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大奥と政治の関係についてだれか詳しい方いましたら説明のほどをよろしくお

大奥と政治の関係についてだれか詳しい方いましたら説明のほどをよろしくお願いします。

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回答No.2

bungetsuです。 <続き> (5)最後は、天璋院篤姫をご紹介しましょう。 13代将軍家定の継々室(3番目の妻)。 家定に嫁ぐ時、養父である島津斉彬から14代には慶喜を押すよう大奥や表(幕府)を働きかけるよう指示されて嫁いだ。そして、江戸の薩摩藩邸にいた西郷隆盛ととも活動するが、慶喜は無類の「倹約家」であったため、大老の井伊直弼は、大奥の粛清を図られては大奥を敵に回すことになる、大奥2,000人とも3,000人とも言われる大所帯を敵には回しては自分の保身も心もとない、と考え紀伊慶福(よしとみ・家茂)を次期将軍とすることを決定する。13代家定は35歳で死亡。篤姫は天璋院と名乗ることとなる。 14代には家茂が就任するも、朝廷から攘夷の沙汰があり、京都に向かう。そして、大阪城で急死する。 15代には慶喜が就任するも、尊皇攘夷派の勢力が拡大し、ついに、鳥羽伏見の戦いが起きる。慶喜も参戦するが、負けを悟った時、多くの将兵を大阪に残したまま単身で江戸へ帰城。 天璋院は大いにあきれるが、それでも祖母の立場として、朝廷に対して敵意のないことなどの手紙を書かせています。 しかし、勢いに乗った倒幕軍は、 「慶喜の首を取らねば、幕府の息の根は止められない」 として、慶応4年(1868)2月9日、錦の御旗を押し立てて京都を出発。 東海道軍と中山道軍、北陸道軍の3つに分かれて進軍を開始。討幕軍の総大将は西郷隆盛。 東海道軍は3月6日に駿府に到着。さらに、3月11日に多摩川を渡ったところで中山道軍の到着待ちで進軍停止。中山道軍は3月13日板橋宿に到着し、北陸道軍と合流すべく進軍停止。千代田城(当時は、江戸城とは呼ばず、正式には「千代田城」または「舞鶴城」(ぶかくじょう)と呼び、庶民はただ単に「お城」と呼んでいました)総攻撃は3月15日と決定する。 そんな慌しい中一通の書状が西郷の元へ届きました。 「・・・勝った方にも家族はいます。負けた方にも家族がいます。徳川家が永らえるよう、私の一命にかけて、なにとぞお願い申し上げます」 差出人は天璋院。3,000字余りにも及ぶ巻き書状。 西郷と天璋院は、共に、14代に慶喜を押していた竹馬の友。 そんな同士からの手紙どのような気持ちで読んだのでしょうか。 14日、西郷は単身で千代田城へ赴き、勝海舟と会談。そして、千代田城総攻撃の中止を伝えたのでした。 4月11日、千代田城無血開城。 天璋院は、討幕軍が城受け取りに正門から入る直前まで城内に残り、徳川家代々の宝物で城を飾り付けて、江戸幕府の終焉の幕引きをして、身一つで一橋邸に向かいました。 大奥は、やはり「すごかった」。表の政治をも動かす力があったのです。 このような説明でよろしいでしょうか?

sakati-
質問者

お礼

詳しい説明ありがとうございます。 大学の課題で調べてこないといけなかったので、とても参考になりました。

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回答No.1

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>大奥と政治の関係について そうですねぇ。何から話したら良いでしょうか。 (1)春日局と家康 これはもう、皆さんご存知かと思いますが、2代将軍秀忠とその正室お江の方(おごうのかた)が次男の国松(忠長)を可愛がり、3代将軍にしようと画策していたところ、春日局は長男の竹千代(家光)の乳母であったため、伊勢詣でと称して駿府の家康に「家督は長子が継ぐべきだ」とご注進をし、みごと家光を3代将軍にしました。 また、将軍を徳川家が相続するために、「子ども製造所」である「大奥」をつくった。 (2)忠臣蔵 5代将軍綱吉はマザコンであったため、母であるお玉の方(桂昌院)に従一位を贈位しようとして、朝廷からの使者を受け入れる準備の最中の元禄14年(1701)3月14日に勅旨饗応役の浅野内匠頭が高家肝煎の吉良上野介に殿中松の廊下で切りかかる事件が勃発。浅野内匠頭は即日切腹。これに対して、翌年の12月14日(正確には、15日午前2時頃)浅野家の筆頭家老大石内蔵助ら48名が吉良邸に討ち入りをして敵をとった。 (3)綱吉暗殺? 綱吉の正室小石君(こいしぎみ・信子)には子どもができず、綱吉は側室の右衛門佐(うえもんのすけ・常盤井)を寵愛したことから、嫉妬のあまり、綱吉を大奥に呼び、信子と戯れていたところ、突如として懐剣を出して綱吉を殺害した、と言われている。宝永6年(1709)1月10日。 なお、徳川家文書では、信子は翌日に死亡したとされており、余りにも死亡日が近いため、綱吉暗殺の噂が流布した、とも言われている。 (4)絵島生島事件 6代将軍家宣に起きた事件。 詳細は、 家宣には正室として煕子(ひろこ・天英院)がいたが、子どもを2人生むがいずれも早世し子どもがいなかった。家宣は、次第にお喜世の方(おきよのかた・月光院)を寵愛するようになり、7代将軍となる家継を生み、正室に代わる大奥の権勢をほしいがままにした。そこで、煕子は老中秋元喬知(あきもとたかとも)と計り、お喜世の方の上臈御年寄りであった絵島が正徳4年(1714)1月12日にお喜世の方の名代として寛永寺や増上寺へ参詣した帰りに山村座に立ち寄り芝居見物をした。その後、この山村座の生島新五郎と密通したとされて、老中秋元喬知の詮議を受け、絵島は信州高遠へ配流、生島も三宅島へ配流。山村座はお取り潰し。お喜世の方派の1,500人余りが大奥をお払い箱。これにより、お喜世の方の権勢が大幅に粛清された。しかし、7代将軍にはお喜世の方の子ども家継が、わずか7歳で就任し、お喜世の方の派閥も復活し始める。だが、家継が間もなく風邪を押して能舞を謁見したことで病に倒れ、次期将軍候補が幕府内で取りざたされるようになる。 その候補としては、煕子の押す紀伊吉宗とお喜世の方の押す尾張継友がいたが、煕子は老中秋元を完全に手中にいれており、幕府の決定として家継の死後、8代将軍に吉宗が就任する。ここで、月光院(お喜世の方)は、女の美貌を武器にして吉宗に接近。今度は逆に大奥粛清と称して天英院(煕子)派の約1,500人を大奥から追放した。天英院は自分の押した吉宗が寝返ったことを怒ったが後の祭りであった。 字数制限があるようですので<続き>へ

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