• 締切済み

悟り

島崎 信也(@zakky74)の回答

回答No.15

> いくら言葉で語ろうとしても「空」ですもんね・・・・ そうですね。 しかし「空」さえも、悟りの一側面。悟りの部分的な側面にすぎませんよ。 「空」をもって悟りを計る事も出来ません。 悟りを理解しようとする際に重要な事は、まず何をおいてしても完全に自分を客観化する事は出来ないんだという事に明確に気付き(1回も、1秒も客観化した事はございません)、その状態では当然にして自分自身を自由自在にコントロールする事も到底不可能である事を、明々白々に理解する事です。 それなしで、次はあり得ません。

関連するQ&A

  • 悟りについて

    仏教の『悟り』 エックハルト・トールの『悟り』 神との対話の『悟り』 老子の『道(タオ)』 キリスト教では何というのか分からないんですけれども、 他にも『覚醒』とか『アセンション』とか言いますが、 全て同じ状態を示しているのでしょうか? 『欲』や『怒り』や『後悔』や『不安』や『エゴ』などを、 乗り越えた状態なのでしょうか? 悟りを開いた方がいらっしゃったら、教えて下さい。 よろしくお願いします。

  • 悟り 現代

    昔は何人も悟りを開いた人がいるのですよね。   先週、、、とはいいませんが、20世紀とかに悟りを開いた人とかはいないのでしょうか? 現代に居なければ、一番最後(最も最近と言った方がいいかな?)に悟りを開いた人は誰なのでしょうか? 例えばマザーテレサとか、ガンジーとか。 歴代ダライラマ達とか、その辺なのでしょうか? また、悟り、涅槃、などは仏教の中だけの話なのですか?  どなたか詳しい方がいらっしゃいましたら、是非教えてくださいな。

  • 悟りとは

    悟りを開いた状態と言うのはどう言う状態なのでしょうか? 「悟り」という言葉は仏教でよく出てくるように思うのですが、他の宗教でも似たような概念はあるのですか? また、悟りを開いた方は実際この世に現存するのでしょうか? 「私は悟りを開いている」という方がいらっしゃいましたら何故そう思うのか、単なる思い過ごしでない事を示してください。 悟りを開いた所以なども教えていただけるとありがたいです。 宗教関係の方はどう言う宗教なのか、専門家の方は何の専門家なのかお知らせの上、お答え頂ければと思います。

  • 記憶を失ったら仏教の悟りも失われる?

    不退転の悟りを得た仏教徒がいるとして、その人が、頭を打つなどして過去の記憶を失ったとします。彼は、言葉は話せても、自分が何者で何をしてきたかすら思い出せません。そうなると、悟りも失われてしまうのではないかと思います。悟りが失われてしまうと、再び執着心が生じてしまうと思うのですが、どうなのでしょうか?それとも、不退転の悟りは記憶に依存しないと考えられているのでしょうか?

  • 悟りとは主観と客観の一致である。

    ある書籍に、「悟りとは主観と客観の一致である」と書いてありました。 これについて、自由な意見をお待ちしています。

  • 般若心経における悟りとは何でしょう

    私は無宗教ですが、般若心経について少し興味があるので教えてください。 「悟りとか煩悩の克服にこだわると悟れない」とあるサイトに書いてありました。経を唱えるとか、写経とか、修行とか座禅などは悟りの境地に近づくためにするもの、つまりこだわっているものだと思っていたのですが、このへんがよく理解できません。 また、「悟りを得るための仏教の教義にこだわることも間違い」という説明もありました。仏教の教えを守ろうとすることも間違いという意味なのでしょうか? 「一切のこだわりがない状態が良い」というのが教えだとしたら、般若心経の教えを理解しようとする気持ちもない状態が良いということになるのでしょうか。また、仏様を崇拝する気持ちもない方がよいということなのでしょうか。

  • このカテにおいて、釈尊の覚りを否定する流れ

    最近のこのカテでは、釈尊の覚りなどなかったという風潮があるようですが、それは何故ですか? 何か根拠でもあるのだろうか。 大昔のこと、現代に生きる我々としては、釈尊に出会ったわけでもないだろうに。 どうやら、無というものがひっかかっているようですが、 無とは本来、何かが無いという意味であり、全部が無いとか、あれは無いとか、これは無いとか、主語に対して使う言葉であって、どうも無の覚りが云々という言説が舞い上がっている意味がよくわからない。 自分も十年ほど前は、無というものが何処か自由を保証するような気がして、それにかぶれた記憶もありますが、それから延長して釈尊は覚ってないとか、そんなことは言ったことがない。破門で始まる仏道があるとかのたまって、自己に酔いしれた経験はあるが、それでも今振り返れば、若かったな、何もわかってなかったなということに終始します。 このカテで、釈尊の覚りを否定する方は、何を根拠に言うのでしょう。 釈尊や仏教の肩を持つわけではないが、このカテのその風潮のうき具合が少し心配に思えます。 どちらかと言うと、徳とか、そういう話がもっと出ても良いと思うのですが。

  • キリスト教の聖人という人たち。

    キリスト教の聖人という人たち。 キリスト教には「聖人」とされる人がいますよね。 この人たちは枢機卿というキリスト教の最高機関みたいなところで決定されると聞きました。 じゃあ、仏教とかにもこの「聖人」みたいなくくりの人はいるんでしょうか? 仏教でいくと、悟りを開いた人になるのかな? 悟りを開くとどうなるんでしょうかね?

  • 釈迦の無の悟りはこのように解釈するとちょうどいい

    初期の仏教には今も同じ問いかけが成されている。 神を語らないことに、今も続く押し問答が、果てしなく繰り広げられる。 お前の神を明らかにして見せよと。 答えるにそれを表すなら無であると。 これこそが無の悟りとは何かという問いかけである。 そこで私の述べる一切無の悟りを心得るならば、目指すのは、お釈迦さまと同じく、自らが仏陀となる修行の道のりであり、個人的な信仰心の探究であり「救ってください」「助けてください」これは無効になり、それもまた無である。 それでは、聖職者は問う者に答えないことで、その無を語ることが、それ自体を答えとする考え方だ。 釈迦に問うた者どもは、むしろそれを恐れている。だからこそいまだに悟りに至らないのだ。 お釈迦さまを始祖とする仏教の迷走はここにあり、禁を破り、仏を神に列した後世の仏教は誤りで、仏陀と言う人としての最高の状態であることが、それでこそ人間であるという境地だ。 お釈迦様の信仰をまねることとは、後世の仏教徒にとって、自らの信仰を殺し、それによって自らの精神が死に、しかる後に釈迦の信仰を受け入れる死と転生だ。このように自らを滅し、死を理解する後に仏陀となることが、長らく釈迦の弟子であるということになっている。 仏教の初期から現代までこのことに異論をはさんだ者はいない。 それは信仰を心に宿す手法として、死にまい進し、死の自覚によって悟る修行だ。 こうして、死を理解してこそ仏陀になるという荒々しい修行は仏教に限らず、釈迦誕生以前から現在も続くインドの伝統である。 生きてこそ人であり、信仰に到達したならば仏陀だ。 旧来のように死にまい進することは、自らを自覚した仏陀の信仰を打ち立てることは全く正反対である。 それは信仰を携えて生きることではなく、お釈迦さまに感化されるあまりに、自らが死に改めて仏陀として転生を体験する考え方だ。 お釈迦様と同じく自らの信仰のみに生きるなら、勧めるのは、お釈迦様の信仰をまねること、すなわち現在の自らが死ぬ無の悟りではなくて、自らの唯一の信仰を切り開くこと、「信仰の道を我が大道としてゆけ」これである。 それは西洋哲学の標榜する自由の概念と同じであろう。 仏教とは常にお釈迦様のお葬式を挙げている。 そして死を繰り返す。 処で日本語とは面白い言語で、私の表した「我が信仰の大道を行け」この言葉を噛んで含めると、「あなたたちそれぞれが自らのみとを我が信仰の大道としなさいよ」こうなるが、「我」という言葉に「みんな」という意味があるのが私の言い回しである。 以上は現在執筆中の「いかに猿は踊るか」こういうタイトルの原稿から抜粋した。 文章の推敲の助けとなる意見を聞かせてくれ。

  • キリスト教の本質

    例えば仏教なら「悟り」を求めて修行します。 キリスト教は何を求めて祈るのでしょうか?