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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:天使とは?――《はじめにことばがあった》。)

天使とは?――《はじめにことばがあった》

noname#144995の回答

noname#144995
noname#144995
回答No.53

人間を中心に見て考えると、ロゴスの階層は、むしろラチオが最も高等であり、次に預言、異言、天使、そしてスピリトゥスと言うことになると思います。なぜなら、ラチオ以下様々な言葉の種類は皆、ラチオによって解説されているからです。今話している言葉もラチオであるはずです。 私は次のように考えました。原書の言葉、スピリトゥスは、いわば原始的な言葉であり、強力なものだったとは思いますが、現代の人類が使うことばに比べればずいぶんと幼いものであったと。 その力は、ゴリラのそれに似て現生人類の言葉よりもパワーはあったかもしれないが。 このような考え方を持ちました。 故に、 a)内なることばと聞けば、それは想いであるのではないかと思いました。 b)堕落しうるというよりも、多様化しえるのではないか? c)ここでいう命とは、感動の事ではないかと思いました。石が伝わることの感動、伝わらないという闇の中で、伝わるという光、そのように思いました。 d)神を何故ことばにたとえたか、むしろことばがあり気でなぜそれが神になったのか、と言うほうが私にはわかりやすい問いではありますが、その階層は、 神としての言葉               =原初の言葉 天使としての言葉              =少し文法や単語が生まれた段階 経験事象としての光なることば(ひらめき?) =言いたい事をずばり言う直感のようなもの 人間のことば                =現代の我々が使用している言葉。 e)その図式に同意するならば説明は成り立つと思います。 f)喩えば炎にもいろいろな色があるように、バリエーションが出たと考えることはできないだろうか。 以上が別の観点から見た解答になります。 もう一つ回答があります。それは、人が目指すそれについてです。究極、人はどのようなことばを話し、どのような体験をし、どのような振る舞いをなすものなのかと言う問いから見た、今回の設問における考えです。 この場合、ここで言われるスピリトゥスを目指すわけですが、天使の言葉はその前段階に当たるということで、静的な動体であり、スムースに進む乗り物のようなイメージです。完成された究極の相ではないにせよ、内的にはその究極の胚芽が見られるといったような様態です。これに沿うと、 a)それは思想ではないが、いわば航行する船における羅針盤のようなものであり、言葉や行為、経験などを導くそれであると思う。   b)むしろそれは人間のそれであり、つまり、なにか究極を目指して歩く人の生き方なのであり、堕落とは正反対に作用するものであると思う。この場合の天使は在るというだけであり、人堕落させることもないし、自らが失墜することも勿論ありえない。羅針盤は只指し示すのみであると知られる。   c)喩えを羅針盤の変わりに道先案内人とするならば、霊的な命はあるといって良いかもしれない。生命体としての命ではなく、生ける言葉としての命と言う意味で。どちらに進めばよいかわからない、何をすればよいかわからない、という暗闇の中で、それは確かに明かりであるといえると思う。闇夜に星々が輝く。人類はそれによって息を吹き返すとも言える。   d)言葉をブラッシュアップすれば大体はそのような階層分けのようなことも可能なのかもしれないが、(δ)に挙げられている人間のことばは、ここでは、常用の言葉と言い換えた方がよいかもしれない。 e)究極のそれがこの度の質問におけるクレドと同じかどうかはわからない。究極のそれは謎ではなく明らかであるはずであるから。次に、天使がロゴス(究極のことば)の使いであるかどうかであるが、それは内的なものであって、外から使わされたというよりも、むしろその人自身による、その人の内的願望、あるいは希望、あるいは望みから発生したものではないかと思う。だから、使いと言うよりは、子供と言う方がしっくりきます。子供は成長すれば大人になるのであり、その意味でも、使いと言うよりは子供の方が相応しいと思います。 次にインスピレーションですが、本質的な事柄を言い当てた言葉のことをインスピレーションと言ってよいのかどうかわかりません。ラチオについても、かならずも論理的であるかどうかはわかりません。感情的なものもあるだろうし、言いきれないと思いました。   f)もし仮に、道を歩くことだけで満足して目的に到達せずとも良いと考えた人があるとします。この人の歩みは歩みといえるものでしょうか?堕落についても同じで、ただ天使であることに満足して、キリスト教的に言うなら、神に仕えることに満足しないと考えた天使があるとしましょう。その天使が堕落したというのではないでしょうか?本末転倒したという事です。 大人になどなりたくないと言う子どもの様でもあるかもしれません。 傍から見れば十分大人であるのに、本人はおとなになりきれておらず、やんちゃばかりしている不良少年の類と言っても良いかもしれません。そしてそのままヤクザになった少年のような天使が、悪魔ということになるのではないでしょうか。どうして堕落して悪魔になったか?それはわからずやだったからです。勘違いのバカヤロウということになります。法を逸脱することではくがつくと思っている人たちと一緒です。究極を求めない人はさておいて、究極を一時は求めておきながら、途中の求めているだけで満足してしまい歩みをやめてしまうような修行僧と同じかもしれません。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 人間を中心に見て考えると、ロゴスの階層は、むしろラチオが最も高等であり、次に預言、異言、天使、そしてスピリトゥスと言うことになると思います。  ☆ すなわち《人間を中心に見て考えると》であるようです。  すなわち次のように 人間という目から見てのことです。  ★ ~~~~  私は次のように考えました。原初の言葉、スピリトゥスは、いわば原始的な言葉であり、強力なものだったとは思いますが、現代の人類が使うことばに比べればずいぶんと幼いものであったと。  その力は、ゴリラのそれに似て現生人類の言葉よりもパワーはあったかもしれないが。  ~~~~~~  ☆ すなわち人間の目が中心でありおそらく最高のものだという前提があるのでしょう。  《スピリトゥス》は 《非経験》だと言っているのにです。それを《ことば》と言っているのは あくまで仮りの表現です。シルシとしての《ことば》が神ではありません。《神》ということばもほんとうの神ではありません。《神》という文字も神ではありません。k-a-m-i という発音も神ではありません。  非経験なのですから 人間の能力では表象し得ません。  それでも 人間はこの神を想定して 言語習慣の中でも用いています。その神が ただ一つの言葉にまとまってしまうと人は窮屈に感じますから たとえばそれを《無い神》と表わす場合も出て来ました。そういう事情として捉えたら いかがでしょう。  あとは この事例に即して 《経験事象》と《非経験のナゾ》とをげんみつに分けて捉えてください。    経験世界に属するもの:  ★ a)《内なることば》と聞けば、それは《想い》であるのではないかと  ★ c)ここでいう命とは、《感動》の事ではないかと思いました。《意志》が伝わることの感動、伝わらないという《闇》の中で、伝わるという光、そのように思いました。  ☆ 《命 / 光》は 両様に使われています。経験事象としての場合と非経験を仮りに表わすための場合と。  ★ b)堕落しうるというよりも、多様化しえるのではないか?  ☆ ここでは悪魔=堕天使ということを主題としていますので 《堕落しうる》ということに絞っています。  ★ e)その図式に同意するならば説明は成り立つと思います。  ☆ ありがとうございます。  ★ f)喩えば炎にもいろいろな色があるように、バリエーションが出たと考えることはできないだろうか。  ☆ ですから 悪魔という主題に絞るということは 人生において遭う苦境のことを問題にしています。自分の前に立ちはだかるいわば垂直壁は 悪魔に見えるのではないかといった事態です。  ★ もう一つ回答があります。・・・この場合、ここで言われるスピリトゥスを目指すわけですが、天使の言葉はその前段階に当たるということで、静的な動体であり、スムースに進む乗り物のようなイメージです。完成された究極の相ではないにせよ、内的にはその究極の胚芽が見られるといったような様態です。  ☆ このように捉える視点は おおよそ上にわたしが述べましたその内容と同じ方向を向いていると思います。    ただしその具体的な中身は さまざまな観点から考えられ表わされているようで 光が乱反射しているかに思いました。例示します。  ★ e)究極のそれがこの度の質問におけるクレドと同じかどうかはわからない。  ☆ クレドは 非経験なる神をわが心に受け容れるというその行為を表わした定義のしての言葉です。用語がふさわしくないとすれば そのように議論しますし そうでなければ定義として仮りでにも受け取ってください。  ★ 究極のそれは謎ではなく明らかであるはずであるから。  ☆ おそらくわが心においてつまり主観としては神は《明らかであるはず》なのでしょう。ただし一般の定義としては 非経験なのですからどこまでも《なぞ》です。それ以外にこの場合は考えられません。よ。  ★ 次に、天使がロゴス(究極のことば)の使いであるかどうかであるが、それは内的なものであって、外から使わされたというよりも、むしろその人自身による、その人の内的願望、あるいは希望、あるいは望みから発生したものではないかと思う。  ☆ おそらくこう見るのが 一般的ではないでしょうか? すなわち《究極のことばなる神の使いとしての天使は 純粋思想であって それがあたかも神の声として人にとどくことがあると捉えられる。そのとき この天使は 人間にとってすでにわが心の〈内的なものであって〉よいでしょう》と。  《人の内的願望 あるいは希望・・・から発生したもの》は それとしてありましょうが もしそれが天使やましてや神のことだと言ってしまえば けっきょく人間の思いが天使であり神であることになります。矛盾です。非経験だと言っているのですから。  ★ 堕落についても同じで、ただ天使であることに満足して、キリスト教的に言うなら、神に仕えることに満足しないと考えた天使があるとしましょう。その天使が堕落したというのではないでしょうか?本末転倒したという事です。  ☆ もし天使が純粋思想であるなら それを擬人化してそういう堕落の物語をつくることも出来るかも知れません。たぶんそのときの問題は その堕天使が悪魔として 人にとっては苦境に遭ったときの垂直壁になるという事態をどう見るかです。そういうかたちで これまで問い求めて来ています。  そこのところが いまひとつ腑に落ちるかたちでぴったりとした説明が得られていません。そのような状態です。

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    神さまはなぜ人間の他に動物も創造して、更に天使も創造した。 天使は墜天使と言う悪の天使が現れるが殆どの天使は善の天使で墜天使も善天使の束によって駆逐される。 そこで思うのがなぜ神は天使だけをこの世に創造しなかったのか?という疑問が現れるわけです。 人間はバカだから神さまが人間を創造した理由を未だにわかっていないわけですが、大半の人は地球人として戦争がない平和な地球を作ろうと躍起になっているが、人間は愚かな生き物で天使と比べると劣っているわけで、天使から見ると人間は悪であるわけです。 人間の最終目標の善の人間を目標にしているが、神さまの地球創造における最終目標が善の世界だとすると最初から天使だけの世界を創造していたはずなので、神さまは人間に平和や平等や正義や善の人間になることを求めていない気がしました。 神さまは人間に善を求めていないとしたら、神さまは人間に何を期待して創造したのだと思いますか?

  • 人間は 物理学の捉えたモノなる存在に還元されるか

     次の質問におけるやり取りをめぐって 思うところや質すべきところなどをお示しください。  【Q:《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?】    http://okwave.jp/qa/q6797352.html  ◆(回答No.1) ~~~~~~~~~~~~~~~  全ての存在は、ひらめきに過ぎません。  あらゆる物体の根源が、量子振動に還元されるという超弦理論  により、認識体との相対を排除した外的存在性は、無限不確定性  に発散する(=無)ことが明らかとなっています。  つまり、“ある存在”に基づいて明示的に把握し、合理的に対応した  としても、その「ある存在」自体が、認識体の不完全性において、  対象の階層現象性を表面的=いい加減に捉えた結果(絶対確定化  =無限発散)として、有限的性質を派生させたものに過ぎない以上、  「ひらめき」の方が本質なのです。  「ひらめき」がどんなに鋭くても、全知全能的なものではなく、「いい  加減」とセットであり、「予知夢は出来事が起きてから名乗り出る」  というのも、そうした事によるのでしょう。  そうした構造は、対象におけるそのような不確定性原理のみならず、  それを受ける認識の側(公理系)における不完全性定理にも反映  されている事によって、先入条件を要せずに、完全な任意=不確定的  無限性の潜在としての認識可能性(自我仮説=時間)に対する相補  としての時空仮説性(空間)、という構造を完結させるのです。  全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)  補完であり、ビッグバン自体、最大のひらめきだと言えます(現在  (感受表面)からの過去(記憶)と未来(予測)への対発生)。  生きることは、その補完(「派生」の自覚化)として、愛に向かうのです。  ☆☆(そのお礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~  ご回答をありがとうございます。  そうですね。理解を深めるために わたくしの見方を先に述べてそれと突き合わせるという作業におつきあい願えますか?   ○ 図-a-1 ヒラメキの位置づけ      無根拠(神)       |      ヒラメキ       |      人間(経験思考および自由意志)    ・ なおこの図の詳しい内容は 註‐1(後述)を参照されたし。  つまりは ご回答内容に――わたくしの理解のもとに――したがって《量子振動》への還元を位置づけると 次のようになると思われます。《認識体》をわたしの言葉で《意志主体》と言い換えています。   ○ 図-a-2 量子振動の位置づけ       人間(意志主体):じつはヒラメキ        |       (階層現象性)        |       量子振動  片や人間存在からあたかも上方へのぼって行くかたちにおいて《ヒラメキの優位(または 人間の思考や意志に対する先行性)》を見ようとしています。片や人間存在からあたかも下方へ――つまりは その構成要素の認識へと――降りて行って  ◆ 全ての存在は、ひらめきに過ぎません。  ☆ と見ている。  まづおおまかな捉え方として これでよろしいでしょうか?  次には 《還元》の意味が問われます。  ◆☆(ぶらじゅろんぬが編集したかたちです)~~~  “ある存在”〔は〕・・・その「ある存在」自体が、・・・有限的性質を派生させたものに過ぎない以上、「ひらめき」の方が本質なのです。  ◆ ~~~~~~~~~   ・・・認識体との相対を排除した外的存在性は、無限不確定性に発散する(=無)ことが明らかとなっています。  ~~~~~~~~~~~  ☆ この《外的存在性》とは何か? それだけを取り出して議論する意味は何であるか?  あるいは《有限的性質》を帯びる偶有存在なる人間が 物質の集まりから成ると言ってもその物質としての根源が 人間の《本質》であり 人間はこの本質に《還元》されるのか?  そうだとして その理屈をどのように理解すればよいか?  言いかえると 人間存在は 単にものごとを知解する動物であるのではなく――つまりは《認識体》であるだけではなく―― その知解(認識)によって得た選択肢から取捨選択するという意志による判断をもおこなう動態です。ヒラメキを受け容れるか拒むか おのれの意志によって決定する行為主体です。  だからこそ どうもヒラメキのほうが 人間の思考(知解)や意志判断に先行するのではないかという見方が出されます。(先行というのは 時間的にである以上に 考え方の上で・存在のあり方として 優先されてしかるべきというような意味です)。  つまり もし存在が・つまりあるいは自由意志が 物質の基本要素としての量子振動に還元されるとすれば その自由意志はもはや選択の自由が消えてしまっており すべてその身と心がそれによって成り立つ物質にたしかに還元されるでしょうし こうやってヒラメキがどうのこうのと問い求めることすらどうでもよいことになります。のではありませんか?  ◆ 現在(感受表面)からの過去(記憶)と未来(予測)への対発生  ☆ これは昔から 過去は 現在においてふり返って捉えている時空であり 未来も現在から展望して捉えようとしている時空であり すべて現在にあると言って来ているその捉え方に似ているように思います。つまり 量子振動といった《本質》にさかのぼって捉えなくても 偶有なる存在の現在(そういう動態)が そのままおのれの時空を捉えているとは思うのですが それでは足りませんか?  ですから  ◆ 生きることは、その補完(「派生」の自覚化)として、愛に向かうのです。  ☆ という見方に対しては 《過去も未来もそこに含むところの現在》がいわば永遠の現在であることによりその動態を生きること この見方と突き合わせるかたちになります。  永遠の現在とは その時空において《わたしがわたしであるわたしが わたししている》ことです。同じ《わたし》として 社会にあっては 人びとが互いに関係(かかわり)を持ち交通(まじわり)をいとなむ。この個人として《生きる》こと そして人間関係として《共に生きること》 これが 愛だという定義です。関係動態といった意味です。交通でもあり 特にはそこにおける意思疎通とその有効性でもあります。  意思疎通の有効性とは ヒラメキとの自由な一致の度合いによって決まると見ます。それぞれ個人の主観において――そのつどの現在時において―― 過程します。  ◆ その補完(「派生」の自覚化)として  ☆ がよく飲み込めないので 模索しているのですが それはおそらく先の《還元》問題――なぜ還元したかたちにおいてこそ世界を捉えなければならないか?――と けっきょくは同じ問題だとも見られます。  もし極論したほうが 互いの異同をよく捉えうるとすれば こうです。  偶有なる存在としての人間は そのように《ひとり》としては有限なる時空を生きるのでありながら その時空は《永遠の現在》なる動態である。ゆえに 社会にあっては 互いにかかわりを持ちまじわりをおこなう。これが愛である。(そこから 愛情や思いやりとしてのプラスの愛もあれば 憎悪やいがみ合いとしてのマイナスの愛もあると見られるからには 愛は 中立なる概念である)。  なぜ  ◆ 補完(「派生」の自覚化)  ☆ か? そしてそのあとに  ◆ 愛に向かうのです。  ☆ なのか? つまり《生きる》ことは すなわちそのままで《関係》であり《愛》であるとならないのは なぜか?  つまり ヒラメキが優先されるとすれば そうなるはずではないか?     こういった反応を持ちました。どうでしょう?  〔註‐1〕 ヒラメキの位置づけの詳しい図解   ○ (ロゴスの階層) ~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ           インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理   ~~~~~~~~~~~  ☆ そのNo.5等の回答に評言を得られていますが さらに分かりたいと思います。

  • 《神を見た》は 共有できるものではない。

     たたき台をしるします。  (1) ひとは 何かの拍子に体験したことをめぐって 《神を見た》と言い表わすことがある。  (2) 《神》は じつは 非経験であり非思考――として人間が想定するところ――の場である。そういう《存在》としても 一般にひとは捉えている。  (《無い神》としてさえ それは《非思考の場》である限り 想定上の《存在》である)。  (3) つまりは この経験世界における《存在》なる言葉を 非経験の領域についても 概念として単純に延長させている。つまりは その存在を《見た》というのも 人間の経験行為を単純に拡大させて――想定じょう――表わしている。  (4) ことばとそれによる思考を超えたところのナゾを 存在と見なし捉えて それとのわれわれ人間との関係についてまで いわば想像力を及ぼそうとしている。  このナゾは 一般にどの言語でも《かみ》と呼んでいる。  しかもこの神を見たとか神の声を聞いたとかというふうに ひとは神体験を持ったと言いその表現にまで及ぶことがある。  (5) とは言うものの われわれ人間にも 超自然的な超経験的ないわゆる神秘体験というのも 起こるかに受けとめられている部分がある。  あるいは 単純な事例としては ひとはヒラメキを得ることがある。  これらは 実際の経験行為にからんで意味をもたらすことのある《神体験》だと見られる場合がある。  いかに神秘的だとは言え 神体験を全否定することは たぶんしりぞけられるであろう。    (6) けっきょく《神を見た》という命題は 《見た》という記号を介して表現され伝達されているに過ぎないのに 実際にも《見た・見ていない》というような経験行為のこととして受け取られてしまうマチガイを起こしやすい。  これは あくまで非経験(つまり 見ることも知ることも出来ない)の神を取り上げているのであるからには そのような見た・見ないという経験行為をうんぬんしても用を成さないと基本的には考えられることである。それなのに マチガイが起こる。  (7) 焦点は このような記号もしくはここでは《ことば》をつうじて それでは どれだけ《非記号》の世界が捉えうるかにある。  (8) 《神を見た》は その第一次的な知覚体験としては その体験者本人にとっても それの事実性は分からないはずであって ましてその体験の人びとによる共有は 無理であろうと考えられる。ほんとうに神であるかどうか これは 本人にも分からないと言わなければならない。ましてや ほかの人とのその体験の共有などということは 目指すものではないし 出来っこない。  と同時に 記号による仮りの表現――あるいは《想定》――の限りで 人びとにはその事実性にうたがいのかかる事柄であっても それぞれの主観にとっての《真実》という場が特殊にあるかに思われる。  (9) 人間にとって その世界における《現実》とは いわゆる科学的な《事実》――それも人間による認識を俟っての事実でしかないが――とおのおのの主観にとっての〔たとえ空想的なものごとであってもその虚構をも容れるところの〕《真実》とのふたつの領域から成る。と考えられまいか?  (10) 《主観真実》とは あやまちうる人間の認識および判断の力を前提とするかぎりで けっきょく――事実誤認のほかにも――《想像の世界ないし虚構》を容れている。虚構というかたちにおいてもその想像世界には《真実》と見なしうる場合があると認めることになる。  しかも主観真実は 大きく《事実》と並びそれとの総合としての《現実》に属すると認めることを意味する。  (11) これもそれも あれも何も この《現実=事実認識+主観真実》なる方程式は 神の問題としてはその現実性が おそらく《ひらめき(直感および直観 言いかえると インスピレーション)》の問題に帰着するのであろうと思われる。また そのヒラメキの信憑性にかかっているのであろう。  (12) もっとも簡単な信憑性の判定基準は けっきょく《直観ヒラメキ》として《イメージ直感》を解釈し言葉で表現した内容が 経験合理性から見て耐えうるものかどうかにある。  (13) 《神を見た。神と顔と顔を合わせて話をした》という第一次の知覚経験が信憑性を持つか否かは おそらくその検証が出来ない。  ただしその《神を見た》ことの間接的な解釈や説明ならそれは 人びとの思考しうる世界に降りて来ることになる。ゆえに ことばとしての記号を通じて 意外と人びとは互いに意志疎通をおこないうる。  (14) たとえば 《ひとは 神の背面(うしろすがた)を見るであろう》という命題は 案外受け容れられるのではないだろうか。  ――これは けっきょく《ひとは 神のことにかかわると思われるようなヒラメキ体験を持つことがある》と言っていることにほぼひとしい。つまり 自同律でしかないかも知れない。けれど その真実が真実であるかぎり 事実との総合において 現実をかたちづくるのではないかと見られる余地がある。  (15) ちなみに《空観としてのさとり》という場合も そのサトリという第一次の言わば非思考の状態を掲げるにとどまらず そこから得るヒラメキをめぐってその解釈と説明を添えるなら コミュニケーションの大通りに現われ出て人びとの世界とその現実をゆたかにしうるものと捉えられる。  (16) なお 共有しうるということは その共有したものごとをそのまま正しいとか妥当だとかと認めてしまったわけではない。――共有し得ないならば 話し合いの主題には成れないということだ。  (17) 《神を見た》なる命題は 一般の話し合いの主題には成らない。このことを 共有しておけば そのような知覚情報とは別の《ことばとしての記号の世界》でなら 哲学の問い求めは話がうんと進むものと思われる。    (18) よってひとは 《神を見た》とか《これこれが神である》といった第一次の知覚情報をもって 神の話をするなかれという交通規則を得ることができる。のではないか?  言いかえると 単純に言って 《神は人間の精神である》とか断定したり あるいはぎゃくに 《神は 人間の想像の産物でしかない》と言って否定したりするだけで説明のない神学は 論外の問題外であると。

  • イエスは言葉?

    三位一体論によると、イエスは神の御言葉、聖霊は愛だそうです。 ここでいう「御言葉」とは、文字通り、神の発する言葉(word)だと考えてよいのでしょうか? ・子は父から生まれる ・父と子の関係でありながらも、本質においては同一である ここまでは理解できていますが、「イエスが言葉」というのがどうしても理解できないのです。 最初は比喩的な意味かと思っていましたが、神学者の議論を読むと、比喩でなく、文字通り「言葉」を意味しているとしか思えないのです。 ・言葉というのは、魂とは違うのでしょうか? もちろん、神の本質を分有する人間の魂と、神と本質を同じくするイエスの魂とでは大きく異なるでしょうが……。 ・イエスはロゴスだといわれることもありますが、ロゴスは言葉よりも理法といった意味が原義ですよね。 私にとっては、イエス=言葉よりもイエス=理法のほうがまだ理解できるのですが、イエスは理法でなくあくまで言葉なのですか?