• 締切済み

歴史上で勘合貿易って日中との友好関係にあったといえるのでしょうか。

歴史上で勘合貿易って日中との友好関係にあったといえるのでしょうか。 至急おねがいします!!!

みんなの回答

回答No.5

勘合貿易は日本が中国と始めたけど中国からしたら邪魔だった倭寇をとりしまってくれるから貿易を日本としたんだと思いますなので日中関係がよかったのでわないと思います

  • fumkum
  • ベストアンサー率66% (504/763)
回答No.4

勘合貿易の前史が重要で、14世紀中頃から高麗から中国(元、明朝)の沿岸にかけて(前期)倭寇が活発に活動し、侵略し、食料・人間を奪い取るなどの海賊行為を繰り返していました。倭寇は一面貿易業者でもあって、取引が成功しないと倭寇に変身する面もありました。1368年に元朝から明朝に代わると、倭寇の鎮圧、中国を中心とする伝統的な冊封体制の構築を求めて日本にも使者を派遣したとされていますが、日本は南北朝の騒乱の中にあったために、九州に勢力のあった征西将軍府の懐良親王と交渉したが、うまくいかず、うやむやになってしまいました。その後、南北朝の合一がなり、国内秩序の構築に成功(九州は今川了俊により征圧される)した足利義満は明朝の考え方を知り、1401人に明に使者を送り、国交を回復し、勘合貿易を始めるわけです。この時の文書の中に、「海島の漂寄の者幾許人を捜尋し、これを還す。」とあり、はっきりとは書かれていませんが、倭寇により連れ去られた人々の存在、倭寇の活動が外交の懸案であったことが分かります。 しかし、明としては平等の外交関係は存在しませんから、朝貢関係となるわけで、貿易は明に朝貢し、その返礼として品物を下賜されるという形式を取るわけです。そのときに日本から派遣される遣明船には明からもたらされた勘合と言う証書を持参することが義務でしたので勘合貿易といいます。 さて、室町幕府の力が衰えると、勘合貿易の主導権は幕府から細川氏、そして大内氏に移り、大内氏も力をなくし、勘合貿易は中断されます。そして、日本国内も戦国の世にかわり、国内秩序も乱れます。すると倭寇も復活し、後期倭寇と呼ばれ、前期以上に中国沿岸での活動が活発化し、北虜南倭と呼ばれる明朝の存続までも脅かす存在となります。 以上の経過から考えて、勘合貿易の時代はに日中が平和な関係にあったと思いますが、冊封関係にあったので明が日本を友好国と考えたかどうかは分かりませんが、友好関係に近いものがあったと思います。 上記の内容についてはご存知のことも多いと思います。最後はあなたの判断ではないでしょうか。 以上、参考まで。

  • isa-98
  • ベストアンサー率23% (205/859)
回答No.3

豊臣秀吉の朝鮮攻略は実は正しい行為でした。ーー; 明はこれで財政破綻を引き起こしたのです。 明は国交を結ぶ前に滅亡しちゃいます。 これによって朝鮮は唐辛子を日本から輸入して現在の朝鮮文化をようやく確定したのです。 中国に清が起きますが、日本は鎖国しちゃったんです。 >日中との友好関係にあったといえるのでしょうか。 無関係です。

  • potachie
  • ベストアンサー率31% (1065/3387)
回答No.2

勘合貿易は朝貢貿易ではありません。 日本側の権力者が民間人の体裁を取り、中国側の民間人や地方権力者と行ったもので、当時、国家間の関係は悪く、日本は国としてみてもらえなかったために行えた貿易です。

  • 345itati
  • ベストアンサー率48% (795/1639)
回答No.1

中国の歴史上、日本と対等という意味で「友好関係」にあったことは一度もありません。 中国王朝にとって外国との貿易は、朝貢貿易という形でした。 上の立場である中国の皇帝に、諸国が貢ぎ物を献上する。 それに対して「ご褒美」として対価を支払う。 中の華である中国こそが世界一で世界の中心、というのが基本の考えです。 それが歴史上の中国と他国との関係です。 日本も勿論そういう形で貿易していました。

関連するQ&A