哲学の役割とは?

このQ&Aのポイント
  • 哲学に関する疑問や興味がありますが、その役割や社会への貢献について理解できていません。
  • 他の学問と比べて、哲学は自己満足の領域に留まっているのではないかと感じます。
  • 私の見解では、哲学が社会への貢献を果たすためには具体的なアプリケーションや実践が必要だと思います。
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哲学の役割は?

私は、哲学にとても興味があります。ただ哲学が何か、哲学がどういうものかいまいちというより、かなり掴みきれませ何ん。哲学がかを考えるときに強いストレスを感じます。原因は私の無知です。年齢は20代前半です。以下、失礼に値する文章かとは思いますが、どうか皆様の的確なご指摘やご指導があれば幸いです。 『哲学の目的』はなんでしょうか?『哲学には社会に対して何ができる』のでしょうか?『哲学の役割』は? 物理学なら、明晰かつ斬新な物理モデルを発見することによって、技術発展を通してひいては医療・貧困・飢餓の問題の解決の一助に成り得るでしょう。 法律学なら、より良い少数派や弱者を救う法的プロセスを発見し法制化することによって、より人々が安心して暮らしやすい社会づくりをすることができるでしょう。 会計学なら、より適切な会計的手法を編み出すことによって、利害関係者のより一層の保護を図り、健全な経済の発展に資することができでしょう。 どの学問もそれぞれにそれぞれの前提と研究方法が確立されていて、それがひいては何らかの形で、その学問以外の社会や第三者のためへの貢献へとつながっているように思えます。 それに対して、哲学はどうでしょうか?哲学には社会に対して何か貢献できるという確固たるものがありますか?正直に申し上げて私はそれを感じることができません。良い言葉ではありませんが、哲学は単なる自己満足で終わってませんか?自分たちなりに自分たちが粋だと思ってる思索・研究ができれば、それを是とする、という。どうでしょう?哲学が学問として単なる自己満で終わってるという私の見解は。どうか皆様の御指摘・御指導お聞かせください。 よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

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  • mmky
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回答No.15

>>いかんせん、ちんたら趣味で読書している時間がないのです…。 >>ちなみに…以下の文章は本質を捉えてますか? ○追伸:ミネルバの梟は「自助努力の精神」「信仰と感謝」「発展と未来への希望」の主に3点を基準に世界を社会を鳥瞰しています。 この3点に違反した場合、人類の永続的生存が許されていないからです。それを知るゆえにミネルバの梟と呼ばれるのです。つまり哲学は単なる学問ではないのです。 社会主語思想は「自助努力の精神」に違反し、唯物論や科学万能主義は「信仰と感謝」に違反し、貧乏思想や暗黒思想は「発展と未来への希望」に違反します。違反が目に余るようになるとミネルバの森から飛び立って警告を発するのです。 巨大な梟は多くのものの前で同じことを説き、小さき梟は哲学カテで同じことを繰り返し回答しているのです。どのような名で呼ばれようがどのような職業であろうが梟の目には梟かどうかがはっきりと見えます。だから「我々は哲学を学んで、沈みゆく時代と昇りゆく時代の特徴を学ぶことができる。」ということなのです。「真理は簡単な言葉のなかにある。」それが梟の言葉ですから。それを鍵に世界を鳥瞰すれば偉大な梟も見出せるでしょう。参考まで

その他の回答 (15)

noname#150036
noname#150036
回答No.5

はじめまして. やっぱり解らないでしょうね.でも,やれば解るんです. この世に,哲学を免れたものは無いのです.このことは,極秘 扱いにされているので,あまり大きな声では言えないんですが 哲学とは,人類に掛けられた呪いを解く事なのです.この呪い から逃れるには,猿になる以外に方法は無いのですが,皆さん 猿になれないから,必死に呪いを解いているのです.それは, 取りも直さず人間として生きる為なんです.何度も言いますが これは極秘のことなので,ほかの人には教えないで下さいね. ああ,人間的.あまりに人間的な哲学なのかもしれない.

nisihigasi_6
質問者

お礼

ニーチェは何か具体的に社会貢献することが出来ましたか?

  • hanniyagi
  • ベストアンサー率15% (14/88)
回答No.4

ゼノンだったか、タレス、だったか?古代ギリシャ哲学の初期、「人生の目的は幸せになることである」 (これはタレスかな?) などと、言っている(インド哲学の流入、影響、が見られない?)頃です。 本質はどうの、根元がどうの、と難しげな事を言っても。現実には何の役にも立たないではないか 。と指摘、非難、を受け。ゼノンかな?が。今年はオリーブが豊作になり、圧搾器が間に合わなくなる事を見越して。圧搾器を造っておき、金儲け、をして見せた。 古代中国には。荘子的な話しとして? スズメたちの、大きなばかりで何の役にも立たない、と言うような、おしゃべりに、鵬、が、山になって 寝てしまった。とかの話しもあるようです。 2500年ばかり前の、古代、インド、中国、ギリシャ、の哲学をピークとして、哲学は眠ってしまった? ようです。替わりに、数学を知恵の代役とする科学、と心の思想や宗教、が、哲学の顔、を装っているのが現代の世界なのでは? 何百年か何千年か後、人類が成長した世界が到来したなら、21世紀は心とバーチャルの時代。 知恵の消滅の時代。と評される事になるのかも知れません。 哲学、とは何かは。(人間の)知恵、とは何か。が根本、基本命題、なのです。  それ故に哲学は、学問の王、学問の中の学問、だったのです。 ホモ・サピエンス 知恵がなければ唯の猿。でもありませんが。 知恵がなければ始まらない(本当の人間?になれない)人の道は過酷峻厳なのかも? 動物には、驚くほどの、知恵=適応、対応 能力があります。 しかし人間はその知恵を、脳の活動に置き換えたのです。 それが、適応成功となるのか適応失敗種として、短命に終わるのか、微妙、なのでは?  

nisihigasi_6
質問者

お礼

>哲学は眠ってしまった? 私のイメージでは、20世紀、21世紀でも広がり続けているのですが…。哲学の対象が他の諸分野に取られてしまったとしても、何故哲学は広がり続けているのでしょうか?文字通り他の分野に対象を取られて、廃れてしまった分野も五万とあるというのに…。哲学だけは妖艶な魅力を放ちながら、発展し続けているのは何故か?そこにヒントがあるかもしれない。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.3

哲学て、ここでは西欧哲学のことと理解します。 この哲学については、質問者さんの指摘するように 役に立っていない、それどころか邪魔していると 主張している人もいます。 私も、哲学なんてのは所詮は知的遊戯に過ぎない のではないか、と疑念を抱いていますが・・。 一応、その存在意義を考えてみました。 哲学の対象は、当初は、自然、神、人間でした。 それが時代を経ると、自然は科学に持って行かれ 神は宗教に持って行かれました。 最近では分子生物学などが出て、人間も 科学に持って行かれてしまいました。 しかし持って行かれた、と言っても、総てを持って 行かれた訳ではありません。 科学でも解き明かせない部分は、無数に残っています。 哲学は、この残された部分に巣くっている学問だと 私は理解しています。 だから、哲学の貢献ですが、その残っている部分に 光や方向性を与えることが貢献・・・かな。 分子や原子というのは、ギリシア哲学がヒントになって いるのではないでしょうか。

nisihigasi_6
質問者

お礼

なるほど。とてもわかりやすいご回答ありがとうございます。歴史的な流れをつかむことが出来ました。しかし、自然や神をもっていかれた時、学問として哲学は何故何の反論や抵抗をしなかったのでしょうか?それでは、本当にただの知的遊戯へと成り下がってしまうのではないでしょうか? とは言いつつ、今現在においても、哲学という学問分野が大筋でも把握できないほど壮大のようで、また他の学問にない輝きというか魅力を放ってるように感じているので、興味がやまないのです。 『哲学は、この残された部分に巣くっている学問だと 私は理解しています。』 巣食う意味はなんでしょうか?巣食うくらいなら当該分野はその分野の学問に全て任せてしまってもいいのではないでしょうか?現代ここまで科学が発展しても、まだ存在発展し続ける哲学にどうしても魅力を感じてしまいます。その好奇心は徒労に終わるでしょうか?もしそうだとしても、後悔はしないという無根拠な確信がどこかにあります。回答者様は歴史や哲学を嗜んでおられるようですが、どのように勉強してきたのですか?大学や大学院・研究施設などでしょうか?それとも書籍など趣味や独学などの類ですか? 私はどうしようか迷っています。

回答No.2

哲学や科学=認識の深まりこそ、自己存在の必然としての環境の自覚化=無限の自由における最大限の充足を可能にするものだからです。 量子論的世界像において、有限的存在性は観察において派生する=「全ては、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)補完」だと言うなら、宇宙は自己の必要であり、完全に自由であるはずです。 しかし、物にぶつかり、人と争うのはなぜかというと、その場合の自己は「物理的根源にまで遡った」ものではなく、現象表面的&刹那的な「自己チュー」なものだからです。 いわば、「存在」とは自己矛盾であり、自己チューな意識に対する「規制」なのです。 そうした短絡的自己から、認識の深まりによって“環境”を自己として自覚化し、社会に対しては他我(愛=社会生命的自覚=自律的社会行動)において生きるなら、その意志は永遠の未来においても、宇宙の果てにおいても、予め達成されるものとなり、完全なる自由と無限の幸福が約束されるのです。

  • mmky
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回答No.1

○哲学は、単に過去の哲学者の論文を研究したり解釈したり、あるいは一節を切り取って言葉遊びするものではありません。人々を集団として捉えたとき、過去を学び、未来に向けてどうあるべきかの方向性を示すのが哲学の意味するところです。 政治、経済、科学・物理、芸術全てにおいて未来に向かう正しい道筋、つまり哲学なくしては全てが砂上の楼閣にしかならないのです。哲学なき国家運営は漂流船と同じです。これは哲学なき愚民による愚民政治ということですが、現代を象徴していますね。科学や物理とて同じです。なんでも想定外で逃げられるのなら学問など必要ないのです。哲学なき科学は愚民に放射能の恐怖をもたらすだけですね。これもその状態ですね。日々便利さや生き安さをキリギリスのように求めるのが愚民なのです。ありの勤勉さと未来への道筋と希望を提示するのが哲学ですね。 宗教家は宗教なくして人類の未来はないというでしょう。哲学者は一歩下がって哲学なきは明日なきありの努力というのです。それは、哲学者は神の計画を知るものだからですね。それが哲学というものです。 哲学を志すなら過去を学び、現在を鳥瞰し、神の計画を尊宅し、未来の希望を語ることですね。 21世紀以降は新しい哲学が必要です。それを創れるかどうかに人類の未来がかかっていますね。 まあ、それができないのなら愚民に徹して適当に人生送ればよい。そのように言うしかないですね。

nisihigasi_6
質問者

お礼

>『哲学なき国家運営は漂流船と同じです。』 それならば何故哲学者は哲学以外の他分野に積極的に関わろうとしないのでしょうか?その不気味な無関心さが怖いです。もしかして抽象論的な思考は得意分野だが、肝心の具体的な目の前の現実に対しての適用・敷衍させるのは苦手ということなのでしょうか? >『哲学を志すなら過去を学び、現在を鳥瞰し、神の計画を尊宅し、未来の希望を語ることですね。』 もしそうであるならば、そのような風潮が哲学から感じられないのは何故でしょうか?それほどの役割が今の哲学にあるのなら、何故哲学内で自己完結してしまっているのでしょうか?やはり哲学は崇高なものであり、現実は軽視、ということなのでしょうか?

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  • 哲学は けんかである。

     1. 哲学は けんかである。  2. 同じくけんかである自然科学は しかしながら その仮説を実証しえたなら 結着はつくのに対して 哲学の場合には なかなか決着がつかない。社会科学にしても社会の一部ないし全体において実験をするしかなくなるが 哲学なら――特にはその基本が存在論にあるだろうから―― 結着をつけることは並大抵の問い求めではむつかしい。  3. ゆえに 段階をそのつど高めつつも 永遠に対話をつづけなければならないという意味で 哲学は けんかである。  4. ならば けんかの方法があるはず。  5. 何よりもまづ先に 相互に見解を明らかにしたならば それを認識せねばならない。  6. それには相手の言い分をまづは全面的にただしいと見なして受けとめるのがよいのではないか。そうすると 間違いについて早くよく分かる。  7. とうぜんのごとく 同じ内容を共有する部分とそして異なった見解を持つ部分とに分けられ 特には後者の――けっきょくこちらとしては間違いだと思うところの――相手の見解について批判する。  8. 批判がなければ 全面的な互いの同感に到ったという対話の場合を除けば 哲学・思想ではないであろう。  9. むろん哲学は 思想がおのれの見解に従って突っ走るのに対して 一たんはその独走を禁欲し あらゆる可能性を考慮しながらあらゆる場合について迂回作業としての認識や思索を 行動への準備段階としておこなう。おこなうのであるが ただし それではまだ生きていない。それだけでは 生きていない。  10. したがって まったく同じ世界観を共有する場合を除けば 哲学するということは 互いの見解についての批判合戦となる。  11. どういうわけか 批判はするな・自己主張はやめよ・議論をするのはみっともないという通念がまかり通っているように見受けられる。  12. とすると どういうことになるか? いつかどこかで――たぶん外国発という――お墨つきが出れば それを有力な仮説なりあるいはすでに定説なりとして その説の中身を《研究する》ことが 哲学だということになる。のであろうか?  13. そのような手枷・足枷をありがたがってあとは熱心に――自己主張は禁欲して――研究に没頭する これが 哲学であり学問だというのであろうか?  ご教示ください。  14. ちなみに《価値自由》を説いたヱーバーとか言うひとも おのれの価値判断を―― 一たん控えるとしても――しないと言っているのではない。  15. 自分で自分の手足を縛る《禁欲主義》は いったいどこから出て来たのか? 《お墨つき》〔をありがたく戴く〕というのは 明らかに価値判断であり自己主張であるのに。

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