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理不尽や矛盾様々なことに対して…

理不尽や矛盾様々なことに対して… 一般論で受け入れるのと、仏法的…といいますか深く考え受け入れるのとの違いを事細かに解り易く教えてください。 どちらが自然で正しいのでしょう蚊。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.2

「我慢する」のと「納得する」のとの違いではないでしょうか。 前者が、表面的に自分を抑えるのなら、後者は、相手と自分の 原理にまで遡って、その現象的な対峙の奥の共有性を感得し、 単純な対立の構造の向うに止揚の道を見出す、ていう。

minaotehon
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 信じるとはもしかすると難しいことなのかです‥ 信じるのは自然なことだったのにです。 信じようと努力することは信じていないになるのかなと…改めて思ってしまいました。 参考になりました。 ありがとうございました。

その他の回答 (1)

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.1

どちらが自然で正しいのでしょうか ○どちらも正しいのですよ。 立場の違いだけの問題なのですね。人はそれぞれ考え方や境涯が違いますからやり方もいろいろあるということだけなのですね。 あるものは矛盾に満ちた芝居の役者を悩みながら、苦しみながら演じ、それを見ている監督は自分の理想の姿を求めて悩み、それを観ている観客は、その悩み苦しみを見てまた、悩み、悲しみ、喜んでいるのですね。また、それを観ている目もあるという永遠の段階なのですね。 さて、あなたはどこにいますか。どこで生きて自分を演じてますか。ということだけですね。 これらの段階、一つ一つに思いをめぐらせ、より客観的に鳥瞰する立場が仏教的思慧ですね。 でも、どのように鳥瞰しようとも生身の人間は、同時に今を生きなければいけないのですね。 今に囚われて悩み苦しむより、より多くを知って悩むほうがより為になるということですね。 理不尽や矛盾様々なことはあなたをより立派に美しく磨く砥石でしかないのですね。 磨かれて気づくこともあり、仏教的思慧で気づくことあり、つまりどちらも正しいのですよ。

minaotehon
質問者

お礼

『どちらも…』…。 永遠の段階…。 一つ一つに…。 役者・監督・観客… 今は理想を求めてしまう監督の心が近い様に思います。 より多くを知って悩む…。 疲れ果て傷ついてもでしょうかと…。 頑張らなくては☆ですね。 ご回答ありがとうございました。

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