• ベストアンサー

江戸藩邸で食べる米の出どころ

江戸時代、諸国の江戸藩邸では食べる米はどこのものだったのでしょうか? 領地で収穫した米を運ばせたのかしらと思いましたが、遠いと運送が大変そうだなあと感じますし、江戸で米を買うとなると高くつきそうに思います。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.5

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E8%97%A9 実石高や人口推移に関しては 上記参照 宮城県の教育委員会の資料は、まぁ大雑把ではあります。 江戸時代全体で1600年ころ 人口 1800万人前後 石高 1800万石程度 http://homepage3.nifty.com/ksatake/fkunu1.html 17世紀の100年で、日本は結構な高度成長を遂げ、17世紀初頭で 人口 3000万人 石高 3000万石 で、成長が止まります。 30万石の廻米というのは 17世紀以降の江戸時代の経済体制の成長が止まってからの数字であると思われます。 ※ 経済成長が止まって、こりゃうまくないなねぇというので、吉宗の頃から、人口統計やらいろいろと数字を取るようになります。 なので、江戸時代も 17世紀は、かなりの 当てずっぽうの数字になっています。 なので、補足の内容に関して正確に数字を当て込むことは不可能。 ※ だれかが研究しているかも知れませんが、一素人が知っている範囲ではそうなる。 ただ 「一つは、60万石の仙台藩で年貢米のほかに農民から30万石も買い上げ」 17世紀の経済が一定の頃を想定すると 仙台藩の予算は 実石高 100万石 農村人口 50万人 非農村人口30万人 税制度 五公五民として 農村で消費される米50万石 仙台藩の中での税収50万石 そのうち 30万石を江戸に廻米して江戸藩邸資金とする ※ 江戸時代の各藩における、予算配分は江戸表と在地とで半々と言われているので、大筋江戸廻米30万石というのは妥当な数字だと思われます。 ※ 仙台藩に残る米が70万石 80万人が 70万石の米を食っていたので、ちょっと米は足りないよ という程度の米の消費だったかと推定される。

noname#217196
質問者

お礼

勉強になります。 補足質問にもお付き合いいただきありがとうございました。 新田開発ぶんが生きて実収百万石規模になるのは四代将軍家綱の頃でしょうかね。 仙台藩、廻米でネット検索したところ、宮城県の博物館サイトで、最盛期30万石と説明してあるのを見つけました。そこには、仙台藩の場合、廻米を江戸で売ると買い上げ費用の七倍の金額(安定的なのか、最盛期なのかは不明)になったと書いてました。 この江戸の米の値段の高さを考えると、領地から運び込むほうが経済的な藩がずいぶんあったように思いました。実際に運んだかは別として、廻米でネット検索すると仙台藩以外の情報も得られて興味深いです。 現状で回答を私の調べも加えてまとめると、江戸の米の値段はべらぼうに高かったので、いくつかの藩は運搬費用などの経費より経済的とみて持ち込んで食していたと推測され、仙台藩に至ってはさらにその上をいく発想で江戸に持ち込んだ米を売ってまでいた、というところのようですね。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (4)

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.4

当該のURL資料は 宮城県の小学校高学年の指導 〔その2:宮城のお米が江戸のお米の3割を支えていた。〕 1632年から仙台藩のお米が江戸に出回るようになった。これを江戸廻米(かいまい)という。 仙台藩では人件費などの経費がかかるようになったため,藩内各地で農民からお米を買い上げ,そ れを迫川,北上川,阿武隈川や日本で一番長い貞山運河の水運(船)を通じて集め,船で江戸に運 んで販売していた。その量は毎年30万石で,江戸の米全体(100万石)の3割を占め,5万両の収 入を得て,それを藩の運営に使っていた(資料Kを参照)。 資料K:貞山運河の歴史 東回りは 1671年

noname#217196
質問者

お礼

補足質問への回答ありがとう。

noname#217196
質問者

補足

勉強になります。 ご回答の提示情報でちょっと気になるのは、30万石の江戸廻米が1632年当時からなのかどうか。 一つは、60万石の仙台藩で年貢米のほかに農民から30万石も買い上げとなると、農民の元に米がほとんど残りそうにないので、実収がもっと増えてからではないかしら。 もう一つは、米一石は大人一人の年間消費量らしいので、江戸に集まった米が仙台藩からのを含めて100万石ぶんとなると、100万人規模の江戸人口が必要でしょうけれど、そう江戸の人口が増えるまでにはずいぶん早い時代に思えること。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.3

http://www.pref.miyagi.jp/kankyo-s/kankyokyoiku/upper_grades/up_%EF%BD%81%EF%BD%8C%EF%BD%8Cinone.pdf 上記のP20 にあるように、江戸で必要な米100万石のうち30万石は仙台藩から移入されています。

noname#217196
質問者

お礼

情報源つきの回答ありがとう。

noname#217196
質問者

補足

残念ながら提示ファイルを閲覧できない環境なので、提示ファイルに書いてあるのかもしれませんが、江戸時代のいつ頃のデータかわかるようなら教えてください。 河村瑞賢が東回り航路を開発する以前か以後か、江戸城堀工事など手伝い普請がある年かどうか、領地の飢饉との関係が仙台藩だと特に気になりますので。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.2

米を江戸や大坂に持っていかないで何処で売るんですか? 自分の食いぶちも持ってくるだけでは… ついでに言うと輸送の主体は船です

noname#217196
質問者

お礼

ありがと

noname#217196
質問者

補足

ご回答の裏付けとなる情報源を教えてください。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • kusirosi
  • ベストアンサー率32% (2838/8861)
回答No.1

江戸に近い小藩なら 領地から米俵運んだりも、ありかもしれませんが、 大半の藩では、藩の蔵米委任している現地の米屋が 現地消費と、藩士の給与の裏付けとなる分、預かった残りを 大坂などに運び、大阪の蔵屋敷に廻米された米を売り払い現銀にして、江戸の藩邸に送金することになります。 大阪の両替商は手形を為替取組み契約を結んでいる江戸の両替商に送り、 同時に大名の江戸屋敷に送金為替をおくります。 江戸の両替商は大阪の両替商より受取った為替手形を江戸の問屋に呈示して、商品の代金を取立て、送金為替を受けた大名屋敷に支払うという寸法です。 こうして、大坂で売った米の代金を江戸藩邸の活動資金とし、江戸の米屋から買って食べます。 江戸には ・下り米問屋 大坂の米問屋と取引し、東海地方・北陸地方以西57ヶ国から船で運ばれた廻米を買い上げて米仲買に販売 ・関東米穀三組問屋 ・地廻米穀問屋 関東八州・奥羽からの米を扱う ・陸附米穀問屋 千住宿や板橋宿に集まる江戸近辺の農村部の米穀(納屋物)を扱う など、各地からの米を扱う米問屋米穀商が多数あり、日本中の米が来ていました。 中には、回りまわって売られてきた故郷の米を食し懐かしむ江戸詰め藩士もいたかも\(^^;)...

noname#217196
質問者

お礼

江戸時代の米問屋の知識ありがとう。 よく理解できなかった点をあげておきます。機会をみてあらためて質問投稿するかもしれません。 一 米問屋に米を売った金でわざわざ米を買って食べる利点がよくわかりませんでした。割高について損なのではと思います。 二 江戸に近い小藩を特別扱いにする理由がよくわかりませんでした。江戸に近いかどうかだけなら、大藩も同様に思います。食糧ぶんを除いた米を換金するかどうかに藩の大小で違いがあるのでしょうか。 三 江戸時代は長期間に渡りますが、いつ頃からこうなったという説明がないのは、家康の代からずっとかわりなくと考えていいのでしょうか。

noname#217196
質問者

補足

ご回答の裏付けとなる情報源を教えてください。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 江戸時代の領地支配

    小学生の子供の社会科のテスト問題を何気に見て、疑問に思いました 問題の元となる資料は、武士・士・農・工・商・僧・公家等の人口比率 それと、領地支配者の割合 その領地支配者割合は、大名が77% 幕府が23% というもの つまりは、大名と幕府 すなわち武士が領地の100%を支配していたということが、読み取れました 江戸時代といっても、二百年以上ありますが、どの時点なのかは言及されていません 私の質問は、 ・江戸時代は、武士が領地のほとんど全てを支配していたのでしょうか? ・天皇家、公家、貴族、僧は、領地を持っていなかったのでしょうか? ・領地=田=米の生産量=経済の根本 が江戸時代だと思いますが、天皇家や僧が領地を持っていなかったのであれば、どうやって食っていたのでしょうか?

  • 江戸時代の米の消費について

     江戸時代の農民は、全体の8割程度だったといいます。その農民は、あまり米が食べられなかったといいますが、もしそうなると、農民が生産した米を残りの2割の人口で消費していたんでしょうか。江戸時代の米は、貨幣としての役割もあったといいますが、何れは消費しないといけないはずです。そのへんが、どうも納得いかないので、どなたかお分かりになるかがいらっしゃれば、ぜひ教えてください。

  • 米の値段が、江戸時代には、なぜ下がったのですか?

    山本博文著の江戸学講座を興味深く読んでおりますが、次の説明に出会いました。 <江戸時代の初めは、家禄だけで食べていける旗本・御家人も多かったのですが、中期以降は、米の値段が下がりますから難しかったでしょう。> 一般的には、物価は長期的にみると、漸進的に上昇します。(もちろん、技術革新などによって、低下する場合がありますが)。 米の値段が、江戸時代には、なぜ下がったのですか?

  • 江戸時代の税金について

    江戸時代では庶民からどのような方法、名目で税を徴収していたのでしょうか? 農民から収穫した米を年貢として納めさせるシーンは時代劇などで馴染みがありますが、江戸に住む普通の町民や商人からはどのように徴収していたのか、あまりイメージが湧きません。 江戸時代でも所得税や住民税などが存在していたのでしょうか? ご回答よろしくお願いいたします。

  • 歴史学者「江戸時代の人は米を食べていなかった」

    歴史学者「江戸時代の人は米を食べていなかった」 え?日本は農作で米を作ってたのに作った米は他国に輸出でもしてたんですか? 作った米はどこに消えた?

  • 江戸時代の朝廷&公家の領地は全部合わせて何万石?

    江戸時代の朝廷及び公家の領(領地)は、全部合わせたら、何万石ぐらいだったのですか? 江戸時代の朝廷と公家の領(領地)は、全部合わせたら、何万石ぐらいだったのでしょうか? 江戸時代の朝廷と(&)公家の領(領地)は、全部合わせたら、何万石ぐらいだったのかを教えてください。 また、できれば、その根拠も教えてください。

  • 江戸時代の朝廷の石高は、全て合わせて何万石ぐらい?

    江戸時代の朝廷は、天皇・皇族・公家等の領地や石高を全て合わせて、全部で何万石ぐらいだったのでしょうか? 江戸時代の朝廷は、天皇、皇族、公家など全て合わせて、(彼らの領地や、そこから得られるのは)何万石ぐらいであったのかを知りたいです。 江戸時代の朝廷は、天皇、皇族、公家など全て合わせて、何万石ぐらいであったのかを教えてください。

  • 江戸幕府は封建制?

    日本の江戸幕府は歴史用語の上では封建制なのでしょうか?それとも絶対王政なのでしょうか? 江戸時代は確かに各大名に領地が与えられていて、行政や司法が委ねられていましたが、大名が己の領地に対し完全に主権を有しているわけではなく、幕府によって領地替えや取り潰しされる事がありました。 また将軍と大名は契約によって主従関係があるのではなく、完全に支配されています。 しかし大名は将軍が派遣した官僚ではありません。 こういう場合はどちらに分類されるのでしょうか? 西洋の歴史用語を日本の体制に完全に当てはめる事も難しいと思いますが。 また西洋で日本の江戸時代のような体制になっていた時期もあるのでしょうか?

  • 御殿山の辺りは、江戸時代は誰の領地だったのか?

    大阪府枚方市の御殿山駅や御殿山神社の辺りは、江戸時代は、誰の領地だった(誰が支配していた)のでしょうか? 大阪府枚方市の御殿山駅や御殿山神社の辺りは、江戸時代は、誰が支配していた(誰の領地だった)のかを教えてください。

  • 江戸時代の米問屋についての文献

    時代小説(趣味)を書こうと思い立ち、 米問屋の生活~仕事の様子が描かれた文献を 探しています。 おすすめの資料などございましたらご教授お願い致します。 また、舞台は新潟の米問屋ですが、江戸の米問屋との違いってありますでしょうか?