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本所吉良邸の謎解き

http://okwave.jp/qa/q6470459.html?__from=mixi で質問した者です。 まだまだ何か面白そうなことがありそうです。 隣の旗本屋敷のことや松平登之助の引越し先の屋敷の前の持ち主のこととか。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.2

  吉良屋敷の周囲は、  http://okwave.jp/qa/q6470459.html  に載せた 「御府内往還沿革図書」 に掲載されれた絵図を模写したものを参照ください。  訂正を要するのは、まず道を一本隔てた東隣(図では右)の牧野長門守。代替わりして牧野一学(成純)の屋敷です。  上記絵図で、松平登之助と南(図では下)を頭に書かれているところは、東を頭に吉良上野介と書き直します。  土屋主税と本多孫太郎は、上図のとおり。  当主名の頭文字がある方向が、屋敷の正面になります。表門があったところです。  松平登之助屋敷から吉良屋敷になって、表門が南から東に移設されたのです。  さて、土屋主税(逵直)ですが、この家は遠州森町村を領土とする三千石の小普請組、旗本でしたが、もともとは二万石の大名家で、老中の土屋相模守の家の本家にあたります。  本多孫太郎(長員)は越前松平家の家老(二万石)ですが、大名格として公儀の得遇を受けていた家。当主の孫太郎は越前に常住して越前家や加賀前田家などの監視役でした。公儀から拝領した江戸屋敷は江戸事務所のようなところで、この越前本多家の江戸でのナンバー2は、忠見扶右衛門。この忠見の家は、堀部弥兵衛の後添いの実家です。  刃傷事件後、堀部一家は松平登之助の隣屋敷内にあった忠見宅に一ヶ月ほど仮住まいしています。   また、忠見扶右衛門の次男、文五郎は、堀部弥兵衛、安兵衛が切腹したあと堀部家を継いで、細川家に五百石で仕官しました。   本多孫太郎を旗本として、「事件のときはたまたま帰国中で留守だった」と某大学の著書に書いてありましたが、上記のことはちょっと調べればわかることです。

kohinata7miwako
質問者

補足

またまた詳しいご回答に驚きました。 ありがとうございました。 土屋主税の家が老中の土屋相模守の家の本家とは。こういうのはどうやって調べられるのでしょう。 もうひとつの隣、本多孫太郎の家系とか、本多家の江戸でのナンバー2の忠見扶右衛門という人と堀部弥兵衛の関係とかも。 >刃傷事件後、堀部一家は松平登之助の隣屋敷内にあった忠見宅に一ヶ月ほど仮住まいしています。 これなども、証拠になるようなものがあるのでしょうか。 驚くことばかりです。

その他の回答 (3)

回答No.4

 北隣の西側には、三千石の寄合旗本、土屋主税逵直(つちや・ちから・みちなお)の屋敷がありました。この家は、当時の筆頭老中、土屋相模守政直(つちや・さがみのかみ・まさなお)の本家です。  北隣の東側には、越前松平家の家老で二万石の本多孫太郎長員(ほんだ・まごたろう・ながずみ)の屋敷がありました。 本多孫太郎は二万石ですが、立場上は大名の家来。なので大名ではありませんが、大名格として江戸屋敷を拝領していました。ただし、越前府中に常住のため留守居など家来をおいた江戸事務所のようなものでした。次席留守居の忠見扶右衛門政常(ただみ・すけえもん・まさつね)の家は、堀部弥兵衛金丸夫人の実家でした。  松平登之助信望は、元禄十四年八月に下谷の町野酒之丞幸重(まちの・さかのじょう・ゆきしげ)の屋敷だったところに引っ越しました。  町野酒之丞は、その少し前に「父への親不孝」ということで改易になり、加賀大聖寺新田一万石の領主、前田采女利昌(まえだ・うねめ・としまさ)に預けられました。

回答No.3

  下記、メルアドでログインしたので gogyo_maga となっていますが、IDは 100rakutenで、前回回答と同一人物です。

回答No.1

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>隣の旗本屋敷 吉良邸の南は道路。 北東には土屋平八郎と水野内蔵の邸宅。 東は牧野主膳邸。 西は回向院となっています。 北には裏門。 (1)大石内蔵助らが討ち入りをした時、土屋平八郎邸に向かって、 「我ら、主君、浅野内匠頭の無念を晴らすべく参上。御隣家さまにはしばしの騒動となりましょうが、平に御容赦、願いたてまつります」 と、叫ぶと、土屋邸より 「その方らの儀十分承知。塀を越えた者があらば、どちらの家の者であっても討ち果たすゆえ、存分に働きあれ」 と返答が帰ってきて、高貼り提灯を何本も立ててくれたとか。 土屋は、もちろん赤穂びいき。 また、武家屋敷に無断で入ることは厳禁でしたので、もし、高貼り提灯を立てたことを大目付から咎められても、 「屋敷に無断で入った者を見定めるため」 と、言い訳が立ちました。 (2)また、西の回向院との間に通用口がありましたが、回向院はその扉のかんぬきを外しませんでした。 吉良邸より盛んに通用門を開けるよう催促されましたが、ガンとして開けることはしのせんでした。

kohinata7miwako
質問者

補足

ご回答ありがとうございました。 ところで、 吉良邸の南は道路。北東には土屋平八郎と水野内蔵の邸宅。 東は牧野主膳邸。 西は回向院となっています。 北には裏門。 ということですが、土屋平八郎ではなく土屋主税ではないでしょうか。 大石主税が討ち入った裏門は西だと思いますが。 私が読んだ本では、どれもそうなっています。

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