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西南戦争で政府軍が家屋に放火

立ち退きを余儀なくされた人びとに対して、どのような補償や救済がなされたのですか。 また、放火された家屋は、どのくらいの大きさの家が多かったのですか。 焼き払われた家屋の数は、当時の新聞記事では、「安政橋辺にて三十軒ばかりと、坪井辺六十軒ほど」だそうです。 よろしくお願いします。 熊本城公式HP「西南戦争熊本城籠城戦」 http://www.manyou-kumamoto.jp/contents.cfm?id=463 籠城が決まると食料・薪炭等を備蓄し、橋を撤去したり、通路を塞ぎ、地雷を埋め、更には「射界の清掃」のために市中に火を放ちました。開戦前に城下は焼土と化したのです。

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  • dayone
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回答No.2

プチ情報に過ぎず… また既に御存知の場合は笑って許して下さいm(_"_)m ◆熊本県>県庁の組織で探す>文化企画課>文化企画課松橋収蔵庫企画展示の図録・資料集 ■平成22年度第1回企画展示「ふたつの明治十年日記」 http://www.pref.kumamoto.jp/soshiki/20/kikakutenzizuroku.html ◇その9(甲斐有雄日記翻刻)[PDFファイル/721KB] http://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/life/1020268_1090407_misc.pdf <5/43>中段8・9行目 (二月)廿三日「町焼拂候跡ハ壱間一坪弐円五拾銭宛御渡し方の事」 ◇その4(甲斐有雄日記紹介)[PDFファイル/712KB] によれば http://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/life/1020268_1090009_misc.pdf 阿蘇郡高森尾下村の石工・甲斐有雄が記した明治十年日記は、 「一般民衆(非戦闘員)」的立場と、 従軍軍夫(同年7月から9月24日まで政府軍の軍夫として従軍)としての立場から記された 二重の意味で重要な資料だそうですが、<4/19>下段4~8行目に 「同日(=2月23日)条では城下町の焼け跡に対し、 『壱間一坪弐円五拾銭宛』で補償がされるという情報も書付けられている。 阿蘇の宮山地域にも、早々にこうした情報が届いていることが注目される。 一九日に行われた熊本県庁の御船移転についても、有雄はこの日情報を入手している。」 2月18日の避難命令から19日午前11時の間までか、遅くとも23日までには、 …真偽は別としても…城下町で補償情報が流布していたのは確かなようですね。 以上

goo-par1732
質問者

お礼

ありがとうございます。 嬉しいような、情けないような思いです。 もっともっと自分で調べるべし、であったと…。 図書館で「熊本県史」を読めば、補償とか救済について何か書いてあるだろう、くらいに考えていました。 『甲斐有雄日記』は知りませんでした。とても面白い内容ですね。 百年以上も経って自分の日記が赤の他人に読まれるとは、甲斐さんも想像だにできなかったでしょう。 前回のご回答に 「罹災救恤ハ家屋焼毀ニ罹ル者ノ爲メニ特別手當トシテ下給セシモノニシテ 其被難ノ淺深家屋ノ大小等ニ因テ各差等アリト雖モ ニシテ其戸數ヲ擧レハ凡ソ三萬五千四百餘戸ニ及ヘリ」 と、ありました。 「毎一戸ノ平均參拾圓餘」の値打ちですが、これでは小さな家も建てられないようです。 明治11年、東京の庶民の家(建坪12.75)では、70円の例があります。 物価の地域差はあるでしょうが、大規模火災後は、資材・工賃等高騰しますので、70円をどのように判断すべしか…。 人身掌握のために、明治政府としては精一杯の「善意」を示したようです。 『壱間一坪弐円五拾銭宛』で補償がされるという情報があった、という事実だけで私としては満足しました。 ご教示に感謝します。

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  • dayone
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回答No.1

先ずは『文学部論叢 巻93(歴史学篇)/熊本大学/2007-3-5』(73~109頁) 「お姫様たちの西南戦争:史料の解題と紹介/三澤純」などを 事前確認したのは言うまでもありません…ボソッ^^ 西南戦争当時の東日と言えば… 「太政官日誌」が通巻1117号で1877年1月廃刊となって、 1883年7月「官報」創刊までの間、「東京日日新聞」が太政官御用として 「太政官日誌」の役割をつとめたそうですから、明治政府公式発表と言えそうですね。   余談はさておき…残念ながら熊本市街の個別具体的な事までは?ですが、 『明治財政史/明治財政史編纂会編/明治財政史発行所/大正15』[第3冊]第3巻 第四編 豫算決算 附録 西南役征討費始末(241~294頁)<130~157/623>によれば、 (231頁)<125/623> http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020871/125 西南戦役ノ費額ハ實ニ四千貳百萬圓ノ巨額ニ上ルモノアリ國家非常ノ費用ハ固ヨリ 經常歳入ノ能ク供給シ得ヘキ所ニ非サルヲ以テ準備金及一時借入金ヲ以テ之ヲ支辨シ 遂ニ紙幣發行ヲ以テ此急需ヲ充スニ至レリ而シテ此征討費ハ明治十年十一月太政官達 第八十六號ヲ以テ太政官中ニ征討費總理事務局ヲ置キ一般ノ歳計ト區別シテ整理決算 スルコトヽセルヲ以テ明治十年度豫算及決算中ニ包含セサルナリ   (272頁)<146/623> http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020871/146 賑恤之事 窮民救恤   一一七、三五五・(円)八七六 罹災救恤 一、一二三、九〇六・(円)七一三  小屋掛費   二八三、〇三四・(円)九二〇 總計   一、五二四、二九七・(円)五〇九 賑恤ハ戰地各所遭焚罹災ノ人民撫恤給ノ費用ヲ集ムルモノニシテ 戰線内地方ニ於テハ其災害ヲ被ル者甚タ多シ是本費ノ巨額ヲ要セシ所以ナリ 窮民救恤ハ戰線内ノ縣下ニ於テ罹災ノ際ニ一時炊出シ其他ノ方法ヲ以テ 流離ノ困窮者ヲ救恤セシモノニシテ其戸數ニヨリ給與セシモノ凡ソ二千二百餘戸 人員ニヨリ給與セシモノ凡ソ四十萬四千六百餘人ナリ 小屋掛費ハ焼毀ニ罹ル人民ノ爲メニ一時居宅假營ノ資途ヲ給セシモノナリ 罹災救恤ハ家屋焼毀ニ罹ル者ノ爲メニ特別手當トシテ下給セシモノニシテ 其被難ノ淺深家屋ノ大小等ニ因テ各差等アリト雖モ 毎一戸ノ平均參拾圓餘ニシテ其戸數ヲ擧レハ凡ソ三萬五千四百餘戸ニ及ヘリ (290~292頁)<155・156/623> http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020871/155 熊本縣 費用ノ決算總計ハ金九拾六萬貳千六百四拾貳円四拾參錢壹厘ニシテ 該額ハ戰闘費徴募費警備費賑恤罪犯處分費及ヒ雜件ノ六件ニ使用セシモノナリ 其科目ヲ擧レハ左ノ如シ … 賑恤 窮民救恤  二五、七二一・(円)四六二 罹災救恤 四九二、五五四・(円)一五五  小屋掛費  九七、二一七・(円)五〇〇 總計   六一五、四九三・(円)一一八 … 賑恤ハ熊本市街及ヒ他ノ各村市兵火戰難ニ罹リシ者ヲ賑給シタル費用ニシテ 其一時救助米金ヲ頒與セシモノ凡ソ二千二百餘戸八萬六百餘人 小屋掛費若クハ木材ヲ給セシモノ凡ソ一萬八千七百餘戸 焼毀ノ大小ニヨリ手當金ヲ差給セシモノ一萬四千五百餘戸ナリ 其他罹難戸長ノ特別手當及ヒ牛馬斃死手當ヲ給セシモノ亦タ若干アリ 以上 少しでもヒントになれば幸いです^^

goo-par1732
質問者

お礼

いつも親切なご教示ありがとうございます。 やはり「近代デジタルライブラリー」で調べることができるのですね。 「近代デジタルライブラリー」で何を見ることができるのか、熟知しておかねばならないと痛感しました。 急な立ち退きを命じられた住民は、荷車の確保もままならず、行く当てもなく、困ったという記録を読んだので質問したのですが、焼き払う前に、「引越料」とか「生活費」を払ったりは、していないようです。 被害者である民衆の側からの記録をさらに探してみたいと思います。 今回も詳しく教えてくださって、真にありがとうございました。 ご回答は、十分ヒントになりました。

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