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なぜ生きないのか。

 なぜ生きないのでしょう?  感性か何かがちがっているのでしょうか?    もしそうだとして マ(間・間合い)がちがって来ているので 感性が違う働き方をするのではないか?  環境や情況から このマを見失わされたというような経験が原因にあるのではないか?  よく分かりませんので おしえてください。

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noname#156094
noname#156094
回答No.1

苦の消去の理由を意識が感性に求めているように思われます。 それは同時に、意識が感性を捨て去ろうとしている姿でもあるようです。 意志によって判断されるべきものを与える感性の働きを、意志そのものが捨て去ろうとするのは苦の認識によるものです。 休みなく苦の認識の基となる情報を送りつづける感性の働きを遮断することによって、外界を変化させること無く、苦の消去を計ろうとするものです。 意志が感性の働きを捨てようとする事は、肉体における諸感覚や、それらに付随した直観の働きも含めた全てを捨て去ろうとする事です。 苦の消去を肉体の消去によって計ろうとしても、中々実現しずらいのは、直観の働きを意志が消去できないところにあると思われます。 感覚を通さずにもたらされる情報が、意志による苦や肉体の消去を押し留めているようにも見えます。 いわゆる「葛藤」です。 意識における正解が、意識でないものに否定される、という人間らしさでもあります。 生を否定して、苦の消滅を計ろうとするのも人間らしさですし、それが中々出来ないのも人間らしさです。 感性が訴えかけてくるものは、意識へのSOSだけではなく、外界への変革の可能性も含めたものであるように思います。 以上から言えるのは、生に対する意識の関与には限界があり、意識自体の持つ領域に納めようとするところに破綻をきたす、という事です。 苦の消去において意識のみが正解を持つという執着が、生きる事を妨げているように思われます。 以上思いつくままに書いてみました。 ご参考になさってください。

bragelonne
質問者

お礼

 おおーっ。とまづは雄たけびを挙げまして。  へたのすけさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  もっとも偏屈になってあるいは自己中心主義になって言うとすれば 質問者のかんたんに述べた趣旨と案外同じ軌道の上にあるご見解であるかと思いました。  ○ 人とのあるいは漠然ととしては社会との間合いをどのように取るかで戸惑っている。    ○ あるいはつまり その間合いをもはや取らないようにするのはいかにすべきか これを暗中模索している。  ☆ このような七転八倒の姿を 心的現象として深く掘り下げて 片や感覚および意識 そして片やそれらに対するにむしろ意識や或る意味で意志をも超えたところにはたらく直観 これらの言わば絡み合って作用するところを明らかにしたご見解であると思います。  ★ 意識における正解が、意識でないものに否定される、という人間らしさでもあります。  ☆ 直観のほうがつよい。有効である。このあたりが 表現としてもいいですね。  もしもっと大胆に質問者の特権(もしくは出しゃばり)において展開してしまうなら こうなりましょうか。  ○ 生きないでいたいというのは感覚でありその意識でありおそらくそういう――マイナスのだが――意志でもあると考えられる。  ○ それに対して これをどこからかひっくり返すところの力。これは――意識に上がったときには直観なのだと思われるが―― したがって意識を超えているばかりではなく 人間の意志をも超えてはたらく源泉としての意志のようなものである。  ○ のであって この源泉としての力――意識しうる意志の・見えず意識し得ない裏打ちのような力―― これを直観するときには すでに消えていると言いますか すでに作用をし終えて 人を生きる道に乗せ戻している。  ☆ このまとめは 次の結論を解釈して得たものです。  ★ 以上から言えるのは、生に対する意識の関与には限界があり、意識自体の持つ領域に納めようとするところに破綻をきたす、という事です。    ☆ この  ★ 意識自体の持つ領域に納めようとするところに破綻をきたす、という事  ☆ については わたしの文章では触れていませんので 是非その種の疑問質問に向かい合うときには 考えに入れて欲しいところだと 質問者ながら 思います。  あるいは 《苦》の主題についても質問者は触れていませんので へたのすけさんのご文章に就いて検討されることを みなさんにおすすめしたいと思います。  ★ 感性が訴えかけてくるものは、意識へのSOSだけではなく、外界への変革の可能性も含めたものであるように思います。  ☆ ここは読み解きにくいように思いますが こうでしょうか?  ○ 感性がうったえかけてくる場合 ふたつあると思われる。それらはどうやら筋が違ったところに起きるようだ。  ○ ひとつにそのまま 感覚そのものの心的現象として辛さや苦しみがある。  ○ もうひとつに上に直観として触れていたときの・源泉としての 意志以前の意志 これがはたらいて《外界への変革の可能性》を語るかのようにうったえる場合。  ○ そしてこの場合には うったえた時点ですでにかまたは同時に むしろ自己を変革し終えていて外界との間合いの取り方を元に戻した恰好となっている。  ☆ こう解釈しました。  以上勇み足をおそれずに大胆に解釈しましたので 審査していただければさいわいです。  あと 内面における葛藤といったコトについて触れそびれています。苦手です。

その他の回答 (53)

回答No.54

こんばんは、bragelonneさん。 荒らしとみなすって…たしかに引き出してとは言いましたけど、座礁しちゃいませんて。海難事故。海の上でのレスキューといえば…〝海猿″。洒落たことを、まあ、「海猿」第4弾の撮影ロケ御一行神戸にやって来てはいますがね。しかし、そのまえの「もういいよ」って、何ですの?かくれんぼですか?ふつうに「また明日」といえばいいのに。やいこしいわー。 「にんげんっていいな」 http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/ningentteiina.html そやしね、荒らしとみなすっていいはりますけど、どこをどうみたらあたしが男の子に見えます?失敬なはなしやで、正真正銘女の子ですよ。ホントにもうー、ムーミンじゃないってば、ムーミン物語でいえばノンノン若しくはフローレンてところですかね。 【ムーミン公式サイト】 http://www.moomin.co.jp/index.html http://www.moomin.co.jp/data/chara01.html 底引き網業…「もういいよ」ヨッシャ!巻いて巻いて いとまきまき いとまきまきひいてひいて トントントン♪♪♪ 「いとまきのうた」 http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/itomaki.html 【楽しいムーミン一家 第1話】 http://www.youtube.com/watch?v=WqOv1Vf0hAY 【北欧神話入門】 http://homepage3.nifty.com/ryuota/norse.html 【道州制ってどうよ?】 http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20081105/110147/?rt ↑ よくわかんないなぁー

回答No.53
bragelonne
質問者

お礼

 荒らしと見なします。

回答No.52

こんばんは、bragelonneさん。 ごめん。 頭に金融の二文字がべたーっと張り付いて、  ★ (回答No.41) 失楽園 / 『1.楽園出奔:内部と外部の亀裂』  ☆ → No.41補足欄に批評を書きました。  ▲ (回答No.31) 藤田 一美:「実存の藝術としての<Tragische Philosophie> -ニーチェとアリストテレス-」  ☆ → No.32補足欄にお応えとしての批評あり。  ▲ (回答No.34) 萩原朔太郎:詩の原理  ☆ → No.34補足欄に応答あり。 書いてもらったの読んでるんだけど、意識が「金融」に流れちゃう、いまは。 自由でない資本主義もありうるとか… 頭ン中ごちゃごちゃ 整理できてない 民主主義と社会主義がぐるぐるまわる うまく言葉にできない… ちょい引き出して、

bragelonne
質問者

お礼

 ご投稿をありがとうございます。  でももういいよ。

回答No.51

よっしゃ!充電完了―☆ ●慢性結膜炎に角膜炎が何度も再発 ↑ もしや、コンタクトを使用されてますか? 眼鏡にかえてみてはどうですか? 【漢方薬】 http://www.kotono8.com/2009/11/30kanpou-hoken.html 【漢方革命】 http://www.seihouen.ne.jp/newpage-kanpo-kakumei.htm 【抗がん剤治療】 http://www.kenko-msnet.jp/koganzaichiryo.html 順列と組合せ

bragelonne
質問者

お礼

 ご投稿をありがとうございます。  ★ (回答No.41) 失楽園 / 『1.楽園出奔:内部と外部の亀裂』  ☆ → No.41補足欄に批評を書きました。  ▲ (回答No.31) 藤田 一美:「実存の藝術としての<Tragische Philosophie> -ニーチェとアリストテレス-」  ☆ → No.32補足欄にお応えとしての批評あり。  ▲ (回答No.34) 萩原朔太郎:詩の原理  ☆ → No.34補足欄に応答あり。

回答No.50

【 解体新書、雑感 】 http://homepage3.nifty.com/yoshihito/kaitai.htm 【 西野カナ/会えなくても 】 http://www.youtube.com/watch?NR=1&v=J2FoIhITryg 週末まで時間下さい。極度の睡眠不足。回復までに3日を要す。 のちほど。

回答No.49

慢性結膜炎に角膜炎が何度も再発 さすがにもう挫けた。 水虫も治らないのかずっと通院しているし 頻尿で一時間に一度は尿意が起きるし お腹も弱いし 体は冷えるし 各種トラウマに襲われるしなにもできないし さすがにもう生命を維持するのに疲れた。生きるのにストレス。 バス代が値上がりしたことを忘れるミスをしたり、風邪で熱があって朦朧としてたとき薬局で支払いを素通りしそうなミスして店員に睨まれたり、モノを落として壊してしまったり、列に割り込まれただのなんだのいちゃもんつけられたり、行動もマヌケだしもうなんだかなんか言葉もない。 苦痛だよ。 しかもこうやってネットに書いて救えないよ

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。  話がつづくようになって よかったと思います。  もしわたくしの考えをもろに出してよいとしたら こうです。  人間として・また人間にとって 存在は とうとく まもるべき善であり 生きること自体が 善だと思います。  ただし―― 一般にはどうであるか知らないのですが と言いますか 一般論をいま敢えて別にするのですが―― この《生き動き存在する人間》は 実際には 《何々をしこれこれのように生きるわたし》であるというのが 相場です。というひとつの見方・生き方をかかげます。(相場と言うからには 一般論だとわたし自身は 思っているということですが)。  つまり 生きるのは からだの健康を回復してから やおらそうするというのでは必ずしもなく 何かをおれはおれの流儀でやるのだと決め実際にし始めることだと考えるのです。健康は あとからついて来る。あるいは ついて来なくても やる。そういうものだと思っています。  どうしても休まねばならない場合は 休みます。  きついですかね。

回答No.48

体のあちこちがどんどん不調で死ぬより悲惨なことになりそうです。 腰までつらくなった。後頭部もつらい

bragelonne
質問者

お礼

 医者は どう言ってるんですか?  わたしには 励ましの言葉しかないのですよ。  それでよければ 尽きるまで書き込みますが。  わたしも けっこうつらかった。  きょう 一服しました。おかげで。  しかも 申し訳ないことに  あなたと逆に やっとよくなろうかというまでになりました。  異端児・反逆児として長年生きてきたから ハイテンションなんです。  批判をせずにはおかないという性質になって来ています。  どうなんでしょう この一年くらいをながめてみれば 少し ほんの少しおだやかになりましたかねぇ。  おかしなことに このここでのやり取りをおこなうときは どういうわけか 元気になって 書き込むことも出来ます。  何にもしてやれないなぁ。  どんでん返しといったことも 安易には言い出せなくなってしまった。  暗くなっちゃった。  逆療法:思いきって歩いてみる。歩きがからだに調子を取り戻すかも知れない。ベースになるかも知れない。

回答No.47

チェリーブロッサムとは違う同級生で勘違いメールや失礼な言動をしてしまい、もう止めてください迷惑です。とはっきり返答され、同窓会に行くのは止めようと決意したことが思い出されるとどうして一方的メールをしておきながら断ったあいてに…普通断る…失礼だなんて逆ギレしたり、なんどもメールしてしまったんだろう 覆水盆に帰らず 赦されたいと思うけどもう関わらないことでしか赦されないだろうし下手に関わったら迷惑防止なんたらに引っかかるかもしれないし だからひたすら放置…記憶から消える日まで…とか深夜に考えると、なるほど生きる気力は減るなあと… ポストチェリーブロッサム なんて考えたのも間違いだったし私って自分が思っている以上に人に嫌われているな、と… どうでもいい人に誘われるのはウザくてしかたないのになんどもしつこいと怒るのは当然だしこの場で謝ります。

bragelonne
質問者

お礼

 おいおい ざんげの連祷かい。  罪深さは それほど程度の違いが人びとのあいだにあるとも思えません。立派さも どっこいどっこいであり それと あまり変わりません。  受けた迷惑やそれの取り扱い(つまり 何らかのかたちで心の中または表面に引っかかった場合 それの処理)に関して 当事者は けっこう悩みます。という一面も確かにあります。上のように相対性理論を持ち出すとは言うものの です。  考え行動すべきことは ただひとつ。うしろにあるものを忘れ まえにあるものごとに きちんと向き合う。  ふるき人を脱ぎ あたらしき人を着よ。  ただし確かに そのどんでん返しの起きるには 人によってでしょうが 最悪のばあい イエスの事件のようになるかも分かりません。《わが神 わが神 なにゆえわれを見捨てたまいしや》と叫ばなければならないほどの究極の事態に落ち入る事件を通過しなければ あたらしき人を着ることが出来ないというような です。  しかし ポスト・ポストチェリをすでに探しているとは きみも 隅に置けんなぁ。  竹を割ったような〔性格 がむつかしければ その時々の〕振る舞いで行くといいよ。  わたくしは 冷酷( sans coeur )と言われることがあるので そのぶん割り引いて話を聞いておいてください。

回答No.46

今日は今日でトラウマの蘇り。教授にずいぶん失礼なこと、無礼なこと、迷惑なことをかけてしまった。 この場で…申し訳ありません

bragelonne
質問者

お礼

 お早う。  教授って おれのこと? ひどっちさんか?   あっ ほかにも 立派な面々がおられる。    もし過去のあやまちを思い出しわびるのなら たとえば 先輩! まだまだこれからも迷惑をおかけしますから 覚悟していてください とか何とか しゃれてみてくれたまえぞかし。  ご投稿をありがとう。

回答No.45

ない頭で思い巡らす… ↑ ここ、ツッコミどころ ここいじってくれなきゃ 泣いちゃうぞ (ノ_・。)。。。 はいはい、この日のモードは、もち!ジャン打ちモード (^_-)☆キラッ☆ ゆき坊といや「白」 「白」をアタマに? 来い来い来い!と願をかけ つぎ、何を切ろうか思案思案の思案ろっぽー 【最初に何を捨てるのか?】 http://www2.odn.ne.jp/~cbm15900/html/k1.html 【麻雀役について知ろう】 http://www2.odn.ne.jp/~cbm15900/html/n4.html 【完成の形、あがりの形】 http://www2.odn.ne.jp/~cbm15900/html/n2.html 【麻雀上達への道~初心者から中上級者までの道~】 http://hamujiblog.blog29.fc2.com/blog-entry-34.html 六法全書とにらめっこ 煮詰まる、煮詰まる、 頭から湯気立ちのぼるピー どこぞから聞こえてくる笛の音 NO SIDE (ノーサイド) http://www.youtube.com/watch?v=s9YAyIgHhCM&NR=1 【QNo. 5017592日本人は 死んだのでしょうか】 http://okwave.jp/qa/q5017592.html ↑ No..56の中で前にあげてるんだけど… 【進化ダイナミックスにおける自己・非自己循環原理1の探求】 ― 構成的認識 2の理論と実践― http://www2.yukawa.kyoto-u.ac.jp/~murase/gyoseki/g4-8.pdf ● 向こうのも 読んでいますねぇ。 ↓ (1) 【QNo. 7034634現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。】 http://okwave.jp/qa/q7034634.html ↑ ええ、たしかにロムってましたよ。 ただ、その前にこっちを読んでましたけどね。 ↓ (2) 【ビックリ原罪論】 http://www.geocities.jp/tillich1965/ Justitia Originalis http://www.geocities.jp/tillich1965/PersonalColumn45.html 本質から実存へ http://www.geocities.jp/tillich1965/PersonalColumn46.html 超越的堕落 http://www.geocities.jp/tillich1965/PersonalColumn47.html 他者認識 http://www.geocities.jp/tillich1965/PersonalColumn49.html  ●☆ 残念ながら わたしには ピンと来ていない。  ●残念ながら 次のことも ゆき坊のどの部分を指して言っているのか わかりづらい。 ↑ ありゃりゃ、「わかりづらい。」かったですか? (^~^)ヾ こりゃ、スマン うーんとね、(1)のNo.29の投稿に注目したわけさ なんじゃろなこれ?と、推理 話の中身の出来事は、何処で起こっているのか?いつの出来事? 真っ先に浮かんだのが 「認知フレーム」もののみかた だから、他所で歌ただろ 現在・過去・未来~♪あのひとに~♪と暗喩 ま、それは、おいといて 再度、(1)のNo.29の投稿に注目 話の内容をベタに読めば、仮想空間での出来事のようでもある。 ここから、バーチャルリアリティ(Virtual Reality)へ飛ぶわけさ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3 概要の中に バーチャルリアリティは、≪3次元の空間性≫、≪実時間の相互作用性≫、≪自己投射性≫の三要素を伴うとある。 「ゆっきん、パントマイム?ボディーランゲージ」と書いたのは、(1)へNo.29を投稿することがある意味≪自己投射性≫に合致するんじゃないかと、それとは別に投稿内容は≪3次元の空間性≫、≪実時間の相互作用性≫をも満たしているなと。3つ揃っちゃった。踏む踏むといった具合かな。 「芸術は爆発だ!」←これ本質 ↑ これはみたまんまさ→「久しぶりに気が荒くなっています。」 (*´Д`)=зフウー ちょっと、思考回路みえまして?あかん? ほいでですね、つぎ(2)を開いて、ちと、お目を通してくだしゃんせ~♪ 超越的堕落 http://www.geocities.jp/tillich1965/PersonalColumn47.html 本質から実存への移行は、原事実である。←ここ読みどころじゃないの? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ yukiyama50さん、ようお越し。待ってましてんで。(^_-)☆(^_^;) ここは、ひとつ御用聞きじゃなくて、ご陽気にヽ(゜▽、゜)ノ:*:・いきます! 【CMライブラリー】 キターーーッ! http://santefx.jp/20th/#/main ご陽気にと、いいつつも ●――――病院にちょっと行かないだけで咳がでたり、病気が治らなかったり…云々 ↑ の、話を聞けばお体のこと心配になります。 話していいのか迷うところなんですが、実はうちの姉パッとみたところ健康体そのものなんです、が、これがどうして小さいときからすぐ風邪をひきやすかったり、一度風邪をひくとなかなか治らず、「なかなか治らんなー」とお医者さんの首を傾げさせてしまう始末。それぐらい、よく風邪をひいていました。また、私たち姉妹の両親は後年ガンで亡くなりましたが、ガンに侵されるまでは病気知らずの人でした。そんな母の口癖は、「寝たら治る、寝が足りひんから風邪ひくんやよ、はよ寝なさい」幼い頃って、母親は間違ったことを言わないと勝手に思い込んでたりしますよね、子どもは。そうすると、「寝が足りなかったからかなと」漠然とその言葉を信じて、幼いながらに自分が悪いんだと思い込んじゃったり。だんだん大きくなるにつれて、冷静に事の次第を見つめれるようになってくると「寝が足りないとかそういう問題じゃない」と自己分析できるようになってくるんです。もうその頃には、子どもも母親は間違ったことを言わないと勝手に思い込んでいた思い込みも失せ、母親も人、ときに正しいことも言えば間違ったことも言うということぐらいわかってきます。そうすると、今度は自身の病気に対して周囲の理解のなさ、無知さ加減に苛立ちを覚え「なんでわかってくれないの、こんなにわたしはしんどいのに」と、こころのなかで言葉を繰り返すし、言葉を口にしたところで誰もわかってくれないと。その思いが、大きくなればなるほど言葉を押し黙らせてしまう悪循環。風邪をひくたびに悪気なく返ってくる言葉「寝たら治る、寝が足りひんから風邪ひくんやよ、はよ寝なさい」風邪をひきたくなくても風邪をひきこじらせてしまう自身の体。「なんで、わたしだけがこうなるのよ、どうして」と自分自身へ嫌気がさしてきたりと。大人になってからそんな話を5,6年前に姉からきかされました。というのもその5,6年前になってやっとひとつのことがわかったのです。姉はIgA欠損症だと判明したそうです。「あなたはIgA欠損症です」と医師から宣告。少しは気落ちするのかとおもえば、そうではなしに長い間「寝たら治る、寝が足りひんから風邪ひくんやよ、はよ寝なさい」と風邪をたびたび引くのは寝が足りないせいと言われつづけてきた姉にしてみれば「わたしは悪くなかった、風邪を度々ひく理由は他にあったんだ。」と、無実の罪がこのときやっと晴らされたような気持ちになれたそうです。それと、もう一つIgA欠損症であるということがわかったことで、IgA欠損症をもつ人は何かの際に輸血を行う場合通常のの血液製剤ではなしに洗浄血液製剤を用いてもらわないとアナフィラキシー・ショックを起こすことがあると。自覚的に自身の体の特質を知ることでひとつ命拾いができたと。 【アナフィラキシー・ショック】 http://www.med.osaka-u.ac.jp/pub/hp-blood/www/Shock/shockcontent.htm 【A-Tにおける免疫機能】 http://www.tmd.ac.jp/med/ped/atcp/family/handbook_05_02.html 余計かもしれませんが、何かの折に抗体検査を受けてみてください。

bragelonne
質問者

お礼

 りとうきすさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  アンテナの感度が良好なようですね。ゆきくんの文章の読みとして。  実際はどうかは 本人に聞かなくてはわかりませんが かれも大いに参考にすると思います。  このお礼欄としては 次の主題(論点)についてのみ述べます。  ★ ~~~~   ▼ 超越的堕落  本質から実存への移行は、原事実である。←ここ読みどころじゃないの?  ~~~~~~  もう少し詳しくは 次が骨子であるようです。  ▼ ~~~~  (1) しかし注意したいのは、ティリッヒが、神は堕落した人間を創造したとは主張していない点である。  (2) 神は本質においては、罪なき人間を創造された。  (3) つまり、その潜在性においては、「良き人間(無垢)」を創造された。  (4) しかし、無垢な人間が、自由を行使した瞬間、つまり潜在性を実現した瞬間、人間はその本質から疎外する。  (5) 本質的潜在性からの疎外は、構造的必然性ではないと、ティリッヒは主張している。  (6) 本質から実存への移行は、飛躍であり、原事実である。  (7) この飛躍が運命的に起きる可能性は、人間が有限的存在であり、かつ自己の有限的自由を不安の中で実現するからである。  (8) 堕落は、人間の自由において起きる。  (9) 潜在性は、時間と空間の中には存在しない。  (10) 私たちの現実の世界は、実存の世界、つまり潜在性が歪曲して現実化した世界である。  (11) この普遍的歪曲化を、罪と呼ぶのである。  ~~~~  ☆ 微妙に違うところを述べて行きます。  (あ) (1)から(4)までをまとめて いくらか別様に捉えれば こうです。    ○ 神は 何ごとにも自分の判断で考え振る舞うことのできる動物の一種として人間をつくった。自由意志という。  (い) その自由意志を・すなわち ▼《自由を 行使した瞬間、つまり潜在性を実現した瞬間、人間はその本質から疎外する》というとき なるほど《無垢(罪なき状態)》を《本質》だとすれば そういう見方になり言い方になる。    (う) 微妙ですが 別様に見れば:       ○ 自由意志によって じつはおのれの心あるいは神の心にさからうことが出来るし そのことが起きるという要素も 《本質》の中の部分として初めからあった。  (え) 潜在性(つまり 自由意志のじっさいの行使)が顕在したことを 《本質からの疎外》と見るかどうか? エデンの園を追われたのであれば 《疎外》でもあります。そしてその疎外はこれも 初めから潜在していたと見ればどうか?   (お) つまりこれは(5)への反論です。わたしは この疎外が《構造的必然性》だと見るわけです。  (か) あるいはけっきょく なぜわざわざこの人間という生き物について《無垢》の状態を 《原事実》の前と後とに分けたその前の状態に設定するのか? をめぐってのものです。  (き) すなわち  ★ (6)本質から実存への移行は、〔飛躍であり〕 原事実である。←ここ読みどころじゃないの?  ☆ つまりは ティリッヒ批判としましては こうです。   ○ 自由意志によって神にさからうという〔飛躍的な〕行為を成す存在 これとして神は人間をつくった。これが もしそういうとすれば《原事実》であるのではないか?  (く) ▼ (7) この飛躍が運命的に起きる可能性は、人間が有限的存在であり、かつ自己の有限的自由を不安の中で実現するからである。  ☆ 前半は 同意します。後半は 《不安の中で》に抵抗があります。  (け) ▼ ~~~  人間は、他のすべての生物同様、有限的存在である。しかし、人間は、自己の有限性を意識している。この有限性に対する自意識が不安である。  ~~~~~~~  ☆ むしろアダムとエワつまり要するに人は 自由意志を行使した結果 自分たちが《有限的存在》であると自覚したし もしそういうなら《不安》を感じた。のであって 神にさからうときには むしろ《やましさ》があったはずです。  (こ) そしてそれだけではなく 何と したたかにも《好奇心》やらあるいは確かに感覚的なものに過ぎないとしても《自由奔放》とやらへの憧れをも 覚えたかも知れません。《不安》は もっとあと自由に振る舞った結果として持たれたのではないか?  (さ) ▼ (9) 〔無垢なる存在としての〕潜在性は、時間と空間の中には存在しない。  ☆ 経験合理性にもとづけば そうなります。しかも アダムらは その木から取って食べたあと    アダムよ きみは どこにいるのか?  と問う神の声を聞いたと言います。この事態は 経験です。つまり時間と空間の中に存在した。つまり人の内面にだとしても 経験世界の中で起こった。  (し) ▼ ~~~~~  (10) 私たちの現実の世界は、実存の世界、つまり潜在性が歪曲して現実化した世界である。  (11) この普遍的歪曲化を、罪と呼ぶのである。  ~~~~~~~~~~~  ☆ ですから 批判者の見方としては 《自由意志の行使が潜在性としてそなわっていたところ それを実際に行使した》 これが 言うとすれば実存であり 現実の世界だというものです。  (す) ▼ 潜在性が歪曲して  ☆ というのは 《無垢(罪のない状態)》が 神にさからう自由意志の行使によってゆがんだ――例によって言えば 《へその曲げ・へそ曲がり》の状態――と言う。批判者は もともと初めからそういう存在のあり方を潜在性として備えていたという。  (せ) 現実世界が 《歪曲》しているわけではない。歪曲ないしへそ曲がりは ある。そしてもともとそうである。潜在していたが 顕在した。    (そ) ただし へそを曲げたことは 言うとすれば 罪である。やましさや 心の動揺――その意味での不安――をつうじて それは神にさからうというだけではなく おのれの心にもさからうことだと知っていて おのれの責任において おこなったことだからである。《責任》は あとで自覚したことだとしても そうなる。これも 潜在性としてあったことだ。  (た) したがって この実存ないし現実世界が 《歪曲》していないと見るひとは 神の初めからの言わば計画(はかりごと)のうちにそのままあることになる。へそを曲げた罪を超えて 神のふところにあることになる。  (ち) そうではなく 確かに世界もわが実存も 歪曲されているのだ そして 有限なる存在としての人間にとって《不安》は いつまでも・どこまでも 測り知れない度合いにおいても やって来るし 続くものなのだと見る人は こう見る人は なおまだ神のはかりごとに対して へそを曲げている。こうなります。  (つ) だから その曲がったへそを それでは 元に戻そうと思っても ただちにわれ一人の力で出来るものではない。歪曲されていると見るし そう言って聞かないのだから。  ほかの箇所の論文を読んで 特に添えることもなければ これまでとします。(案外多くを この一編だけで 書けたから)。 

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     (あ)  昔むかしの話から始めます。  感性と理性を交えた或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見ました。  イリ(世界への入りをおこなう)人は このマボロシをそのままなナゾとして心にしまっておいた。  ヨセ(世界を束ね寄せる)人は マボロシに取り憑いた。その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。  やがて修行の甲斐あって いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このマボロシには誰も 関心がない。  ヨセ人は ここであきらめなかった。    このマボロシによって人びとを感化し     世の中を束ね寄せる。    そうしてみせる。    そうすれば 《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり    世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。  と踏んだ。  (い)  このヨセ人なるアマテラス種族が 社会のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき――スサノヲらはとうとうその根競べに負けて―― 《くにゆづり》をした。  イリ知性なるスサノヲ市民の村々におこなわれる《まつり》は 第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  かくて 《アマテラス‐スサノヲ》連関制の完成である。《くにのいえ》と言う。家というからには 二階建てである。  二階のアマテラスなるアタマで立つなら その連関制は 逆立ちしている。  (う)  《ひかり もしくは まぼろし》と現実の大地とのあいだに隔たりがあるとすれば 人にはその発言(自己表現)にもつねに 本音と建前がある。  あるいはさらに 二枚舌の問題が必然的に現われる。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  (え)  広くマ(間・間合い)が 人びとそれぞれにおけるそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方として成り立って来ている。  すなわちむろんこの問題をあつかうのだ。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》逆立連関制としてのマである。  第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガイの正し方の問題です。  おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしているのではないか? そこから マチガイがつねに起こり得るのではないか?  (お)  細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガイが生じるでしょうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられます。  問題は そもそもは 《 S (主権)- A (従属)》の連関だったものが A 圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあると見ます。  つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。  ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えます。  つまりそれが アマテラス語方言という言語類型――無謬性の神話に包まれている――であり そこから必然的に現われると言っていいところの二枚舌現象だと言いたい。そう言いたいのですが これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は すでに或る反措定に対する反措定ですから 綜合であり人間のふつうの存在の肯定であると考えてよいのではないでしょうか?   (か)  マチガイからのマの回復。つまり 地域主権の実現としての――二階から一階への――大政奉還。  これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。    時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また 経済的にも立ち行かない情況を背負っている状態となった。  アマテラス公務員の無謬性なる神話がくずれた。  マの問題。この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか? 国家ゆえに領土問題と戦争がある。  添削をどうぞ。

  • 拘束してのセックスは?

    最近は彼女とのセックスもだんだんすごくなってきてて・・・ 電マはもちろんのことですがSMぽいセックスがしたくてたまりません。 もちろん彼女もそのようです。 縛るプレイとか縛っての電マ使いなんかしてみたいのですがラブホでの 縛って固定さすのにはどのような縛りがありますか? また、電マの先に付けるものはどのようなものがいいのでしょうか? 電マはフエアリーを使用しておりますがミニ、ミニミニ、それと普通の商品です。 すべてそろえています。 ミニミニをこの間おまんこの中に入れたらこれ!なにぃ~オチンチン??・・・感じるぅ~とか・・・言ってました。 宜しくお願いします。 経験したかたなんかのご意見を参考にしたいです。 ■返信する ■この記事を引用して返信

  • 世界のどんでん返しは われらが日本から

     (あ)  昔むかしの話から始めます。  感性と理性を交えた或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見ました。  イリ(世界への入りをおこなう)人は このマボロシをそのままナゾとして心にしまっておいた。  ヨセ(世界を束ね寄せる)人は マボロシに取り憑いた。その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。  やがて修行の甲斐あって いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このマボロシには誰も 関心がない。  ヨセ人は ここであきらめなかった。    このマボロシによって人びとを感化し     世の中を束ね寄せる。    そうしてみせる。    そうすれば 《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり    世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。  と踏んだ。  (い)  このヨセ人なるアマテラス種族が 社会のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき スサノヲらはとうとうその根競べに負けて  《くにゆづり》をした。  イリ知性なるスサノヲ市民の村々におこなわれる《まつり》は 第二階によって束ねられ おまけに税を取られ全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  かくて 《アマテラス公民 ‐ スサノヲ市民》なる連関制の完成である。  《くにのいへ》と言う。家というからには 二階建てである。  二階のアマテラスなるアタマで立つなら その連関制は 逆立ちしている。  (う)  《ひかり もしくは まぼろし》と現実の大地とのあいだに隔たりがあるとすれば 人びとの発言(自己表現)にもつねに 本音と建前が出て来る。  あるいはさらに 二枚舌の問題が必然的に現われる。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  (え)  広くマ(間・間合い)が 人びとそれぞれにおけるそういった心的および社会的な齟齬を容れた《関係ないし連関》のあり方として成り立って来ている。  すなわち むろん この問題が問題なのだ。ここでは     《 A (アマテラス公民)‐ S (スサノヲ市民)》逆立連関制  としてのマである。  第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方でありそこに起こるマ‐チガヒとその正し方の問題です。  おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしているのではないか? そこから マチガヒがつねに起こり得るのではないか? トヨス? モリトモ?  (お)  細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガヒが生じるであろうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられます。  問題は そもそもは 《 S (主権)- A (従属)》の連関だったものが A 圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあると見ます。  つまりは ヨセ人なるすぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。イデアは 何ものかを指し示すための指=シルシである。  ヨセ人は 指を・指そのものを見ている。このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えます。テーゼは アンチテーゼに社会のイニシアティヴをゆづった。  つまりそれが アマテラス普遍語の恣意的な用法としてのアマテラス語お二階方言という言語類型でしょう。それは 普遍語として無謬性の神話に包まれているのですが その指先を見ようとしないとなれば 必然的にと言っていいと思われるごとく二枚舌現象が生じる。あやまつは 人のつねではあるのですが。・・・モリトモは どっちが方言なのか?  そう言いたいのですが これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は すでに有る或る反措定に対する反措定ですから 綜合であり 人間のふつうの存在の肯定であると考えてよいのではないでしょうか?   (か)  マチガヒからのマの回復。つまり 市民主権・住民自治の実現としての――二階から一階への――大政奉還。  これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。    時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また経 済的にも立ち行かない情況を背負っている状態となった。  アマテラス公務員の無謬性なる神話がくづれた。  マの問題。この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  じつは 広く大きく 国家のアウフヘーベンとして世界史的な課題であるのではないか? 国家ゆえに領土問題と戦争がある。ムスリムの中の一部に国家に対抗するような暴走が起きて来た。・・・うんぬん。うんぬん。  添削をどうぞ。

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     いわゆる地域主権について問うものです。  なぜ大政(ムラムラのマツリをつうじての共同自治)をいまの二階にあるマツリゴトから元の一階スサノヲらのくにに奉還すべきか?  それは もともと平屋建ての市民社会が どうして二階建てになったか? を見てみると分かるはずです。  すっ飛びの仮説によって考えてみます。       *  感性と理性を交えた或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。  イリ(世界への入りをおこなう)人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。  ヨセ(世界を束ね寄せる)人は まぼろしに取り憑いた。その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。  ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。  このヨセ人なるアマテラス種族が 平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき――スサノヲらはとうとう根競べに負けて―― 《くにゆづり》をした。イリ知性のスサノヲ市民村におこなわれる《まつり》は 第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  かくて 《アマテラス‐スサノヲ》連関制の完成である。くにのいえと言う。家というからには 二階建てである。  《ひかり もしくは まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 誰れの発言(自己表現)にも 本音と建前がある。あるいはさらに 二枚舌の問題が必然的に現われる。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  広くマ(間・間合い)がそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方として成り立って来ており むろんその問題をあつかう。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。  第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガイの正し方の問題です。おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしているのではないか? そこから マチガイがつねに起こり得るのではないか?  細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガイが生じるでしょうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられます。問題は そもそもは 《 S (主権)- A (従属)》の連関だったものが A圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあると見ます。  つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えます。つまりそれが アマテラス語方言という言語類型――無謬性の神話に包まれている――であり そこから必然的に現われると言っていいところの二枚舌現象だと言いたい。そう言いたいのですが これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 反措定の反措定ですから 綜合であり人間のふつうの存在の肯定であると考えてよいのではないでしょうか?   マチガイからのマの回復。つまり 地域主権の実現としての大政奉還。  これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また 経済的にも立ち行かなくなった。  アマテラス公務員の無謬性なる神話がくずれた。  マの問題。この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか? 国家ゆえに領土問題と戦争がある。

  • 2歳 スムーズに言葉が出ない

    2歳の姪っ子(妹の子供)のことで気になることがあります。 喋れる言葉が増えてきて、よく喋るようになってきたのですが言葉を発する時に言葉に詰まる?ことが多く気になります。 『ママ?』と言いたい時に『マ、マ、マ、マ、マ、マ、マ、マ、マ…ママ?』 『アンパンマン』と言いたい時に『ア、ア、ア、ア、ア、ア、ア、…アンパンマン!』とかです。 言葉が詰まった時は基本最後まで待つようにしています。 時々、何を言いたいのか先に分かって『○○?』と言うと『ウン』と答えます。 言いたいことをうまく言葉とつなぎ合わせられないのかな?と思うのですがこういうのってどういう状況なのでしょうか? またどういうことに気をつけてあげたらいいのでしょうか…。

  • フランソワボタK1参戦について

    これまでにもK1にはボクシング専門選手が何人か登場しましたが、ボタほどのビッグネームともなると前例がないんで、僕はまったく予測不能といった感じです。 ボクサーに対してはローキックが最も効果的じゃないかと思うんですが、ボタほどのボクサーともなると、相手が蹴りを打ってくる前にパンチで仕留めることも可能なんでしょうか?これは自分がパンチを打ちやすい「間合い」に、まず持っていかないといけないとは思うんですが、ボクシングの間合いとK1特有の間合いって、やっぱり違うんでしょうか? またボタはこれまでボクシングの経験から蹴りは使わず、K1でも「パンチ一本」で勝負するつもりなんでしょうか(ボクシング技術だけでもK1界を乗っ取ることが、もしかしたらありうることなんでしょうか?) 「…だと思う」といった回答でいいんで教えて下さい。

  • ひとは神隠しを好むものなのか――《間(ま)の理論》――

    ひとは神隠しを好むものなのか――《間(ま)の理論》――  《夕日信仰》の説を批判的に捉えつつそこから展開する問い求めです。  《たそかれとき》は 光と闇のあはひ(合ひ‐合ひ)であって 時に逢魔時(おうま〔が〕どき)とも呼ばれたそうです。これは 大禍(おほまが)時から来たそうです。  ひとはモノとモノのアハヒにどこか惹かれるところがあるのでしょうか? 爪を切り耳掃除をし髪を切ったりいじくったりすることに多少のあやしさを感じるでしょうか? もしそうだとしたら それも或る種の仕方で ウチとソトのアヒダについての気持ちがかかわっていましょうか。  例の『遠野物語』〔の紹介記事ですが〕によれば 《マヨヒガ》という話があって それは山の中でふと大きな屋敷を見つけ そこには誰もいずただ料理が出来上がっている。これを食べて家に帰ったあとはと言うと 何ごともうまく行きやがて長者になったと言う。マヨヒガ=マヨイガ=迷い家。  禍事(まがごと)だけではなく善事(よごと)も アハヒの魅力にはふくまれているようです。話を広く取っていわゆる神隠しに遭ったが 山の中で家に帰ろうかそれともよそうかという思いのそのアハヒから事が展開したというような。マ(間)→ま(真)あるいはマ(魔)。魔はよその国の言葉ですが早くに採り入れたもののようです。逢魔時。  けれどもこの逢魔時は 例の丑三つ刻につながっていて それこそ例の藁人形ののろいにまで行き着きます。つまりこの事例は アハヒから新たなコトが出て来るというよりは 自分の気持ちから自分の都合のよいコトよ出て来いという人為的なしわざにまで発展する。  ここで――例によって――《ガミガミ役とアース役とのアヒダの意識の排泄》という社会現象の話です。  要するにひとは 神隠しが好きなのでしょうか? つまり《意識の排泄なるガミガミ電波の放射》についてなら それはいけないことだと言うに決まっています。けれどもその《マ》に臨んでは どうしても耐えきれない何か惹かれるものがそこにはあるのでしょうか?  でもそれは《間違い》ではないのでしょうか? 《間抜け》ではなくそのマを埋めているのですが もっともっと間合いをうまく取ろうと思えば取れるのではないか。  どうすればよいでしょう?  * どうもわたしは 一般的に言って占い好きというところに アース役がいぢめに遭うという社会現象のひょんなきっかけがあるようにも思えるのですが どうでしょう? 言い過ぎでしょうか。こわいもの見たさでもないでしょうに マ(アハヒ)の魔のほうに自分が持って行かれてしまうというようなクウキとして。

  • マ(間・間合い)の理論

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     マの理論は 世の中にどうしてマチガイが起きるのかを問い求める思索です。また うまいマの取り方を求めます。  (α)  ひとは自分も他人も ひとをころさないものなんだよ。という初めの命題。  (α‐1) おのれとのマ――すなわち おのれという言葉をとおして意識するその《わたしとおのれとのマ》――をそのまま保ち 相手が同じようにその相手じしんの《おのれとのマ》を保っているなら 互いに相手の自由を侵さないであろう。  (α‐1‐1) 《わたしとおのれとのマ》とは 《わたしがわたしである》ことである。《〈わたしがわたしである〉わたしがわたししていること》である。  (α‐2) わたしと相手とのマが 抜けたり違ったりするという心的かつ社会的な現象は それぞれの《わたし》の内面に原因があって起きるのか? それとも あくまで相手との《わたし》どうしの関係(かかわり)および実際の交通(まじわり)において起きるのか?  (α‐2‐1) 後者であれば 《マの理論》がそのまま 一般理論であるとなる。心理学や精神分析は これに従属するであろう。ぎゃくに存在論は マの理論の別名となる。  (α‐2‐2) もしそうだとしたら 人文科学および社会科学のすべては マの理論の応用となる。  人間関係がマであることは勿論であり たとえば社会階級や格差もそうであり ガミガミ役とアース役との役割関係も マの理論の一環であるとなる。  (α‐3) 言いかえになるが わたしはみづからの人生を生きるにあたって一般にわたしの思うようにはならない。と思う。そのことを知っている。このようなわたしの自由の不十分は どこから来るか? 社会的な不十分だと言い切れるか? つまりマの理論が一般理論となりうるか?  (β) けれどもひとは かなしいかな 考えや思いが移ろいゆき変わりゆくというようにも成っていて 自分や相手とのマをずらしてしまうことがある。と分かっている。このマのズレによって かなしいかな 相手の自由を踏みにじることが起きる。おのれの自由をさえみづから そのマをズラし侵して不自由を作りだすことがある。――このように考えてよいかどうか?    (β‐1) とすれば 《わたしがわたしである》ことのズレあるいは意識的なズラシ これが初源のマチガイであるのか?  (β‐2) つまり極論して言えば 《わたし》はひとをころすことを考えてしまうことがあり 果てはそれを実行してしまうことがあるというそのマチガイは ひとりの人においてのみ起こっているのか?  (β‐3) いやいや その個人の内面において起きるズレやズラシとしてのマチガイは たとえそのまま初源のものであったとしても それと同時に 相手とのマにおけるズレも起きているのであって 個の存在と存在どうしの関係とは 同時に成り立っている。のか?  (β‐3‐1) つまり《わたし》どうしのいわば外における関係としてのマは それぞれの《わたし》個人の内面における《おのれとのマ》と 同時一体である。のか?  (γ) 《わたし》は その自然本性において すでに初めに《わたしがわたしである》存在としてあるか?   (γ‐1) それとも すでに初めに《わたしとおのれとのマ》は こわれたかたちで生まれて来るのか?  (γ‐2) たぶんそうだとしても ひとは言わば《しづかなたましい》のあり方をすでに知っていて ほんとうは知っているがゆえに――無根拠において知らず知らず――問い求めている。と言えるか?  (γ‐3) もしそうだとしたら 《たましづめ(鎮魂)》が すでにマチガイの起こっている世の中にあってそれを直そうとするマの理論の実践だということになる。ここになら 精神分析も従属する思索として入れてもよいだろう。   ●参考 (上田正昭:鎮魂の原点) ~~~~~~~~~    鎮魂の原初の姿をたずねあぐんで タマシヅメよりもタマフリの方が古いことに気づくようになった。たましいを鎮静ならしめる前提に タマフリがあったのだ。        〔* フリは 振りつまり 振り起こす・奮い起すの意で        鎮静の逆のことのようです。ただし それも しづめる        ためにそうするのだということのようです〕。   〔* タマフリを含めた〕鎮魂の時と声とは 間(ま)である。その折りにたましいが充足され それを契機として つぎの段階への飛躍が用意される。   間はただのうつろなる時間と空間ではない。   実は生命の蓄積されるおりめなのだ。     (上田正昭:日本の原像――国つ神のいのち―― 1970)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  以上の所論をたたき台として ご見解をおおしえください。