• ベストアンサー

仏陀の生い立ちについて

仏陀の生い立ちについて とある本(推理小説系)で、「仏陀は王族(貴族)の出では無い。仏典に学校に通ったと書かれているのがその証拠。なぜなら、王族なら自ら通わず教師を呼ぶはずだから」と言うのが有りましたが、その事実性ってどうなんでしょうか? 仏典自体が死後100年後ぐらいに書かれているので、神秘性や身分などがその間に高められ、結果王族出身とされた、と言うのはあながち有り得なくない話しだとは思うのですが、他に釈迦が釈迦族の王子だった証拠ってあるんでしょうか?

  • 歴史
  • 回答数1
  • ありがとう数3

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • yara
  • ベストアンサー率25% (166/661)
回答No.1

小説という事で、フィクションだと考えます。 学校に通ったという事自体がおかしいですね。 また、王族とは言っても、当時は○○王族は沢山いましたし、唯一その国の王の意味では無いはずです。 実際、釈迦は家庭教師の様なものを付けて学んだとされています。

ESMUYCARO
質問者

お礼

yaraさん 回答ありがとうございます。 その小説の「学校に通った」と書かれた部分を読み返しましたが、出典は明記されてませんでした。するとやはりフィクションなんですかね?

関連するQ&A

  • クルソン山の語源について

    クルソン山の語源について 西日本各地にくる倶留尊山とか狗留孫山とかクルソンとよぶ山があります。 私は最初は、韓国語の「クロッソヨ」(そうだの意)の連体形のクロスンではないかと推測し、渡来人の痕跡だと推理していたのですが、最近どうも仏典(法句経、華厳経、法華経など)からきていることを知りました。 過去七仏の毘婆尸仏(びばしぶつ)、尸棄仏(しきぶつ)、毘舎浮仏(びしゃぶぶつ)、拘留孫仏(くるそんぶつ)、倶那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)、迦葉仏(かしょうぶつ)、釈迦如来までの仏祖の師弟系列の4番目の仏陀だそうです。 そこで質問ですが、他の仏祖たちのゆかりが残る地名や寺名や記念日などはないでしょうか。

  • 無の境地に至ったものは、誰かを救おうとはしない。

    私は滅びる者どもの黄昏に、サヨナラの祝福を手向ける愛の戦士。 実在する仮面ライダー。 黒き明星だ。 私の変身能力はフェアリーフュージョンだ。 まあ、無についておさらいだ。 以下を読みたまえ。 無の悟りとは単純明快である。 http://okwave.jp/qa/q7612407.html 無の悟りに関してはコレが基本的な私の見解だ。 さらに私には「実在する妖精の捕まえ方」という独自の哲学が有って、以下にその中心をまとめている。 イデアの開眼は哲学の目標だ http://okwave.jp/qa/q8767250.html この観念世界「夢」が涅槃という別世界だ。 そもそもそこで語るように、思考が言語以外の手法を含める柔軟さに及ぶと、君達がサルにしか見えないほど思考が聡明になる。 ところが所詮サルの君達を慰めるため与えた餌が死の定めだ。 記憶の墓標作戦。 僕は死にましぇん。 http://okwave.jp/qa/q8787474.html 自らのイデアの見解と別の事を君達に教えている。 所詮観念世界にたどりついていない君達には、その内訳を明かしても全く無意味だからだ。 この構図は仏陀の伝統を踏襲している。 私は永遠に生きる。 君達は今も屍をさらし、死にっぱなしだ。 古来の、 私は涅槃に行く。 君達は六道輪廻に苦しみ抜く。 この両者の基本は変わらない。 私は芳醇な心のふるさとの美しさを君達に語ろうとは思わない。 お釈迦様も涅槃という自らの心お明かさなかった。 それどころか無であるとまで言ったんだ。 君達の先輩の釈迦への懇願が真摯であれば、釈迦は君達すらも涅槃に案内しただろう。 それが君達の本願で有る救いだ。 しかし、無であるとか言ったね。 この無は、心は、私そのものであるから、君達に語る言葉は無い。 そう言う無だ。 そもそも聞いても何にもなんないだろう。 私が永遠に生きると宣言することが君達の何の助けにもならないのと同じだ。 仏陀たるもの、承知で君達をコケにしているのだ。 真理を語る一方で、君達が喜ぶ絶望を植え付けている。 君達は自らの意思で絶望を選択する。 このように、仏陀たるもの自分専用の地獄を作って一国一城の主に収まりたくなるものだ。 お釈迦様は見事にその地獄の王族だよ。 心眼に開眼した私にとって、君達の救いの期待にこたえることは、涅槃でなく地獄に案内することだ。 それは君達の救いの願いがあまりにも盲目で、けがれているからだ。 信教とは自由で尊厳あるものだそうだが、君達の信仰は地獄を目指している。 さて今回の質問は、古来の言い回しで、仏教ではないかもしれないが、悟った者仏陀である私の見解から、君達の伝統に対する批判の反応を期待したい。 お釈迦様は、「あーらかわいそーねー」とか言いながらも君達の期待した地獄へ案内した。 承知でコケにした。 この学説にご意見ご感想をどうぞ。

  • 2代目キリストなんて不要なんだよ

    備忘録から抜粋して質問の体裁に仕上げました。 他方での雑談でもあります。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ああ、 そうそう。 師匠役として指南してくれたあなたになら、持ちけられる話題だよ。 返答が無くても、備忘録を兼ねているので、おおらかに構えてくださいな。 あなた、いわく。 「釈迦は葬送が必要ではないか」 釈迦は、存命中に解脱を宣言して認められたから、公的(宗教的)には必要が乏しいんだよ。 釈迦本人が納得していて、わきから文句を言っても無効だ。 「イエスは葬送が必要ではないか」 これに置き換えて研究してみるよ。 葬送と表現しないで供養と言ったほうがいい。 存命中で、イエスの故事を知った人は、イエスの存命中の苦しみを重視する。 そして、人の大半は自分の存命中しか類推できない。 イエスは存命中も死に際しても、一貫して本人は充実していた。 そのように、イエスを知ることが自らの死を知る事でもある。 何かと、こういう死にまつわる命題だったのだろう。 イエスの苦悶を妄想して、それをむしろ美談にする限りは、むしろイエスを侮辱していて供養できていないと判断すると、教養豊かな日本人という事になる。 天界とか、神階とか、地獄とか言うのを、一元的に霊界と仮定して模様。 一律の霊界では、生粋の観念常在の住人を天界人という(だろう)。 それが天界の知恵者となるだろう。 いわゆる人格神だ。 年季と専門職務で、個別に天界で条理を司り、それを地上に波及させることが出来る存在の事だ。 あなたが挑戦している、唯一神を普遍神に置き換える、表現の変更を試みる場合には、全て平坦な霊界という表現から、神か、人か、人に似た獣なのか、自己を判断すると良い。 その中で、神という規範と信教から比較して、自己の人間性を自己診断できるのだろう。 各個人が観念世界で天国行きを目標にして、そこにたどり着くのが、人に似た獣だと、結局は地獄だ。 釈迦の規範を定格化した仏陀の判定では、釈迦は解脱したので信仰心ではなく完全に理解と了解すれば(体感する必要がある)、何等かの仏陀だ。 仏陀型は、宗教の教義にされているよりも、実は難易度が低い聖人なんだよ。 実質的な仏陀相当の西洋版であるキリスト型(2代目)はイエスの苦悩を取り払う供養を、自らがしてこそ到達するのだ。 この命題は「生きながらに、いったんは死んでみる」ことで、生きている人に説明できる体裁になる。 しかし、釈迦の修行時代も似ているし、どっちでもやることは臨死体験を望むことだ。 「強烈な絶望」から息を吹き返しても、まあまあ達成できるのだろう。 試験の合格判定は案外低いんだよ。 ただし天界での人格神としての序列に影響する。 さて、手前の事だけどねえ。 私は過去と変則的な体裁で、自らが仏陀だと自覚した。 天からの聖霊ではなく、自らが聖霊として天界に赴くという、「地の聖霊ときわたりの世麗美」というインナーチャイルドと同様の、学術的に承認された自己の精神を内包する。 私は地上に常在している。 世麗美は天界に常在している。 この状況とは、私も肉体が滅びる死は訪れる。 しかし、観念に常在する世麗美は死なない。 私が滅びれば、世麗美そのものになるだけだ。 これは世間一般の死という表現が、実質的に私にとっては「死ではない」という自覚なんだよ。 「人は誰もが死ぬ」今までもこれからも例外はない。 現在のテクノロジーの挑戦は、死後の自分が残した形骸をいかに忠実に保存するかが主力で、今後高度化しても、死の段階や階層がややあいまいになるだけだろう。 例えば癌細胞は無限に分裂する。その故人の癌細胞を永続して分裂させても死はゆるぎないのだが、テクノロジーがさらに死をあいまいにさせるだけだ。 天界との交渉では、私と世麗美は「むしろキリスト型の理想的な完成形だ」と干渉を受けて困惑している。 2代目キリストなんて不要なんだよ。 キリスト教徒はイエスだけを見て、2代目の成立を祈り懇願するだけで、落第評価なんだよ。 ーーーーーーーーーーーーーー さてと、何が質問かというと、作文と見なしての添削依頼です。 哲学好きには、おいしいネタ満載だろうと思いますから、深い突っ込みもできると思います。 趣味で掲載した写真は、フィルムカメラで自分が撮影して編集していない風景です。

  • いわゆる「超訳」について

    著作権の点では問題ないのでしょうか? 「超訳」は、解りやすさや面白さを優先させるために原作を大幅に省略したりする一種の意訳のことを指すようです。 「超訳」と言えば、アカデミー出版から刊行されていたシドニィ・シェルダン氏の一連の作品が頭に浮かびます。 それらはシェルダン氏存命中に発行されたものですから、その「超訳」については、著作者であるシェルダン氏と版元の間で了解があったものと推察します。 ところが最近、コンビニでニーチェや仏陀の「超訳」本を見かけました。かなり売れているようです。 ニーチェや釈迦本人は勿論のこと、仏典を書き上げた弟子達が無くなってから、50年はとうに過ぎてます。 日本語現代語訳についても、翻訳者の死後50年は経っているのではないでしょうか。 故に、これらの著作物に関する著作財産権は消滅しているのでしょう。 従って、誰が出版してもかまわないと考えられます。しかし、いわゆる同一性保持権についてはどう考えるべきでしょうか? ニーチェや釈迦が「超訳」の許諾を出版社に与えるべくもありませんが、こうした「超訳」が原作の意味や表現から大きく飛躍または逸脱して、もはや別物というべき作品と化してしまった場合、著作同一性保持の立場から、誰がどのように対抗しうるのでしょうか? いわゆる学界の良識や出版界の商業倫理を問う以外にないのでしょうか。 また、上記のような海外の文献のみならず、国内の著作物についても「超訳」本が刊行されている例は少なくないように思えます。 その際、超訳者のオリジナリティや創作性が介在するのは仕方ないことでしょうが、その訳された(翻案された)結果が、たとえ原作の意味するところを辛うじて保持していたとしても、表現が著しく変容し、原作のそれを大きく毀損していると考えられるような場合でも同一性保持の立場からの対抗は困難なのでしょうか。 いわゆる古典の現代語版というものがあり、その入門書としての意義は大いに認められるでしょう。 ただ、その場合でも訳者の趣向が少なからず加味されているが故に原本の持ち味を損なっている残念な例もあります。 読み継がれるべき古典は山ほどあります。それこそ版元にすればネタには困らないのでしょうが、売らんが為の「超訳」本の乱発は混乱を招くだけではないのでしょうか。 ご意見を聞かせて下さい。

  • 仏陀

    質問を閲覧していただきありがとうございます。 最近仏教についての授業をいくつか履修しており、 もうすぐクラスでプレゼンがあるのですが、仏陀のハンドジェスチャーの意味を調べても、どこを探してもみつかりません。kizilの洞窟からでた壁画で、仏陀がドラゴンのボートに乗っているものです。 右手は肩の高さくらいまであがっており、親指と人さし指で円をつくり、残りの指は平らになっています。左手は胸のあたりにあるのですが グーみたいな形で(よく見えないのですが)たぶん手の甲をコチラに向けてます。 どなたかわかる方いらっしゃたら教えて下さい。お願いします。

  • 仏陀になるのって、割と簡単じゃないですかね。

    あ~、まあ、仏教における、無の悟り、無の境地といった瞑想の内から「無我論」という学問を抽出して説明しよう。 無我論とは、実際の中身は自我論で、自我を探求し人間として完成する事なんだよ。とんでもない持論でばかばかしいだろう。 話はシャカの時代に引用されていた「我」という概念の翻訳ミスだ。 当時の「我」とは現代語で、人格のことで、社会的な資質を獲得して人と人がお互いを理解する人間の成立には、他者の影響を自己の心中に内包することが欠かせない。 そうして自己の情動は他者の影響と、自分自身の他者への働きかけを加味して、自己を人格という形で自覚する。 その人格の核質として、完全に固有の自分自身であるという、自覚しうる(悟りという)精神の中核が自我だ。同時に古代語で仏性という。 「我」はイコールで「人格」、「仏性」はイコールで「自我」だよ。 わかってしまうとあっけないことだ。 他者の影響は悟りを脅かす煩悩とされ、本来は人間を成立させる尊い働きという一面があることを排除した思想を推奨した。 そして現代語に吹き替えると、古代語の我に相当する人格という精神の外郭を排除する苦しい修行をすると、現代語で言う自我に相当する仏性に到達するという、自我確立の目的とした論理だ。 我はないというのは、人格はないという、修行のための自己暗示だ。 現代では、「自我がない」という論理として誤解が定着して無我論という。 わかってしまえば大笑いだよね。 この謎めいた古代語の解釈さえ成立してしまえば、日本史と日本の宗教には、再発見や再定義が必要な重要なキーワードがある。 「正人」という言葉とその類語だ。 仏陀とは、自己を完成させた人物のことで、それは自己の信仰心の完成でもあるために宗教で取り扱われる、誰もが認める「まさに、人間だ!」という人物への尊称である。 仏陀型は、自己の完成と安定した自我能力で人格面に関しても実際は、自我能力の高さが発揮されるので、社会性に関して仏について伝承される、誰の心をも癒す「世界の全てとの親和性」そして意外に重要なのは「般若の知恵」で、内包する社会との接点である人格全体が完成するのだ。 この特徴は「正人」で、十分に了解可能であり、歴史に名を遺した人物以外に、忘れ去られた人物は多い事だろう。 自己を人間として完成させることであり、崇拝を獲得することが仏陀型の証ではないからだ。 さて、今回が学問カテゴリーに自分の論考を掲載しました。 私の研究を先に進める手伝いを募集する質問でして、堅苦しくなくていいですから読書感想文をお願いします。 それからこの魔窟的な哲学カテゴリーは常連が変人しかいませんので、意味不明の喚き散らしや、回答者様が個人的に取り組んでいる研究の難解な独り言も歓迎します。

  • 《無記(アヰヤークリタ)》とは どういう現実か?

     《善でも悪でもない》というだけではなく 言わば《善悪の彼岸》なる境地であって 人びとの思惟および意志の行為における善あるいは悪の内容じたいはこれを受け留めつつ それらを――すでにこの生身の実存において――超えている。相手の善や悪には それなりに影響を受けつつ しかも左右されないのである。これは 飛躍して 慈悲につながるか?  こう見たのですが――すなわち 岩井昌悟:現代仏教塾 《初期仏教の輪廻思想》を ようつべで見たあとそう考えたのですが―― 次のマールキヤプッタの物語にちなんで 表題の問いを問います。ご見解をおしえてください。  ▼ (ヰキぺ:無記) ~~~~~~~~~~~~~  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E8%A8%98  § 仏典記述  パーリ語経典中部63経『小マールキヤ経』では、有名な「毒矢のたとえ」と共に、「十無記」について記述されている。  釈迦が舎衛城の祇園精舎に滞在している際に、マールキヤプッタ尊者の中に、  1. 世界は永遠であるのか  2. 世界は永遠でないのか  3. 世界は有限であるのか  4. 世界は無限であるのか  5. 生命と身体は同一か  6. 生命と身体は別個か  7. 修行完成者(如来)は死後存在するのか  8. 修行完成者(如来)は死後存在しないのか  9. 修行完成者(如来)は死後存在しながらしかも存在しないのか  10. 修行完成者(如来)は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか  といった10の疑問が生じた(上記の通り、対になる選択肢を統一すれば、実際は4つの疑問である)。  マールキヤプッタ尊者は、これらの疑問に釈迦が答えてくれるなら修行を続けるが、答えてくれなければ修行を放棄しようと考えつつ、釈迦にこれらについて問う。  それに対して釈迦は、「私の下で修行すればそれらについて説くと私は話したか、またマールキヤプッタはそのような期待でこの修行を始めたのか」と問い返す。マールキヤプッタ尊者はどちらも違うと否定する。  釈迦は「もし私にそうした疑問について説いてもらえない限り、私の下で修行しないと言う人がいたとすれば、その人は私にそれについて説いてもらう前に、死期(寿命)を迎えてしまうことになるだろう」「例えば、毒矢に射抜かれた人がいて、その友人同僚・血縁者たちが内科医・外科医にその手当てをさせようとしているところで、その当人が  『私を射た者が王族(クシャトリヤ)であるか、バラモンであるか、農商工業者(バイシャ)であるか、奴婢(シュードラ)であるかが、知られない内は、矢を抜くことはしない』  『私を射た者の名や姓が知られない内は・・・』  『私を射た者が長身か短身か中くらいかが知られない内は・・・』  『私を射た者の肌は黒いか褐色か金色か知られない内は・・・』  『私を射た者がどの村・町・市に住んでいるかが知られない内は・・・』  『私を射た弓が普通の弓か、弩(いしゆみ)であるかが知られない内は・・・』  『弓の弦はアッカ草で作ったものか、サンタ草で作ったものか、動物の筋繊維で作ったものか、マルヴァー麻で作ったものか、キーラバンニン樹で作ったものかが知られない内は・・・』  『矢の羽がワシの羽か、アオサギの羽か、タカの羽か、クジャクの羽か、シティラハヌ鳥の羽か、知られない内は・・・』  『矢幹に巻いてある筋繊維が牛のものであるか、水牛のものであるか、鹿のものであるか、猿のものであるか知られない内は・・・』  『矢尻は普通の矢か、クラッパ矢か、ヴェーカンダ矢か、ナーラーチャ矢か、ヴァッチャダンタ矢か、カラヴィーラパッタ矢であるかが知られない内は・・・』  といったことを考えていたとしたら、その人はその答えを得る前に死んでしまうのと同じように」「それらの答えが与えられてはじめて、人は修行生活に留まるということはない」「それらがどうであろうと、生・老・死、悲しみ・嘆き・苦しみ・憂い・悩みはあるし、現実にそれらを制圧する(すなわち、「毒矢の手当てをする」)ことを私は教えるのである」  「故に、私は説かないことは説かないし、説くことは説く」「先の疑問の内容は、目的にかなわず、修行のための基礎にもならず、厭離・離欲・滅尽・寂静・智通・正覚・涅槃に役立たないので、説かない」  「逆に四聖諦は、目的にかない、修行のための基礎にもなり、厭離・離欲・滅尽・寂静・智通・正覚・涅槃に役立つので、説く」「この説かないものと、説くものとの違いを、了解せよ」と諭される。  マールキヤプッタ尊者は歓喜し、釈迦の教説を信受した。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ マールキヤプッタは どのようにして納得したのか?  四聖諦は けっきょくさとりに到る道もしくはすでにさとりの状態を外形的に問題にしているのだから それが分かったところで おそらくまだ無理である。玉ねぎの芯にはまだ到らない。  むしろ ゴータマ氏が 直接に問いに答えるかたちを採らなかったところに問題があって それはそのまま 《無記(むき、巴: avyākata, アヴィヤーカタ、梵: avyākṛta , アヴィヤークリタ)》のことに帰着するのではないか。無記が何であって 何をそこから広がって指し示そうとしているのか これを理解することによって物語を解く鍵があるのではないか?  ご教授ください。

  • 「天皇家は百済系の血が濃い」という俗説・「高野新笠」が皇后として認められなかった理由

    1、天皇家は百済系の血が濃いという話を聞いたことがあります。 具体的にどう濃いのかを調べてみたら、全然濃くなかったのです。逆に薄いくらいでした。 天皇家に入っている百済系の血は、たった一人だけです。 桓武天皇の母親が百済王族の末裔の帰化人(国籍は日本人)の「高野新笠」だけです。 具体的に人物を調べてみると、天皇家に血を分けた百済系帰化人は「高野新笠」一人だけでした。 それなのに、どうして世間では「天皇家は百済系の血が濃い」と言う俗説を言う人がいるのでしょうか? 2、百済王族の末裔の帰化人の「高野新笠」は生きている間は皇后として認められていませんでした。(死後、皇后となる。) 生きている間に皇后と認められなかったのは異例です。 これは、当時の帰化人の扱いの低さを物語っています。(実際、大和朝廷内での帰化人の扱いは低かった。) 当時の人々が「百済系帰化人の末裔などは国籍は日本人でも、皇后として認められない」という行動をとった証拠でしょう。 「高野新笠」の夫と息子は天皇です。 「高野新笠」が皇后と認められない理由は他に何かありますか? 3、桓武天皇の父であり、「高野新笠」の夫である、白壁“王”(のちの光仁天皇)は、天皇を継ぐ立場ではありませんでした。 当時、天皇を継ぐ可能性がある者は“親王”を名乗ります。 “王”は一応、皇族ですが、天皇を継ぐ可能性は低いです。 白壁“王”はまさか天皇になるとは、夢にも思っておらず、また周囲も白壁“王”が天皇になるとは思っていなかったので、百済系帰化人の「高野新笠」との結婚を認めたのではないでしょうか? そして、天武系皇族が度重なる粛清で途絶えたために、天智系の白壁王が62歳という高齢で天皇になった。 仕方なく、(血の問題で)天智系の白壁王を天皇になったとしても、百済系帰化人の「高野新笠」を皇后として認めるわけにはいかない。 当時の人々はそう考えて、「高野新笠」を皇后として認めなかったのではないでしょうか? 4、「百済が滅亡した時に、大和朝廷は多数の百済系王族を帰化人として受け入れたから、天皇家は百済系の血が濃いのだ」と言う人がいます。 果たしてそうでしょうか? 百済系帰化人は最初は一応、それなりの地位(貴族など)を与えられましたが、百済系帰化人はすぐに人民に降下しました。 大和朝廷が百済系帰化人に関東に土地を与えて移民させた話などが残っています。 当時の大和朝廷には、資金的な余裕もなく、例え貴族でも天皇から血が離れていけば臣籍降下します。 具体的には、在原業平などがそうです。 在原業平の父は平城天皇第一皇子の阿保親王。母の伊都内親王は桓武天皇の皇女です。 在原業平は平城・桓武天皇の孫にあたります。 祖父が天皇でも臣籍降下するのに、百済系帰化人がいつまでも貴族でいたというのは間違いです。 従って、「百済が滅亡した時に、大和朝廷は多数の百済系王族を帰化人として受け入れたから、天皇家は百済系の血が濃いのだ」というのは間違いでしょう。 具体的に天皇家に血を分けたのは「高野新笠」一人だけですので。 いかがでしょうか? 5、天皇家がどこから来たのかは諸説あり謎です。 元々、大和に住んでいた者なのか?九州から来たのか?中国から来たのか?朝鮮半島から来たのか? (私は九州から来たと思っています。) 中国歴史書に書いてあるのは、「百済は支配層と民衆の言語が違う」、「百済の住民の多くが漢人や倭人」、「倭人が頗る多い」 (百済王族は最初は扶余姓を名乗り、しばらくしてから“余”と1文字に略した。余豊璋など。) 例えば、朝鮮半島の百済の王族(扶余族=騎馬民族)が日本を支配したとしたら、それは騎馬民族征服説になります。 (扶余族は、中国三国時代に満州に住んでいた民族で、万里の長城より北、南は高句麗に、東は挹婁に、西は鮮卑接する範囲に住んでいた。) 私は騎馬民族征服説などと言うトンデモ説は信じていません。 ここで天皇家は朝鮮半島から来た=騎馬民族征服説を論ずるのはやめておきましょう。 ※「騎馬民族征服説は正しいから天皇家は百済系の血が濃いのだ」という理由なら、申し訳ないですが回答はご遠慮して下さい。

  • 生い立ち

    私の友達で、生い立ちをあまり人に話したくない子がいます。 その子は、別に隠したいわけでもないですが、親の年収とか兄弟の仕事とか細かく聞かれると、他の人間とくらべられるようであまり話したくないといいます。それぞれの家庭があるし、私は別にいいと思いますが、それをしつこく聞いてくる人がいて、彼女がさらっとかわしているのに気づいてくれなくてなんか嫌だそうです。その聞いてくる人は誰がお金持ちとかそういうのに興味があってか、みんなに聞きまわってだれだれが一番お金があってだれだれば2番目で。。なんて番付けしています。私もそういうのはなんかうざいな、って思います。そういうのを上手くかわす場合、みなさんはどうやってそういう人間に聞かれないように話しを持っていきますか??なんどもなんども聞かれると、そらすのもなかなか難しくなってきますよね。それとも、そんな番付けに気にせず普通にみなさんは年収など言うものなのでしょうか??

  • 彼女の生い立ちについて

    彼女の生い立ちについて 今付き合って約一年くらいの彼女がいます。 彼女は人と接することが得意ではなく人との間に壁を作るようなタイプです 自分の容姿や性格などに自信がないようなのです。 その理由を彼女に尋ねると小学生のときに父親が失踪し、その影響で母が自殺未遂 したのを見て以来人を信頼できなくなり、自分に自信がなくなっていったそうなのです。 そこで皆さんに質問です。 (1)過去のつらい経験を彼女は克服できるのでしょうか? (2)彼女のために僕ができることはありますか?