心掛けているといった姿勢だと思います。  さておおむね第二幕としてとなると思いますが:  ★ ~~~~  「たすきがけ問題」ですが本当にいいたかったことは、  風土としては内向的であり閉鎖的で空気を気にする傾向があり、  近視眼的にとりくみがちだが、しかし、それを補完する役割が  空気を気にする機能やサービス精神や公共心になるのだろう。  全体の最適なアウトラインの決定をしようとする場合は、  「熟練した近視眼」の目をリセットする努力が必要になる  だろうが、もしそこが閉じたサロン的空気の中だったら、  むずかしくなってしまうかもしれない。  ~~~~~~~  ☆ やはり大きな視野のもとに広い分野にわたる問題を捉えるというかたちの主題だと考えるのですが そうですね。微妙に捉え方がわたしの場合ちがうというような話から入りましょうか。  1. スサノヲ人間語の生活およびその生活文化はもともと  ★ サービス精神   ☆ を持ち これを大いに発揮していると捉えます。スサノヲ人間語を話す人びとは――庶民は―― 悪口を言い合い けんかをするほど仲がよいあいだがらであって 人が困っていたなら いつでも一肌脱ぐ用意が出来ています。そういう意味で サービス精神が旺盛です。  2. よって わたしの言葉で《情感の共同性》が成り立っており 言わば義理と人情が活きています。義理をも人情をも重んじることで その板挟みになってしまうこともあるくらいです。  3. 義理は  ★ 公共心  ☆ に通じましょうか。少し違うかも知れません。つまり アマテラス科学語ないしアマテラス人格語にきちっともとづいて公共心を発揮するというのとは違うかも知れません。つまり 公共道徳を侵す場合もあるかも知れません。  4. おそらくアマテラス人種との違いは そのあやまちに気づいたら ごめんよとあっさりあやまるところではないでしょうか? アマテラスさんらは 容易にはあやまりません。  5. アマテラス人格語は 普遍のものであって あやまちなどを侵すはずがないと思っているし また――いまの課題になっているところの――そういうクウキにも成っている。これを アマテラス語の無謬性――ないし不可謬性――なる神話と名づけます。  6. と言いますか アマテラスお二階族は そのお二階じたいが 《おほやけ》であって 公共心の権化なのだと信じているのでしょう。この思い込みは 千年ないし千五百年は つづいています。  7. で  ★ 空気を気にする機能  ☆ は けっきょく――そもそもの初めの《くにゆづり》の精神そのままに―― スサノヲ市民らは このアマテラスお二階さんの作成し実行する国の経営方針に まづはしたがっています。そこに クウキを気にする機能がはたらいています。その二階から送られてくる風のごときクウキを気にしています。  8. しかもこの二階からのアマテラス風としてのクウキを オゾン層のごとく帽子のごとく覆いかぶって 〔しかも〕その職場なら職場におけるやはり上下関係については 言わば相似的なクウキ関係をこしらえている。ことになる。  9. こんなクウキは おかしい。とむしろ肌で感じた若い人たちが出て来て かれらの振る舞いに対して ジョーシキ派は 例の KY なる称号を贈ったということにもなっている。こんな腐ったようなクサイ風をこうべに頂いたこの場の雰囲気としてのクウキ こんなクウキに従えるか?! というもっともな主張であると考えます。ですから   【Q:KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6117420.html  という将来への展望を持ちましたし 問いを発しました。  10. なにしろ スサノヲ人間語の生活およびその生活文化は きわめて根強く大地に根を張っていますから うすっぺらでちゃらんぽらんなアマテラス人格語やアマテラス科学語のけっきょく模造宝石には騙されません。《おほやけ》のつとめに任ずるお二階さんこそ おほやけや公共心に反しているのではないか?  スサノヲが違反するのは たかが知れている。お二階さんが違反すると くにがほろぶ。  11.★ 風土としては内向的であり閉鎖的で空気を気にする傾向があり、近視眼的にとりくみがちだが  ☆ というのは まづ《クウキを気にする》は すでに解釈しました。《近視眼的にとりくみがち》というのは これは 視野をどこまで広げるか あるいはつまり世界についてどれだけ判断材料として知っているかの問題ですから 勉強するかしないかになります。一階も二階も関係ないでしょう。  12. 《内向的で閉鎖的》は どうか? これは 煮詰めたかたちで言えば スサノヲ世界において その指導者のあたまがふるい。この一言に尽きましょう。  江戸時代の農民だって 隠し田を作ったりして年貢というクウキに抵抗しています。この傾向をもしあたまの凝り固まったふるい指導者がいたら かき消すことでしょう。おまえらは あくまでアマテラス人格語に従え 何が何でも従え お上のオホヤケ性の重要であることを思い 内向的かつ内攻的にしておのれの心につねに省みつつ振る舞えとでも言うかも知れません。  このような世界は 閉鎖されています。小さく  ★ 閉じたサロン的空気の中  ☆ という世界でもあり得ます。  13. したがって  ★ 全体の最適なアウトラインの決定をしようとする場合は、  ☆ どうしても 自分たちの置かれた狭い場としてのクウキにしろ ひろくくにとしてのクウキにしろ このクウキ問題にかんするところの  ★ 「熟練した近視眼」の目をリセットする努力が必要になるだろう  ☆ と考えます。もっと早く言えば  ○ クウキをリセットしよう。  ☆ となりますまいか?  スサノヲ人間語は けっして  ★ 自閉的言語    ☆ ではありません。そうは成り得ません。上に見たように 一時的にふるい指導者のもとにそうなるわけですが つねに息吹きも地下水も湧き出ています。ところが アマテラス語は もう固まってしまっています。無理です 軌道修正は。可塑性がありません。  このように考えますが いかがでしょう?

回答No.5

やっかみだけの問題とかたずけてしまえば、今のいきすぎた 市場原理社会のゆがみの正体とそれが引き起こした数々の問題 はわかんなくなっちゃいます。 わたしもちょっと前までは、閉塞感の正体は「やっかみ」かと 疑ってみたこともありました。きっとそれも否定できない問題 かもしれないだろうけど、でも、さらに、もっと奥深く潜む、 その正体は、もっと別のものなんじゃないかと思うようになり ました。 若い人がパイオニア精神をもつことはいいことだと思いますし 否定しません。貴重な経験にもなるだろうし。 でも、私たちが住んでいる国の風土はもう少し複雑ですよね。 配分の問題は配分だけの問題とはいかないみたいです。 「情動の連鎖」の問題が大きくかかわりあいをもっているようです。 例えば、ご飯食べてるときに隣のひとが、いかにも気分が悪そう だったら食が進みませんよね。でも、食べないと経済活動には、 ならないじゃないですか。だからやっかみだけが経済活動のじゃま をしているわけではないんだと、震災があってそう思いました。 浮世絵という誇るべき文化を作った土台は何かをいうことです。 新自由主義だってもともとは悪気はなくて、そんなお国自慢が活発に いきかえば刺激が多くなっていいんじゃないか、というそういう発想 で出発したんだと思います。だけどその為に土台がくずれちゃったり したら、お国自慢がお国自慢じゃなくなってしまう。 浮世絵が他の国の文化に影響を与えるのはいいんだけど、浮世絵の本当 の精神が無くならない方が連鎖反応としては効果的ですよね。 日本でカレー食べてて、本場のカレーをインドに食べにいったんだけど 同じ味だったらちょっとがっかりしませんか、これはインドの食べ物な んだろうな、からはじまって刺激をうけているんじゃないでしょうか。 連鎖反応が鈍い国は、新自由主義があっていると思いますが、私たちの 国はけっこう反応しますから。コミュニティの情動の動きにあわせた近代 の効果的な取り入れ方がポストモダンではないかと思います。 高付加価値はけっこう自慢だったのに、それをもっと育てるのを手放して システムをそのまま、まねすればいいと思ったんですね。 金融にシフトして労働コストをおさえるっていう。 技術立国であるはずの原発問題は、技術は単に技術でしかないと、上から決め つけてしまったことが原因の一つの要素だと思います。 やっぱりサービスの精神がきちんと反映された技術の「モノ」が柱でないと。 賭け事が柱というのもあぶないですし、かといって介護サービスの一人工の 高付加価値化っていったら、さらにそこに過酷さを増すのかって話になるし 海外から安い人材をその為にって、そんな人権侵害の国の真似をどうどうと できるかって思いますから。(個人的にそう思うだけだけど) でも、そういう気持ちの問題がそのまま情動の問題になって、それが経済を 流れるリビドーの問題になりますよね。 等価交換だって考えるからパイの分配ってなるけど、じゃあ手つかずの豊かな 自然のなかで子供をのびのび遊ばせただけの対費用効果って、どう分配するん だって話になっちゃいませんか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  今回は盛りだくさんです。文化および経済をまとめて視野に入れたご発言であるようです。  いままでもそのような視点から述べておられたようなのですが 対話ないし問答は 一つひとつの主題を片づけて行かないことには始まりません。ものには順序があります。  そうして 質問者の問うところから始めてもらっているということでもあります。  前回から話を継ぐとすれば 次の問いとしての認識が共有できるかから始めることになろうかと考えます。  ☆☆(No.4お礼欄) しかるにやっと今回分かったことは スサノヲ人間語のアートが アマテラス人格語の世界に言わば昇格されたら 不愉快だって言うんでしょ?  ☆ ところが おそらくこの見方じたいは共有しうるけれど でもそれだけではない というお答えであるようです。ということで その《でもそれだけではない》という問題にすでに入って論じておられる。  こちらとしては このあらたな論点に入るときの互いの共通認識をやはりさらに確認しておかなくてはならない。こう考えます。  でもそのことは あんがい簡単であるようにも思います。それは おそらく伝統ということ・そしてそこに築かれたちょっとやそっとでは壊れないどころか変わりもしないその良さを 守る。この一点を外すか外さないかで 世界はぜんぶ変わってくるのだ。と主張なさっているように受け取れるからです。  すでに前回そのことを確認しています。  ☆☆(No.4お礼欄) スサノヲ語の美術の世界が とにもかくにも 地中に深く根を張ってしっかりと培われ育って来たものだという見方が明らかにされていました。  ☆ この《伝統》は いくら自由だと言ってもそれほどたやすく手で触れれば分かると言ってみたりかたちを変えてみたりするものでも 出来るものでもないのだ。ちょっとやそっとで ものが・技術が変質するわけではありえないのだと。  いわく。  ★ ~~~~   やっかみだけの問題とかたずけてしまえば、今のいきすぎた  市場原理社会のゆがみの正体とそれが引き起こした数々の問題  はわかんなくなっちゃいます。  ~~~~~~  ☆ まづ誤解のないように言いますが 前回の認識と言いますか 上に重ねて引いた共有点は 《やっかみでしかないと見て片づけた》わけではありません。そうではなく 《やっかみや 人間性をうしなうなかれという内容でしかない批評をしていて どうするのか》と言っているわけです。  そうして この主題は あなたのおこなったように社会の広い観点からさらに問い求めをすすめ得る課題を含みますから それはそうなのですが 前回にはわたしはその点については 何も触れていないわけです。  浅田や彦坂の評言が どういう意味なのか。これを明らかにしたいというにとどまっています。  つまりは それ以上は何も触れていませんが 言っていることは むしろ同じです。  ★ やっかみだけの問題とかたずけてしまえば・・・   ☆ とは微妙に違うところもあります。つまり  ○ やっかみや 人間性の復唱を内容とする批評をしても 何にもならないではないか。  ☆ とまでは 言っているわけです。  さてここから あらたに主題追究を伸ばして文明論に入るかどうかになります。  触れておられる主題は二つの論点を持つと見ます。  (1) やはり《伝統》ということ。しかもその堅固さを忘れるなかれと。  (2) 《情動の連鎖の問題》と表わされた日本人の《情感の共同性》あるいは《前へならえ》精神について。  今回はまづはかんたんにお応えします。これからの段取りがそうすることによって分かって来ましょう。  (1)からです。そのうったえにも似たご発言を確認します。  ★ 浮世絵という誇るべき文化を作った土台は何かを〔* → と〕いうことです。  ★ 浮世絵の本当の精神  ★ やっぱりサービスの精神がきちんと反映された技術の「モノ」が柱でないと。  ★ 手つかずの豊かな自然のなかで子供をのびのび遊ばせた〔* というそのスサノヲ語の生活文化〕  (2)の情動の連鎖にかんしては 次の例示です。  ★ 例えば、ご飯食べてるときに隣のひとが、いかにも気分が悪そうだったら食が進みませんよね。  ☆ おそらく例のクウキの問題に発展するはずの問題です。人びとのつながりといった良い(もしくはそれほど悪くない)側面としては 情感の共同性が発達しているといった情況なのではないか。  悪くみれば つねに前へならえし 右向け右っ! とむしろクウキによって無言のかたちで言われたなら そのままあっさり右を向くというクセであり慣わし。  二つの論調を合わせて見るなら こうでしょうか?  ○ ~~~~~  伝統文化が 評価されるのはよいことだ。けれどもその伝統の精神が伝わらず ゆがんだかたちで 捉えられてしまっているとしたら それは かなしいことである。  しかもこのかなしさは かなしさが情動の連鎖において多くの人びとに共有されるならまだしも そうではなく けっきょく《ゆがんだかたちで捉えられた伝統》が もともとの伝統だと見られてしまっていてその見方が情動的に連鎖を起こすなら これは悲劇であるのではないか?  ~~~~~~~  どうでしょう? 分かる気がするのですが でもそれほどかんたんな話ではないとまづ思います。  それは 伝統もやはり変わります。変わるのです。わるく変わったなら またもとのよいかたちへ戻せばよいでしょう。そういう問題だとわたしは 単純に基本的に見ますけれど どうなのでしょう?  ★ 日本でカレー食べてて、本場のカレーをインドに食べにいったんだけど同じ味だったらちょっとがっかりしませんか  ☆ つまりこのような伝統の変化はまづあり得るのだという前提を置いて あとは 伝統のよさを互いに追究して行く。といった姿勢。まづはこれが 考えつくことなのですが どうでしょう?  (おそらく こう前提を置いたあとでは むしろ伝統をまもれという声にわたしは唱和するかも知れません)。  ★ 気持ちの問題がそのまま情動の問題になって、それが経済を流れるリビドーの問題になりますよね。  ☆ このように情感の共同性が 人びとにあってはあたかも条件反射のごとく行動するファッション性を帯びて経済行動についても情動連鎖が起こる。という問題。  これは いまアマテラス予備軍症候群の問いとして問うています じつは。ですから 質問者としましては 村上隆問題は いちおうこれで切り上げて ただし《スーパーフラット》論は 日本人および日本社会の議論ですからつづきましょうが あらたに始めたほうが すっきりしませんか?  今回のご回答をほぼ同じかたちで 投稿くださってもよいように思うのですが どうでしょう?

回答No.4

村社会文化といったら、浮世絵でしょうか。 町人文化の方がしっくりくるかもしれませんが。 色もきれいで、わかりにくいものはないし親しみ やすい。 目的としても大衆のためのものだから、見ててひきこまれて 心の深いところに作用するようなそんなストイックさを 追求する必要はない。どっちかっていうと通俗的なもの ですよね。 大衆の為のものだから、時にはジャーナリスティック なものも、反権力的にもなる。風俗画といっても あくまで風俗側の目線の風俗画。 だけど、長い時間をかけて成熟していった。 その情熱はどこからきたかといえば、 これは大衆による大衆の為のものなんだ。 こんなものは決して芸術なんかじゃないんだという 絵師達の意地とプライドが無欲の欲となって、 そうさせたんじゃないでしょうか。 今のサブカルと通じるところが、あるし、 だから西洋なんかに評価されたくないっていうのも うなずけますよね、 これがたすき掛けになるということは、 分かる人にだけわかるものであって、庶民になんかに 理解されたくなくって、サロン的で深いもの として扱われたらこれほど不愉快なことはないって ことになるのでしょうね。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。――まづは ご回答をありがとうございます。―― そんなふうに《美》なら美を捉えておいででしたか。  つまりは 美には二種類がある。その捉え方において ふたつの美は 世界がちがうのだ。と。  たぶん分かりやすいと思うのでわたしの用語を使います。つまり    庶民の世界:スサノヲ語(あやまちうる人間のことば)    上層の世界:アマテラス語(普遍性を持った内容を表わす科学語         およびあやまち得ない人格としてのことば)  わたしのついぞ気づき得なかったところは これらふたつの世界があたかも互いにどこまで行っても分かり合い得ないへだたりがあるとして捉えられていたところです。  しかるにやっと今回分かったことは スサノヲ人間語のアートが アマテラス人格語の世界に言わば昇格されたら 不愉快だって言うんでしょ?  ★ ~~~~  分かる人にだけわかるものであって、庶民になんかに  理解されたくなくって、サロン的で深いもの  (* つまりアマテラス語世界のもの)  として扱われたらこれほど不愉快なことはないって  ことになるのでしょうね。  ~~~~~~  〔☆ これが何で《たすき掛け》になるのか分かりませんが つまり:  ★ これがたすき掛けになるということは  ☆ というのであれば 両世界は もともと同じ次元で並んでいたことになります。それが 互いに――時を経つつ(それゆえ たすき掛けみたいなかたち)――あたかもその世界の特徴となるようなアートをそれぞれ交換した格好となる。このとき たすき掛けの状態が現われる。けれども そんなことはあるんですか?  つまり アマテラス人格語のアートが 言わばアマクダリしてスサノヲ世界にやってきた。という並行現象があるのですか?  今回の問題にしているスーパーフラットは ただそれが スサノヲ世界から――マーケティング戦略よろしく――アマアガリして行ったということ それだけのことではないのですか?  しかも この両世界は 同じ次元に並んでいるのではなく 上下関係であり いわゆる二階建て構造となっているのですから アマアガリかアマクダリの上り下りしかないのでは? それとも しっかりとしたたすき掛けのかたちが現われていますか?  このように何でたすき掛けなのか分からなかったのですが それは措くとして〕  スーパーフラットなスサノヲ語アートが アマアガリして行ったら 不愉快になるというのは ただうらやましいというだけのことではありませんか? やっかみで《自虐史観》だの《マーケティング戦略がどうのこうの史観》だのでチュンチュン鳴いているだけなのではありませんか?  わたくしは 村上隆のアートのその美の問題については 言わばどうでもいいのです。その出現が社会的にどういう意味を持つのか これを探りたい。だけです。  問題は アマテラス科学語もアマテラス人格語も すべて スサノヲ人間語から練り上げられ磨かれて成り立ったものだということです。しかも科学語や人格語の上にアマテラス族が胡坐をかくならば それ相応にしっぺ返しを受けるということ これも目に見えていると言ってよいでしょう。  もっと言えば アマテラス語のよさは――その精髄は―― かなしいかな スサノヲ語の中から出たものです。しかもスサノヲ語でなくなったわけではありません。足は 地にスサノヲ地面にしっかりとつけています。つけていなければ 足を掬われます。  浅田の評言は まさにアマテラス人格語によるええかっこしいでしたね。彦坂の自虐史観は 他人の成功がうらやましいというスサノヲ語による愚痴でしょう。  * スサノヲ語の美術の世界が とにもかくにも 地中に深く根を張ってしっかりと培われ育って来たものだという見方が明らかにされていました。

回答No.3

なんか怒らせちゃったんでしょうか。 言葉足らずだったのかもしれないし、言葉の選び方も悪かったのかもしれませんね。 私はご承知のとおり不届きものですが、しかし、直感ですがたぶん浅田氏という人 はきっとそれなりの方だと思いますから、ただ作品を批判したのではないと思いま すよ。そういう作品が評価される社会の現状を現象として、ただ単純にそのとおり 言ったまでだと思います。 例えば、子供は社会の鏡だと言いますよね。 一パーセントの人がバルコニーでシャンパンを飲んでいるその足下で、99パーセント の人が不満を爆発させているこうけいをみた幼い女の子が仮にいるとして。 「私は努力して1パーセントの人になりたい、怠惰でおろかな99パーセントの人間 にはなりたくない。」 と言ったとして、もしそう言ったとすれば、そう言わせてしまった責任は大人にあると 言いたいのです。 ポストモダンはモダンの先を目指していたはずです。だから本来はイコール、 アンチモダンではないと思います。 誤解をおそれずもう少し例をあげるとすれば、 「僕は将来かっこいいヒューマノイドが作りたい」といっていた男の子が、やがて成長 して、他人のケツの穴の汚れを本気で心配したものを開発してくれたらいいな、という 希望をこめているだけです。 シャンパン飲んでいる人がそんなもの作りたがるでしょうか。 東北のおばあちゃんがどうして口を酸っぱくして「いのちてんでこ」と言いつづけたと 思いますか。村社会の人は口を酸っぱくして言わなければ、すぐ空気を読むような 分からずやな人達だからです。 市場は人間の欲望と連動していますから倫理を気にしません。 しかし、欲望には忠実です。 私たちは市場原理社会に生きていますから基本的には自由です。 空気など読まなくてもいいのです。 選挙制度で、TPPになんか頼らなくても、関税も主体的にいつでも撤廃できます。 どの国も「抜け駆けだぞ」なんて怒りません。 臓器売買も、麻薬も、銃も、武器も、買春ツアーの受け入れも、いつでもなんでも やろうと思えば、世界需要が欲しいといえるものを売ったっていいんです。 自由ですから。本当は恐ろしいほど私たちは自由なんです。 わたしは、浅田氏は「たすき掛け」の状態を、ただ憂いているだけだと思いますが。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  考えさせられるご文章ではあります。  なかなか理解が行き届きません。    かくなる上は 小学生になって お尋ねするのがよいでしょう。  ★★(回答No.2の末尾) 現在では村社会文化がグローバル化にうまく利用されているとなげいているのではないでしょうか。  ☆ ここで 《村社会文化》とは どういうことを言うのでしょう?  ★ わたしは、浅田氏は「たすき掛け」の状態を、ただ憂いているだけだと思いますが。  ☆ この《たすき掛け》の意味がついぞ考えつきません。  ★ ~~~~  ・・・ただ作品を批判したのではないと思いま  すよ。そういう作品が評価される社会の現状を現象として、ただ単純にそのとおり  言ったまでだと思います。  ~~~~~~   ☆ これは そのとおりに理解しています。その中身がどういうことであるのかです。《マーケティング戦略》だとすると それを指摘するということは その商品を実際に売る人とそしてそこから一歩離れて見る人とでは 意味が異なって来るのではないか? 一歩離れて見た結果 マーケティングがどうのこうのと言う場合には 人間の良識から見ると 大した人間性を表わしてはいないと見えると言っているように思われます。  どうしてそんなことを言うのか? という疑問ですが そのような受け取り方じたいが 勘違いであるかも分かりません。  とりあえずここでは 次のふたつを お尋ねしたいと思います。  ○ 《村社会文化》とは何か?  ○ 《「たすき掛け」の状態を、ただ憂いているだけだ》とは どういう意味か?  ★ ~~~~  ポストモダンはモダンの先を目指していたはずです。だから本来はイコール、  アンチモダンではないと思います。  ~~~~~~  ☆ これについては 一面において ポストモダンは アンチモダンであるとわたしは考えます。すなわち われ考えるの主体――そこに実体があると見るような主体――に対して 無主体をとなえるかたちで アンチモダンであると見ますが どうでしょう?

回答No.2

現在のようにグローバル化が進んで、資本が世界資本となり、市場が世界市場 となって、二極化が進んで(1対100のような格差といってもいいかもしれ ません)マーケットが偏在化した部分が内に向くという現象があるが、それよ りもっと前に日本はその傾向があった。 日本は他の国と比べると格差がはっきりしていないにもかかわらず、内向文化 指向だったということです。 木材加工という一つの例をあげるとするならば、職人は当然その発展を望んで より効率的に加工され広く社会に貢献したいと思うでしょう。 日本の職人はしだいに道具にこだわり、より手になじみ自分の技を思う存分発揮 できるようなものを求めます。 一方他の国の職人はより効率的に人工をかけずに加工することが真の目的ととらえ 風の力をつかって風車の動力でより多くの木材加工の効率化に成功します。 全体的な最適化を考えるのが実はもともとあまり得意ではないのですね。 それを村社会が補完していたという面もあるのでしょう。 モダンやポストモダンの日本のとらえ方も、偏りがあって、 そもそも「住む機械である」というのは、冷たい機械というイメージを強調 したのではなく、住む人間が主役で尊重されるべきであり、建築物は我を殺し て機械に徹するべきだという意味ですよね。それがイデオロギーにねじ曲げら れて利用されるなどの歴史はありましたが、ポストモダンは失われたモダンの 真髄を見直そうという部分も含まれるのですが、日本ではそういう感じにはな らなかった。 現在では村社会文化がグローバル化にうまく利用されているとなげいているの ではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。分かったと思うところから確認してまいります。  ご回答をありがとうございます。  まづそうだとしますと 浅田は まるで自分が じんるいの良心であり 世界の良識の代表であるというかのように振る舞っているということでしょうか?  ★ 現在では村社会文化がグローバル化にうまく利用されているとなげいているのではないでしょうか。  ☆ じっさいそうであるのかどうか これもよく分からないのですが そういう姿勢を取るということは いま言った言わば認識論の最良の部分で 世界のあらゆる現象について評定し裁定しているのだとなるように思われます。  ★ モダンやポストモダンの日本のとらえ方も、偏りがあって、  ☆ そもそも西欧で言う《モダン》が日本でどういうふうに受け取られたか そこから入っていかなくては話は始まらないと考えます。ましてそのあと ポストモダンだとか言っても どういうふうにモダンのあとであるのか さっぱりはっきりしないのではないでしょうか? 《片寄り》どころではないのではないでしょうか?  ★ ~~~~  そもそも「住む機械である」というのは、冷たい機械というイメージを強調  したのではなく、住む人間が主役で尊重されるべきであり、建築物は我を殺し  て機械に徹するべきだという意味ですよね。  ~~~~~~  ☆ たぶん そのヨーロッパだけの問題としても 表現がわるいでしょうね。《機械》と言っていては。  ★ ~~~~~  ・・・(承前)・・・それがイデオロギーにねじ曲げら  れて利用されるなどの歴史はありましたが、ポストモダンは失われたモダンの  真髄を見直そうという部分も含まれるのですが、日本ではそういう感じにはな  らなかった。  ~~~~~~  ☆ ポストモダンは モダンを克服するために出たのではないのですか? 言わば否定して出て来たのではないですか? 無主体を言ったものだから わけの分からない思想となりました。と理解しています。  すでに見たように日本では そもそもその内容がはっきりしていないのですから どういう変遷をたどったかと言っても 話はまとまらないのでは?  《わたし》もしくは《〈わたし〉なるもの das Ich 》が 《自我》と訳されました。 わたしのほかに脳のどこかの場に自我という地帯があってそれ独自のはたらきをしているかに見なされています。  人びとの中で人びとを前にして自分の主張を言うためには《自我》が強くなければならないなどとでも受け取られていないでしょうか? 人びとに自分の考えを述べるのは 《わたし》です。どこに自我などというお化けがいるものですか。  自我が確立すると 我を張り自己主張が強いだの すぐに権利を主張しがちだのと口にして いったい何を学んできたの?と問い返さなければならないほど ふつうの《わたし》が混乱してしまっています。混乱させられてしまっています。  ここへ モダンがどうのポストモダンがああだのと言って 話が意味のあるものになりますか?  とにもかくにも 日本人は家を一歩出ると あたまは クウキ・モードに切り替わります。玄関の前まで 縦横無尽に穿たれた観念の運河が 走って来ていて そこを通らなければ どこへも行けません。通行手形が クウキであり それに従うことです。  村なる共同体における人間関係の名残りだと見てよい部分が多いのでしょうけれど それでもその昔のムラビトでさえ 合理的な考え方は身に着けています。ただそれを発揮しえなかっただけです。村の――だいたいは 少数のえらいさんたちの合議制の結果としてのような――クウキに首から胴から足からがんじがらめに巻かれていたとは言え 経験合理性による推論をみちびこうとする知性が 欠けていたわけではありません。  つまりは クウキ・モードというマクロにおいてもミクロにおいても成り立っていて観念の運河として貫かれている思惟および行為の形式が 大前提としてあって その中を走るゴンドラないし観念ないしクウキの中身は たしかに時代によってあたらしいものへと変わって行きます。  軍国主義から民主主義へと ゴンドラが新調されました。現人神から人間天皇へと変わったと ゴンドラの船体のどこかに書いてあります。  義理と人情から 理性一辺倒の合理主義へと。鬼畜米英からアメリカ様へと。モダンからポストモダンへと。(これは おそらく ただ単なるファッションとして始まったし変わったのであろう)。  おそらく イデオロギーもへちまもありません。お上の号令一下 ゴンドラは変わります。そのクウキに従っていればよいと 物分かりのよいあほばか状態になっています 人びとはすでに。そういう振りをしなければ生きて行けません。  その代わり 職人が丹念にものづくりに励むことは そのまま奨励されます。  ★ 日本は他の国と比べると格差がはっきりしていないにもかかわらず、内向文化指向だったということです。  ☆ 内向文化と言っても よく中身が分からないのですが かつては共同幻想と呼ばれた《観念の運河の社会体系》ですね。その中で クウキなる手形を持っていれば あとは自由だと言われています。幻想が現実だと錯覚するほど 互いに情感の共同性は活きてはたらいていたのでしょう。  ★ ~~~  全体的な最適化を考えるのが実はもともとあまり得意ではないのですね。  それを村社会が補完していたという面もあるのでしょう。  ~~~~~  ☆ 《補完していた》と言いますか 大枠は運河のうねりであり そこを航行する人びとは 運河以外にはもう自給自足するよりほかは道がないのですから その幻想社会に甘んじていた。のでしょう。アマテラス公民なる経営層ないし社長からの命令一下 まとまってしかも各自がそれぞれのゴンドラを漕いでいたのでしょうね。    それで このような運河航行を旨とするムライズム文化の特徴を売りに出しそれが世界の中で成功したことと この文化を哲学がどう分析し診断し処方箋を書くかとは 立ち場が違うと思うのですけれど もし同じであるとしたら どういうことが言えましょう?  おそらく浅田がスーパーフラットを売りにした商品を批判するように 人間性の保持を基調としてアートだろうが何だろうが 創作しそれを社会に供給したまえとなるかも知れません。  つまりは じんるいの良心となって 世界の良識の代表であると胸を張ってそのように宣言する批評が考えられます。  そういうことでしょうか?

回答No.1

こんばんは。 浅田氏については「ネオテニー」でひくとある程度理解できました。 つい先日、本当にタイムリーに経済カテで少し似たようなことを回答 したばかりなのでちょっとびっくりしました。(そういうことってある んですね。) ポストモダンの定義の「原型」についてはもう少し肯定的なイメージ をもってはいましたが。 天皇制との関連については、申し訳ありませんがよくわかりません。 そこで回答したように、この現象については私自身は正直いうと否定的な とらえ方をしています。自虐史観は原因のひとつだとは考えていませんが、 もともとそんな価値観は私の身の回りでは聞いたこともありませんしね。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  いやぁ むつかしいですね。結論は分かりません。りかいが行き届きません。  ★ ~~~~   浅田氏については「ネオテニー」でひくとある程度理解できました。   つい先日、本当にタイムリーに経済カテで少し似たようなことを回答  したばかりなのでちょっとびっくりしました。(そういうことってある  んですね。)  ~~~~~~  ☆ ネオテニー絡みでの解釈もお手上げです。  投稿なさったご回答もよう見つけませんでした。  浅田の評論ですが:  ▼ ~~~~  「日本の伝統美術の中からとくに平面性を取り出してくるのも、それ   をアニメの平面性とつなげてみせるのも、世界市場に向けてのマーケ   ティング戦略に過ぎないことは、言うまでもない。  ~~~~~  ☆ マーケティングがこれはこうだ あれはああだと批評するのと そしてこれもあれもマーケティング戦略の一環であるに過ぎないと批評するのと ふたつは同じではないでしょう。後者は――商品が商品であるかぎりでは―― あたりまえだとしか考えられません。何を何で言っているのか まったく分かりません。  色をつけて評すれば どうもうらやましがっている。意固地のようになっているとも見られます。  ▼ ~~~~~   それを、『自虐史観』(彦坂尚嘉)を逆手にとった捨て身の戦術と言  うこともできるだろう。   さらに問題なのは、それが『自閉的〈村〉空間』(同)に根ざして  いるところだ」  ~~~~~~~  ☆ だからどうだって言うのだろう。商品を 合法的な範囲で手を変え品を変え売ろうとしていることが どうだって言うんだろう?  ▼ ~~~~~  さらに浅田自身も先行して1987年にアメリカで行った短い講演「子供の資本主義と日本のポストモダニズム」のなかで「資本主義の幼児化」によって「日本の子供のポストモダニズムこそ世界の未来を先取りする」と発表していた  ~~~~~~~  ☆ いちいち検索するのが じつは 億劫なのです。ご存じの方に解説していただければありがたいです。  ▼ ~~~~~   〔上記発表〕に触れながら、その講演から13年後に現れた村上隆のスーパーフラット宣言については    「ただ、彼が『日本は世界の未来かもしれない。そして、日本のいま    は super flat。』と宣言するとき、そこにはもはやシャープなアイ    ロニーは感じられない。     それは、いわば『スーパーフラット』なアイロニー――つまりはナイ    ーヴな自己肯定に基づく、『J-POP』とほぼ同レヴェルでの『Jアー    ト』の自己主張なのだ」  と、日本文化に対する自己言及性や批評性すらも平板化し、後のクール・ジャパンを思わせる日本文化の輸出を目論んだ一種の商標にすぎないことを指摘した。  ~~~~~~~~  ☆ 何が目的で論評していて どういう結論に到るというのか? 商品を売るのなら それとしてその品物の《自己主張》はなされているはずである。いったい何を見て何を言おうとしているのか。分かりません。    という問いです。  ★ 天皇制との関連については、申し訳ありませんがよくわかりません。  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~  ・・・権威としては 《おほやけ=公共性ないし普遍性》をになっていたのが アマテラシテ天皇である。一君のもとに万民が平等であるという思想であり建て前である。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ という説明でも 関連の有る無しについても 分かりませんか?

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