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ナチスがポーランドに侵攻したとき、ポーランド人はナチに加担してユダヤ人

ナチスがポーランドに侵攻したとき、ポーランド人はナチに加担してユダヤ人を積極的に迫害したのは事実ですか?戦後もポーランド人によるユダヤ人殺害が続いたのでしょうか?

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  • tknaka
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回答No.1

ポーランド共和国は、ナチの侵攻時、東欧でも特にユダヤ人を多く抱える国でした。当初ドイツが占領した西半分(東半分はソ連が侵攻占領)には、1931年の国勢調査当時170万を超えるユダヤ人が居住していたという統計があります。実際には1933年のドイツでのナチ政権確立以降、ポーランドに亡命したユダヤ人もかなり居ましたので、侵攻時のユダヤ人口はこれよりも更に多かったと言えるでしょう。 ポーランドにおけるユダヤ人の多さは、中世において、西欧諸国がキリスト教的な反ユダヤ主義、ポグロム(突発的な非組織虐殺)が多発していた時期に、ポーランド王国が制度的なユダヤ人差別を撤廃したことに拠ります。しかし、その結果大量のユダヤ人が居住し、カフタン・髭など正統ユダヤのイメージが社会に多く見受けられるようになり、経済を大きく牛耳ってしまったため、ポーランド人庶民の多くはむしろ反ユダヤ的な思考を持っていることが多かった、と言われます。 さて、以上のような状況の中に急進的反ユダヤ主義であるナチ・ドイツが攻め込んできたわけです。国防軍の侵攻と共に、アインザッツグルッペン(Einsatzgruppen)と呼ばれる帝国保安本部(RSHA)指揮下の特別行動部隊が投入され、戦線後方においてパルチザン掃討とユダヤ人排除にあたりました。排除というのは、要するに追放・虐殺です。この時点では、マイダネクやソビボル、ベウジェッツのような絶滅収容所が組織されていたわけではないので、組織的な背景を持っておりましたが、システマティックな虐殺ではありませんでした。こうした虐殺行為に対してポーランド人は基本的に傍観者または密告者として加担者の立場を取っていたわけです。 しかし、イェドワブネ(Jedwabne)という小さな町では、アインザッツグルッペンが入ってくるよりも先にポーランド人自身によるユダヤ人の拘束・虐殺が行なわれました。時系列的にはこれは確かめられています。ただ、近隣の町ではアインザッツグルッペンが主導するユダヤ人虐殺が行なわれており、そのことの心理的影響がどの程度だったか、などは明確には分かりません。また、1944年8月のワルシャワ蜂起に際しては、国民軍(AK, ポーランドの武装抵抗組織)のハル部隊が自分たちの担当地区に隠れていたユダヤ人を虐殺したということが明らかになっています。 戦後、1946年7月4日にキェルツェ(Kielce)というポーランド中央からちょっと南寄りの都市でポグロムが起き、41名の死亡者と80名ほどの重軽傷者を出しました。原因はユダヤ人が「儀礼殺人」を行なったという噂に拠るもので、実際の証拠はありませんでした。これにより解放後、まだポーランドに残っていた多くのユダヤ人が国外に亡命し、ポーランドに残ったユダヤ人は僅少になりました。 イェドワブネの事件については、ヤン・トマシュ・グロスというポーランド生まれのユダヤ系アメリカ人の社会学者が、2001年に『隣人』という本を出版して大きな議論を呼びました。それまではほとんど知られていなかった事例でした。Gross, Jan Tomasz (2001). Neighbors: The Destruction of the Jewish Community in Jedwabne, Poland. Princeton, NJ: Princeton University Press. ワルシャワ蜂起については、いくつかポーランドでも知られていましたが、ドイツ語で議論をまとめた論文集が出ており、それがよくまとまっていると思います。Barbara Engelking, Helga Hirsch (ed.), Unbequeme Wahrheiten: Polen und sein Verhaeltnis zu den Juden. Suhrkamp 2008. また、クロード・ランズマンの「ショア」という9時間半に及ぶホロコーストをめぐるインタビュー映画があります。その中でのポーランド人の証言を聞いていると、現在まで潜在的な反ユダヤ感情があることが理解できると思います。(これはしかしポグロムを誘発するほどではないでしょう) ご質問に対する回答ですが、ポーランド人が総体的に積極的に迫害したわけではありませんが、そういう事実が存在したことは事実です。戦後もポグロムとしてのユダヤ人殺害はありましたが、続いたわけではありません。

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