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村上春樹の「1Q84」の中で、ウィトゲンシュタインの「いったん自我がこ

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お礼率 77% (21/27)

村上春樹の「1Q84」の中で、ウィトゲンシュタインの「いったん自我がこの世界に生まれれば、それは倫理の担い手として生きる以外にない。」という言葉が引用されて出てきます。この言葉は、ウィトゲンシュタインのどの著作のどの個所に出てくるのか、ご存じの方がいたら教えて下さい。

回答 (全2件)

  • 回答No.2

ベストアンサー率 81% (422/520)

お礼欄拝見しました。

> 表象する主体は恐らく空虚な妄想であろう。

村上さんのパラフレーズはこの箇所を落としていらっしゃいます。
パラフレーズした文章のリリカルな雰囲気に、「表象」や「妄想」という言葉がそぐわなかったのか、この文章の含意するものはとても一行や二行で書ききれないから、落としたのか、それとも「いったん自我がこの世界に生まれれば」のなかに溶解し得ると考えておられたのか、わたしにはよくわからないのですけれども、これは『論考』にも出てくるし、後期の言語ゲームとも密接な係わり合いを持っている、非常に重要な一文だと思っています。

どこまで回答するべきか、実際にかなり迷ったのですが、ここではごく簡単にふれるにとどめておきます。非常におもしろいところなので、もし興味がおありでしたら『ウィトゲンシュタインはこう考えた』(鬼界彰夫 講談社現代新書)のご一読をおすすめします。

この草稿の箇所は、草稿での思索を経て『論考』に受けつがれていきます。
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5.631 思考し表象する主体は存在しない。
もし私が「私が見出した世界」という本を書くとすれば、そこでは私の身体についても報告がなされ、またどの部分が私の意思に従いどの部分が従わないか、等が語られねばならないであろう。すなわちこれが主体を孤立させる方法であり、むしろある重要な意味で主体は存在しないことを示す方法なのである。というのもこの本では主体だけが論じることのできないものとなるであろうからである。

5.632 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。

5.633 世界の中のどこに形而上学的な主体が認められうるのか。
 君は、これは眼と視野の関係と同じ事情だと言う。だが、君は現実に眼を見ることはない。
 そして、視野におけるいかなるものからも、それが眼によって見られていることは推論されない。
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ここで扱われているのは、主体もまた対象なのか、という問いです。そうして、『論考』では、対象としての主体(表象され、書き表され、見られる対象としての主体)は存在しないことが言われています。

ここから結論づけられるのは、5.632 で言われるように、主体は世界には属さない、ということです。
では、世界のなかで主体はどういう位置を占めているのか。

それが草稿のこの段階では「意思する主体」として、世界の内部に場所を与えられているんですね。
ここから「意思」に考察は進み、『草稿』のなかで意思はつぎつぎに「対象化」されていき、やがて『論考』での「倫理的なものの担い手としての意思について話をすることはできない」(6.423)というテーゼへと結実していきます。

以上、何かのお役に立てれば幸いです。
  • 回答No.1

ベストアンサー率 81% (422/520)

これは、ニーチェもそうだったけれど、オリジナルそのままではなく、村上春樹特有のパラフレーズがほどこされている文章だと思います。わたしもウィトゲンシュタインはそれほど読んでいるわけではないので断言はできないのですが、少なくとも『論考』や『探求』にはありません。

その上で、あくまでもこれはわたしの意見として聞いていただきたいのですが、おそらく『草稿』に出てくる1916年この文章のパラフレーズではないでしょうか。

1916.8.5
表象する主体は恐らく空虚な妄想であろう。しかし意思する主体は存在する。
仮に意思が存在しないとすれば、我々にとって自我と名づけられ、倫理の担い手でもあるあの世界の中心も存在しないことになろう。
本質的に自我のみが善や悪なのであり、世界はそうではない。(p.267『草稿1914-1916』『ウィトゲンシュタイン全集1』所収)

ここで、世界の中に「自我」が「倫理」と相関しつつ立ち上ってくることが書かれています。だから、
> いったん自我がこの世界に生まれれば、それは倫理の担い手として生きる以外にない。
というパラフレーズは、ウィトゲンシュタインの思索が

「世界の出来事を私の意思によって左右するのは不可能であり、私は完全に無力である。(1916.7.5)」

「私は運命から独立しうる。
二つの神的なもの、すなわち世界と私の独立した自我が存在する。(1916.7.8)」

「もっぱら、私の生は比類のないものであるという意識から、宗教、学問、そして芸術が生じる。(1916.8.1)」

「そしてこの意識が生そのものである。(8.2)」

という道のりを経て行き着いたことを考えてみても、内容を正しく汲みとっていると思います。

以前もニーチェで回答したことがあるんですが(http://okwave.jp/qa/q818345.html
「世界は深い、昼が考えたより深い」という原文を、「昼の光に夜の闇の深さが分かるものか」と変えていくあたりを見ても、村上春樹のパラフレーズは、カッコいいですね。
それが微妙に危ういような気がしないではないのですが……。ちょっとだけ。

以上、参考まで。
お礼コメント
Helfgott

お礼率 77% (21/27)

ご返答ありがとうございます。

私もざっと調べてみつからなかったので、質問しました。パラフレーズ、ということで納得です。村上春樹のパラフレーズは、時にウィトゲンシュタインやニーチェ本人の言葉よりも、頭に残ってしまいそうですね。

質問ついでにもう一つ質問なのですが、

>表象する主体は恐らく空虚な妄想であろう

という個所は、何を指しているのでしょうか。もしわかりましたら、よろしくお願いします。
投稿日時 - 2010-07-04 16:29:42
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