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聖徳太子は聖徳天皇だったのか?推古天皇の陰謀による政界改革とは?
- 聖徳太子は一度天皇に即位していた可能性がある。推古天皇の陰謀により、息子の竹田皇子を即位させようとしたが、彼が死去したため太子が政界に復帰し、独裁的な政界改革を行った。
- 聖徳太子は新羅討伐隊を結成し、朝鮮半島に軍隊を派遣しようとしたが、失敗に終わった。その後、太子が天皇位を剥奪され、闇に葬られてしまった。
- 太子の死因については諸説あるが、古代史特有の暗殺の可能性も考えられる。日本の歴史では改革派の権力者が暗殺されることが多く、太子もその一人だったのかもしれない。
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質問者が選んだベストアンサー
何やら熱に浮かされた様な質問を連投していますね。「聖徳太子」の質問ですが、歴史上には聖徳太子なる人物は存在しないというのが現在の日本史学では共通認識となっています。教科書やら一般の歴史本で表示されている「伝聖徳太子像」は現在「聖徳太子および二王子像」と呼ばれることが多く、古くは「唐本御影」「太子俗形御影」「太子唐形御影」などと呼ばれてきました。鎌倉時代に法隆寺の僧、顕真が著した『聖徳太子伝私記』には法隆寺では古来この画像を「唐本御影」と呼んできたとの記述がみられます。 質問者様の疑問の根底にあるのは「ヤマト王権」の特質が理解できていないことやそれに伴う「システムとしての天皇制」と「行政制度としての律令システム(奈良時代)」の関連がすっぽりと抜け落ちている点に起因すると考えられます。 そもそも「天皇」には国家を掌握する権限など何処にもありません。政治運営の議論をするのはヤマト王権では豪族の首長による合議であり、律令においては太政官制と呼ばれるこれも官僚システムです。天皇の地位に就くことはそれほど意味のあることではありません。「天皇」のもう一つの職能(権能)は祭祀者としての「権威の継承」があります。 「めまぐるしい独裁ともとれる政界改造」これはおそらく「十七条憲法」と「冠位制」のことを指していると思われますが、これも前者に関してはその中に使用されている文言から厩戸太子が生前に記したモノではないとする説もあります。 質問者様の指摘していることは全て「もし~ならば」と自らが根拠もない思い付きの下に発せられた疑問であり、質問としての体を為していないともいえます。歴史学には根拠を示す「史料」が何よりも必要です。これは自然科学における「データ」同様の意味を持ちます。データに基づかない成果は成果として認められないことはご理解できるはずです。 根拠として『日本書紀』を挙げていますが、その他の史料をあたりましたか?。たった一つの史料で判断を下すことは無謀な行為であり、歴史学では先ず容認することはできません。更にご自身の見解が質問の中で矛盾をきたしていることもお判りでしょうか?。「聖徳太子」なる人物が“仮に”皇位に就いたとして、その地位が「現人神」であるとの見解は何に基づくモノでしょうか?。少なくとも伊沢○○や梅原○のような俗説にのめり込み、そのフィルターを通じて歴史像をみる限り、そこにはモヤモヤとした磨り硝子のような世界、神秘のベールに包まれた世界を暴くといっても自らが作った別のベールで覆い隠してしまう行為と何らかわりありません。 一般に言う「聖徳太子」なる人物が神格化されたのは平安末から鎌倉時代にかけてのことです。この時期に成立した各種の聖徳太子伝説の背景には当然の事ながら中国の禅の思想や神仙思想などもあります。なぜこの時代に彼が神格化されたのかを考えてみれば、その背景には「武家政権の誕生」があります。武家はそれまでの律令からはみ出した存在であり、その棟梁である征夷大将軍は律令本来の職務ではない臨時の官職です。つまり彼らには「正当性の裏付け」がないままに地位を手中に収めた形で統治を行い、それが逆に「お墨付きを求める」形として現実的な課題となる。そのため「時代の転換点」である平安末から鎌倉期にかけてと後醍醐の時代に「聖徳太子伝説」として現れるとの見解が提示されています。 この人物に関する研究をひもとくならば、飯田瑞穂氏をはじめ武田佐知子氏や新川登亀男などの研究がありますのでそうした文献に目を通されることが大切かと存じます。もし聖徳太子なる人物が皇位に就いたとの事実があれば、それは記紀以外の史料にも何らかの形で記されていることになりますがその様な記述を寡聞にして私は目にしたことが一度としてありません。 「記紀」に関しては編纂時の最高権力者である藤原不比等を含めた政治意思が働いていることもありこうした背景を割り引いて考えることも必要です。天皇に拘泥する必要は何処にもありません。
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- tanuki4u
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天武天皇の後継であり、かつ天智天皇の娘である持統天皇のもとで、天智天皇によって勢力を広げることができた藤原鎌足の息子、不比等が編纂をすすめた。 天智天皇を表立って絶賛できないし、けど絶賛したい。見る人が見ればわかる構造。としたのではと。 なので、天智天皇が称制で天皇にならずに政権のトップにあった事績を、過去の厩戸皇子に投影したのが聖徳太子じゃないかなと。
お礼
回答ありがとうございます。 うーん。そこまで危険を冒してまで、天智天皇を絶賛したかったとは思えないですね。天智天皇は、白村江の戦いに敗れ、その敗戦の痛手が癒えぬ前に大宰府に防護壁、瀬戸内海沿岸に水城を築いて、なおかつ滋賀県大津に都を移している。そして戸籍。かなり国家予算を乱用したんじゃないですか?その負担は、民百姓に留まらず、貴族や豪族までも痛手を負ったのではないでしょうか?しかも、実の妹との不倫?そのせいで、即位しなかったという説も(俗説ではありますが)妹の死後1年で即位したとも、、、 なおかつ、唐と手を結んで、朝鮮半島に再び攻め入ろうという計画をしていた?日本国中悲鳴をあげていたのではないですかね?そういう方を稀代の天才不比等が絶賛したかどうか? それにつけても、不比等は恐ろしい人ですよね。藤原氏はもともと天智天皇のブレーンだった。本来なら、勝者は敵方の重要人物は抹殺するか、しなくても重要なポジションには登用しないでしょう。(いくら才能があっても、勝者側の人間によって潰されるのが落ちだと思います。)それなのに、そこまで出世するとは、どれだけ悪行を繰り返してきたか。想像できないですね。
聖徳太子には謎が多過ぎます。 聖徳太子を中心に左右に子供を並べている画が有名ですが、 中心にいるのは聖徳太子ではなく、聖徳太子の左側 (向かって右側)の子供が聖徳太子という説もあります。 聖徳太子には謎が多いので、ご質問にはお答え出来ません。 回答になってなくてすみません。
お礼
ありがとうございます。 そうですよね。謎ですよね。 だから、興味が尽きないです。 勝手に想像して楽しんでいます。 聖徳太子の画の件も、興味深いですね。 その説を唱える人、調べてみます。
お礼
まさしく、熱に浮かされて、質問してしまいました。 飯田氏、武田氏、新川氏の文献読まさせていただきます。 学生の頃からの疑問を、俗説を読むことで、拍車がかかってしまったようです。 ありがとうございました。