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フラクタル的な微細化の極限段階

裏側やら内部の時空間やらの存在が保証されていない最小物質からは、表面もが備わっているのか否かさえもが分かるまい、と思われますが、下記の内容が分からないものですから、教えて下さい。 Q:「表面の相対的な有無の比較を叶えてくれない認識対象群の状態は【絶対無】だ、と看做され得るのでしょうか?」

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回答No.1

それは見る人によって違うもので、あるとかないとはその人の主観だと思います。

JidousyaGaisya
質問者

お礼

若しかして、「絶対無即絶対有」の仕組みを 御存知でいらっしゃらないのでしょうか?

JidousyaGaisya
質問者

補足

すいません。 主観的に変わるのでしたら、その無は「相対無」に過ぎませんので、此の回答は質問文の主題への無視に起因しているのでしょうか?

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その他の回答 (1)

回答No.2

確かに相対無の可能性はなさそうですね。 「無極」と「太極」との一体性の根拠もがそれに関わっているのでしょう。

JidousyaGaisya
質問者

補足

不十分な回答の様ですので、質問文の厳密化を進めまして、下記のURLのページへ関連の質問をスピンオフさせて頂きましたから、若し時間的に可能でしたら、其方をも御覧になって下さいませ。 http://okwave.jp/qa/q6882788.html

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