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覇王別姫のラストシーン

映画のラストに蝶衣は何故自殺するのか? いくら考えても自分自身が納得いく答えがみつかりません。 もともとみつからないのかもしれませんが咽喉に引っかかったままの魚の小骨みたいで嫌です。 観た人それぞれの考え方があると思いますが私の人生経験上であの時点で自殺は有り得ないのです。といっても男の同性愛は経験したくてもできないのでわからないだけなのかもしれませんが。 ご自分の納得いくお答えをお持ちの方良ければ教えていただけませんか?

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  • 洋画
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質問者が選んだベストアンサー

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  • chopin22
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回答No.1

映画のラストの捉え方は人それぞれだと思います。 私は映画だから、より”劇的な”(見た目にも映画のラストとしても)終わり(=死)を監督が選んだのかと思っています。自殺する事がいい、悪いは別にして、ずっと赤かった画面が最期は青くて、その重さがが映像の凄さ=映画の凄さでもあるように思います。 で、話は変わりますが原作は読まれましたか?原作では自殺はしません。そちらの方がより残酷に思いますが、原作の方が全体的に深い話になっています。文庫が出ているので未読でしたら本屋さんで探してみてください。 # 蝶衣を演じたレスリーの冥福を祈ります。。。

1429
質問者

お礼

ありがとうございます 原作は知りませんでした。探してみます。 確かに“自殺しない”方が残酷といえば残酷な感じがしますね・・・。映画のラストとして“自殺する”は納得できるのですが何のための自殺なのかが私の中にはいくつも答えがあっていつも悩んでいました。映画ではない彼の自殺が追い討ちをかけるように重なって八方塞がり状態でした。でもここでいろいろな方のご意見が聞けて私なりに納得できそうです。 私も彼の冥福を祈ります。

その他の回答 (3)

回答No.4

#1の方に同意! 原作では死にません。映画のラストはロマンチックすぎますね。原作者も「死なない」エンディングに意味(テーマ)を込めたそうですし(うろ覚えですが「男は愛のために死ねるか?」だったような…)、死なない方がよりリアルだと思うので、個人的には死なない方が好みです。 映画で死なせたのは、死んだ方が映像的にきれい&死なないとラストがしまらないからかな?と思いました。また、原作通りだと、2人の老後が結構出てくるので、特殊メイクにするか、別に老人役を使うかetc.技術的な問題も出てくるでしょうから、あそこでさらっと死なせちゃった方が簡単といえば簡単…。それか、監督が原作者と見解が違ったんでしょうね。

1429
質問者

お礼

ありがとうございます。 そうですよね、映画では死んだ方がきれいというか死んだ方が私のようにいつまでも悩み続ける人がいるので映画が生き続けると思います。まだ原作を読んでいなかったので(原作の存在を知りませんでした)読んでからもう一度考えたいと思います。 でも、また違う悩みが現れそうで怖い気もします。

  • YU_YU
  • ベストアンサー率15% (11/73)
回答No.3

かなり昔に見た映画なので忘れましたが、たしか劇中劇の京劇の題材は、項羽と劉邦の話の「四面楚歌」だったと思います。   四面楚歌では、項羽の奥さんの虞美人も最後の戦争前に自殺します。 それは絶対絶命の時、自分は死んでもかまわないが、その後の虞美人だけが気がかりだと項羽は思ってました。 それを察した虞美人は、足で纏にならないよに自殺するのです。   映画ではダブらせて盛り上げていますが、内容としては、文化革命以後、京劇役者としての人生が終わり、再び彼氏との再会と演劇が出来た喜びで死んでいったように見えます。(よくアーティストが自殺するような感じかな?)   色んな意見がありました。 http://members.jcom.home.ne.jp/nobipapa/Movies/1999/farewell_to_my_concubine.htm   http://jtnews.pobox.ne.jp/movie/database/treview/re1774.html  

参考URL:
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/la-mer/pro-hao.html
1429
質問者

お礼

ありがとうございます いろんな感想を読ませていただきました。原作と映画の違いも細かく書かれていてとても勉強になりました。 私としては蝶衣は二人が演じる役のように愛し愛される関係でいたかった。二人の間には“愛”は確かにあったけれど蝶衣の望んでいるような形の愛ではなかった。小樓とまた二人だけに戻ったけれど彼にとっての自分はいつまでも小豆子のまま・・・。なれば役のごとく死を選ぶ・・・・・・というのともうひとつは彼を愛しながらも脇目も振らずただ純真に一直線に愛し続けられなかった自分で自分のけじめのような自殺です。 もしかしたら両方かな? とも思っています。

回答No.2

大分前に一度見ただけなので確信は持てないのですが、観た当時に感じたことを・・・ 蝶衣は、自分が生きている現実の世界を受け入れられないまま生き続けていたように思いました。養成所の中での小樓との幸せな時間に縋ったまま、ずっと現実を認めようとしないまま生きていたように思えたのです。 あのラストで、蝶衣はついに自分が置かれた現実を認め、それでも受け入れることはできず、その現実を認めて生きていくことよりも、死を選んだのだと私は思いました。かなり勝手な思い込みかもしれませんが・・・ 最後まで小さな子供の心のまま、現実を受け入れられずに死んでいった蝶衣が悲しくて、かなり泣いたことを覚えています。

1429
質問者

お礼

どうもありがとうございます。 そうですね、あまりに過酷な運命というか時代の波に翻弄されて私だったらもうとっくに死んでいたかもしれません。 だからこそそんな時代を生き抜いたのだからこそ死を選ぶなんて・・・と思ったのですが蝶衣は小樓が結婚したときからもう人生どうなってもよかったのかもしれませんねぇ。蝶衣には小樓が全てだったのだと思っています。

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