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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:織田秀信(三法師)について)
織田秀信(三法師)について
このQ&Aのポイント
- 織田秀信(三法師)は、織田信長の嫡孫であり、関ヶ原の後の彼の行方について気になっています。
- 織田秀信は西軍へ参加し岐阜城に篭城し、激戦の末に陥落しました。その後、高野山に追放され、26歳の若さで病没したとされています。
- しかし、生存説もあり、同門の信雄や有楽斎、実弟の秀則なども生存し、織田本家の当主が誰かに招かれることはなかったのかと疑問に思います。また、祖父の信長が高野山を攻撃したことで迫害を受け、何かに巻き込まれた可能性も考えられます。
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質問者が選んだベストアンサー
はっきり言えば、邪魔な存在でしかありません。 織田信孝は柴田 勝家に加担して自害。 織田信雄は家康と組んで豊臣秀吉と交戦しますが、勝手に講和してしまいます。 秀吉は家康は無理だが信雄なら雄弁で講和に応じると考えたのです。 そう褒めるなら、何故戦に及んでいるのでしょうや? と、家康なら追及してきます。^^; 三法師は秀吉の懇意であり、自分の身に危険が及びます。 これが正当な血筋であると、自分が叩き出される可能性があります。 かくまう事は謀反に繋がります。 どこぞに仕官するのが普通です。 残念ながら、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E7%A7%80%E6%9C%9D http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E6%81%92%E7%9B%B4 もう、てんでアテにならねー。 のです。^^;
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- Pinhole-09
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回答No.1
丹羽氏は織田家と姻戚関係にあり、秀信とも深い関係がありました。 西軍に組みした丹羽長重が改易後、慶長8年許されて大名に返り咲いた同じ年に、秀信は叔母の葬儀を行っています。 何か関係がありそうです。 高野山を追われた秀信は長重を頼り、その知行の陸奥棚倉へ招かれ、丹羽氏の一族となった可能性は考えられます。 織田秀信の名は歴史から消えたという事です。
質問者
お礼
丹羽長が復帰したのはそのオバさんの亡くなったのは同年だったからってまさか毒盛ったわけじゃないしさ、「フツーに生前親交があったから葬儀に行った」って考えるのが自然だよね。 復帰するまで待って、2~3年空白があるなら関係があると思うけどさ。
お礼
とてもふかい回答を有難うございます