縄文土器の美を現代人は作り出せるか?

このQ&Aのポイント
  • 現代人が縄文土器の美を再現できるかについて考えてみましょう。
  • 縄文人の土器には火焔型土器がありますが、その美しさは一部の人によって評価されるものです。
  • 現代において、縄文土器の美を超える作品は出ていないのか、または別の種類の作品で同等の美しさが表現されているのか、考えてみる価値があります。
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縄文土器の美を 現代人は作り出せるか?

縄文人の土器について ここでは特に次の種類を言います。  ○ 火焔型土器   http://www.kaen-kaido.com/r_contents/manabu_about02.html  これは美として 第一次においては 感覚の問題ですから 何とも決めかねるところがあるかと思いますが 思うところをのべてください。  たたき台もないのですが 現代においてその火焔のいきほひが表わす美を凌駕する作品は出ていないのではないか?  あるいはそれとも ひょっとして種類を代えて それに匹敵する美を表わす作品が出て来ていましょうか?  どうでしょう? という単純な問いです。  日本人の美とは何かという主題を根底に持ちますが 特に直接にただちに論ぜよという問いではありません。

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noname#146457
noname#146457
回答No.6

bragelonneさん、 >あなたは わたしがボーメのフィギュアの実物を見て 縄文土器よりうつくしいと言うまで ぶつぶつ不平を言い続けるつもりですか? >もし鈍感な人間に フィギュアの魅力をおしえてやりたいというのなら もっと言葉を尽くして 実物を それでは手に取ってみようと思わせるところまで がんばらばくっちゃあ。ただ すねているってんぢゃあ。でしょ? ? それって…逆ではないでしょうか。 bragelonneさんご自身のほうこそ、なぜボーメのフィギュアという、至極まっとうな回答が寄せられたのかをお考えになる必要がありましょう。 あるいは、火焔土器とボーメは同列と言えるのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ☆☆(No.4お礼欄) ~~~~  何もあなたがフィギュアのうつくしさをたたえることに反対しているわけではありません。  わたし自身は 縄文土器のほうに軍配を挙げると言っているのみ。  両方が成り立ち得ます。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この箇所を抜かして 反応されていませんか?  ご回答をありがとうございます。  冒頭の指摘に尽きるのですが どうでしょう?  どちらか一方を――絶対的に――よしとしているのではないつもりですが。  質問者はわたしですから さらに回答の寄せられるのを受け取るというのは そういう趣味嗜好としての自分寄りの姿勢になってもかまわないと考えてのことですが?  ★ ~~~~  bragelonneさんご自身のほうこそ、なぜボーメのフィギュアという、至極まっとうな回答が寄せられたのかをお考えになる必要がありましょう。  あるいは、火焔土器とボーメは同列と言えるのでしょうか?  ~~~~~~  ☆ 《あるいは》以下は 分かりません。そのためにも いろんな見方考え方をうかがおうというところです。わたしが 一たん判断をくだしたのは ですから趣味嗜好の問題としてですし また司会者でもあるけれども質問者として回答者と同じ立ち場に立ちつつ個人の意見をも表明するかたちで質問と回答というやり取りの全体を評価しておく部分もあったほうがよいと思ってのことです。  ★ なぜボーメのフィギュアという、至極まっとうな回答  ☆ これは ふたつの側面がありますね。ボーメのフィギュアじたいの言わば絶対的評価という側面がひとつ。そして 土器との対照という側面とです。  後者において すでに上に触れましたように質問者がしゃしゃり出てその評価をも表明していますが 前者の側面をおろそかにしたつもりはありません。  ただし わたし自身としては そもそもフィギュア全般についてもなじみがなく 確かにあまりよい批評者ではないという結果になっていることも事実だと思います。  そうしますと  ★ 至極まっとうな回答  ☆ であるという中身を まだわたしが気づいていないということになるのかと思います。  でも回答そのものとして まっとうな回答として受け留めていることはすでに伝えていますから そうしますとけっきょく やはりそのフィギュアの美についてわたしが 残念ながら いかんせん にぶいし にぶいままでいるということに帰着するようです。  そのように受けとめていただけるとさいわいです。  ピンと来ないものを ピンと来るまで 修行しなくちゃいけないというところまでは 正直に言えば 到りませんが。  でも それにしましても フィギュアは美であるという大前提が これでお二方において 成り立っているように見受けますが それは知らなかった者ももうそのまま受け容れなければならない常識なのでしょうか?  という釈然としないところも残ります。

bragelonne
質問者

補足

 この質問からのあたらしい発展をうながしてくれたので BA としました。  まあ あくわぼにすと氏の フィギュア論を経由してではあるのだけれど。

その他の回答 (14)

noname#146566
noname#146566
回答No.15

手短に書くと、キミは、直観に頼ってるんだろうね。キミにとっては、この土器は見るなり、直観的にパワーを感じる。きっとみんなも同じはずだ、おまえも感じろ、って話みたいだね(感じない奴は「全体観がない」と批判する)。そしてキミは写真を観るなりパワーを感じるんだから、実物を観に行かなくても十分、ってわけか。 なんか身勝手な理屈だねぇ。インチキ霊能力者が言いそうな話だと思っている。キミの言っている、スサノヲ云々って、現代人が失った霊媒師的な直観力の回復を言いたいのかもしれないと思った。 加えて、私は議論として、小学生の感想文を読んでるみたいな気になった。喩えると次の感じ。「まじ、すごい、すげえ」「なにがすごいの、○○ちゃん?」「すげえんだよ、見ればわかるって」「だから何が?説明してご覧?」「うっせえなぁ、ともかく、すげえんだよ。」「だから、何が言いたいの?」「わかんねぇって、ノリが悪いな。あっかんべー」――このレヴェルのやり取りが続いていて、私には発展させる糸口も分からない。キミはノリノリで啓発したと思っているかもしれないが、私には寒い冗談だと思えた。 ともかく、キミの意図をくむには、テレパシーでもないと不可能だね。「スサノヲはどうやってコミュニケーションをとりうるか?」ということを、先に考えた方がいいと思う。キミに同調して(共鳴して)、キミの直感をわかってあげられる人じゃない限り無理だよ。私は違う。したがって、ただ去るのみ。じゃあね。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  ☆☆(No.13お礼欄) ~~~  まだまだ 損得あるいは快不快原則で動いているようだね。それを禁欲せよという意味ではなく まったくそうではなく 総合的な視野あるいは全体観において捉えるとどうなるか? これが 課題なんぢゃないか?  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 小学生では分かんない。    このギヴアンドテイクの次元から全体観へと飛び越すことについて 直観なりテレパシーなりを持ち出して来て言っているようだ。  飛び越したあとの境地については じつは 誰れでも分かっている。さとりという言葉を聞いたなら まださとっていなくても おおよそのことは分かる。ようになっている 人間は。  この命題が反駁されたなら もうわたし自身も ここに要らないだろうから去るのみとなりましょう。  しかし 手間暇がかかるなぁ。    こちらは 去っていいよと言う立ち場にはいない。

bragelonne
質問者

補足

 フィギュアをめぐる萌えと燃え。  そこには負け組と勝ち組と規定したかたちに現われた階級闘争があるかないか?  たしかに 現代の日本社会としての固有の(?)あるいはそれとして特殊な事情や情況はあるだろうが 問題はやはり通史的に捉えた日本人の社会そして特には 国家の誕生からその展開過程を焦点とする歴史 にあるだろうね。  展開過程と言っても じつは 何にもない。誕生と成立のその仕組みが 内部での組み替えは起きたとしても――征夷大将軍や市民資本家が 実権を握るお上になったとしても―― まったくと言っていいほど その体制は変わっていない。  この社会の成り立ちとしては    スサノヲ( S )市民‐アマテラス( A )公民   この連関制である。これは 二階建て構造を有する。そして 権力と権威の分離をも考慮に入れるなら こうである。   市民社会圏( S )‐〈政府公民圏 ・ アマテラシテ(象徴)〉( A )  アマテラス圏のアマテラス政府は じつはすでにスサノヲ市民政府である。主権者スサノヲによって権力が構成されている。ただし 国家として成り立った《 A - S 連関制》じたいは いささかも変わっていない。  そして アマテラス圏なるお二階さんが スサノヲ市民らによって形成されているにもかかわらず 一般的なクウキないし雰囲気としては 相変わらずその第二階なるあたまで立っているかのごとく 逆立ちした連関制である。  けっきょくことは――問題は―― アマテラス圏における象徴アマテラシテを どうするかにある。  そもそも――神話としての伝承によるとは言え―― スサノヲ市民らが もともと平屋建ての社会にあって そこから第二階をこしらえて アマテラス族をそこに住まわせたのは そのように《くにゆづり》をしたことからだったからである。  どうしてもアマテラス族が――かれらは それはそれは品行方正・学力優秀だったからのようだが―― この世の中を 自分たちにまかせて欲しいと頼みに頼んで とうとう根負けしたスサノヲらは 社会にも やしろを作ってそこにかれらをまつりあげた。これが くにゆづりだったことに起因する。    スサノヲらにしてみれば あまりにも駄々をこねるゆえに しばらくは特別の場所をあたえたという程度に過ぎなかったかも知れない。ところが 一たん第二階ないしあたかも 雲の上のスーパー・ヤシロなる神棚に腰を据えたが早いか あとは そのまれにみる能力をほしいままに使い切るほどに 国家経営にはげんだことになる。権力と権威との分離がなされたあとも このお二階さんとしてのまとまりは びくともしなかった。  結論である。  要するに 駄々をこねる子供から早く人びとと自由に対等に話し合いができるおとなに成って欲しい。千五百年経ったが どれだけ経ってもまだまだ待っているんだぞというメッセージを送り続けていることになる。  その思いを大枠として――その解決がなされなければ何ごとも始まらないほどの枠組みとして―― あとはその時代時代のなかでさまざまに文化的・経済的な進展に応じて そのメッセージの具体的な中身が変遷して来ている。  つまりは フィギュアもオタクも萌えも――そして 燃えは A-S 連関制におけるむしろ A 圏の側からの応答としてのごとくに―― このメッセージをそれとして体現していると考えられる。  むすび:  アマテラス圏は 社会のどう考えても主役であるしかないスサノヲ圏のスサノヲ市民らに その大政を奉還すべきである。はやくおとなにならねばならない。  権力をただちにスサノヲ圏に返すと 国際関係において チカラの均衡がくづれるおそれがあるとするなら そのことをも考慮しつつ 大政奉還すればよい。  おまけ:  だから フィギュアに自分の時間を割く人びとは いわゆる階級関係における権力闘争をしようとしているのではない。日本においては それは 筋がちがう。逆立してしまった連関制なる二階建ての成り立ちを 風通しのよい・おとなの話し合いができる自由な仕組みに作り直そうと言うのみ。  だから けっきょく自己満足でしかない世界において自己満足でしかない手段によって 心の内なる心の奥の心にうったえている。もともと くにゆづりをしたからには 返せとか下りて来いとか なかなか直接には言いづらい。まして 引きずりおろそうとは していない。心への呼びかけにおさまる。   

noname#146566
noname#146566
回答No.14

キミの話に感銘をうけないって意味で、私はスサノヲじゃないのかもね。だから「くそくらえ」とか言われても、はて?という風に、思ってしまって、応答にそれらを含めなかった。あしからず。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  なるほど。  だったら  ★ Aquoiboniste  ☆ であることの面目躍如といったところである。褒めて遣わそう。  ところで そろそろスサノヲのいきほひが 湧いて来た?    ひょっとすると からだの皮をぜんぶ引っ剥がしてあたらしい皮膚を着なければならない状態にまで行ってしまっているんぢゃないか?

noname#146566
noname#146566
回答No.13

啓蒙ではなくて、啓発とはよくぞ言った! その方が的確である。そして、哲学カテは啓発という観点から見れば、役に立たないもので当然だと思う。いや、敢えて言えば、哲学カテはキミの啓発セミナーじゃないから、「雑談」である方が健全なんだと思う。 キミの態度がよくわかって、すっきりした。どうもありがとう。しかし、キミは啓発セミナーとして質問をしている人だ、とプロフィール欄にでも書いておいてくれないだろうか。誤解する人も多いかもしれないからね。寿司屋に入ったと思っていたら、ラーメンが出てきたような気分だ。というのも、私は土器の話をしに来たんであって、キミに啓発される気がないのだからね。場違いらしいから、そろそろお暇しようと思う。しかし、ちょっと返事しておこう。冗長になるといけないから、一部だけ拾って答えるよ。 >燕雀いづくんぞ鴻鵠の志を知らんや。 >といった作業を――じつは 何を隠そう わたし自身は面倒だから―― 回答者におこなってもらおうって魂胆。 鴻鵠って、自分でいうか!インチキくさい教祖の台詞だなぁ。そして「回答者に行ってもらおう」だって。あははは。こいういうふてぶてしさは好感が持てるね。しかし、この書きぶりをみると、キミこそ、自分の鏡になる相手を求めてんじゃないかしら。それか、鏡としての機能を最大限に発揮できる相手を欲しているんじゃないかしら。 私に関しては、前からして、キミの言っていることはあたってないみたい。鏡としての力は発揮されていないらしいよ。私は、単に土器の話をしてみようと思っただけ。本当にそれだけなんだ。特にキミに魅力を感じたんでもない。敢えて言えば、真面目に頑張ろうとしているのに、うまくいっていないと見えたから、同情した。啓発セミナーだと知っていたら、最初から参加しなかったと思う。だからキミの方でも、やりがいを感じなかったでしょう? 私は茶化してばかりに見えたことだろう。しかし、私としては、有益なことを言ってあげていたつもりなんだけれどね(前も書いた通り、だから「お義理」のコメントだと思ったわけだった)。 >縄文土器のいきほひの美は そういうことを 言わず語らずに おしえてくれているのでは? 話が堂々巡りだね。だって、「言わず語らず」といったら、実物を観る他ないじゃない。キミのいいたいことを、私なりにまとめると次のようになる。 ・キミは啓発セミナーをやりたい。教えを説きたい。 ・土器は具体例に過ぎない。土器が大切なんじゃなくて、そこからキミが見出したエッセンスの方が大切だ。だから、細かく観ていく必要がない。俺の言ったことをまずは、受け止めて信じてほしい。 ・「おまえのいうことは間違っているかもしれないぞ、土器をもっとよく観るべきだ」という話しは、啓発セミナーと関係ないから、やめてもらいたい(低俗な批判である)。 しかし、私は土器の方が大切に思える。キミのいっていることが、あんまり信頼できないんだ。失敬ないい方をすれば、――しかし言い繕っても、失敬ないい方にしかならないが――要するに、キミの啓発に興味がない、敬意を払っていない、ってことだと思う。 そしてキミの他のスレッドのやり取りもちょっとだけ見たが、多くの人がそうなんだろうと思う。誰もキミに啓発される気はなくて、別の目的があって参加しているだけ。キミをからかってやろうとか、暇つぶしとか、話相手が欲しいとか。私の場合、同情が動機だった。しかし、キミが躍起になって(ミラーニューロンを働かせて)、来訪者を啓発しようとしている。だが、誰もキミに啓発されようとは思わない。その結果、議論は齟齬で終わる。いつまで繰り返すのかねぇ……キミも惨めに思わないかしら。全力で啓発に努めているのに、十年近く空振りしてるんでしょう? 他に私に答えてほしいことある?ないなら、これで終わりにしたいけれど。

bragelonne
質問者

お礼

 ややこしい話がつづくもんだねぇ。つづいてです。  ここは 五年ほど前からいる。そろそろ 六年か。  啓発は けっきょく相互の啓発だ。どこまで行っても そうである。  とわざわざ言うのは あんたの場合 もう啓発は要らないと言っているようだからだ。  鴻鵠でも なお自己啓発するもんだ。  ★ ~~~~   >縄文土器のいきほひの美は そういうことを 言わず語らずに おしえてくれているのでは?  話が堂々巡りだね。だって、「言わず語らず」といったら、実物を観る他ないじゃない。キミのいいたいことを、私なりにまとめると次のようになる。(省略)  ~~~~~~  ☆ 問題の焦点を見失っている。《現代人は 縄文土器のいきほひの美を 作り出せるか》と問うている。  それが たださっき初めて見た画像だけのものでも 自分がこれが いきほひの美だと感じたなら それだけでよい。こういう話。  また 啓発とこの縄文土器の美とが 別々だということはあり得ない。同時一体である。そうでない場合は ためにする啓発であり あるいは単なる教養のための相互啓蒙であるに過ぎなくなる。    どうも総合としての視点に欠けるきらいがあるようだね。ひとつ言えば それがすべてだと取ってしまう。どぢゃ? 少しは啓発されたろう?  ★ 空振り  ☆ なら空振りとして その一人ひとりの相手に受け取られている。と理解するのがよい。  ★ しかし、この書きぶりをみると、キミこそ、自分の鏡になる相手を求めてんじゃないかしら。それか、鏡としての機能を最大限に発揮できる相手を欲しているんじゃないかしら。  ☆ これは 細かくきちんと説明してさしあげましょう。  撞木で撞かれた度合いどおり鐘と成って鳴り響く あるいは 相手に対してこちらが鏡となってやってむしろ相手の心の中を映してあげる こうした行為ないし事態は けっきょくすべて事後的に結果として現われるものである。  しかももっと言えば そのような結果がどうも出ているらしいと見て そのようにわが振る舞いを説明しているわけだが そのことを実際にわがはからいとして意図しておこなっているものでは ない。はからいは あり得ない。その意識も無意識もない。(それゆえ 結果が出るとも推し測られる)。  だから《相手を求めている》わけではなく 《鏡や鐘に成ろうとしている》わけでもない。  あくまで事態の事後的な説明をのべているだけ。  ★ 寿司屋に入ったと思っていたら、ラーメンが出てきたような気分だ。というのも、私は土器の話をしに来たんであって、キミに啓発される気がないのだからね。  ☆ 縄文土器屋の看板に偽りはない。われわれがこの美を再現できるか? とのみ問うている。  それにまつわる事情や情況や並行して起きる事態などなどについて 説明をも添えたというのみ。  全体観が 大事というお話。    あんた それで どうするね?  まだまだ 損得あるいは快不快原則で動いているようだね。それを禁欲せよという意味ではなく まったくそうではなく 総合的な視野あるいは全体観において捉えるとどうなるか? これが 課題なんぢゃないか?  メリット・デメリットなどと言っていたが そういう話は 相手に〔応じて〕エサとして話題に出す程度になる。そういう境地がある。総スカンを食っても すすむべし。これが 鴻鵠。

noname#146566
noname#146566
回答No.12

せっかく投稿してあげたんだが、キミは私とは議論したくないが、お義理で付き合っているという範囲に読めた。話相手にならないという態度かね?――結構、結構。キミの誤字も発見したが、私は放っておいてあげているんだけれどね。ま、私の方も、特に残念というほどの気持ちもない。 >前回 その種の手でわたしにやられたのかい? たぶんマッチポンプなのではなく 文章の格調の高さに打たれたといったところだろうと思うが >あんたも わが魔法に罹ってしまったか。 キミの文章の格調に打たれて、キミの社会活動に意義を認めたって? やれやれ、キミのスレッドは、プロパガンダか、布教活動なのか(笑)。たぶん違うよ、おあいにく様。私が何しに来たかと言うと、いや、気の毒だなと思ってね。だって、まともな投稿、ないみたいじゃないの。一応、真面目に問いを立てたんでしょう?  議論の真ん中を端折ると、細部では反対もあるものの、方向性では、概ね、岡本太郎に賛同しているらしい。ふーん。となると、岡本太郎の良いところを認め、批判点を明確にする形で問いを立てると、より明晰な議論ができるのじゃないかしら。他はいろいろ私の方から話を振ってみたけれど、お義理のお返事だと受け取った。実物を見ろとか、フィギュアとか、どうでもいいんでしょう? キミは自分の関心がないことには、徹底的に、関心がないんだねぇ。私なら、もう少し楽しんでみるけれどね。 >まぁ 少々やましいところがなきにしもあらずだけれど じゅうぶんだとも思っている。だってもううん十年も前から見続けているのだし。でもごつごつして粗野な感じなんだって? まぁ そりゃあそうだろうとも思うけれど。ピカピカにしようというつもりもなかったのだろうし。 はっきりいって、キミ、かなり「やましい」よ。No11のような感想をもつのは、当然だと思う。考えてもみなよ、フィギュアとか、岡本太郎の作品って、みんなピカピカしてるじゃない。土器と質感が違う。上のような、テキトーな意見だとさ、比較しようがないじゃない。No11は、要するに、キミに美を云々する資格なし、って怒ってるわけだ。おまえみたいなバカ者に、神聖なフィギュアの話をしたことが悔しい、ってことだと思う。気持ち分かんないかな? キミ、この調子だと、誰も相手にしてくれなくなるんじゃないかしらね。 そういえば、キミのことなんだね、実物を見たこともないのに、美を探究しようとするバカ者って。「美の乞食」とはよく言ったもんだ。キミ、相当、憎まれているね。あははは。 http://okwave.jp/qa/q7166906.html さておき、話を広げる余地はあろうが、キミがやる気無いらしいし、キミの質問は、啓蒙か、賛同者を募る活動の一環らしいから、これで私はオサラバしよう。しかし、私は今回わかったよ。キミのいう「雑談」っていうのは、啓蒙に結び付かないやり取り全般のことをいうのだね。なるほど、哲学カテの大半は、すべてキミのいう「雑談」である。享楽以外に、特に目的がないからね。しかし「目的」がキミの場合、社会活動というわけなんだ。 キミ、一時代遅れてきたねぇ。きっと学生時代に、学生運動を傍観していて、不完全燃焼だった口だろうね。歳とって、気違いじみた同級生らにあれこれ言われない時になってから、やりはじめたわけだ。私も勝手に「われら」の一人にされているような気がしたけれど、私は正直、どうでもよろしいと思ってるよ。スサノヲの時代が来るのかどうかは、キミがそれを定義していないから、判断しようがない。というか、新しい造語を作る必要性に共感できてさえいない。でしょ?

bragelonne
質問者

お礼

 No.11の意見に共感するってんぢゃ 底が知れてる。  というのが 第一声。――まづは ご回答をありがとうございます。  そうだねぇ。まづはそのNo.11へのわたしの返答を読んでみてくれたまえ。  啓蒙ぢゃなく 強いて言えば啓発 これが あんたが《社会運動》だと取ったことの中身である。人間をつくるってわけだ。  だから 美学なり美術史なりの学問アマテラス語の知識はなくてもかまわない。じっさいわたしにはない。その素材としてのスサノヲ人間語につうじていれば それだけでよろしい。  ★ 実物を見たこともないのに、美を探究しようとするバカ者  ☆ 美の問題は 論理にもとづくアマテラス科学語なり倫理規範を後生大事に唱え続けるアマテラス人格語を超えている。スサノヲ人間語は そのような飛び越しを一気におこなえる。それこそ いきほひの言葉であり 生きた生活語である。  このスサノヲ語の開発・啓発 これこそが 人間学なり。だから特に美を探究しようと思ってやっているわけではない。まあ こころざしが違うってところかな。  燕雀いづくんぞ鴻鵠の志を知らんや。  まあ こういった筋道の議論――腹を割ったところの中身――があまり見えなかった。だから反応がにぶかったってところかな 前回は。だから  ★ キミは私とは議論したくないが、お義理で付き合っているという範囲に読めた。  ☆ んだろう そうとすれば。  あるいは  ★ 他はいろいろ私の方から話を振ってみたけれど、お義理のお返事だと受け取った。  ☆ これは むしろあんたの腹の内を 例の鏡および鐘の定理にしたがって わたしの文章が反映したってところだろう。ちがうかい?    ★ 岡本太郎の良いところを認め、批判点を明確にする形で問いを立てると、より明晰な議論ができるのじゃないかしら。  ☆ といった作業を――じつは 何を隠そう わたし自身は面倒だから―― 回答者におこなってもらおうって魂胆。それに 岡本の説は もうすっかり忘れている。それほど多くも熱心にも読まなかった。(さらに種明かしをすると 太郎支持者がわたしの友にひとりいたという経緯がある。その影響で岡本のことを知っているという程度かも知れない)。  繰り返しだけれど  ★ No11は、要するに、キミに美を云々する資格なし、って怒ってるわけだ。  ☆ この《資格》論 これほどおろかな話はないんぢゃないかい? アマテラス語ブランドファッションとしての資格 こんなものは くそくらえぢゃないの?  縄文土器のいきほひの美は そういうことを 言わず語らずに おしえてくれているのでは?  スサノヲの時代 感じたかい?

bragelonne
質問者

補足

 そう言えば 岡本太郎の作品のフィギュアがいくつか出てたよ。  ボーメ作かどうか知らないが 海洋堂って言ったっけ。

回答No.11

>といった批評は・つまり批評の仕方は ここでは採りません。そのものが命である作品について尽くしがたい鑑賞の結果内容を それでもことばにして伝え合おうという場です。そういう設定です。  無理に決まってんだろ。  いいか  縄文土器の美を凌駕する作品云々は、作品をジックリ鑑賞し充分に感じ得た者同志、とか、立体造形のクリエーター達が、共通の言葉を駆使してこそ成り立つ話。  日本人の美意識の話は、さらに高度。  クラシック音楽しか聞いたことのない人間同志が、ジャズを云々する滑稽。  もしかして、縄文土器の美を言葉で伝えられると思っているなら相当おめでたいよ。

bragelonne
質問者

お礼

 まづは ご回答をありがとう。  無理なら無理でいいよ。そうと分かったときに閉めればよい。  ★ クラシック音楽しか聞いたことのない人間同志が、ジャズを云々する滑稽。  ☆ ちがう。今回はじめて画像で見たという場合でもよいので 感想を聞かせてくれたまえという問いです。  初めてでもよいから ジャズをまづ聞いたあとの話です。あんたのたとえは おかしい。  ★ もしかして、縄文土器の美を言葉で伝えられると思っているなら相当おめでたいよ。  ☆ じつを言うと そういうもったいぶった権威づけ評論ないし権威欲しがり評論――わたしの言葉で言うところの疑似アマテラス語評論―― これを地獄の底にまでお連れ申すための問いでもあります。  そんなことは 考えていなかったが このようにいちゃもんをつけられるなら そういうねらいもあるにはありますよ。  ★ 日本人の美意識の話は、さらに高度。  ☆ 何が高度か 高度さの中身は何か これを明らかにしない議論は 屁の河童。空蝉アマテラス語のお遊び。ちゃんちゃらおかしいわい。  といった問いを含むと取ってもらってかまいません。  ★ 作品をジックリ鑑賞し充分に感じ得た者同志  ☆ これは 疑似人格語であり疑似科学語ではあるが 人格および科学のアマテラス語ですらなく ましてやスサノヲ人間語ではあり得ない。この命題を問う問いです。  おそらくその答えは 作品としてすでに縄文土器には煮詰まっている。それを写真で見るだけでも分かる。どうか? こういう問いです。

noname#146566
noname#146566
回答No.10

補足投稿。キミの言っている、「勢いの美」だが、岡本太郎の「芸術は爆発だ」と似ているよね。キミは現代の復興云々とか言っているが、あれでいいんじゃないの? いや、ダメだ、と思うからこの質問したんだよね? しかし日本民族の美を探究するとか、既存の豪華絢爛な美に反抗するとか、ますます岡本と似ているねぇ。 キミは実は岡本太郎の信奉者で、岡本二世になりたいのかな。それとも、岡本はダメだと考えて、まったく別の美を探究したいのかな。はたまた、単に岡本を(土器のサイトに参照があったにもかかわらず)調べていなかっただけかな。趣旨説明しといてよ。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  ★ 「勢いの美」だが、岡本太郎の「芸術は爆発だ」と似ているよね。  ☆ そう言えば そうなのかなぁ。《爆発》と《いきほひ》 チカラのほとばしるところは似ているよう。だけど 爆発は 拡散し過ぎかなぁ。  ★ キミは現代の復興云々とか言っているが、あれでいいんじゃないの? いや、ダメだ、と思うからこの質問したんだよね? しかし日本民族の美を探究するとか、既存の豪華絢爛な美に反抗するとか、ますます岡本と似ているねぇ。  ☆ ううーん。だとすると 前回触れたように 《金平糖(党)宣言》という行き方が 似ているかも知れない。わたしの言葉では スサノヲイストですけれどね。インタナショナルなインタスサノヲイスト。  ★ キミは実は岡本太郎の信奉者で、岡本二世になりたいのかな。それとも、岡本はダメだと考えて、まったく別の美を探究したいのかな。はたまた、単に岡本を(土器のサイトに参照があったにもかかわらず)調べていなかっただけかな。趣旨説明しといてよ。  ☆ だから知っていたけれど 隠すでもなく披露するでもなく。岡本党だというのでもなく 岡本を否定しようとするつもりはなく。  まっ 確かにスサノヲ市民のあいだに お上志向がつよいのを何とかしたい。  アマアガリ・シンドロームに罹るなら 徹底的に出世して 権限のある地位にあって 改革を断行して欲しい。だから 安易にアマアガリ・シンドロームには罹らないようにと。  あるいは 出世はあきらめつつもむしろアマテラス予備軍になろうとするアマテラス予備軍症候群に罹るスサノヲ市民らが少なくない。  だから しゃきっとして行こうぜと。  自由スサノヲのいきほひを 日本に。そして世界に。  これからは われらが時代なりと。そういう予感がする。  あんたも わが魔法に罹ってしまったか。

noname#146566
noname#146566
回答No.9

ふーん、まだやってるんだね。凌駕する美があるかないか、か。キミさ、縄文土器が美だと評価される経緯については、お勉強したのかな? キミがリンクはってるサイトに書いてあるじゃない、岡本太郎って。もともと歴史的な遺物でしかない土器を、美術品として評価し始めたのが彼。またマッチポンプをやってるんじゃないかと思って、私は指摘しなかったが、いい加減、その話に進んだ方がいいのじゃないかしら。 だが、どうもキミも勘違いしているのか、勉強不足と感じられるところがあるんだよね。火焔型と騒いでいるけれど、縄文人は火焔型とは思っていなかったらしい。岡本も特に「火焔」とは言っていなかった、とサイトには書いてある。じゃ、あれは何なのだろう。岡本は「深海」と言ったらしいが、これは詩人らしい言いようで、あまり参考になりそうにない。 いろいろと論文を読んで、私の調べた範囲だが、どうやら隣に中国の青銅器に起源があるらしい。写真を二つ並べてご覧。縄文土器ね、中国青銅器の上の辺りがないだけで、よく似ているから。ここから仮説を立てると次のようになる。 ・どうやら縄文人は中国の青銅器にまねたものを作りたかったらしい。 ・しかし、技術的にそれができなかった。 ・この「できそこない」か急場凌ぎの作品が、観ようによっては面白いデザインだと二十世紀の芸術家が騒ぎ始めた。 で、疑問が起きるわけだ。キミのいう「勢いの美」を発見したのは、縄文人なのか、岡本太郎とか二十世紀人なのか? 岡本の方じゃないかしら。こうなると根本から、議論をもう一回考え直さないとならないのじゃないの。でも、マッチポンプの人だから、キミは認めずに、実は自分はわかっていたのだ、とか、言い出すかもしれないね。まぁ私は一向に構わないけれど。 それから話は変わるが、私は正直、キミが日本の美と限定するのが変だと思う。まず、縄文時代に日本という括りがなかったのが一つ。縄文人らに、日本的な美を作ってやろうという気は、(たぶん)なかった。そして、後世の日本人らも、縄文人の心意気を引き継ごうという気はなかったらしい。むしろ中国の文化を導入しようという気持ちの方が強かった。 次に「勢い」と抽象化していうのなら、似たようなものは、世界中、どこだってあるじゃないの? ゴッホの筆遣いもそれに含めてよさそうだ。キミが理解できるか知らないが、岡本太郎もそれだ。だが、キミは「土器の方がいい」とか言って、岡本を酷評しそうな気がするし、私も嫌な気持ちがするから、言わないでおいたんだが。キミが知っているか知らないが、岡本ね、評伝によると、ライカのカメラを片手に、日本の民族の美を記録しに出かけていたらしいよ。日本民族の美を再評価してやろうという気があり、実際に足を運んだわけだ。キミも似たような考えがあるのかもしれないが、岡本の方が偉いね。 それから三番目の理由。岡本太郎が念頭に置いていたのは、彼のキャリアからしても、フランス風のものの見方であって、インターナショナルと言うべきものだった。バタイユのプリミティブアート再評価の見方が影響していることは、ほぼ間違いないだろう。 日本を救うということをキミは連呼するから、日本の美にもっていきたいのだろうけれど、キミの議論にヴァイアスがかかっているようで、私は感心しないね。世界を救うとか、人間を救うと言った方がまだしもじゃないかしら? 美は社会と独立して存在するんでしょう? だったら、社会を超えた枠組みで議論しないと、必ず破綻が起きる気がするね。 最後に気になったので突っ込むが、写真でしか観ていないって……キミはマズイね。私は縄文土器を、無論みたんだけれど、案外、あれはごつごつしていて、肌触りや質感が、粗野な感じがした。写真で形や色を愛でている時が一番、楽しいんだろうと思う。やはり出かけて行って、触らせてもらえる範囲で触ってみていいと思うよ。レプリカも売っていたはずだった。キミは部屋から出られない難病か何かなんですか? こうやって恥をかくくらいなら、半日、出かけてくりゃいいのにねぇ。 しかしフィギュアは……敢えて言えば、ガラクタの類だよ。十六億円もする村上隆のフィギュアだが、オナニーしている全裸の少年の立像だった。精子がペニスから飛び散って、何だか少年漫画に出てきそうな武器のような形を描いている。二メートル以上あるから、迫力満点さ。 村上はこうやって、フィギュア好きを皮肉ってるわけだが、フィギュアはオナニストのためのものじゃないかしら。たぶん、アニメとか2次元でしか出会えない女の子の姿が、立体的になり、現世に現れ出てきたのが嬉しくて仕方ないんだろう。しかし、こういう喜びは美なのかねぇ。性欲と未分化な気がするんだが、美とは、ちと違わないかね。キミはどう思う? おっぱいの巨大な女の子のフィギュアの写真見たんでしょ。

bragelonne
質問者

お礼

 また来たの? 案外ひまなんだね。連休だからかなぁ。  なにはともあれ ご回答をありがとうございます。  ★ 最後に気になったので突っ込むが、写真でしか観ていないって……キミはマズイね。私は縄文土器を、無論みたんだけれど、案外、あれはごつごつしていて、肌触りや質感が、粗野な感じがした。・・・  ☆ まぁ 少々やましいところがなきにしもあらずだけれど じゅうぶんだとも思っている。だってもううん十年も前から見続けているのだし。  でもごつごつして粗野な感じなんだって? まぁ そりゃあそうだろうとも思うけれど。ピカピカにしようというつもりもなかったのだろうし。  さて フィギュアのほうを片づけておこうと思えば:  ★ キミはどう思う? おっぱいの巨大な女の子のフィギュアの写真見たんでしょ。  ☆ まぁ あなたのようにコーナーへ追い込むような物言いは控えていたのに。  だからデカ過ぎはしないかとだけ問い返しておいたのに。  でも《まっとうな回答ではないか》との意見も出されたのだし。  村上隆うんぬんは 売れた値段のほかは知らなかったのだけれど。  だから フィギュア・ファンは もっと独自の美学を披露すれば また道も開けるということになるかも知れないし。  ・・・  さて  ★ 岡本太郎・・・もともと歴史的な遺物でしかない土器を、美術品として評価し始めたのが彼。  ☆ むろん知っていましたが だからと言って 隠すわけでもなく披露することもあるわけでもなく それだけのことです。どこまでマッチポンプが好きなんだろうねぇ。(前回 その種の手でわたしにやられたのかい? たぶんマッチポンプなのではなく 文章の格調の高さに打たれたといったところだろうと思うが)。  だから  ★ キミのいう「勢いの美」を発見したのは、縄文人なのか、岡本太郎とか二十世紀人なのか? 岡本の方じゃないかしら。こうなると根本から、議論をもう一回考え直さないとならないのじゃないの。  ☆ この問題もどうでもよいと初めから思っているけれど 問題ありなのかなぁ。  つまり この質問のねらいは ひとえに いま現代人にとって このいにしえの美は いったいどこへ行ったのか。この一点にあつまっているのだから。  ★ バタイユのプリミティブアート再評価の見方が影響していることは、ほぼ間違いないだろう。  ☆ プリミティヴアートについては アフリカの美術なりいわゆるエスニックの流行なりで ここでも採り入れなければならない視野なのかも知れないが どうも縄文土器は 特異な存在なのではないか? けばけばしさがない点などにおいて。というわけで 出来るだけ外へは広がらないかたちを思っていた。広がるなら広げてもよいわけですが。  ★ いろいろと論文を読んで、私の調べた範囲だが、どうやら隣に中国の青銅器に起源があるらしい。  ☆ これは残念ながら 知らなかった。というか 日本に青銅器が入って来たのは そう早くないのではないか。むしろ縄文は終わりつつあって 鉄と稲がもたらされた弥生の始まるころなのではないか?  土器なり鉢なりは 足のあるなし 飾りのあるなしを除けば だいたいみな同じようなかたちになるのだから それほど起源を特定しうるとも思えないのだが。  仮りにその輸入物に似せて作ろうと思っても 同じものは出来ず むしろ出来損ないが火焔型土器ともなって出来たとしたとしても 縄文の文様と言い それほど独自性ないしオリジナリティを否定することもないように感じられる。ぎゃくに言うと 模倣物だったとしても その美の種類は違うように思われる。  ★ ~~~~  それから話は変わるが、私は正直、キミが日本の美と限定するのが変だと思う。まず、縄文時代に日本という括りがなかったのが一つ。縄文人らに、日本的な美を作ってやろうという気は、(たぶん)なかった。そして、後世の日本人らも、縄文人の心意気を引き継ごうという気はなかったらしい。むしろ中国の文化を導入しようという気持ちの方が強かった。  ~~~~~~  ☆ これは どうなのかな。次のように考えればよいはずだ。縄文人と現代人とのあいだが すべて空白だったとしても いまわれわれがあらためて縄文土器の美を見直せばよいと。  ★ 次に「勢い」と抽象化していうのなら、似たようなものは、世界中、どこだってあるじゃないの? ゴッホの筆遣いもそれに含めてよさそうだ。キミが理解できるか知らないが、岡本太郎もそれだ。・・・  ☆ 次の補足回答の中にも 岡本論があるみたいだ。  岡本太郎は 別に嫌いでもないけれど 特にうつくしいと思っているわけでもない。ということで 縄文土器のあらためての発見者だというほかには 中立の立ち場なのだけれど・・・。あぁ かれの《金平糖(党)》理論は おもしろいと思って来た。人には 挑戦的であっても――日本人のあいだでは―― ちょうどよいくらいに穏健な性格であると見做せるといった見方だったっけ。要するに 日本人は 物分かりが良すぎるから 金平糖のごとくごつごつしたつき合いをするとちょうどよいというような。ハリネズミではなく なめると甘いというところがみそ? だったのかどうかは もう忘れてしまっている。  この点は 次の回答へのお礼欄にてあらためて考えてみよう。  ★ ゴッホ  ☆ は いきほひというよりは 息吹きかな? みづみづしい息吹き。  ★ ~~~~  日本を救うということをキミは連呼するから、日本の美にもっていきたいのだろうけれど、キミの議論にヴァイアスがかかっているようで、私は感心しないね。世界を救うとか、人間を救うと言った方がまだしもじゃないかしら? 美は社会と独立して存在するんでしょう? だったら、社会を超えた枠組みで議論しないと、必ず破綻が起きる気がするね。  ~~~~~~  ☆ これは あまりピンと来ない議論だなぁ。まづ  ★ ヴァイアス ―→☆ バイアス。  ☆ が気になる。  まともな議論のようであり 何か広げすぎているようにも映るし。  こう考えてくれたまえ。いまは 日本語で自己表現をおこない その言葉でやり取りをして話をすすめるのだと。  そこから枠を超えて行く契機があれば そのとき考えるし それを活用することになろうと。  ★ 火焔型と騒いでいるけれど、縄文人は火焔型とは思っていなかったらしい。  ☆ この問題はあるだろうね。あるいは 王冠型だとか。あるいは 水煙型なり。わたし自身は 呼び方をどうするかなどについて考えるのを後回しにしているというところです。  要するに ねらいは 現代人が 縄文人の火焔型土器のいきほひの美を どういう作品でかを問わず さらにさらにルネサンスのごとく 再現して欲しい。これだけです。

回答No.8

>もしどうしても実物を見て すべて評価するという前提を敷くのでしたら  いやいや、その前提にしている縄文土器の実物さえジックリと見ていないくせに、  その美を凌駕する作品云々など、お互い曲がって伝わるってこと。  アートってのは言葉なんかで尽くせはしない。作品そのものが命。  哲学じゃなくて美術で質問したほうがいい。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  ★ 実物さえジックリと見ていない〔なら その美の評価については〕お互い曲がって伝わるってこと。  ☆ それは ありましょうね。しかも もっと実際上のことを言えば 実物を見ていても その評価はまちまちでありましょうし しかもその表現した内容は互いに間違って伝わることもあるということでしょう。  分かりますか?  ★ アートってのは言葉なんかで尽くせはしない。作品そのものが命。  ☆ といった批評は・つまり批評の仕方は ここでは採りません。そのものが命である作品について尽くしがたい鑑賞の結果内容を それでもことばにして伝え合おうという場です。そういう設定です。  そうして 日本人の美ないし美意識やあるいは その歴史的な系譜ないしいわゆる伝統を 社会総合的な見方から捉えたいという魂胆はありますので 哲学カテで問うています。  微妙にこの問い求めの仕方が あなたとは違っているようです。とお伝えせざるを得ません。どうでしょう?  

回答No.7

>あなたは わたしがボーメのフィギュアの実物を見て 縄文土器よりうつくしいと言うまで ぶつぶつ不平を言い続けるつもりですか?  いいえ。立体造形の美を二次元の写真で偉そうに語る愚を突っ込んだだけです。  縄文土器の三次元を見ずしてその美を語ろうとする輩には、何を言ってもすれ違い。  私が三次元で語っても、あなたは二次元の写真から三次元を自分なりに想像しているにすぎません。  土器のポスターでも部屋に貼っとけば~ お好きなアングルで~

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 立体造形の美を二次元の写真で偉そうに語る愚を突っ込んだだけです。  ☆ それは 一理ありますね。そうでしたか。そうは聞こえませんでしたが そうだとなると 違って来ますね。  まぁ ですが 土器のほうは 二次元の写真でもよさそうだと言えるとして そうするとフィギュアのほうは 三次元で実物を見ないことには 話が始まらないでしょうかねぇ。    そうなんでしょうか。実物はうつくしい。しかも二次元の写真でもうつくしいとはなりませんか?  ならないとなると どうしましょうかねぇ。  昔 人形はいろんなものがあった時代にも フィギュアとは言っていなかったと思うけれども フィギュアのような作品はあったとは思います。余興のようなものだったと思いますが。それらと同じようなものだと まづは 思っているのでしょうね。いまわたしは。  もしただちにフィギュアの実物を見ることがかなわないのだとすれば こう考えてみてはどうでしょう?  つまり フィギュアの美を語るというよりは 縄文土器との比較対照として その美を語る。どう同じで どう違うか? まづはそれをお聞きしてわたしもどうするか考える。こういう方法ですが どうでしょう?  二次元で見たフィギュアについては いくらかすでにわたしは批評をしています。目の表情だとか 語っています。ですからその批評でマイナスの部分が 三次元になれば変わるとは いま思えない。こういう事情であることも事実です。実物で見れば 写真で見るよりその目つきがうつくしいということはあまりないでしょう。そういう問題は――むろん 鑑賞者それぞれの感覚なのですが だから良い悪いを言うためにではなく 実物の観賞に いま 代わる方法を探しているのですが―― あるんぢゃないでしょうか。  ☆☆(No.2お礼欄)~~~  ○ 関羽雲長  ☆ は 目が見えづらい。目が或る意味でいのちではないでしょうか? 分かりづらいのが わたしには 悔やまれます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 目が・目の表情が隠れていますね。それが うつくしさを わたしにとっては 減じています。これが 実物を見ると 変わるとも思えない。これが いまの偽らざる評価です。  もしどうしても実物を見て すべて評価するという前提を敷くのでしたら この質問は出直します。そういう問題であるようです。

回答No.5

明けまして、御無沙汰しております(…!?)。 原始時代の社会では、蓋し「表現・描写の為の『西洋近代的な分析技術』が未熟な段階に留まっている」、と考えられますでしょう。 従いまして、西洋近代的な表現技法が確立される前の時代には、 無自覚の裡に、技術的な不足を大袈裟な修辞で補おうとしてしまいがちです。 そして、逆に、現代的な分析技法を身に付けている「文明人」達が、 同類の作品の創造を試みた場合には、模倣に留まらざるを得ないでしょう。 実際に、絵画の場面で、次の様な研究発表が過去に提出されていました。 (20年以上もの昔の話ですので、何処の文献だったのかを失念しました。) その内容によりますと、原作(本物)の場合には、表現内容・技法の模索の為の逡巡が投影されやすく、電子顕微鏡でその絵画の対象の輪郭線を拡大表示させますと、其処から歪みの残留が見出され得るそうなのですが、模倣物(贋作)の場合には、途中段階で個性的な構想を凝らせる必要が御座いませんので、その御蔭で、皮肉にも酷い歪みの残留が比較的に認められ難いそうです。 だから、その事例からも窺われ得ます通りに、 西洋近代的な分析技術を学べていない方々の情緒的な作風を、 現代地球人の我々が完全に踏襲し得る、という可能性は殆ど無いでしょう。 ※此処で、「殆ど」という副詞を持ち込んだ理由は、念の為に、「脳への医学的な処置による変革」の可能性の残留を警戒しているからです。

bragelonne
質問者

お礼

 直後の回答へのお礼を先に書き込みました。比較的かんたんにお応えできるかとと感じられたからです。  遅くなりましたが お応えしてまいります。年があらたまりました。ばっふぁろうさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  総じて言ってご回答は No.1さんのご見解に通じるところがありましょうか? すなわち:  ◆(回答No.1) 子供の美術作品に見られる、いわゆるプリミティブ芸術に通ずるものがある  ◆(同上) 対象と自我が渾然一体となり、内面的な情念がそのまま造形に投影された異形を生むのだ  ☆ こういった評価に通じるところがありましょうか どうでしょうか?  ★ 原始時代の社会では、蓋し「表現・描写の為の『西洋近代的な分析技術』が未熟な段階に留まっている」、と考えられますでしょう。  ☆ 《自我》なる概念に嫌悪をおぼえる質問者ですので――そちらの質問のほうも 投稿いただいたようで―― いちいちその嫌悪感の中身を説明しつつ 話を継がなければならないという話しづらさがありますが  要するに 《わたし》なる人間存在を全体として捉えるのではなく その全体を捉えるためにも 存在ないし心をその部分要素に分けて把握しようとする思考および創作の技法が 見い出されたあとの時代とそうではなかった以前の時代とでは 美術作品についてもその性格が違って来ているはずだ。こうなりましょうか?  わたしの反論は ひとことでは なるほど技法は未熟ないし無かった時代とそれの成熟の時代とで分かれるであろうけれど 美に向き合う人間とその創作の姿勢といった全体観においては それほど差はないであろう。これです。  したがって  ★ ~~~  従いまして、西洋近代的な表現技法が確立される前の時代には、  無自覚の裡に、技術的な不足を大袈裟な修辞で補おうとしてしまいがちです。  ~~~~~  ☆ といった総括は あくまで《技法》のビフォーとアフターに分けたあとのアフターの段階においてそのアフターとしての常識となった見方から見てのものだと考えます。  言いかえると 古代人たとえば縄文人は 別に技術不足を嘆いたわけではなく そのときの人格全体において創作をおこなった。だけであって 《修辞で飾ろうとする》ことなどは眼中になかったはずです。  しかるにですが  ★ ~~~~  そして、逆に、現代的な分析技法を身に付けている「文明人」達が、  同類の作品の創造を試みた場合には、模倣に留まらざるを得ないでしょう。  ~~~~~~  ☆ こういった状態と情況は むしろ事実であり現実であろうかとも考えます。模倣という作業においては 技法と姿勢との兼ね合い如何によって じっさいそのような傾向にならざるを得ないのではないかと思われます。  ここからあとは 大いに推測を交えての話になりますが けれどもたとえば日本では 日本画などなど日本の美術作品の系統・系譜もあるわけです。  その伝統において 縄文人の美術に迫ることは出来ないもんですかねぇ。それはつまり要素還元による分析技法から自由になって創作するということですが しかもそのとき  ★ 「脳への医学的な処置による変革」  ☆ を必要とすることなく 歴史の伝統があるかないかの問題としてです。  だって 同じ文明人だと言っても 日本人が西欧の人びとないし創作家と同じようにかれらの技法などを身に着けこなしているという状態でもないでしょう。あるいは それとも追いつき追い越していましょうか? だから余計に 古代人の生活感覚やその姿勢をまねることなど もう出来っこないと言うべきでしょうか?  そんなところとしてお受け取りしました。どうでしょう?

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     * 世の中にスサノヲ人間語での発言が登場したことに乾杯を挙げつつ 再度質問します。  § 0  まづ資料です。  (α) 火焔型土器    http://www.kaen-kaido.com/r_contents/manabu_about02.html  § 1 まえがき――行儀と物分かりとがよいわるいということ――  《 Stay hungry, stay foolish.》というのは 一時的なブームを起こすにはよいでしょうが――または 一時的なブームを一つひとつ永遠に重ねて行くのによいかも知れませんが―― それでもそれは それぞれの分野で同時代に二人か三人で足りましょうから(または もっと多くの人数を必要とするという場合にも その探究する主題にもよりましょうから) そうは言いませんが  そうは言いませんが それにしても 近々の情況では 世間にはお行儀がよくしかも物分かりがよいという文章が多く見られるようになりました。    昔は――ほんの一年前くらいまで―― 回答と称して 罵詈雑言から誹謗中傷まで話にならない文章が多かった。いまもそれは途絶えてはいませんが さすがアラシ屋さんにしても 今では敬語を使うようになっています。《哲学カテから出て行け》やら《おまえの ID を剥奪してやる》やらは 日常茶飯事でしたが 最近 様変わりしたように見受けられます。  行儀がわるく物分かりがよくないのは だめなのか? これが この質問の趣旨のひとつです。  § 2 あやまちうるスサノヲ人間語(生活語)とあやまたざるアマテラス人格語(科学語ないし役人言葉)  行儀のわるい文章例を出してみます。スサノヲ人間語につうじると見ている場合です。  (β) 《次の作品は 果たしてうつくしいか?》 ~~~~~    ( a ) 尾形光琳      紅白梅図    ( b ) 大徳寺龍源院   枯山水(方丈前の石庭)  ( a )は初め ひょうたんのお化けかと思いました。  右側に描かれている紅梅は みごとにその枝っぷりをしめしていると感じましたが 左の白梅は 今度もやはり何かのお化けがうらめしやぁとさぞ言っているかに見えます。  色合いだとかについて 実際に見てみるなら また違った感想を持つのかも分かりませんが 第一印象は そんなふうです。美とは感じません。  けばいとも感じられる金色は ぎゃくにあざやかだとも感じられますが。それは 洗練されたアマテラス人格語の成熟度を表わしましょうか。  ( b )は 真ん中の島がなぜあるのか? と感じます。苔や草が生えていて まわりの石庭とは別の世界をあらわしているのでしょうか? つまり意図的にそうしていましょうか? その必要がないように思います。石だけでいいように思います。  正面の奥に木々が植わっています。これも 構図に入れるのなら もう少し何とかならないものか? 活かすなら活かすで もう少し何とかならないか。中途半端に感じます。  そして 周りを囲む塀ですが けっきょく隣の塔頭か何かの家が見えていますので これもわざと見えるようにしたのか?  木々は無しで 塀を高くして 小石の地面といくらかの大きい石(もしくは小岩)で織り成す庭だけの世界をつくったら どうか?   それにくらべるなら 竜安寺の石庭は ふつうに落ち着いているように感じます。落ち着いている中に ふつうにスサノヲ人間語としての気勢をも感じ得ます。塀の壁の色がよいでしょう。  ~~~~~~~~~~~  § 3 縄文土器を鑑賞するにあたって 美についての作業仮説  (γ) 《美とは何か?》 ~~~~~~  (1) あちらでは《美的快感》と定義するようですが これを《みづみづしさ・息吹き・あるいは存在感》と――以前の質疑応答(*)では――捉えました。   * 【Q:わび・さびは どうして美しいと感じられるのか?】     http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7117520.html    (2) さらにこれを 《対人的な関係性を重視する美徳、美意識》と規定される場合も見られ それは ひとつには 共通感覚や共同主観につうじるところの相互主観性(間主観性)ということをないがしろには出来ないと言っていると思われます。人は 社会的に独立して存在するが それは社会的に関係性を有するということだと考えます。  孤独とは 孤独関係なりと。  (3) もうひとつに 美徳ともなりますと 倫理観にまでつながり いわゆる真善美というときの善にまで通じるかとも思われます。おそらく  こうでしょうか?   (3-1) 作品にしろ風景にしろ何らかの対象に向き合うとき    わが心にみづみづしい息吹きを呼び起こすほどの美は わ    れここにありという《わたし》の存在を自覚するきっかけにな    る。     そのとき 《われもまた アルカディアにあり》と言ったかど    うか分かりませんが それはともかく われは孤ならず必ず    隣り有りといった人びととのかかわりや まじわりを想い起    こさせてくれるものだということかと。  (4) 言いかえると 人と人との関係性や交通の現実性は ほかでもなく《生活世界》のことを言っている。何のことはない 日常生活なる基礎にもとづく美感・美意識ないし美学が 問われている。と言ってよいでしょうか?  (5) かたちにおいて枯れたものと華やかなものとがあり それぞれ 《わびさび》と《みやび》とに分けて捉えてみる。    (6) おそらく ミヤビとしての美的感覚は 人びとの生活日常とすれば 市民にとっての一次的な基礎ではなく その上に別の階層をつくりそこに第二次の生活世界を築こうとしたところに見られる。のではないか?  (7) 基礎ないし土台としての生活は つねに侘びしく寂しくなければならないものではないが おそらく 一度は枯れてしまって底に突き当たってのごとくさらにそこから なお残るみづみづしいちからを感じ得て 生きるというところに 美的感覚をおぼえるものと捉えられる。  (8) ワビサビの美を感じる心を 言葉としては あやまち得るスサノヲ人間語に対応させて捉え 対するにミヤビの美は あやまたざることを旨とするアマテラス人格語で捉えることとする。  (9) ひとつの問いは (3-1)の《人とのきづなを感じさせるところの・わが存在になお残るみづみづしい息吹きの自覚》は スサノヲ人間語やアマテラス人格語それぞれの単独の世界において見い出せるものか? に及ぶ。  (10) 言いかえるとこの場合 両者あいまって 美的感覚をかたちづくるであろうと仮説してみる。〔一つの言語における人間語(日常語)と人格語(科学語)とのあたかも二重構造か〕。  (11) 言いかえると スサノヲ人間語はみづからの中に倫理観などを潜在性としては当然のごとく含むのであって その荒削りとしてのアマテラス人格語を宿していて発揮しうると見るのだし それに対して アマテラス人格語も ただそれだけでは法律用語のごとく無味乾燥なのであって どこまで洗練して行ってもそこに言わば土臭いスサノヲ人間語を失わず備えていてよいはずだ。こう見るのが よさそうだとなります。  ~~~~~~~~~~~~~  § 4 間奏曲  ちなみに § 3の作業仮説にもとづき(もしくは それを批判し修正しつつ) § 2(β)のふたつの作品を鑑賞してみると どうなるか?   ひとつの焦点は ( b )の枯山水が パッと見としては スサノヲ語の枯れた美であり ( a )の紅白梅図がアマテラス語の華やかな美であると見られるというとき ほんとうのところは どうか? になります。  《いきほひ(勢い)》は みづみづしい息吹きのひとつの種類だと捉えてよいでしょうから 果たしてそれをめぐってそれらの作品からどんな感覚を受け取るか?  § 5 果てさて 縄文土器をわれわれはいかに見るか?   ――将来への息吹きにつうじるか?――  とは言っても ここからは 一人ひとりの美的感覚の問題になって その十人十色なる多様性はあたかも収拾がつかなくなるほどであるかも分かりません。が とにもかくにも 美とは何か これをさらに問い求めてみたい。そしてここでは この土器の世界を取り上げました。  こういう出で立ちなのですが ひとつには スサノヲ人間語の《いきほひ》は 何も躍動感などの動のかたちにのみあるとは限らないのであって 静のかたちにも・あるいはそうとすれば磨かれ切ったアマテラス人格語にもとづく作品にも見られるはずではないか? という観点を持ち それをも問います。  来たるべき(と思われる)日本のルネサンスに向けて 美とは何か? どういううつくしきものが求められるのか? ご教授ください。

  • 気勢感をめぐって さらに 美とは何か?

     先般の   ( a ) 【Q:わび・さびは どうして美しいと感じられるのか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7117520.html    の質疑応答を承け   ( b ) 【Q:非対称の美の鑑賞から】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7139296.html  を通過するかたちで 表題について問います。  § 1 いきなり 美とは何か?  (1) あちらでは《美的快感》と定義するようですが これを《みづみづしさ・息吹き・あるいは存在感》と――( a )のやり取りでは――捉えました。    (2) さらにこれを 《対人的な関係性を重視する美徳、美意識》と規定される場合も見られ それは ひとつには 共通感覚や共同主観につうじるところの相互主観性ということをないがしろには出来ないと言っていると思われます。人は 社会的に独立して存在するが それは社会的に関係性を有するということだと考えます。  孤独とは 孤独関係なりと。  (3) もうひとつに 美徳ともなりますと 倫理観にまでつながり いわゆる真善美というときの善にまで通じるかとも思われます。おそらく  こうでしょうか?   (3-1) 作品にしろ風景にしろ何らかの対象に向き合うとき    わが心にみづみづしい息吹きを呼び起こすほどの美は わ    れここにありという《わたし》の存在を自覚するきっかけにな    る。     そのとき 《われもまた アルカディアにあり》と言ったかど    うか分かりませんが それはともかく われは孤ならず必ず    隣り有りといった人びととのかかわりや まじわりを想い起    こさせてくれるものだということかと。  (4) 言いかえると 人と人との関係性や交通の現実性は ほかでもなく《生活世界》のことを言っている。何のことはない 日常生活なる基礎にもとづく美感・美意識ないし美学が 問われている。と言ってよいでしょうか?  (5) かたちにおいて枯れたものと華やかなものとがあり それぞれ 《わびさび》と《みやび》とに分けて捉えてみる。    (6) おそらく ミヤビとしての美的感覚は 人びとの生活日常とすれば 市民にとっての一次的な基礎ではなく その上に別の階層をつくりそこに第二次の生活世界を築こうとしたところに見られる。のではないか?  (7) 基礎ないし土台としての生活は つねに侘びしく寂しくなければならないものではないが おそらく 一度は枯れてしまって底に突き当たってのごとくさらにそこから なお残るみづみづしいちからを感じ得て 生きるというところに 美的感覚をおぼえるものと捉えられる。  (8) ワビサビの美を感じる心を 言葉としては あやまち得るスサノヲ人間語に対応させて捉え 対するにミヤビの美は あやまたざることを旨とするアマテラス人格語で捉えることとする。  (9) ひとつの問いは (3-1)の《人とのきづなを感じさせるところの・わが存在になお残るみづみづしい息吹きの自覚》は スサノヲ人間語やアマテラス人格語それぞれの単独の世界において見い出せるものか? これです。  (10) 言いかえると――質問者によるたたき台としては―― 両者あいまって 美的感覚をかたちづくるであろうと仮説してみる。  (11) 言いかえると スサノヲ人間語はみづからの中に倫理観などを潜在性として含むことにおいて その荒削りとしてのアマテラス人格語を宿していると見るのだし それに対して アマテラス人格語も ただそれだけでは無味乾燥なのであって どこまで洗練して行ってもそこに言わば土臭いスサノヲ人間語を失わず備えているはずだ。こう見るのが よさそうだとなります。  § 2 具体的な美の鑑賞へ  (12) さて § 1の作業仮説にもとづき(もしくは それを批判し修正しつつ) ( b )に挙げられている次の作品について われわれは では どう見るか?    ○( b ) ~~~~~~~   参考例  ( c ) 尾形光琳 紅白梅図          ( d ) 龍源院   枯山水石組の立石   ~~~~~~~~~~~  (13) ひとつの焦点は ( d )が パッと見としては スサノヲ語の枯れた美であり ( c )がアマテラス語の華やかな美であると見られるというとき ほんとうのところは どうか? になります。  《気勢感》は みづみづしい息吹きのひとつの種類だと捉えてよいでしょう。  (14) ここからは 一人ひとりの美的感覚の問題になって その十人十色なる多様性はあたかも収拾がつかなくなるほどであるかも分かりません。が とにもかくにも 美とは何か これをさらに問い求めてみたい。こういう出で立ちです。  * 質問者は 理屈はこねますが 美術史の素養もなく 個々の作品は画像で見たというくらいの知識と経験なのですが その非力をも省みずあつかましくもこのように問います。よろしくどうぞ。

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     僕はある高校の地歴部に所属しています。 いま、秋の文化祭に向けて土器を焼く計画が始まっています。 顧問の先生が言うには、実際に使うときに丈夫にしておくために、 粘土をこねている段階で何かを混ぜてから成型して焼くそうですが、 どの文献にも土器の焼き方について触れた文献はなく、 どうしたらよいのかわかりません。 どなたか縄文土器・弥生土器について詳しい方、 粘土の段階で何を混ぜていたのか教えてください。 「本で見たよ。」という方は、 その本の名前・著者名等も教えていただけるとさいわいです。

  • 縄文土器と弥生土器。

    昭和20年代、弥生土器は、実用性一辺倒で模様が無くて味気ない、と教わったように思います。 なぜ、模様が無くなったのか、不思議に思っていました。 そこで、ネットで調べてみますと、次のような説明に出合いました。 縄文土器のデザインはおおぶりで、模様も特徴的なものが多いですが、弥生土器は比較的質素なものが多いです。流行がかわったのでしょう。 使用目的は縄文土器と同じで、食べ物の保存や料理に使われたと考えられています。 質問です。 弥生土器は、縄文土器に比べて、なぜデザインや模様が質素なものが多いのですか。 いろんな理由が推定され、また、地域によって異なるのでしょうが、どんな理由が考えられるのでしょうか。 よろしくお願いします。

  • 現代における審美の可能性

    審美の問題は、近年、OKWaveの哲学カテで様々な質問が提起され、多くの関心を集めた問いでした。美の問題が哲学の領域で議論されるのは、下記で示すように、非常に的を得ています。しかし不完全燃焼という感が残ったのは、一つに、美術史を省みない形で議論が展開されたという要因があったと私は思います。そこで今回は美術史をまとめながら設問してみます。 まず審美はどのようになされたのかを振り返ることから始めてみましょう。美は古くは、真と善という別の価値観と結び付けて考えられてきました。これは新古典主義において「真善美の一致」と理論化されます。真善美の一致は芸術が宗教や哲学という別のジャンルと共通点を持つというだけのことを意味しません。美の認識は感覚的なものだけではなく、同時に、哲学が真理を認識するように理性的・論理的にも認識されなければならないのです。なるほど美が感覚的に認識されるとは、現代でも信じられていますし、カントなどを引き合いに出せばその通りです。しかしパノフスキーの『イデア』によれば、これはキケロ以降に起きたプラトンの読み換えがなしたものであって、元々、自明のことではなかったのです。 この点は次のことを考えてみれば明らかです。とある作品が優れているか否かを問題にする際、我々はしばしば、そのモチーフのイデアが十全に表現されているかを問題にします。馬の彫像なら、馬というイデアが表明されているかを検討するわけです。しかし「イデア」とはそもそもプラトンによれば、哲学や学術的探求によって認識されるものではなかったでしょうか。感覚的に認識されるイデアなどというものはなかったのです。 このように言い出せば、プラトンに沿うのなら、美に固有の領域などは存在しないということになるではないか?と思われる方もいらっしゃるでしょう。しかし、まさにその通りなのです。実際、パノフスキーが指摘するように、元々、プラトンによれば美は哲学の亜種であって、固有の領域はなかったのです。ところが芸術家の社会的地位が上がるにつれて、芸術固有の領域を確立するように評論家たちの言説が傾き、感覚的に認識されるイデアなるものが考案されたのです。 芸術の固有の領域を確立しようとする動きの極致は、「芸術のための芸術」という概念が提唱された十九世紀前半のフランスにあると言えます。始祖は半ば忘れられてしまったが当時は大変な力を振るっていた思想家ヴィクトール・クーザンであり、彼は主著『真善美について』で、美の固有の領域を論じるべく「芸術のための芸術」を唱えます。しかしクーザンは新古典主義者であって、真善美は根底では一致していると考えたからこそ、逆に、3つの価値観を区分してみても結局、何の支障もないと考えたのでした。彼は醜いモチーフを描くべきではないとも述べています。つまり絵画なら汚物は描かない、劇なら残酷な筋書きを避けることを勧めるのであって、真や善に誘導しているのです。 真善美を一致させつつ、芸術固有の領域を探ったのは、折衷的というべきであり、これは詩人のテオフィル・ゴーティエの「芸術のための芸術」とは別ものです。クーザンとゴーティエは同時代人ですが、後者は前者に対して異論を唱えます。ゴーティエが「芸術のための芸術」を唱えたのは、美は善や真に起源を持とうと、もつまいと知った話ではない、と主張するためでした。つまり悪徳であろうと、何であろうと、それで美と認めてよいと考えたのです。これをシャルル・ボードレールはさらに推し進め、『悪の華』では、美とは古代の規範を無視したとしても、刺激的であればよいと看破します。 しかし、芸術固有の領域が確立されるとき、審美に関する問題が発生します。真善美が一致するのなら、イデアが十全に表現されているか否かをもって作品の良し悪しを判断することもできましょう。しかし真善美の一致を解体した以降、ゴミ箱のイデアを十全に表現したとか、騒音のイデアを抽出した音楽は優れていると言って意味があるでしょうか。イデアが重要なのは、元々、真や善に結びつく糸口であったからです。かくして芸術固有の領域が確立される流れの中で、矛盾すると思われることにも、美と醜の区分は意味をなしません。すなわち「芸術のための芸術」において、美を選りわけるという意味での「審美」は成立し難い行為となったのです。 しかしそれでも我々はなお、美を求めるのではあります。上記の経緯を踏まえた上で、現代において「審美」とはいかにして可能か。あるいは不可能であるか。ご教示願います。

  • 縄文土器の模様

    近畿圏の博物館で縄文土器の模様を粘土に押し付けて実際に作ってみるといった体験コーナーがあるところはあるでしょうか? 以前行ったところにそういったものがあった気がしたのですがはっきりと思い出せません。 もしご存知の方がいましたら回答お待ちしております。