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キリスト教って何か目標はあるのでしょうか?

neikorouの回答

  • neikorou
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回答No.8

カトリックのイエス・キリストは、 イコール、復活、奇跡を表す象徴です。 マリア様は慈悲です。 仏陀は、世界平和とか人々の成長を表す象徴。 観音様は慈悲です。 マリア様も観音様も慈悲の専門家です。 疲れた人、病んでいる人、無垢な子どもを心から愛します。 ふたりは女性ですから、女神として 人間の母親のような存在です。 そこは、目標ということでは とにかく癒してもらいたい。という、 慈悲の目的があります。 なにをそんなに辛いことばかりするのですか ただ、ここに来なさい。そう言って、気持ちよさ温かさだけに 包まれる宗教もあってよかったはずです。 特に、 キリスト教(キリスト) 仏陀(仏教)それぞれの神でありますが 西洋人とアジア人の人生の捉え方からして 作られ、広まっていく段階で、目標というものは キリスト教にはなかったのではいでしょうか。 キリスト教はロザリオ 仏教は数珠 珠を数えながら祈ったり お経を唱えるのはよく似ているんですけれども。 目標と言うと しっくりした答えができるかわかりませんが いずれにしても 母のような存在、マリア様や観音様を独立した宗教に したかったはずではないかと考えます。 誰でもが、母なる存在に抱かれ 甘えているほうが安心で幸せですから。 でもそれじゃあ格好がつかないってことで どちらの宗教にも男性の神が祭られた。 西洋人よりは アジア人の仏教伝来家が、どういう内容にして行こうかと 仏教を伝えて行く上で 複雑にしていくことが得意だったのではないでしょうか。 賢い者も、多かったと感じます。 仏教だと 目標というのは、悟りのことかもしれませんが キリスト教でも、祈りをいうことで悟りを得る人もおります。 祈り、瞑想、メディテーション、念仏、などといろいろあるかも 知れませんが、いずれも目的は 己を知ることです。 そして、ご褒美に マリア様や観音様、またはインドの女神たちの 優しいぬくもりに辿り着ける。 厳しいだけが目標ではありません。 今の日本の若い人たちには、修行とプラスして 祈りということを個人の心のなかですすめていってほしいものです。

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