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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:輪廻と業の説は 無用ではないか)

輪廻と業の説は無用か

このQ&Aのポイント
  • 輪廻転生は同じDNAを持つ人がいなければあり得ない誤謬である
  • 意志行為が原因で縁を引き寄せ、一生涯を超えてはたらくことはあり得ない
  • 因果応報の説は人間の生まれてから死ぬまでの現実性を持つか

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noname#156094
noname#156094
回答No.36

還相についてですが・・・ 自らが受け取ったものを他者に振り向ける救済の行為か、或いは、そこにおいて生じる結果そのものを指すのか はたまた、そのどちらでも無い、作用を及ぼす働きが生じたという慈悲の具現化を指すのかどうか 或いはそれら全体を意味する事も可能性としてありましょう。 見方を変えれば、人が人にして仏の徳を伝えうるものなのかどうか、といった疑問にまで及ぶものです。 そして、この事に於ける論から実証への展開といったものは、果たして人の口から語られるべきものなのでしょうか。 主観的な範囲に留まる内容などは、否定的論法により一蹴されてしまうものと思われます。 また、下手な客観性といったものを持ち出せば、愚かだと決めつけられてしまうでしょう。 還相の利の面の純粋さを得る事、守る事は容易ではない感じがいたします。 私個人においての還相の行果として確かめられうるものは「祈り」です。 仏から頂いたものでありながらも、自らの能動的な慈悲心の発露としても感じ取れるものです。 この点については、ブラジェロンヌ様も既にご承知の事と存じます。 でなければ、私に書くようにとはおっしゃられなかったでしょう。 ついでながら、私が仏様にたいして逃れ得ぬ非というものを感じているものも、また還相の中にあります。 それは、受け止めているものの大きさに比しての行いというものを、常に小さく感じているからでもあります。 それでも尚、祈っている時には救われます。 信仰という主観の中に納まるものでありながらも、自らがおかれている現実の広がりを変えうる力を得られたと思い込む事ができるからです。 やはり私は弱いのでしょう。 でも祈りの本質は、祈りの度に祈る心を与えられている、ところにあるような気がしますし その新鮮さの中にあって、現実をより良く捉えてゆけるところにもあるとも思われます。 そんなところです。 あとは先生にお任せいたします。 それではお元気で。

bragelonne
質問者

お礼

 へたのすけさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。ここまでおつきあいいただきまして ありがとうございます。  さて 話が――と言いますか こころがと言うべきでしょうか――噛み合わさって なかなかたのしい対話でありました。どこかボケとツッコミの漫才でもあったでしょうか。  そうですね。わたしはいつも撞かれた鐘として響いて来ていましたが 相手のほうからも鳴り響いてくる音を聞くのは 正直なところしばらくぶりでした。  ★ 還相についてですが・・・  ☆ たしかにいわゆる教学においてむつかしい教理があるように聞いております。詳しくは覚えていないという体たらくですが ぎゃくにわたしは勝手に解釈して積極的に《人間的交通への踏み出しあるいは対話の姿勢》という意味で使っています。  ★★ (回答No.29) ~~~~~~~~~  悟りを求めるほどの心が、他者に向けられないという事はないでしょう。  ましてや、悟りを得た心がどれほどのものか・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この姿勢もしくは心構え だけでじゅうぶんという捉え方です。おそらくこの意味での還相は 述懐しておられるように すなわち:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  でも祈りの本質は、祈りの度に祈る心を与えられている、ところにあるような気がしますし  その新鮮さの中にあって、現実をより良く捉えてゆけるところにもあるとも思われます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というこの《祈り》にも通じているものと思われます。  そこで問題点のひとつは:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  見方を変えれば、人が人にして仏の徳を伝えうるものなのかどうか、といった疑問にまで及ぶものです。  そして、この事に於ける論から実証への展開といったものは、果たして人の口から語られるべきものなのでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これにつきましては わたしの筆の力が及びませんで 誰かから引いて来ることになります。  ▲ (パウロ:コリント後書 13:7) ~~~~  わたしたちは 自分が本物の信仰者として見えるようにということではなく たとえ偽物の信仰者と見えようとも あなたたちが善を行なってくれるようにと願っているのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ま 上から目線でもあるのですが そういう役割をになう人びともいるということではないでしょうか。  ★ 人が人にして仏の徳を伝えうるものなのかどうか、といった疑問  ☆ をもってみづからの身をつつしみつつ――同時にそのようにしつつも―― 勇み足を辞さないボケを演じる人間もいてもいいのではないでしょうか。さもなければ 仏性がやどるという命題は撤回していただきたい。  《疑問》は 身をつつしむためのものでしょう。つつましやかであることと 相手と場合によっては・またはそのときの社会の情況によってはバカを演じることとは 両立すると胸を張って考えます。それに大きく言っても 末法なんでしょ?  これだけ鐘の音が鳴り響いてきたのであるなら わたしはバカから足を洗って さらに利口ぶりを発揮しなければならないでしょう。決定的なことをのべます。  祈りは あくまでひとの目から隠れて――つつましいというのは 身を包み思いは胸に包み込むという意味ですから――おこなうものであると同時に 祈りのことを口に出すときというのは よっぽどの時だけです。ひとつの最後のことばになりがちなところがあります。  これを言いかえると・そして逆にいぢわるく捉えるならば 祈りを口にするというのは 《還相》のための言い訳にしか過ぎなくなると考えるのです。還相のためのアリバイづくりにしか過ぎません。  自信や確信がないのであれば 信仰を持つ意味がありません。というよりは 自信があやふやなときに それでも信じるというわが存在の動態があるのならば 大いに他流試合をいどむのが ふつうの社会生活なのではないでしょうか。  いまは そういう時代でしょう。  捨て台詞のごとくなったとしても 天の岩屋戸籠りは ふるいと申し上げておきましょう。  底抜けの脳天気よりにて。

その他の回答 (64)

回答No.14

No.5 & 6 & No.13です >>> No.13 「草である場合もあるし」 <<< は「そうである場合もあるし」の間違いです(確認を怠ってしまい、申し訳ございません) >>> No.6 お礼欄  ○ 同じわたしではないほかの過去の人物が振る舞った行為(業)のむくいを わたしがになう。なぜなら その人物とのあいだには 相同性があるから。  ☆ こういう主張だったのでしょうか? <<< これについて回答していませんでした。 「そのとおり」です。 輪廻転生のみならず、輪廻転生概念に関連する因果応報概念は、広く捉えるならば「親の因果が子に祟り」といったことも「納得させるための説明」として用いられてきています。さらには、「同じ民族」ということでのいわれのない粛清も歴史的に数多く為されています。これらは、「相同性」故に「同じことをしでかすかもしれない」という帰納法的な推論を「因果」概念にて補強した結果の出来事でしょう。 ここでいう「相同性」は「形態の相同性」も含みますが、むしろ「こころの相同性」になります。 そうして何度もくり返しますが「個」のみ(DNAのみ)から生まれる「相同性」ではなく、「個と環境」「DNAと時空」(すなわち「全体の変容・変動」)から生まれる「相同性」です。デジャブといってもいいです。 そのような状況下では、無意識のうちに、相同性を有していた別の場所での過去の人と同じような行為(たとえば殺人)を行う可能性が極めて高いでしょうし、そういった過去の経験を共有している人々が集う場所で、たまたま、はじめてそのような状況に置かれた人(相同性を有してしまった人)がいれば、人々は無意識のうちに正当防衛的な行動をとるかもしれません。

bragelonne
質問者

お礼

 前回(No.13)のやり取りで おおむねじゅうぶんでしょう。  ★ 親の因果が子にむくい  ☆ というのは あくまで文学的な表現です。それ以上の意味はありません。この親にしてこの子ありというくらいの意味です。影響があったようだと言っているに過ぎません。影響がなかった場合もあります。  そして基本的には――影響があったとしても―― 意志行為の主体が違えば 表現の自由について説明責任を負うのは その本人のみです。責任が本人以外にも当てはまっていくなどということはあり得ません。  あったとしたら 前回のべたように お節介であったり 人道上の連帯責任という思想によって助け合いをおこなったりするという場合です。そしてその場合というのは 因果応報の説とは別の主題となります。  たしかに なにやらヰキぺによると《共業(ぐうごう)》という考え方もあるようですが これとても 基本的には――共同正犯のごとく本人の意志行為があずかっていないのなら―― お節介として世話を焼くのたぐいだと考えられます。つまり むろん博愛の精神などというごとく高らかにその主義をうたってもいいのでしょうけれど 要するに《思いやり》のひとことの意味するところで応えれば済むたぐいの問題です。  ★ さらには、「同じ民族」ということでのいわれのない粛清も歴史的に数多く為されています。これらは、「相同性」故に「同じことをしでかすかもしれない」という帰納法的な推論を「因果」概念にて補強した結果の出来事でしょう。  ☆ 因果応報説となんの関係もありません。伊藤博文の子孫は 韓国人から今もなお暗殺されても それは自業自得だと言えるというのでしょうか? それは相同性の問題ではなく 社会科学ないし国際関係に対処する両国市民らの共同自治の問題です。業もへちまもありません。反省すべきところは徹底して分析したあと反省し あとは互いに思いやりをもってあらたに共にすすんでいけばいいでしょう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  そのような状況下では、無意識のうちに、相同性を有していた別の場所での過去の人と同じような行為(たとえば殺人)を行う可能性が極めて高いでしょうし、そういった過去の経験を共有している人々が集う場所で、たまたま、はじめてそのような状況に置かれた人(相同性を有してしまった人)がいれば、人々は無意識のうちに正当防衛的な行動をとるかもしれません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 精神分析といった似非科学が猛威をふるった過去の後遺症でしょう。文学的に余韻を味わおうとでもしているのでしょう。それだけの話です。  《相同性》ということは 哲学にとっては 意志行為の主体としての《わたし》が互いに違うということを意味します。  いまだに誘蛾灯のごとく精神のさまよいという事態が かえって流行となって人びとをいざなっているのでしょうか。道理で 村上春樹が需要されるといったところでしょうか。

回答No.13

>>>No5.補足欄 ★ もっと言えば、本来の輪廻転生【概念】は、「おなじDNA」や「おなじ物質」を前提にはしていません。自らが「そのように(相同性があると)感じるところ」のものがあれば、生じうるものです。  ☆ についてですが ふつう一般には輪廻転生と言えば こうではないでしょうか?  ○ いまこの《わたし》という生命存在が その同じわたしとして――動物への生まれ変わりは いま別としておきますが―― 要するに同一の人間存在として生まれ変わりつづけるということ。たとえその事態をわたしが知りえないとしても そうなっているということ。  ☆ 一般にはこのように捉えられているのではないですか? DNA を持ち出したのは 《わたし》の同一性を言うためであり そのためだけです。輪廻転生説が はじめから潜在性において 説いていると見たところから出発しているのではありません。     DNA が違っていて同じわたしではなくても そのほかの人物に対して《相同性》を感じるという場合なら 《生まれ変わり》と認定するのだということなのでしょうか?  そのときには 業の仮説をめぐる因果応報説とのかねあいがどうなるかが問題でしょうね。すなわち  ○ 同じわたしではないほかの過去の人物が振る舞った行為(業)のむくいを わたしがになう。なぜなら その人物とのあいだには 相同性があるから。  ☆ こういう主張だったのでしょうか?  たぶん ここまで来ると もはや人びと一般は相手にしないと思うのですが どうでしょう? 議論するまでもないという答えが ほとんどの人の見方だと思いますよ。  相同性は 個々ばらばらで決まらないでしょう。そんなものないと言って切り捨てればいいでしょうし もし善因であるなら相同性を感じていなくても それはおれが生まれ変わっているのだから その善のむくいはおれが受けると言い出しかねません。 <<< 「DNA」なるものに固執すると「部分」しか語れなくなって、全体像を把握し損なうと思います。 (無論、「個+環境」でもいいですが)たとえば「DNA+時空」の場合、「DNA1+時空1」という状況で生み出されるものと、「DNA2+時空2」という状況で生み出されるものとに相同性があるとして、何ら矛盾しません。魚類のサメと一端陸上に上がって海中に入ったとされる哺乳類であるイルカのヒレの形の相同性は、「環境・個体を一体として見たときに生み出された適切な形態」として扱うことが可能です。 輪廻転生も「動物」を排除することは、本質を見誤る原因になるでしょう。 >>> No.6 お礼欄  ☆☆(趣旨説明) ~~~~~~~~~~~  (3‐1) たとえば拉致という被害に遭った本人や家族は その単純に言って悪という結果を得たのは この世に生まれて来てから何らかの悪因となる行為をおこなったからか?    (4) 言いかえると すべての結果=かつ原因(つまり 原因=かつ結果)は 自業自得であるのか? そんなことが言えるのか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この問いに答えていただくとさいわいに思います。 <<< 分かりにくかったかも知れません。 >>> No.6 「因果に囚われない生き方(概念)」があるとすれば、「全てを因果」で捉えるのではなく、「因果で説明可能なこと、説明不可能なこと」といった、少なくとも2種類の概念を既に念頭に置いていたと考えるのが普通ではないでしょうか? <<< ということは、直接的に言えば「因果」以外の関連=「非因果的連関(相関)」ないし「偶有性」といった概念を指しています。 引用したwikiでは、たとえば http://ja.wikipedia.org/wiki/因果的閉鎖性 内に記述している事柄が関連します。 すなわち、全てを「因果」で捉えること自体が問題(囚われ)ではないのか?といったことが、既に原始仏教当初から問題視されていたのだろうということを言っています。 そういった観点からすれば、 >>>  (3‐1) たとえば拉致という被害に遭った本人や家族は その単純に言って悪という結果を得たのは この世に生まれて来てから何らかの悪因となる行為をおこなったからか?  (4) 言いかえると すべての結果=かつ原因(つまり 原因=かつ結果)は 自業自得であるのか? そんなことが言えるのか? <<< については、「草である場合もあるし」「そうでない事もある」となります。

bragelonne
質問者

お礼

 ううーん。困ったものですな。まづは ご回答をありがとうございます。  ★ 魚類のサメと一端陸上に上がって海中に入ったとされる哺乳類であるイルカのヒレの形の相同性は、「環境・個体を一体として見たときに生み出された適切な形態」として扱うことが可能です。  ☆ 人間のほかには その発言や文章に責任を持つ存在はいません。説明責任という意味の限りでは 因果律は当てはまります。表現に間違いがあれば その間違いを正してくださいという要求にこたえなければならない。その限りで 因果応報となっています。自業自得です。  したがって この因果律を むやみやたらに――原因のはっきりしない場合などへと――拡張するのは間違いだと言っています。そういう物言いにもなっています。そういうふうにも趣旨説明することができます。  ましてや 《わたし》が生まれる前の過去に生きた人物と 《生まれ変わり》だという見立てによってつなげる・すなわち 同一の人間存在だと規定するところまで拡大するのは 大まちがいである。そこには 何の根拠もない。こういう物言いです。  よってまづは 人間よりほかの動物や生物については 扱いません。  ★ 輪廻転生も「動物」を排除することは、本質を見誤る原因になるでしょう。  ☆ 哲学の発言だとは思えません。文学ならあり得るかも知れませんが それもこれも そのときには(このときにのみ) DNA による違いという現実がいまとなっては立ちはだかるでしょう。  相同性にしたところで 基本においては 行為を為した者がわたしと別の人物であったなら 人格の違いという基本において その行為の責任を取れと言われても突っぱねることになります。意志行為の主体が違うという基本です。これは 表現の自由という公理において 通ります。  そのほかには 人道上の配慮があり得るというのみです。けれどもそれは 因果応報説とは別です。  ★ ということは、直接的に言えば「因果」以外の関連=「非因果的連関(相関)」ないし「偶有性」といった概念を指しています。  ☆ そういうことを考えるのは 自由でしょうし また別の主題をみちびくことさえあるかも知れませんが ここでの因果応報説とは 明らかに別です。それは 表現の自由の裏側においてつねに同伴しているところの説明責任 これの所在はどこにあるかという基本線によって分けられます。  人道上 責任の一端を自発的に(つまり 世話焼きとなって)になうということは あり得ます。言いかえれば漠然とした言い方ですが じんるいとしての連帯責任です。けれどもこれは 基本としては 勇み足であるでしょう。差し出がましいことだが 手助けをさせてくださいと言って始めるべきことでしょう。それ以上の意味はありません。また 相手に断られたなら それまでのことです。    因 果 応 報 説とは な ん ら かかわりがありません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~   >>>   (3‐1) たとえば拉致という被害に遭った本人や家族は その単純に言って悪という結果を得たのは この世に生まれて来てから何らかの悪因となる行為をおこなったからか?   (4) 言いかえると すべての結果=かつ原因(つまり 原因=かつ結果)は 自業自得であるのか? そんなことが言えるのか?   <<<  については、「そうである場合もあるし」「そうでない事もある」となります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ほんとうにそんなことを思っているのですか? めぐみさんやその家族・要するに拉致被害者の関係者のみなさんの前で そして市民一般の前で そんなことが言えるのですか?  少なくとも そう言うのなら 先に論証してからでしょう。そのくらいの配慮すらしない言論について いったい何をか言わんやですよ。  ★ 既に原始仏教当初から問題視されていたのだろうということを言っています。  ☆ この《問題視されていたのだろう》というのは ブッダが 《拉致被害は 〈非因果的連関〉をも加味して業による因果応報を見てみるならば 自業自得だ》と言ったということではないでしょうね?

  • AXIS_
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回答No.12

>因果応報が 《おもに他者によって報いを受けるという意味で使われている》とは聞いたことがありません。 (3‐1)は、「他者によって報いを受ける」という例として挙げていますね。それが「おもに」と言った理由です。もちろん、自業自得という意味で使われる場合もあるでしょう。 >結果を招いたときの状態を言うのでしょう。  つまり、既に述べたように「行為」を意味するものではないということです。 >☆ そんなことを証明しようとはしていません。  「同じDNAを持つ=同じアイデンティティーを持つ。そして同じDNAを持つ人は過去にも未来にも発生しないから、同じアイデンティティーを持つという意味での輪廻はない」  という(1)の主張が成り立たないと言っているのは理解できましたか? > ☆ 《アイデンティティやパーソナリティ》がどうのこうのとは関係ありません。  仮に違うDNAを持っていたとしても、アイデンティティーが同じであれば同じ人格を持つ生まれ変わりであると言えます。同じDNAを持っていても、全く同じアイデンティティーを持っているということにはならないと言っています。 A:DNAとアイデンティティーの問題は別でしょう。 b:そういうことです。  よって、「生まれ変わるという意味での輪廻転生というものは、同じDNAを持つ人はいないので誤謬である」という(1)の主張は成り立たなくなりました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ (3‐1)は、「他者によって報いを受ける」という例として挙げていますね。それが「おもに」と言った理由です。もちろん、自業自得という意味で使われる場合もあるでしょう。  ☆ これは 《縁:間接的な原因》のことです。  ○ 業の仮説による因果応報説に従うなら めぐみさんは   ・ 自己の為した悪としての行為(業)を因(直接的な原因)として   ・ 加害者による拉致という行為を縁(間接的な原因)に招きつつ   ・ 拉致されるという果(このばあい 悪の結果)を得た。  ○ これらの因縁果の流れは 自業自得である。  ☆ となります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~    >結果を招いたときの状態を言うのでしょう。  つまり、既に述べたように「行為」を意味するものではないということです。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆☆ (No.10お礼欄)  《〔業が〕深いか浅いか》は 因縁果の流れじたいの問題ではなく 意志行為の中身にかかわっています。またその結果の中身もしくは質です。ただそれだけのことです。  ☆ という方面のことにかんして 《行為》ではなく《結果として招いた状態》を言う場合もある。  ★ 「同じDNAを持つ=同じアイデンティティーを持つ。  ☆ これがつねに成り立つとは限らないと言っています。むろん仮定の話ですが 輪廻ありせば そのつどの《わたし》は修行の違いによってまづパーソナリティが違ってくるでしょう。  アイデンティティについては もし同じ《わたし》であるというのなら そのままアイデンティティも同じであるとは思います。その意味では 次のわたしの発言を訂正します。  ☆☆(No.10お礼欄) ~~~~~~~~   ★ DNAとアイデンティティーの問題は別でしょう。   ☆ そういうことです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ DNA が同じであることと《わたし》が同じであることとそしてアイデンティティの一貫性 これら三つは 同じことでしょうから。  けれども 次のようなことがあり得ますか?  ★(あ) 仮に違うDNAを持っていたとしても、アイデンティティーが同じであれば同じ人格を持つ生まれ変わりであると言えます。  ☆ 果てさて どういう場合にあり得ますか?  ★(い) 同じDNAを持っていても、全く同じアイデンティティーを持っているということにはならないと言っています。  ☆ これも分かりません。こちらについては 《パーソナリティ》のまちがいではないですか?  上の(あ)と(い)について 補足要求します。それが分かって初めて判断をくだします。

noname#131234
noname#131234
回答No.11

>批判に対する反批判 >輪廻という考え方をしているそのことについて (わたしの)哲学は何を言うか。これだけの問いなのです。 キリスト教の宣伝は、公の場では慎んだほうがよいのではないでしょうか? そば・うどんの出てくる哲学論文をやんだこともありませんし、マナーを護るべきです。 貴方いう哲学の内容(生活態度)が、ほかの人にわかるわけもありません。 貴方の考えていることはわたしの考えていることではないということです。 キリスト教と仏教を比べると仏教のほうが高い教えだと思います。 内道・外道のことについて勘違いなさっておられるようです。 キリスト教は自分の外に救いを求める教えです。 おいらはキリスト教を仏教と 見比べながら作り変えたというのであっても、キリスト教は、 基本的に自発的ひらめきを認めない立場です。 論理的フクミという形でひらめきの神性を主張した トマスアクィナスらドイツ神学派を除けば、 そういう人たちはキリスト教の中では異端と呼ばれています。 ひらめきがキリスト教だと主張なさるのでしたら、根拠となる文章をお示しください。

bragelonne
質問者

お礼

 後半は転調していますね。後半で転調しています。   そのことで 前半の内容はみづから取り消した格好になります。  と読んだ上で 応えてまいります。  ★ キリスト教と仏教を比べると仏教のほうが高い教えだと思います。  ☆ ちなみにまづ ここからが 後半です。なるほど そういう見解なのですね。    ★ 内道・外道のことについて勘違いなさっておられるようです。  ☆ あぁ そうですかね。外道は たしか 因果論を持たないから 外道だとか言いませんでしたか。  ★ キリスト教は自分の外に救いを求める教えです。  ☆ まづわたしにとって 《キリスト教》というのは ローマ教会等の組織宗教のみを言います。個人の信仰は キリスト信仰です。クリスチアニズムと言えば 個人のも組織のも含めて言えるかと思います。  ★ 自分の外に救いを求める  ☆ たぶん《人間としての自分を 存在としても能力としても 超えたところから 救いは来る》という意味でしょうか。  ★ ~~~~~~~~~~~~  おいらはキリスト教を仏教と  見比べながら作り変えたというのであっても、キリスト教は、  基本的に自発的ひらめきを認めない立場です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ おいらが わたしのことであれば 違っています。見比べたのは すでにキリスト信仰を得たあとです。《作り変えた》というのは よく分かりません。説明の仕方を 先達のを参考にしつつ 独自にも編み出したという意味でしょうか。   《キリスト教》が何を認めない・かにを認めるといったことは 基本的にどうでもよいと考えています。組織宗教であることによりすでに 個人の信仰に違反していると考えます。  ★ 自発的ひらめき  ☆ たぶん《自発的》と《ひらめき》とは互いに相い反するのではないでしょうか。  わたし自身は ひらめきを認めます。というよりも ひらめきによってこそ前へ進みます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  論理的フクミという形でひらめきの神性を主張した  トマスアクィナスらドイツ神学派を除けば、  そういう人たちはキリスト教の中では異端と呼ばれています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ トマスは 理知的・論理的なように感じます。ひらめきは一般的に言って 別に排除するようなものではないと思うのですが。  ★ ひらめきがキリスト教だと主張なさるのでしたら、根拠となる文章をお示しください。  ☆ 《ひらめき》について参照すべき文章は思い出しません。たとえばアウグスティヌスは   ▲  論証的な精神( mens ratiocinans )によってではなく 観想的な精神( mens contemplans )によって (三位一体論 15・25〔45〕)  ☆ という言い方をしています。でも 経験思想については 論証的な精神も大切ですね。  こんなところでしょうか。  

  • AXIS_
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回答No.10

>輪廻と業の説は 無用ではないか  要、不要の問題ではないので、「輪廻と業の説は 妥当ではないのではないか」に変えて考えます。 >(1) 生まれ変わるという意味での輪廻転生は 同じ DNA を持つひとが自分のほかにいないとすれば あり得ない誤謬である。このことの確認を願います。  皆違うDNAを持っているからそれぞれ個々のパーソナリティーやアイデンティティーがあるという証明にはなりません。また、全く同じDNAを持つ一卵性双生児の、それぞれの個性やアイデンティティーは認められないのでしょうか?それぞれ「私は私」と思っているはずです。DNAとアイデンティティーの問題は別でしょう。 >(2) 業が行為を意味するとすれば この意志行為が原因となって――縁をも呼びこんで――その意志のあり方(単純に善か悪か)に従ってその決まった結果をも招くという見方は まづ一生涯を超えてはたらくということはあり得ない。同じく確認です。  業が行為を意味するとなぜ思ったのでしょうか?例としてあの人は「業が深い」と言う時の業とは「深い因縁」を持っているという意味で使われています。では因縁と業はどう違うかといえば、その人の行為や容姿やあり方や雰囲気を見て、因縁による結果が現れてるのが見て取れる、感じ取れたと思う時、主観による表現として「業が深い(ように見える)」と言うのでしょう。 > (3) ではこの業にもとづく所謂る因果応報の説は ひとりの人間の生まれてから死ぬまでのあいだのこととしてなら 現実性を持つと見るべきか?  因果応報 と言う言葉は主に他者によって報いを受けるという意味で使われていますね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 因果応報 と言う言葉は主に他者によって報いを受けるという意味で使われていますね。  ☆ わづかに《縁――社会的な環境ないし情況としての要因》がはたらくという場合には 《他者とその行為》が 報いを実現させることにあずかっているわけですが 因果応報が 《おもに他者によって報いを受けるという意味で使われている》とは聞いたことがありません。  因果応報とは 自業自得という意味です。(わづかに 縁という要因もほかにある)。  ★ 例としてあの人は「業が深い」と言う時の業とは「深い因縁」を持っているという意味で使われています。  ☆ ですから 《意志行為が原因となって――縁をも呼びこんで――その意志のあり方(単純に善か悪か)に従ってその決まった結果をも招く》ということに 《業が深い》は入っています。結果を招いたときの状態を言うのでしょう。  《深いか浅いか》は 因縁果の流れじたいの問題ではなく 意志行為の中身にかかわっています。またその結果の中身もしくは質です。ただそれだけのことです。問いとは直接につながりません。  ★ 皆違うDNAを持っているからそれぞれ個々のパーソナリティーやアイデンティティーがあるという証明にはなりません。  ☆ そんなことを証明しようとはしていません。《わたし》というひとりの人間が過去および未来に そのまま同じ《わたし》として生まれ変わるという見方 これは DNA の事情をかんがえれば成り立たない。のではないか。この問いのみです。  ★ また、全く同じDNAを持つ一卵性双生児の、それぞれの個性やアイデンティティーは認められないのでしょうか?  ☆ ほぼ同じときに生まれた者どうしのあいだで 生まれ変わるということは考えられません。そういう問題であり そういう問題のみを扱います。《アイデンティティやパーソナリティ》がどうのこうのとは関係ありません。  ★ DNAとアイデンティティーの問題は別でしょう。  ☆ そういうことです。

noname#156094
noname#156094
回答No.9

仏教において説かれた輪廻説が、方便としての物語であったとしたならば、否定されてしかるべきと思われます。 しかしながら、釈迦が悟りを得る前に輪廻の実相を観見したという事は、仏典において必ず記述されている事でもあり真実であると思われます。 対機説法の方便として用いたという考えには疑問があります。 釈迦の在世当時には、輪廻からの解脱が大きな問題とされていたそうです。 釈迦が私は仏陀であると公言した時には、周りの人々は、その言葉の持つ意味がすでに分かっていたそうです。 輪廻からの解脱を成し遂げた偉大な人、というふうに受け止めたのでしょう。 輪廻の思想の只中にあって、新しい教えを説かれた事も、輪廻の問題を解決された事を抜きにしてはあり得ないと思われます。 梵天の勧請の話にしても、宗教的な境地の最高位を釈迦に譲った事を示しています。 これも、輪廻を解脱した方であると認めている事を指しているように思われます。 (この辺はもうなつかしいおしゃべりになりますか・・・) 二千年以上も前の人が、現在の私達よりも高度な精神性を持っていた・・・などとは心情的には否定したいものなのかもしれません。 でも、これほどまでに語り継がれ、尊敬されてきた人物は他にいないところをみると、その偉大さは歴然としていますし、認めざるを得ないと思います。 輪廻を解脱したという事も伝承ではありますが、真実であるように思われます。 真実と思わなければ真実ではないという話も、また尽きることがないのでしょう。 あまり論戦は得意ではないので、この辺で逃げる事にします。 失礼しました。

bragelonne
質問者

お礼

 あぁ へたのすけさん どうもわたしが 仏教としっかりと向き合って対話をする姿勢にないではないかと諫めておいででしょうか?――ご回答をありがとうございます―― ですが この問題は ブディズムという主題あるいは さとりという主題 といったように入る問題ではなく そうではなく単純に人口に膾炙した《生まれ変わりと因果応報》 この思想にどう対処するかから入る問題なのです。  ゴータマくんとしっかりと向き合って話し合いをしなさいという主題は 先行しません。  ○ 人間は 一人ひとり《わたし》と自称して存在しているが そのひとりの《わたし》は 過去にも未来にも 一人として同じ存在はない。  ☆ この命題からも出発しているわけです。ですから 言いかえると この命題に対して釈迦一門から誰でも自由に反駁を加えてもらえればいいわけです。    そうですよね。つまり それに対して  ★ しかしながら、釈迦が悟りを得る前に輪廻の実相を観見したという事は、仏典において必ず記述されている事でもあり真実であると思われます。  ☆ というのであれば いわゆる水かけ論になります。輪廻はない。――いや ある。なぜって ゴータマという一人の人間が その実際のあり方を知りえたと言っているから。――ぢゃあ そのありさまを説明されたし。――いやいや それはかれとそして周りの人びとに分かったとしても ほかに人びとには 分かりづらいことである。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  釈迦が私は仏陀であると公言した時には、周りの人々は、その言葉の持つ意味がすでに分かっていたそうです。  輪廻からの解脱を成し遂げた偉大な人、というふうに受け止めたのでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この最後の一文について考えてみますと どうなりましょうか。  つまり 《輪廻からの解脱を成し遂げた》ということは もう二度と人間には生まれて来ないということですよね。たぶん いやおそらく ぢゃあわたしもブッダと同じように解脱を是非とも成し遂げようというような人は ひとりも出て来ないと思いますよ。どうですかねぇ。  だって 二度と生まれて来ないことを望む人は いないでしょう。輪廻があるのならば。  この意味でも ですから この質問は ふつうに一般の人びとが 輪廻という考え方をしているそのことについて 哲学は何を言うか。これだけの問いなのです。  個人の主観内面における信仰の問題としてあつかうのが正解であるというNo.7の回答もありました。  それに対しては 一方で むろん信仰であればそれについて内政干渉するものではないということ。他方では その思想内容として どういうことが言えるか。これについて 批判的な観点からわたしも思うところを述べています。  もし言うとすればこのNo.7お礼欄のわたしの議論が ゴータマくんとの対話になるかとも思います。きみは輪廻の実相を見たと言うが それを疑う疑わないを別として その結果として持たれる思想として見れば そのことは何の魅力もないと考える。それはこれこれである。と述べています。  そんなところですし そんな問題なのではないかとは思います。  さて どうなりますか。

noname#131234
noname#131234
回答No.8

文脈として、 キリスト教には好感が持てる。 西洋の古い麺類は新しいそばとして作り直したからおいしい。 仏教は古臭くて親近感がもてない。 うどんがのびている。 というふうな、シンパシーの問題に還元するというのはいただけないと思います。 1どちらもダメ 2どちらもよい 3キリスト教はわるくて 仏教はよい という選択肢を残すべきです。好感度というのなら、『何々のファンです』というだけでよいのではないでしょうか。 正当性・寛大な感性・柔軟な視野にかけるようです。 感性的 表現として 感情の根本は、 味覚ですか 視覚ですか 嗅覚ですか 触覚ですかはっきりしていただくと議論しやすいのですが・・・ ちなみにわたくしはひどいそばアレルギーです。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 感情の根本は、  ☆ 第六感です。ひらめきです。いまの問い求めにかかわっての話です。  ★ ちなみにわたくしはひどいそばアレルギーです。  ☆ あぁ そうなんですか。アレルギー症状ということにかんして身近に知らないので 何とも受け答えがよくできません。ごめんなさい。    ★ 〔* うどんやそばの新鮮さ〕というふうな、シンパシーの問題に還元するというのはいただけないと思います。  ☆ 直前の回答No.7でのやり取りのことを言っているのですね。  そこでは 必ずしも仏教のことを問題にしているのではありません。あくまで《輪廻転生および業の思想による因果応報》の仮説をめぐってまとめたひとつの議論を 批判に対する反批判として出しているに過ぎません。  ましてや 直接にはクリスチアニズムは何のかかわりもありません。信仰と経験思想との関係という点で クリスチアニズムも出ていますが それにまつわる主題をうんぬんするつもりはないですし していません。  ま しかしながら  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  文脈として、  キリスト教には好感が持てる。  西洋の古い麺類は新しいそばとして作り直したからおいしい。  仏教は古臭くて親近感がもてない。  うどんがのびている。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と感じたというのなら ま 仕方がありません。それも この問い求めの課題の中に入っているのでしょう。  ところで この課題について 方向性にのみ触れる提案が出されています。  ★ ~~~~~~~~~~~  1 どちらもダメ  2 どちらもよい  3 キリスト教はわるくて 仏教はよい  という選択肢を残すべきです。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ でしたら そのような方向性だけではなくて しかもこの《輪廻や因果応報》論にかかわって 論文を出せばよいぢゃありませんか。そういう問題でしょ?   ★ シンパシーの問題に還元するというのはいただけない  ☆ というときには です。  ただし――ただしです―― この輪廻・因果応報の主題については 仏教がどうのクリスチアニズムがこうのと言うよりも 一般に人びとがどう受け取っているか その中身を扱ったほうが いちばん手っ取り早いでしょうし 案外ことの本質に迫っていると思うのですが どうでしょう?  ○ 《わたし》と同じ人間存在は 過去にも未来にもひとりとしていない。  ☆ この命題の確認が まづはいちばんの重要事項のように思いますね。直前の投稿(No.7)のお礼欄に述べた四つの理由は なお有効であると思っています。それをたたき台にすればどうですか。

noname#116523
noname#116523
回答No.7

あなた何かかん違いしているのではないかね。 輪廻は信仰でしょうが。 同様に三位一体も受肉も信仰の問題ですよ。 キリスト教の理性の部分を語るならトマス・アキナスぐらい勉強されたらいかがですか。

bragelonne
質問者

お礼

 ネコ太郎ウさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 輪廻は信仰でしょうが。  ☆ あぁ そうなんですか。たぶん そうではなく ふつうの経験思想として持っている人びとも多いと考えます。そのような場合について 問うものです。  もし経験思想であるなら 質問の趣旨に同意なさるということでしょうか?  それでは 《三位一体も受肉も信仰》であるのが 輪廻が信仰であることと《同様に》だとは考えませんが――なぜなら 前者は 単なる経験思想でもありうるということはあり得ませんから(ただし 経験世界のものごとと対応しているのではないかという側面は持ちます)―― 輪廻を信仰として捉えて では どういうことが言えるか。  というのも もし比喩でなければ 《生まれ変わる》ということは まったく経験行為ないし経験事象ですから それをなぜわざわざ非経験のこととして――それが 信仰ということですが――持つのか? これもひとつのなぞですね。  いづれにしましても 輪廻転生といった考え方では 人間にとってよろしくないということを述べてみます。  理由その一: ~~~~~~~~~~~~~~~~  わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。( DNA の観点からは 反証できる)。  ☆ これが或る意味で 信仰の要素にかかわりますね。自由にその《生まれ変わり》のことを心の中で 自由に思っているということですね。  つまり この《その一》は そんなことを思っていても 社会的には 意味がないだろうという物言いです。  理由その二:~~~~~~~~~~~~~~~  生まれ変わりというこの考え方には つうじょう 因果応報説も ついている。けれども このように 宇宙の始まり以来 いわゆる善因善果および悪因悪果のもとに 生まれ変わるとすれば ひとつの行為は つねに例外なく 自業自得という意味である。  仮りに人を殺しても 殺すほうも殺されるほうも まったく寸分たがわず それぞれが 自業自得だとなる。それ以外に考えられない。  ☆ いったいどういう意味があるのか? という物言いです。一つひとつの思惟と発言と行動 これらの行為(業)がすべてそれぞれ 自業自得として成り立っているということです。そんなことを言っても意味がありません。すべて自業自得として成り立ってはいないと言う説と違わないからです。  理由その三: ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ひとつだけの生涯ではなく やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。けれども それだと この今の人生については もはや 努力をしないと宣言したようなものである。たとえ来世があるとしても それを頼まずに 今世にてやれるだけのことをやっておくのが 筋というものである。  つまり 生まれ変わることを 念頭に置くのは 意味がない。  理由その四: ~~~~~~~~~~~~  民主主義ないし 思惟や行動をふくむ表現行為の自由ということ この自由が まだ制約されていたときには 《たとえこの今の生において達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》という気概を表わしていたかも知れない。  けれども 現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。  言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。極論すれば 現代の病いはすべて ここに原因があるのではないか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そばも うどんも 延びてしまっているというわけです。どうもいただけません。いかがでしょう?

回答No.6

初期の仏教(いわゆる原始仏教)やブッダ自身が「全てを因果」で捉えうると考えたかどうかは、怪しいと思っています。輪廻転生を前提にしたときにカースト制度と因果という概念が強固に結びつきやすいということが、(そこからの脱却を念頭においていたにも関わらず)逆に因果概念を強調したかのように捉えられてしまった(誤謬が生じた)と考えています。 「因果に囚われない生き方(概念)」があるとすれば、「全てを因果」で捉えるのではなく、「因果で説明可能なこと、説明不可能なこと」といった、少なくとも2種類の概念を既に念頭に置いていたと考えるのが普通ではないでしょうか? >>> 私の日記:2007年10月からの引用(一部改変) 「一般的に」: 因果論は非常に論理的でわかりやすい考え方である故、一般受けしやすい。 参照: wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/因果 http://ja.wikipedia.org/wiki/因縁 http://ja.wikipedia.org/wiki/縁起 http://ja.wikipedia.org/wiki/無我 http://ja.wikipedia.org/wiki/諸法無我 http://ja.wikipedia.org/wiki/我執 http://ja.wikipedia.org/wiki/空 上記は「一般的な」仏教的考え方(切一切有部、大乗仏教などの諸説) http://ja.wikipedia.org/wiki/因果律 http://ja.wikipedia.org/wiki/因果的閉鎖性 http://ja.wikipedia.org/wiki/随伴現象説 http://ja.wikipedia.org/wiki/付随性 http://ja.wikipedia.org/wiki/決定論 http://ja.wikipedia.org/wiki/自由意志 ※「一般的に」仏教では --- 原始仏教ないしブッダ自身は、「一般的に」ではなかったようである。すなわち、原始仏教レベルでは、仏教以前からあった輪廻転生(生死を越えた因果関係)の「有無」 については、形而上学的問題(哲学的問題)とし、そういった問題に囚われることから(柄谷氏の言葉を借りるならば「あるのでもなく、ないのでもない」と)回避したからである。 このことは「ブッダのことば」(岩波文庫、中村 元)の「洞窟に関する八つの詩句」 779 思いを熟知して、流れを渡れ。聖者は所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き、つとめ励んで行い、この世をもかの世をも望まない。 「並ぶ応答-小編」 894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。 などに、まさにそういった思いが込められていると考える。 <<<

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてですが。  えっとですね。じねんさん この質問は この輪廻転生説と因果応報説を誰が説いたかについては問うていないのです。つまり ブッダが説こうがブラフマニズムのおしえであろうが どうでもいいのです。  一般に思潮として 日本人のあいだにこの考えが普及していると思われる。けれども これは哲学から見て 無用であるのではないか。こういう趣旨です。これだけです。  因果応報には 三つの型があるようですね。   ・善因善果(または 善因楽果)   ・悪因悪果(または悪因苦果)   ・無記(善とも悪とも認定しない行為(業))  でも無記は この際どうでもよいのです。というのも すでに結果が出ている場合を特に問うているからです。  ☆☆(趣旨説明) ~~~~~~~~~~~  (3‐1) たとえば拉致という被害に遭った本人や家族は その単純に言って悪という結果を得たのは この世に生まれて来てから何らかの悪因となる行為をおこなったからか?    (4) 言いかえると すべての結果=かつ原因(つまり 原因=かつ結果)は 自業自得であるのか? そんなことが言えるのか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この問いに答えていただくとさいわいに思います。  

回答No.5

他の回答を詳しく見ていないのですが、明らかな誤謬について触れさせていただきます。 >>> (1) 生まれ変わるという意味での輪廻転生は 同じ DNA を持つひとが自分のほかにいないとすれば あり得ない誤謬である。このことの確認を願います。 <<< この質問の対偶は 「同じDNAを持つひとが自分のほかにいたとすれば、生まれ変わるという意味での輪廻転生を否定できない」 と成り得ます。 これは、たとえばクローン人間を考えた場合、生物学的にも、一般解釈的にも「おかしな」文章です。 ひとは「DNA」のみで決定されるものではないです。環境、いや、もっと厳密に言えば、関連しあっている時空間が少しでも異なれば、全く同じDNAを持つ個体(【わたし】)がいたとしても、彼ら(彼女ら)は「別の【わたし】」です。その場合、もし輪廻転生【概念】で捉えうるものがあったとすれば、それは「DNA×時空」から生じうるもの(の相同性≒概念)を見ているだけです。 もっと言えば、本来の輪廻転生【概念】は、「おなじDNA」や「おなじ物質」を前提にはしていません。自らが「そのように(相同性があると)感じるところ」のものがあれば、生じうるものです。 思索のよりどころとして「DNA」のような科学的に扱いやすい「物質」のみを掲げようとし、そのことに基づいて判断を組み上げようとする行為は、誤ったドグマ(例えば「水は答えを知っている」)に陥りやすい(というより、「他者を陥れやすい」)ので、ご注意願います。

bragelonne
質問者

お礼

 じねんさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  まづわたしの把握するかぎりで 次の文章の根拠を成す論理は 質問趣旨を批判しえていないと考えます。つまり 単なる論理の問題をまづ先に片づけておこうとして取り上げるのですが。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  この質問の対偶は   「同じDNAを持つひとが自分のほかにいたとすれば、生まれ変わると   いう意味での輪廻転生を否定できない」    と成り得ます。  これは、たとえばクローン人間を考えた場合、生物学的にも、一般解釈的にも「おかしな」文章です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《たとえばクローン人間を考えた場合》には そのクローン人間の場合についてはおそらく別に 輪廻転生論を考えるのではないでしょうか? 特殊な新しい場合として扱うものと思われます。ですから そうではなくふつうの人間の場合については 《おかしな文章》でも何でもなく 当てはまるものと考えますよ。  おそらくこの単なる論理上の問題を扱ったところで ご批判にはすでに全体として答え得たとは思いますが さらに見てまいります。  と言っても なかなか飲み込みにくい内容なのですが ぎゃくに次のように反問してみたいと考えます。  ★ もっと言えば、本来の輪廻転生【概念】は、「おなじDNA」や「おなじ物質」を前提にはしていません。自らが「そのように(相同性があると)感じるところ」のものがあれば、生じうるものです。  ☆ についてですが ふつう一般には輪廻転生と言えば こうではないでしょうか?  ○ いまこの《わたし》という生命存在が その同じわたしとして――動物への生まれ変わりは いま別としておきますが―― 要するに同一の人間存在として生まれ変わりつづけるということ。たとえその事態をわたしが知りえないとしても そうなっているということ。  ☆ 一般にはこのように捉えられているのではないですか? DNA を持ち出したのは 《わたし》の同一性を言うためであり そのためだけです。輪廻転生説が はじめから潜在性において 説いていると見たところから出発しているのではありません。     DNA が違っていて同じわたしではなくても そのほかの人物に対して《相同性》を感じるという場合なら 《生まれ変わり》と認定するのだということなのでしょうか?  そのときには 業の仮説をめぐる因果応報説とのかねあいがどうなるかが問題でしょうね。すなわち  ○ 同じわたしではないほかの過去の人物が振る舞った行為(業)のむくいを わたしがになう。なぜなら その人物とのあいだには 相同性があるから。  ☆ こういう主張だったのでしょうか?  たぶん ここまで来ると もはや人びと一般は相手にしないと思うのですが どうでしょう? 議論するまでもないという答えが ほとんどの人の見方だと思いますよ。  相同性は 個々ばらばらで決まらないでしょう。そんなものないと言って切り捨てればいいでしょうし もし善因であるなら相同性を感じていなくても それはおれが生まれ変わっているのだから その善のむくいはおれが受けると言い出しかねません。  ★ 誤ったドグマ  ☆ と認定する作業すら どうでもよいと思うはずです。と決めつけますね わたしは。

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