なぜ《絶対》が腑に落ちないのか

このQ&Aのポイント
  • 絶対とは、経験的なものではなく非経験的なものを指す。
  • 永遠的なものと時間的なものの違いは、永遠的なものが手に入った後も愛される点にある。
  • 絶対を表現することは困難であり、日本人は「かみ」という言葉でそれを表わしてきた。
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どうしても《絶対》ということが 腑に落ちないでしょうか

どうしても《絶対》ということが 腑に落ちないでしょうか  たとえば次の文章の中の《永遠的なもの》 これが《絶対》を表わします。《時間的なもの》は 《相対》です。経験世界における経験的なものごとです。したがって 絶対は 非経験です。  ▲ (アウグスティヌス) ~~~~~~~~~~~~  たしかに時間的なものと永遠的なものの違いは次の点にある。  時間的なものはそれを手にする前にはとても大切に思われる。  しかしいったんそれが手に入ると 値打ちがなくなる。  永遠だけが真実の確かな住み処である人にとって 時間的なものはたましいを満たしてくれないからである。  ところが永遠的なものはそれを獲得しようと願っていたときよりも ひとたび獲得すると 以前よりもいっそう熱烈に愛するものとなる。  (アウグスティヌス:クリスチア二スムのおしえ 1・38)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《絶対=非経験=無限=永遠》は たしかに表象し得ないことですから 無いと言えば無いですし そもそも根拠もありません。ただのナゾであるだけではなくはっきりと無根拠です。  これをわれわれ日本人も 《かみ》と言って表わしてきたのではないでしょうか? やほよろづの神々は その絶対なる《かみ》が仮りにみづからを表わした分身のすがたなのではないでしょうか?  表象し得ないナゾですが このように仮りに言葉で表わしたなら それとして概念となります。  この《絶対》という概念を ふつうに日常に使えるように知るための《たとえ》は ないものでしょうか?   いくつかの視点からのご見解ともども おしえてください。

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  • amaguappa
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回答No.8

《絶対=無限=永遠》は、経験の内側でしょう。 経験の二重構造であり、潜在的な形式の〈非在〉にあるにせよ、非経験ではないでしょう。 時間的な経験において、脱時間的に、流れるに対してむしろ開く運動があり、 それは、経験の時間的な運動である側面と切り離して考えられません。 このことは、エゾテリックな文脈では観るという経験に属し、 wisdom の本質がvideo, virtual にあるというインド・ヨーロッパ語族の文化背景を持っています。 運動の経験にゆだねられた肉体である人が、その経験的にしかない知覚をとおして、 叡智に触れる仕組みを考えることになります。 以上、ご質問の半分についてでしたが、残り半分の日本の八百万の神については、 事情は違うのではないかと思います。 日本の神は民俗神話で、創造神にはじまる伝承形式の語りですが、 農耕民族らしく、太陽、清水をよく反映しています。 これは瞑想的であるよりは、じつによく目に映っているという様態です。 それが政治に役立つと判断されたところもあるでしょう。 叡智の光輝というのは、大陸の風土から生まれたものだと思います。 これが、日本に入ってくるのは、インドから中国をとおして、仏教においてです。 ソフィですね。 の世界、のほうは読書したことがないのでわたしは沈黙していますが、 自我のありかたが、インド・ヨーロッパやセム・ハムとはずいぶん違って、 ソフィの世界の乖離的対峙が要らなかった日本人であろうと思います。 ドラスティックな話に落とせば、切実に、食べ物や空き時間の違いじゃないでしょうか。 ブラジュロンヌさんがアースというはたらきをなさるときに、 なびきなびき傾き傾きしてあげくに文句を垂れる....のを目にいたしますが、 これも、wisdom の備えうる先見、慧眼、透視をコロンブスのごとき叡智で働かせて 時間をかけず〈垂直に〉立てる、ということをなさらないのは、日本人的かもしれません。 仏教やとりわけ禅から取り入れるもののひとつは、この垂直思考の東洋的方法だと思います。 経験をとおして経験的知に触れることは、たくさんの知覚と認知と概念を織りあげることですが、 経験をとおして叡智の光輝に触れることは、二重構造の垂直的経験であると思います。 たぶん或る程度は同じ内容を指して、非経験と呼んでおられるかと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 あまがっぱさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  《絶対=無限=永遠》は、経験の内側でしょう。  経験の二重構造であり、潜在的な形式の〈非在〉にあるにせよ、非経験ではないでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ おっしゃるとおりであると言いたいところですが ここは げんみつに定義します。  ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~   1. ひとは永遠ではないにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。   2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。   3. ですから ひとつに《ことばそして概念》としては     ★ 《絶対=無限=永遠》は、経験の内側でしょう。   4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由でありゆるされています。信教・良心の自由ないし表現の自由という公理であるようです。   5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の領域であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。   6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は    ★ 経験の二重構造    ☆ として――あくまでそういう仮りのすがたとしてでしょうが―― 現われている。こうなります。すなわち 《無根拠で非在なる非経験》が 主観の内なる経験世界に 《定義としてのまぼろし》と《仮りにでも姿かたちを表わしたその現実》との《二重構造》を呈しています。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このあとにでしたら いわゆる《神秘思想》のこともじゅうぶん飲み込めます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  時間的な経験において、脱時間的に、流れるに対してむしろ開く運動があり、  それは、経験の時間的な運動である側面と切り離して考えられません。  このことは、エゾテリックな文脈では観るという経験に属し、  wisdom の本質がvideo, virtual にあるというインド・ヨーロッパ語族の文化背景を持っています。  運動の経験にゆだねられた肉体である人が、その経験的にしかない知覚をとおして、  叡智に触れる仕組みを考えることになります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 言いかえると ふつうの生活日常におけるいわゆる《神体験》もあり得ると考えます。あるいは日本人の《ひらめき》でもよいかと考えます。いえ 要するに誰れにでも あくまで《主観にあっては》 それこそ非経験体験(?)は 自由であり すべては良心と確信のもとにゆるされています。  ということの意味は じつは  ★ 経験をとおして叡智の光輝に触れることは、二重構造の垂直的経験であると思います。  ☆ なる事件を あくまで・どこまでも 《わたし〔の主観〕のうちに起きること》と限定して定義することだと考えます。  さらにさらに もしこの《主観の内における非存在の現在(遍在)》なる垂直的二重構造が――想定として――ともに受け容れられる現実であるとすれば いわゆるシントウも じつは同じ世界を共有していると帰結されるはずなのです。  ○ ムスヒの神:生(む)す・蒸す‐ひ(霊)  ☆ という例で説明できると思います。《生す》は 経験事象ですが それは《目に見えないヒ(霊)》の仮りの現われだと見ていないでしょうか? ただしもっとも この《ヒ(霊)》――あるいは《ミ(霊)・チ(霊)》もあるようですが――も すでに経験現象の次元に降りて来ていると捉えられてしまう実際もあったようですが。  ひとことですが わたしが《切れる》のは――言い訳ですが――相手がすでに切れたのを見て 鏡面理論を実行しています。つまり《文句を言い返したりののしりの言葉を言い放ったりする》のは これもあれも《アース役の延長》にあります。つまり そういうかたちで 対話が切れていないのです。  そうでなく道徳規範そのままに実行しているならば 相手は そこでほんとうにわたしが《切れた》もしくはわたしにでも《見放された》と思うことでしょう。つまり そういう事態になるとき相手は もう対抗できないということをうすうす気づいているのだと考えます。それでも《名誉・体面》が捨てられないでいます。  ソフィーの世界はわたしも読んでいません。  やや断定調になってしまったようです。

bragelonne
質問者

補足

 次の箇所をめぐって 覚え書きです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ソフィですね。  の世界、のほうは読書したことがないのでわたしは沈黙していますが、  自我のありかたが、インド・ヨーロッパやセム・ハムとはずいぶん違って、  ソフィの世界の乖離的対峙が要らなかった日本人であろうと思います。  ドラスティックな話に落とせば、切実に、食べ物や空き時間の違いじゃないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いま 13日午後4時ごろです。この時点で――《沈黙している》をわたしはつづけるのですが―― 《それ》を読んだ感想としては いっちゃっていると思いました。ただし けっきょく口先だけのことなのかも知れません。そうとも思われます。  これだけです。  最後の一文   ★ ドラスティックな話に落とせば、切実に、食べ物や空き時間の違いじゃないでしょうか。  ☆ がよく飲み込めていなかったという思いもあります。《食べ物や空き時間の違い》というのが いまひとつピンと来ていない次第です。  不一にて。

その他の回答 (44)

  • jinseiwalk
  • ベストアンサー率23% (372/1603)
回答No.35

東洋ではこの絶対即無限即永遠・・・を「法」と言い、擬人化して「仏」と言ってきました。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 法  ☆ ダルマですよね? これは 宇宙の原理としてのブラフマンであるなら 《絶対即無限即永遠・・・》のことでしょうが ブディズムでは 正反対なのでしょうね。  ○ 諸法無我  ☆ ですから。ブラフマン(梵)とアートマン(我)との梵我一如というときの《我》について 無我ないし非我と言っていますから。  その同じ諸法無我に立つなら  ★ 仏   ☆ もあくまで時間的で限りがありうつろいゆく存在が 或る程度において学習や修行や実践を経てそこに到った境地を言うのでしょう。つまり 《絶対》ではありません。  ただし確かに ブッダのあとの人びとが この《仏性》を想定して 《絶対》ないしブラフマンに相当する概念としたかも知れません。本覚と言ったりしますから。  まとめて言って ブッダにおいては すべてのものごと(諸法)はうつろいゆくものであり それ自体で独立している存在ではない(無我)。そうして 《仏性》は 潜在的に展望されていたかも知れないが 《絶対》として想定するなら 《無我》と矛盾するというかたちになっていたはずです。  ブッダを葬って あたらしい思想として言うのでしたら たぶん おっしゃるようなことなのでしょう。  と考えます。

回答No.34

 実は私も同じように、欧米人のいう絶対とかInfiniteとか、そういうものの捉えかたについて、勉強していきたいのです。  だからここに訪問申し上げて居るのです。シンボルが突然変わりましたね。変えたのか、代わったのか。

bragelonne
質問者

お礼

 シンボルは ニュウトラルさんへのおわびのしるしです。  ★  実は私も同じように、欧米人のいう絶対とかInfiniteとか、そういうものの捉えかたについて、勉強していきたいのです。  ☆ という弁明がつづくあいだは 雨模様でしょう。  なんでわたしがこんなお守(も)りをしなければならないのでしょう。  やがてまた台風が来るきざしでしょうか。

回答No.33

   eternal や絶対とは。   所詮はどうしても抽象的であらざるをえない。これについてどう手掛かりをもてるか。   というご質問として理解しました。   それで私なりの内心のことを打ち明けました。少しでもお役に立つだろうかと存じまして。   抽象的なものは言語的にも具象性が確保しにくい。   最後はsimplicityな自己の心性の涵養に行き着くかと存じます。   バベルで人々が人間の知識や論理で天に届こうとしたが、無理であった。   天界というところから、複数のアプリオリ・カテを引き寄せ、言語的知の中でさ迷うことになった。   人間という基本存在のsimplicityなる心性は心がけたいと存じます。   私の口調が強制的に聞こえるとしたら、まことに残念です。   そのようなつもりはありません。説得するつもりもありません。   蘆花を進んでいくと、波風がないという情況から無に行き着きます。   そして何にも囲まれていない、存在者が無としております。   そういうのをことば表現するとなんというのでしょうね。

bragelonne
質問者

お礼

 草むらからいきなり襲うのではないだけ ましですね。  まださほど遠からざる昔に信長も敵のどくろから酒を飲んでいましたからね。  バベルの塔は 塔をつくることがわるいことだとはわたしは解釈しません。  科学を発達させて得られる研究開発の成果は 人びとの生活のために活用していけばいいのです。  名誉もこれこれの努力をおこなったその成果がこれこれだという達成感は きわめてふつうの感情です。それにとどめれば何の問題もありません。  塔であろうが宇宙船であろうが 人間と社会のために役立つものであれば そこに自然と人間能力のめぐみに畏れつつ わたしたち人間が大いに自由に享受して行っていいのです。  自分の心情に合うものでなければゆるさんというのは いかがなものでしょう。  なんでわたしがこんな分かり切ったことを言い続けなければならないのでしょう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  私の口調が強制的に聞こえるとしたら、まことに残念です。  そのようなつもりはありません。説得するつもりもありません。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この言い草がつづくかぎり こころはひねくれていると見てまちがいはないでしょう。なぜ否定しなければならないのでしょう。  もしわたしの挑発としての語りかけが 根も葉もない話だとすれば 怒るのがふつうの人間です。わだかまりがあるから 怒れないのです。  これが 人間というものです。そのシンプルな存在のあり方です。  へそが折れて曲がって曲がって折れて とぐろを巻いているのではないですか。  と安寧のミサイルをわたしは撃ち込みつづけます。ひとえにわたしの自己防衛のためです。

回答No.32

 私は意見を人に強制されることも、することもしてこなかったし、したいとも思いません。  みんなと同じである必要も、希望も持っていません。同調してもらいたいとも思いません。  何かが同じとか、仲間が居るなんて事で少しも自分に自信ももちませんし、自分ひとりだからといって少しも自信に影響を持ちません。  正しいことを考え、正しいことを思う。それだけなんです。  ましては自分の心情も信条も強制なんてする気持ちは全くありません。私に強制しようとしても強制されません。  そんな質問を出さなければいけなかったのですね。bragelonneさんに醸成させてしまった情況が。  なんか時々そうなるようですね。

bragelonne
質問者

お礼

 健忘症。  

回答No.31

 #30  変換違い  “自分に自身がないものでもないし、”⇒  “自分に自信がないものでもないし、”

回答No.30

 bragelonneさん  #29かな。  私のここでの見解の吐露がbragelonneさんの新しい質問、“人に心情を押し付ける人”へとなっているなんて思いもしませんでした。  自分の思うことをただ投稿しただけで、心情ではなく考えることでした。  考えることであれ、心情であれ、私はbragelonneさんにも、どなたにもそれらを押し付けたくもないし、おしつけていないのです。第一心情なんて押し付けられませんよ。  私は自分の考えや思いを人に押し付けるほど、自分に自身がないものでもないし、主体性がないものでもありません。  ところで、  29での“いいえ お心を汲むことはいたしかねます。”と“三年の重み”って何ですか?  理解不能です。  三年って何ですか。年齢ですか?貴方は72を過ぎて私をそのようにいうのですか?  そう私はあなたより確か年齢はうえだったと記憶しております。    袂がどうのですから、ねぇ。不思議な話で、今まで一度も袂が一緒だとは思っていませんよ。  どなた様とも。

bragelonne
質問者

お礼

 ☆☆ 三年の重み  ☆ 初めっから――つまり三年ほど前から――わたしの質問への投稿は 押しつけ回答でした。  そのほかは 詳述の必要がないとつたえます。分からないとおかしい。

回答No.29

 #24です。  bragelonneさん、補足欄でのお講義に感謝いたします。 指示人称や主格、動詞などの複数と単数に拘るのは、ヨーロッパ系の語族なのでしょうかね。今回のお講義でも単数に一人称を複数の指示で表示するお話がありますね。私達も単複は相互に入り混じり、一人称も謙譲的に複数表示することがありますね。 【・・・大事な問い求めに対して なぜ足を引っ張ることばかりをおやりになるのか。】  博学なbragelonneさんに私が何かをいうことは無用かも知れませんが、なんか絶対ってことばって、俺達のは絶対だ。  それでないものを尊崇していても、俺達の絶対ってお前達にも絶対なんだぞ、っていう話に繋がりかねませんよね。  欧米の方々がいう言葉、この絶対っていう言葉にはそういう響きがどこかにありませんでしょうか  勿論、私も何か絶対という存在を感じるし、前提にしているんですよ。  この言葉って、使い方次第、使う場面次第、使う人次第なのでしょうね。  (実は私の場合、押し切り、強制することをよくやってきて、多くの友人に顰蹙をかわれて居ます。   それで、自分の内省として、そういう超越的存在者の存在を観(み)、思う事は大事ですが、外部的にそれを主張したり表明するのは注意が必要でしょうね。   こんなことを小学校とかの古い友人が聞いたら、“おぅ?お前ぇいつからそんな分るようになったんだ?”なんていわれますでしょう。)  要するに欧米人などの出してくる絶対者って、私達もおぅ絶対者!として受けることは受ける、その内部的観念内容や受け入れ方は、心性次第ですよね。  そんなに固執し重要キーワードなんだ、じゃぁ大事だ。で一所懸命おんなじ思いにはなれなくても、同感するまでではないでしょうか。  白鳥とか蘆花とかいろいろ出しましたが、これはこの絶対者の観念とは無論異なるでしょう。  ただとことん希薄、無・超形象を推し進めると、その先にそれらしいものもありうるかも知れない、という提案としてbragelonneさんのお目を煩わせたということです。  彼らがいう絶対者はそういうアクセスやアプローチでもないことは理解していますが、私が実践的に日常地続き的に思ったり、此岸の突端が蘆花であったり白鳥であったりする、ということです。  ご質問に対して、私としては絶対者をこの方向に尊崇しています、ってな感じでした。  欧米人って、こういう絶対者存在への思いの他面、個人と個別性というのも傾向として私達より強力かなと思います。  そして個人の物理的生物的命にことも私達より強力に思っているようですね。  いろいろ考えさせて頂きありがとう御座いました。  bragelonneさんの足をひっぱるつもりはないんですよ。  私も欧米の書物での絶対者という言葉にしんどい思いを持ちまして、bragelonneさんと同じように何とかしたいと思っているのです。  そしてそれとは離れて、私は自分の“絶対者イメージ”のために、こんなことを考えている、とうことでご協力したいと存じました。  意のあるところが伝わらなかったようですね。私は意地悪なことをbragelonneさんに思っていない事をどうかご理解ください。

bragelonne
質問者

お礼

 いいえ お心を汲むことはいたしかねます。  三年の重みです。  もし西欧経由の《絶対》概念とつきあうことができないというのであれば ひとつに思想としての鎖国政策であると見なしますし もうひとつに哲学(生活態度の練り直し)として弱い――あるいは 弱くてよいのだという開き直り――ということを意味するとやはり見なします。  そこに 人間の心を見出すことは わたしにとってはありません。  いつまでも――ゆくゆくは――自分の心情を押しつけようとしている態度でしかないと見なします。  たもとを分かちます。

  • LTCM1998
  • ベストアンサー率31% (238/747)
回答No.28

>天の国と地上の国とは 互いに混同されるくらいに入り組み組み合わさっていて その境界は決してここだとか このように線引きをすればよいのだとかいうふうには 明らかではない。 宗教学はまったくの専門外ですが,卑近な例で言えば「お湯と水の境目はどこか」というのに加えて,よく混ざってもいない“湯船”(下のほうが水…最近はあまりないですが)を想像すればいいのでしょうか. となると,「定義が曖昧である」というしかないでしょう. 高木貞治が言っているのは,命題がはっきりしていれば,可能・不可能の結論は出せるけれども,明確でない命題についてはそうはいかない,ということです. >その《絶対=永遠=無限=非経験》をどうすれば腑に落ちるように分かるようになるか。 数論に限る必要はないでしょう.私自身,専門は数論ではありません(確率論および統計学). 「無限」と「非経験」の間にあるイコールが,高校数学までのところでも怪しいのでは?と思っています.だからこそ,この主張をされるのであれば,そのために前掲の本などで,ご自分の中に知識を取り込んで,その上で考えていただければと思うのです. 「思いて学ばざれば即ちなんとか」と論語にもあったと思います. #21お礼欄 >0.999999… だとか何だとかは 可能無限だろうが実無限だろうが 0 と 1 との間に存在している。つまり経験世界に属している。 それで経験世界と言うならば,0.9999…の先を見たことがあるか?という問いになります. あるいは,生活空間のそこらに円がありますね,コップでもお皿でも,多少いびつかもしれませんが,円筒形であったり円であったりします. そうすると,円周率πが出てくるわけですが,3.14159265358979……の最後を見ることはできません.コンピュータを使って膨大な桁まで迫っておりますが,割り切れるものではないことは数学上証明されています.完璧な答えが出ることはありえない.(絶対不可能) また,A4の用紙をA3に拡大コピーするのは,√2倍です(面積なので単純にそれぞれの辺を2倍すると4倍になってしまう).この√2も,1.4142……と規則性もなく続くことが分かっています. とすると,1から4までの間には,思いつくだけでも√2,√3,√5,√7,π,√10,√11,……面倒なので打ち切りますが,これだけの「先の見えない数」があるわけです. √2やπの真の値を見たものがこれまでにいるか?と言えばノーです. 一時期叩かれた「およそ3」であろうと,3.14であろうと,真の値は分からないまま近似値を使っています. すると,質問者さんの文脈でいえば,「非経験」になりませんか? デデキントの「切断」は,ありふれた数の考えを問い直すものですので,一度読んでください. 言っていることは決して難しくありません. 無限集合についても,前掲の本が分かりやすいはずです. 永遠=無限も,数学から見るとイコールが怪しくなります. 例題を出しましょう. 「高さ1メートルの1本の木があります.この木ははじめの1年で1/2メートル(50センチ),次の1年で1/4メートル(25センチ)と伸びていきます.こうして,この木は毎年,前の年に伸びた半分の高さだけ伸びていきます. (1)この木は何年たっても,決して2メートルには達しないことを示しなさい.」 (志賀浩二『中高一貫数学コース 数学1』) 要は,高校数学でいう「収束」ですね. どんなに小さくても無限回数足すのだからいつかは無限の高さになる,ではないのです.

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 高木貞治が言っているのは,命題がはっきりしていれば,可能・不可能の結論は出せるけれども,明確でない命題についてはそうはいかない,ということです.  ☆ 質問者の問い求めているのは 《意味がはっきりしていない〈絶対や永遠や無限といった非経験の領域〉について どう説明するのがよいか》です。  《明確でない命題》について 無理にでも 普遍的な定義を持てるようにしましょう です。  高木貞治の提起する問題は 別の質問としてやってください。  ごめんなさい。つかれました。

  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.27

また忘れてしまった・・ こちら ○ 0.999999… だとか何だとかは 可能無限だろうが実無限だろうが 0 と 1 との間に存在している。つまり経験世界に属している。  ○ あるいはだから その数がひとつ特定できたとしたなら その数に一を加えることも出来る。つまりその一定の数量よりも大きいという状態が存在すると言える。ならば 比べることができるゆえに 相対の世界であり経験世界である。  ○ 《無限》は この経験世界を超えている。  ☆ こう言おうとしているのみです。  ですが、その通りだなーと思いました。あまりにその通りと思いすぎたので、スルーしてしまい済みません。 先にも書いたとおり、把握を先行させて論理的に考えるなら、全くその通りと思いました。 というか有限と無限は僕も最近のメインテーマなので、こういう話はなじみがあります。 有限であるとは、比較可能だと言うこと。 無限とは、限り、つまり境界線がないため、社会常識でいう大きさが存在しないので、比較不可能であること。 大きさを知ることができないということは把握ができないと言うことで、それはこの世ならざるものだ、と言うこと、その通りだと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 いやあ ですから この《絶対》ということを――けっきょく一般には 概念としてですが―― 一般に共有することができるためには どのように説明するのがよいか。この一点で あれこれ考えています。  たぶんもう必要でないというひとはいないと思います。  あとは説明の仕方です。  この質問ではあまり触れていませんが これはけっきょく人の生活態度として見直すなら 信仰という非思考の場における心の志向性(明けや伸び)のことにそのまま移行して 問われる主題であるはずです。すなわち  ★ というか有限と無限は僕も最近のメインテーマなので、こういう話はなじみがあります。  ☆ 《有限》なるわたしという人間が 《無限》なる神と 非思考の場で対面する。  そこに生まれるのが 《信じる》という行為である。  《信じる》は 神をまぼろしながら受け容れる行為であり その後の持続としての動態である。  こういった切り口の主題でもあると考えます。

  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.26

ブラジェロンさんの無限に対する基礎的姿勢は、「把握」にあるように見えます。違うかも知れませんが。 数学の基本姿勢は、「認識」です。ありのままです。なので、把握も感性も両方受入れて、作られてます。最後はきっちり論理でまとめてきますが。 把握のみが唯一絶対でもなく主導権を撮るわけでもありませんし。そういう視点です。 僕の基本姿勢は感覚なので、むしろ実無限より、得体が知れない可能無限の視点の方が好きです。 可能無限の主観的スタンスは、数学というよりむしろ、日常に生きる人間の生活感覚に近いので、実生活への応用がやりやすい、と僕は思ってます。 無限なんてわからない、というのが普通の話ですし。   こんなとこでしょうか? 全体的に、前も書いたけど、途中でどうも場違いなのに気付いたので、どの程度書くか迷います。 おわり。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  前にも書きましたけれど 《可能無限》にしろ《実無限》にしろ 経験世界に属するものは 絶対としての無限ではないので ひとからげにします ここでは わたしは。  非経験の領域をどう説明するのが よいか。こういう問題意識です。数学もそのために活用します。  絶対を説明するとき 理性によるのも感性によるのもあるいは両方によるのも それは問題ありません。自由です。

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     ・・・思います。そのことをめぐって 問います。  おそらく互いのやり取りをつうじて 《絶対》は 互いのあいだに浮彫りになる。そういった問い求めのすがたが想い描かれますが そうであるかどうかは 発進してみなければ分かりません。  すでに幾度も問うていますが そういう意味でさらにすすめたいと考えました。  たたき台です。  1. ひとは おのれの存在が永遠ではないにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。  1-1.  その意味で 《神》ということばも――そして《無い神》も―― 用います。  2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。  2-1. 《経験世界を超えた》という意味は 経験事象における因果関係から自由だという意味です。  3. ですから 不思議なことにひとつの逆説のごとくに 《ことばそして概念》としては 《絶対=無限=永遠》は、経験世界に属します。  3-1. 経験世界を超えた《非経験の場》が 経験世界の内側において用いられています。  4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由であり これは ゆるされています。  4-1. 良心・信教の自由あるいは表現の自由という公理であるようです。  5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の場であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。  5-1. 存在するか存在しないか どちらとも人間にとっては分からない場であり 場としてのチカラだと思われます。  5-2. ゆえに 神としては 有神論か無神論かは どちらも――自由に――あり得て 互いに同等ないわゆる信仰の立ち場です。  6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は 二重構造となって過程しています。  6-1. 《絶対》の二重構造:   ・ 《非経験の場》そのものとしてのわが心の庭〔なる神〕:無根拠   ・ 《神》という言葉としてまた概念として用いられる《絶対》:因果       関係などの合理的な根拠を科学的に明らかにする場合に       すら用いられることがある。        たとえとして都合がよいのだと思われる。        6-2. すなわち 《無根拠で非在なる非経験の場》が 主観の内なる経験世界に 《定義としてのまぼろし(非思考の庭)》と《仮りにでも姿かたちを表わしたその現実(精神と思考の緑野ないし密林)》との《二重構造》を呈しています。     以上です。ご批判をつうじて精緻なものにして行きたいと考えます。  ちなみに 《絶対》をめぐる次のような文章もありますので ご紹介します。  ● (司馬遼太郎:絶対について) ~~~~~~~~  近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。  ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・  むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。  しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。  絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。  ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞)    http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html  ~~~~~~~~~~~~~~

  • 《絶対》という概念でなぜ共通の理解が得られ難いのか

     ふたたびの問いです。  おそらく互いのやり取りをつうじて 《絶対》は 互いのあいだに浮彫りになる。そういった問い求めのすがたを想い描きつつのぞみを持ちつつ 執拗に問います。  たたき台を示します。  1. ひとは おのれの存在が永遠ではなく有限で相対的であるにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。  1-1.  その意味で 《神》ということばも――そして同じく《無い神》も―― 用います。  2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。  2-1. 《経験世界を超えた》という意味は 経験事象における因果関係から自由だという意味です。ひとり満ち足りている存在。他のいかなるものにも依存しない存在。  3. ですから 不思議なことにひとつの逆説のごとくに 《ことば》そして《概念》としては 《絶対=無限=永遠》は、経験世界に属します。  3-1. 経験世界を超えた《非経験の場》が 言葉として表現されたならそれは 経験世界の内側において用いられています。  4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由であり これは ゆるされています。一般に梵我一如なる類型。  4-1. 良心・信教の自由あるいは表現の自由という公理であるようです。  5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の場であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。  5-1. 存在するか存在しないか どちらとも人間にとっては分からない場であり 場としてのチカラだと思われます。  5-2. ゆえに 神としては 有神論か無神論かは どちらも――自由に――あり得て 互いに同等ないわゆる信仰の立ち場です。  6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は 二重構造となって過程しています。  6-1. 《絶対》の――想定じょうの――二重構造:   ○ 《非経験の場》を受け容れたわが心なる非思考の庭:      : これは 無根拠である。      : これは 信じる(=ただ受け容れる)ものである。      : そもそも《絶対》を受け容れることが出来るかどうか      についての疑問すらが起きる。      : 《神》とも《無い神》とも言える。         ○ 《神》という言葉としてまた概念として用いられる《絶対》:      : すでに《非思考の庭》から《思考の緑野(また感性の      原野)》に移行している。      : 因果関係などの合理的な根拠を科学的に明らかに      する場合にすら用いられることがある。《真理》として。      : それは 《絶対》の仮りの像(すがた)である。つまり      《正解としての神本体をめぐって引かれた補助線》なり。        6-2. すなわち 《無根拠で非在なる非経験の場》が 主観の内なる経験世界に    《定義としてのまぼろし(非思考の庭)》  を成らせていると想定され そして    《その庭が 活きた信仰として動態であり その過程にあって仮りにでも姿かたちを表わしたと考えられるその現実(精神と身体 または思考の緑野および原生林)の活動》  が捉えられ これらふたつの領域から成る《二重構造》を呈しています。     以上です。ご批判をつうじて精緻なものにして行きたいと考えます。  なおちなみに 《絶対》をめぐる次のような文章もありますので ご紹介します。  ● (司馬遼太郎:絶対について) ~~~~~~~~  近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。  ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・  むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。  しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。  絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。  ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞)    http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html  ~~~~~~~~~~~~~~

  • ブディズムの再生はあるか。

     ブディズムの再生はあるか。  ( a ) 《信仰》という一人ひとりの動態においてしかないのではないか?  ( b ) 《神を信じない》つまり《無い神を信じる》つまり一般に《信じないと信じる》という類型の信仰を持つと確認することから 再出発することではないか?  ( c ) なぜなら マハーワイローチャナ(大日如来)やアミターユス(阿弥陀如来)とそれぞれ名づけられた《神とその信仰》が やはり類型的に 上の無神論なる信仰と同等にあり得ていると考えられるから。    *  ( d ) 有神論および無神論それぞれとしての信仰を 類型的にまとめてみます。互いに同等であると見るというものです。  |非経験の場|経験世界の分身|信仰の形(非思考の庭)|  ○ 神道  |かみ|かみがみ|もののあはれを知る;きよらかなおそれ|  ○ ヒンドゥーイズム  |ブラフマン|神々|アートマンなるわれ|  ○ ブディズム  |空|神々|如来蔵(信じないと信じる)|  |マハーワイローチャナ|マンダラ|秘密なるわざ|  |アミターユス|無し|絶対他力;自然法爾|  ○ 聖書  |ヤフヱフ|無し|名を受け容れる|  |キリスト|無し|名を受け容れる|  |アッラーフ|無し|クルアーンに拠る|    ○ 西欧古典古代  |宇宙霊魂;世界霊魂|神々|《わたし》|      *  ( e ) 《神》とは何か? また《信じる》とは どういう経験行為か? を問うことにもなるかと思いますが。  ( f ) ブディズムは もし死んだのなら 葬送の儀礼をしておくとよいと考えられますか?

  • 一般および個別絶対性理論 ならびに特殊絶対性仮説

     一般および個別絶対性理論 ならびに特殊絶対性仮説または宗教の絶対的批判  1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》なる主観を外から否定も肯定も成し得ないというときその神観としての主観を言う。〔(5)に見るごとく 神は 非知ゆえである〕。  2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》なる主観は 外へ出かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念としてのみ扱った場合に限る。  3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けて心に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。または 神なる概念の弄びである。宗教は 存在理由が無い。  4. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超え因果関係から自由な場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。  5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。   経験事象     可知       既知(間違いだったと分かることもあるが知ったとする)       未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)     不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)   非経験の場     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。   【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・良心   -------------------------   【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト    【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス  7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。類型として梵我一如とよぶとよい。または 霊霊一如である。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  8. したがって 非経験の場 ないし 非知なる神は そのまま普遍神である。名が違うのみである。また それら有神論に対して 《無い神》と名づける無神論も いづれも普遍神についての互いに同等の説明である。  ――これが 一般絶対性である。  9. 個別絶対性とは ひとりの人の信仰 すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐっての説明となる。  10. というのは 普遍神をよぶ名前が異なっているだけではなく 個人ごとの信仰が――〔非〕対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。  11. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。また それとして とうとばれる。  12. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカカハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまりは 一般絶対性理論――からみちびかれる。  13. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》が――生身の人間にとってゆえ――多様性を持つと見られるとき 特殊絶対性として捉えられる。  14. ちなみに 信仰から得られた観想を 倫理規範としまた世界観としたのは 宗教のオシヘである。オシヘは すでに思想である。  15. ところが もし宗教がこのオシヘをかかげ 無条件に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くなら いまの絶対性理論の外にある。オシヘは 思考の緑野の中におさまり 《考える》ものである。《信じる》とは 何の関係もない。神論としてアウトである。  ☆ ご見解をどうぞ。  

  • 宗教批判:一般および個別絶対性理論&特殊絶対性仮説

    0. 神は 人間がいかなる座標を設定して捉えようとしても 必ずその座標や場を超えている。ゆえに 神は 想定するというかたちを哲学は採らざるを得ない。 1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》と言い張る主観を 傍から否定も肯定も成し得ないというとき その神観としての主観を言っている。 1-1. 独り善がりであっても 特殊に絶対性だと見なすことになる。これは・そしてこれが むしろ 信教・良心の自由に見合っている。 2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》と言う主観は 主観の外へ出かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念としてのみ扱った場合に限る。つまり 人間がこしらえたということだ。 2-1. 概念のみの言葉をもって主観の外に出かけたならば――すでに その言葉≒《経験事象に対応する概念》にもとづくことになるからには―― 経験的な思考や想像の産物としての《観念の神》でしかない。 2-2. それは 或る種の信念を形成するかも知れないが 《神》としては 実質的な意味を成さない。成すかどうかが どこまで行っても 人間には決められないのである。⇒[#0] 3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けておのが心に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。主観の外に出かけているから。 3-1. 特殊絶対性は 外出無用である。つまり 神なる概念の弄びにならざるを得ない。 3-2. 組織宗教に 存在理由は無い。主観のおままごとは せいぜい一個人の内面にとどめなさい。 4. 《絶対》とは 経験事象としてのものごとが有るか無いかの問いを超えており 因果関係からまったく自由である場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。 5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。   経験事象(相対世界でありこれは経験合理性にて認識する)     可知(認識しうるものごと)       既知(間違いだったと分かることもあるが 知ったとする)       未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)     不可知(未知のうち知り得ないと証明し得たものごと。証明も間       違い得る)   非経験の場(絶対性)     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ        incomprehensible incomprehensibility ) 6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――無条件でわが心に受け容れたとき・つまり 信じたとき わが心には《非思考の庭》が成る。 6-1. ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。生きている間のその自覚の動態が 《庭》だ。 【 +α : 霊我】:信じる:非思考の庭:クレド (ヒラメキ/良心) ----------------------------------- 【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト (直観/呵責・恥ぢ)  【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス(直感/ヤマシサ反応) 7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロコスモス)との一体性として示される。類型として《梵我一如》とよぶとよい。または 《霊霊一如》である。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター);ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵);ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如    霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)    霊:われ(自然本性 +α )   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   I. タオイズム:道人一如    道:かみ    人:われ 8. したがって これら前項の霊性なる神はそれぞれ人間が 非経験の場・ないし非知なる神を それぞれの言語で名づけたものである。 8-1. 非知なる神は 不可変性において《普遍神》である。 8-2. また それら有神論に対して《無い神》としての無神論も 普遍神についての・互いにまったく差の見出せない同等の説明である。(神は人知を超え 経験世界の有る無しを超えている)。 9. これが 《一般絶対性》である。 10. 《個別絶対性》とは 人間一般ではなく 特定のひとりの人の信仰すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐって 一般絶対性をさらに説明する視点である。 11. というのは 普遍神を具体的によぶ名前が人によって異なっているだけではなく それぞれの信仰が――対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか・どう同じであるかが 人間には分からないからである。 11-1. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。 12. 目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。つまり 一般絶対性のもとに そのように具体性を帯びた姿を採っている。 12-1. 個人ごとの個別絶対性として 一般絶対性ないし普遍神は とうとばれるのだ。つまり――循環論法ながら―― 神とわれとのカカハリとしては 信教・良心の自由のもとにある。ここから あらゆる自己表現の自由が出る。 13. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカカハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまりは 一般絶対性理論――からみちびかれる。 14. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》が――生身の人間においてであるゆえ――多様性を持つと見られる。このとき 神の名の違いだけではなく その《関係のさらに具体的なあり方》が おのおの主観の内にあっては 《特殊絶対性》という側面を持つと捉えられる。 14-1. [12-1]に見たごとく 信教・良心の自由にもとづき その信仰なる動態についてさらになお自己表現するときの《表現の自由》ということになる。 14-2. 誰かが おれは現人神だと言ってもその表現までは だれも 否定も肯定も出来ない。 14-3. 特殊絶対性はそれぞれ神観なる主観として――内面にて〔のみ〕――持たれ得る。〔ダ・カーポ〕。          15. 信仰から得られたヒラメキないし観想を――その己れの神観としての自己表現からさらに外に出て――倫理規範として整序し・また宇宙観や世界観にまで展開したのが 宗教のオシヘである。 16. けれども ひとりの主観が内面においていだいた特殊絶対性としての神観から飛び出して来たオシヘというのは すでに人間の言葉で考え表現した《経験思想》である。 16-1. 神という言葉をまじえながらも 基本として人知なる思想なのだ。信じるではなく 考えるものと成ったことを意味する。 16-2. 一般にオシヘは 普遍神という正解をみちびくためにと人間が人間の言語を用いて引いた補助線である。どこまでも 指の先に指し示された正解にみちびかれるための補助線であり その《ゆび》である。 16-3. この《ゆび》を信じなさいと説くのが 宗教である。(オシへだけなら 中立)。 16-4. 人びとも 仏《教》を信じるとか・キリスト《教》を信じないとかという表現で捉えてしまって 平然としている。これは 哲学から見れば 無意味である。世界各地で起きている長い歴史を持つ集団痴呆現象なり。 17. オシヘは 相対的な経験思想であり 思考の緑野の中に完全におさまる。飽くまで《考える》ものである。《信じる》とは げんみつに言って何の関係もない。痴呆――思考停止――とよぶ所以である。 18. 重ねて言おう。神とわれとのタテの関係である神観としての主観(つまり 特殊絶対性)を われわれなるヨコの人間関係の世界に持って来てその倫理(つまり 善し悪しを意識した人間関係)や宇宙観として 自己増殖させたものが シュウキョウである。 18-1. 主観の外に出るとは 神とのタテの関係を 人間どうしのヨコの関係に移して 寝かすことである。 18-2. この寝技は 神論(一般および個別絶対性理論)としてアウトである。 18-3. このようなシュウキョウは 絶対性を知らない者の道楽かまたはただの商売である。  ☆ 添削をどうぞ。

  • 神について何故ひとは哲学しないのか?

     せめて神についての勘違いをただしておくことまでは出来るのではないか?  これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは いっぱんに教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力    にかかわっている。      これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般をけっきょくは    信じるというおかしなことになる。  C. オシエを信じるという間違い。   ――オシエは 人間の言葉で表わされている。ゆえに人間の身体=精神的    な能力とその行為成果であるに過ぎない。      やはり 精神主義的な人間信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思っている間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。想像力の    産物であるに過ぎない。人間のつくった神でしかなく いわゆる近代人の    《人間の能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見られるのではないか。理念や観念としての偶像(つまりアイドル)がそこら中に見られます。  偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしえ》を取ってみても それは それとても神の知恵についての仮りの表現でありそれとして観念の偶像であるのですから その偶像は偶像(仮りの表彰)として――扱えばまだしもいいのであって しかるに偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。        *  同じく神は 何でないか? について考えます。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《しんじる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《しんじる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の場に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神のハタラキにとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。あるいは そこにやどる。  この非経験の場が わが心なる非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。  これをそのまま受け容れたというその行為を《しんじる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。どちらも《しんじる》である。  8. 神は存在すると見ても存在しないと捉えても どちらも互いに同等の《信じる》行為である。  非思考の庭なるナゾを 思考の緑野においてその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の庭は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. ○ (ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《心の明け》というのは 心がいろんな名のあらゆる神に対してあるいは《無い神》に対しても閉じられていないことである。  10. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス アッラーフ ブラフマン アミターバ マハーワイローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。全体としての一である。  と言うより 神が人間のつけたその名によってそれぞれ違っているということがあり得ない。  11. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  12. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  13. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。  物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて非思考の庭から思考の緑野に降りて出て来ている。この仮りの代理の場をとおして 神のナゾを望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。    14. だからオシエは 思考の緑野に属しており それが非思考の庭の神だということはあり得ない。なのに教義や宗教を信じるという言い方をする間違いが見られる。    15.エトセトラ。エトセトラ。  16. まとめて 神は何でないかまでは人間が明らかにしうるのではないだろうか。  さらなる探究へと 思いっきり自由なご批判をあおぎます。

  • 一般および個別絶対性理論 (神論です)

    一般および個別絶対性理論 ならびに 特殊絶対性仮説 または 宗教への絶対的批判 0. 神は 人間がいかなる座標を設定して捉えようとしても 必ずその座標や場を超えている。ゆえに 存在を想定してなお模索する。ご検証を。 0-1. 想定(アブダクション)に際して シューニャター(空)として規定することはできる。⇒7‐B。 1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》と言い張る主観を 傍から否定も肯定も成し得ないというとき その神観としての主観を言っている。 1-1. 独り善がりであっても 特殊に絶対性だと見なすことになる。これは・そしてこれが 信教・良心の自由に見合っている。 2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》と言う主観は 主観の外へ出かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念としてのみ扱った場合に限る。 2-1. 概念のみの言葉をもって主観の外に出かけたならば――すでに その言葉≒《経験事象に基本的に対応する概念》にもとづくことになるからには―― 思考や想像の産物としての《観念の神》でしかない。 2-2. それは 或る種の信念を形成するかも知れないが 《神》としては 実質的な意味を成さない。成すかどうかが どこまで行っても 人間には決められないのである。⇒(#0) 3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けておのが心に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。主観の外に出かけているから。 3-1. 特殊絶対性は 外出無用である。つまり 神なる概念の弄びにならざるを得ない。 3-2. 組織宗教に 存在理由は無い。主観のおままごとは せいぜい一個人の内面にとどめなさい。 4. 《絶対》とは 経験事象としてのものごとが有るか無いかの問いを超え ており 因果関係からまったく自由である場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。 5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。  経験事象(相対世界でありこれは経験合理性にて認識する)   可知(認識しうるものごと)     既知(間違いだったと分かることもあるが 知ったとする)     未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)   不可知(未知のうち知り得ないと証明し得たものごと。証明も間       違い得るが)  非経験の場(絶対性)   非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ) 6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――無条件でわが心に受け容れたとき・つまり 信じたとき わが心には《非思考の庭》が成る。 6-1. ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。生きている間のその自覚の動態が 《庭》だ。 【 +α : 霊我】:信じる:非思考の庭:クレド:(*ヒラメキ・**良心) --------------------------------- 【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト (*直観)  【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス(**ヤマシサ反応・恥ぢ) 7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロコスモス)との一体性として示される。類型として《梵我一如》とよぶとよい。または 《霊霊一如》である。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター);ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵);ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー)       / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如    霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)    霊:われ(自然本性 +α )   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   I. タオイズム:道人一如    道:かみ    人:われ 8. したがって これら前項の霊なる神はそれぞれ人間が 非経験の場・ないし非知なる神を それぞれの言語で名づけたものである。 8-1. 非知なる神は 不可変性において《普遍神》である。 8-2. また それら有神論に対して《無い神》としての無神論も 普遍神についての・互いにまったく差の見出せない同等の説明である。(神は人知を超え 経験世界の有る無しを超えている)。 9. これが 《一般絶対性》である。 10. 《個別絶対性》とは 人間一般ではなく 特定のひとりの人の信仰すなわち 《普遍神と個別なるわれとの関係》をめぐって 一般絶対性をさらに説明する視点である。 11. というのは 普遍神を具体的によぶ名前がひとによって異なっているだけではなく 個人ごとの信仰が――対象(非対象)である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。 11-1. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。 12. 目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。つまり 一般絶対性のもとに そのように具体性を帯びた姿を採っている。 12-1. 個人ごとの個別絶対性として 一般絶対性ないし普遍神は とうとばれるのだ。つまり――循環論法ながら―― 神とわれとのカカハリとしては 信教・良心の自由のもとにある。ここから あらゆる自己表現の自由が出る。 13. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカカハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまりは 一般絶対性理論――からみちびかれる。 14. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》が――生身の人間においてであるゆえ――多様性を持つと見られる。このとき 神の名の違いだけではなく その《関係のさらに具体的なあり方》が おのおの主観の内にあっては 《特殊絶対性》という側面を持つと捉えられる。 14-1. (12-1)に見たごとく 信教・良心の自由にもとづき その信仰なる動態についてさらになお自己表現するときの《表現の自由》ということになる。 14-2. 誰かが おれは現人神だと言ってもその表現までは だれも 否定も肯定も出来ない。 14-3. 特殊絶対性はそれぞれ神観なる主観として――内面にて〔のみ〕――持たれ得る。・・・〔ダ・カーポ〕。         * 15. 信仰から得られたヒラメキないし観想を――その己れの神観としての自己表現からさらに外に出て――倫理規範として整序し・また宇宙観や世界観にまで展開したのが 宗教のオシヘである。 16. けれども ひとりの主観が内面においていだいた特殊絶対性としての神観から飛び出して来たオシヘというのは すでに人間の言葉で考え表現した《思想》である。 16-1. 神という言葉をまじえながらも 基本として経験思想なのである。信じるではなく 考えるものと成ったことを意味する。 16-2. 一般に《オシヘ》は 普遍神という正解をみちびくためにと人間が人間の言語を用いて引いた補助線である。どこまでも 指の先に指し示された正解にみちびかれるための補助線であり その《ゆび》である。 16-3. この《ゆび》を信じなさいと説くのが 宗教である。 16-4. 人びとも 仏《教》を信じるとか・キリスト《教》を信じないとかという表現で捉えてしまって 平然としている。これは 哲学から見れば 無意味である。世界各地で起きている長い歴史を持つ集団痴呆現象なり。 17. オシヘは 相対的な経験思想であり 思考の緑野の中に完全におさまる。飽くまで 《考える》ものである。《信じる》とは げんみつに言って何の関係もない。痴呆――思考停止――とよぶ所以である。 18. 重ねて言おう。神とわれとのタテの関係である神観としての主観(つまり 特殊絶対性)を われわれなるヨコの人間関係の世界に持って来てその倫理(つまり 善し悪しを意識した人間関係)や宇宙観として 自己増殖させたものが シュウキョウである。 18-1. 主観の外に出るとは 神とのタテの関係を 人間どうしのヨコの関係に移して 寝かすことである。 18-2.シュウキョウは 寝技である。これは 神論(一般および個別絶対性理論)としてアウトである。 18-3. このようなシュウキョウは 絶対性を知らない者の道楽かまたはただの商売である。

  • 《神》は 補助線である。

     1. 時空間ないし世界という存在に――時間的にも考え方の上でも――先行するもの は あるか?  2. ない。つまり あるかどうか 人間には分からない。分かるか分からないかが分か らない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと――これを〈非知〉とよぶ――》は カミ という言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としての あり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。  5-1. 山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身である。分身も神ので あると言っても それぞれ《神の依り代》と呼ばれる補助線である。  6. 世界をつくったチカラが別にあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその 中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無 神論である。  8. このような《自然神 / 創造主神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分か らないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによ って(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉 で――けっきょく人間が――引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの神を意識するときにはおのれの内面に おいて この神と(つまりは 神という補助線についての己れの意識と)しばしば向き合 うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動 態としてあり得て―― 信仰とよばれる。  11-1. 信仰は 神を意識している限りで 人間のただの思念である。と同時に そ の神は もともと《非知なるナゾ》であるなら 人間のコギトを超えている。《非思考の庭》 として ひとの自然本性の内にあると想定される。  11-2. ゆえにしばしば人びとは このナゾのことを《霊》とも呼び 《アートマン(霊 我)》や《ブッダター(仏性)》や《アニマ・ムンディ(世界霊魂)》などとして呼びならわして いる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界のあり方を見ればそれはむしろ 神と して立てているナゾの内容とは――人間の持つ《のぞみ》という考え方において――対 立していることが少なくない。よってこの種の神を否定しようとする場合がある。むろん  無神論となる。  12-1. これは・これも 《無い神〔としての非知なるナゾ〕とわれとの関係》を内容と する信仰である。無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》 と証明しなければならない。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ 理由も必然性もどこにもない。非知なのであるから。風車に向かって突撃するようなも のである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・また人びとそれぞれわが心な る《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち 足りている。(と推測される)。  ご教授ください。

  • ゴータマ・ブッダは 世界一の詐欺師なり。

     1. 《空》を 神と見立てればよいものを あくまで人間の境地だと言い張った。  2. すなわち 《目覚めた(ブッダ)》状態としてであり 言ってみれば《神として》ではなく 《神の場に行き来できる存在》として にんげんなる《われ》にその境地があるのだと言い張った。  3. ブッダ状態としての《さとり》とは ここで あくまで《確率》として存在するというものである。言いかえると その存在についてもその状態についても ついぞ人が確定して認識しえず言葉によって表現しえない場なのだと。  4. 言いかえると ブッダよ あんたのさとりを 示せという疑いや要求に対しては あくまでシラを切る。《表現しえず》と。  さとったのなら 人びとに分かるように説明せよと言われても 沈黙をまもる。  人びとが それはこれこれの状態を言うのではないか? と尋ねた場合には いやいや さとりとは そんな生ぬるい境地などではないと答える。  では どうなのか? という問い返しには だんまりを決め込む。  5. したがって ブッダのさとりは 表現の問題におさまるかとさえ考えられる。  人びとに分かるように説明しえないならば そのさとりは インチキではないか? という問いに対しては いやいや われははるか昔からはるかこの先までブッダである。と言って聞かない。  説明が出来ていないではないか? という問いに対して いやいや われは その現場を取り押さえられても姦淫はしていないとどこまでも言い張るごとく ブッダなりと答える。ブッダはブッダなんだよおーんと。  ――このような《表現およびやり取りの問題》にすべてをおさめようというおそろしく決意の固い宗教家なのではないか?  6. 一方で 人びとの求道の心を引き出し ただし他方では さとりの証明にかんしては 量子を特定して示すことは出来ないというような論理で どこまでも逃げ しかもブッダ論をぶちつづける。      *  この質問は 下記の質問でのやり取りを承けています。   【Q:ブディズムの再生はあるか。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7563932.html  その趣旨説明から 次のくだりをふたたびかかげます。上の    1. 《空》を 神と見立てればよいものを・・・  について説明している箇所ですから。  ☆☆ (信仰の類型) ~~~~~  ( d ) 有神論および無神論それぞれとしての信仰を 類型的にまとめてみます。互いに同等であると見るというものです。  |非経験の場|経験世界の分身|信仰の形(非思考の庭)|  ○ 神道  |かみ|かみがみ|もののあはれを知る;きよらかなおそれ|  ○ ヒンドゥーイズム  |ブラフマン|神々|アートマンなるわれ|  ○ ブディズム  |空|神々|如来蔵(信じないと信じる)|  |マハーワイローチャナ|マンダラ|秘密なるわざ|  |アミターユス|無し|絶対他力;自然法爾|  ○ 聖書  |ヤフヱフ|無し|名を受け容れる|  |キリスト|無し|名を受け容れる|  |アッラーフ|無し|クルアーンに拠る|    ○ 西欧古典古代  |宇宙霊魂;世界霊魂|神々|《わたし》|  ~~~~~~~~~~  7. 有神論(たとえば 梵我一如)をしりぞけ それでも無神論〔という信仰〕の立ち場をも採らないならば その存在論・その人間の境地論は 《非思考の庭》としての信仰と 思考としての経験思想とのあいだで どっちつかずのままに終わる。というおそれが 大きいと思われる。  果たして どうか?

  • 生を意識すること。

     人間(生物)の肉体の全ての器官(手足、目、 口、耳、内臓等そし て脳細胞も)は意識を維持するための単なる道具ではないか、と思え てなりません。 意識とは実体がありませんが、この実体のない物のために肉体(個 体)が必要なのですが、他の手段でも良かったように思えます。 逆に固有の個体を維持(子孫を残し永遠の継続を求める)するための 道具として意識があるのでしょうか。   上記のように考えるときの”生”とは、そもそも何なのでしょう。 熟睡すると時間の観念が無くなりますが、これが永遠に続くのが 死とも思えます。しかし永遠とは時間の概念ですよね~。いつか その永遠は終わるのでしょうか。 ”絶対に、再び意識の始まりがないこと”とは、どうゆうことなのか想 像する事ができません。「時が過ぎ行く」とは人間だけが 持ってい意 識なのでしょうか?。