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武士道!?
内田樹が書いています。 ▲ (内田樹:日本辺境論) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ けれども武士においては 名誉は実利につねに優先します。それゆえ新渡戸は 正直は引き合う( Honesty pays in the long run. ) という欧米流の商業道徳に対して 次のようなパセティックな宣言をなすことになります。 しからば 徳それ自身がこの徳の報酬ではないのか。もし正直は虚偽 よりも多くの現金を得るが故にこれを守るのだとすれば 私は恐れる 武士道はむしろ虚言に耽ったであろうことを! 武士道は 《或るものに対して或るもの》という報酬の主義を排斥する・・・。 (新渡戸稲造:武士道 矢内原忠雄訳) ここには非常に重要なことが書かれています。・・・努力と報酬の間に相関があることが確実に予見せらるることは武士道に反する そう言っているのです。これは日本文化の深層に届く洞見だと私は思います。 (II 辺境人の《学び》は効率がいい pp.134-135) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この文章におぎないたいと思うところをおしえてください。添削・補足・批判などをお寄せください。
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こんばんは、Hidocchiです。 以下の文章は、考古学者のシュリーマンが幕末の日本を、1865年6月1日から7月4日までの約1ヶ月間、日本に滞在した際の旅行記でございます。 シュリーマン著(石井和子訳)「シュリーマン旅行記 清国・日本」からでござます。 p.116 「どしゃ降りのなか、私に付き添うはめになった五人の役人とともに、私は朝八時四十五分に出発した。この護衛の役人はわずかばかりの心付けを受け取ることも許されない。彼らは、どんな辛い運命からも、その苦しみのなかばを取り除いてくれるある哲学、毅然とした諦観をもって、人生の巡り合わせにただ従っている。」 p.146 「だからなおのこと、その精勤ぶりに驚かされるのだ。彼らに対する最大の侮辱は、たとえ感謝の気持ちからでも、現金を贈ることであり、また彼らのほうも現金を受け取るくらいなら「切腹」を選ぶのである」 新渡戸稲造とは全く無関係でございますが、シュリーマンの観察記録は上述のようでございました。 それから、約150経ちましたが、今の日本国をどのようにシュリーマンが想像していたのか と思い巡らしてみました。 誠に申し訳ないのですが、ご質問者様、そして愚生が今現在対話をしておりますこの国は、本当に日本国かどうかお教えいただけないでしょうか。”はい”、”いいえ”だけでも一行に構いません。愚生は少し、意識が朦朧としております。 お手数をおかけ致しますが、よろしくお願い申し上げます。
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- littlekiss
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こんばんは、bragelonneさん。 アンドレ・ジッド(1869年生まれ)ですか? 1919年作品 小説『 La Symphonie Pastorale 』 (田園交響楽)映画のストーリー http://movie.walkerplus.com/mv15341/ 誤り伝えられた自分の面目ゆえに愛されるよりもむしろ、 自分の真実の姿ゆえに憎悪されるほうが気持ちがよい - アンドレ・ジッド - ↑ クリムト(1862年生まれ)の『接吻』をみてたら、シーレ(1890年生まれ)の油彩画があがってた。 ↓ 【ウィーン世紀末 クリムト、シーレの接吻、抱擁】 http://renessance.jugem.jp/?eid=98 エゴン・シーレの油彩画「枢機卿と尼僧(愛撫)Cardinal and nun」(1912年)は、 クリムト「接吻」のパロディといわれている。と、いうけれど… ジッドの『田園交響楽』がベースになってるんじゃないかな? あっ、ごめん、無駄口叩いて で、剣の奥義ですか? えっと、ピンとこないかって?この流れ的にいえば… 映画なら『武士の一文』とか?、ほでも何かしっくりこんのよ 自尊心っつーの、自分自身にウソつくと胸が痛くなる チクッ-☆ 告知:正直であることの難しさ…(-"-;)ゞゞゞムズ ハ・ラ・キ・リ――――― 明日は我が身 [PDF]【重要文化財に指定された塾所蔵の貴重書 : 『解剖存真図』】 http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00069296-20050900-0109 【記念講演会】 http://www.nms.ac.jp/naim/2009/0307/2yosida.pdf 148.【き】 『九死(きゅうし)に一生(いっしょう)を得(え)る』 http://www.geocities.jp/tomomi965/kotowaza04/index.html 【語句注解】 http://ryuso.info/r/r013u.htm
お礼
littlekiss さん つづきますね。ご回答をありがとうございます。 【Q:ひとは 本能の壊れた動物である というのは】あるいは【Q:ザビーヌ事件について】でわたしは露骨なことを平気で書いていますが 今回のクリムトやシーレの絵は 思わずだいじょうぶかいなと気持ちをたしかめてしまいますね。それも リトルキッスさんから出されてしまってしまったものですから。…(-"-;)ゞゞゞムズ (ひょっとすると この絵文字の意味は 適切ではないかも分かりません。手当たり次第にテキトーに貼りつけました)。 ★ (田園交響楽)映画のストーリー ☆ を読みましたが あらましを知るだけでも すごいですね。 ★ ハ・ラ・キ・リ――――― 明日は我が身 ☆ あぁ わたしよりうんと先を行くほどに言いたいことを言うてるからねぇ。ま とまらないのでしょうね。へへっ。 田園交響楽――どないやちゅうねん? こんな結末でええのかいな? おしえて!
補足
ヰキぺを見たら つぎの記述でぜんぶでした。 ▲ (ヰキぺ:無償の行為) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 無償の行為(むしょうのこうい 仏:Acte gratuit)とは、何らの利害関係もなく、無動機で行われる行為のことである。 フランスの作家アンドレ・ジッドの小説「法王庁の抜け穴」におけるテーマの一つ。 ○ 具体例 「無償の行為」の具体的な例としては「たまたま一緒の汽車に乗り合わせた人間を走っている汽車の外に突き落とす」のようなものがある。現実世界において、真の意味での「無償の行為」が起こりえるかどうかについては、小説発表以来、論議の対象となってきた。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 書きかけだそうです。追い追いまなんで行きます。 武士道のこころとは違うものであるかも知れません。分かりません。 わたしは《見返りを追い求めない》行為だと思ってしまっていました。 ★ 解剖 ☆ はよく分かりません。
- tumaritou1
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No2で回答した者です。貴方の疑問にお答えします。 ★ 全てを期待をしない(計らいがない心的態度)がその前提に在ります。 ☆ わたしが思うには 《計らいがない》というのは実際には 計らいが気持ちの上で顔を出したときに それを抑えるという計らいがあるように見えるのですが そういうわけでもないですか? >>>人間には見ようという計らいで、見ようとした場合には見えなくなる場合があるという事です。その訳を話してみます。その前に人間の心の構成を説明しておきます。人間には自我意識という心が在ります、ですが、この心の感情を沸かせている者がいます。その者は無意識の中に「無意識の意識」として存在しています。 その者は、自我意識には大変に分かり難い形で存在しています。殆ど自我意識には意識できないようになっているからです。云い方を変えたなら、意識と無意識が常に交替しながら生活が成り立っているという事になります。それは脳の働きという言い方も出来ますが、もう一つの言い方をするなら「命そのものの働き」という言い方でも良いはずです。 人間には生まれ持った命の働きが在ります。動物でも昆虫でも同じ事になりますが、何も教えられなくても生きてゆく事を知っているという働きの事です。クモがクモの巣を100パーセントの形で作ってゆく能力の事です。魚が水を泳ぐ事が出来るという事。鳥が成長した場合には自然に飛ぶ事が出来るように。 全ての生き物は生きてゆく術を細胞(脳)の中に記憶として持って生まれてきています。人間の脳は他の動物よりも発達しているという事になりますが、その脳の中に「生まれてから学んでつけてゆく能力」と「生まれる時にすでに持っている」能力が在ります。 そのどちらにも人格が在るという事になります。或いは意識、或いは意思という風に言っても良いと思います。他の動物たちと違う処は「自我意識が在る」処となっています。この二つの意識が古今から人間を悩ませてきたという事になります。この苦しみからの解放が「宗教文化」として発展してきた日本では仏教、外国ではキリスト教やその他の宗教という事になります。 日常の生活に話を戻します。見ようとしたり、聞こうとした場合には見えなかったり、聞こえなくなってしまう場合の事を書いてみます。その訳は心が二つになって争いを始めてしまうという事です。一つは聞いている自分です、もう一つは聞こうと意識をしている自分です。心が二つになってしまって聞いている事が理解できない場合がある、という現象が起きてしまいます。 極端な例ですが、自我意識が字を書こうと計らった場合には「自分の手が言う事を聞かなくて字が書けなくなってしまう場合が在ります。この事を書痙と言います。 もう一つの例を挙げるなら、自我意識が自分の計らいで話をしようとした場合です。自分の口が自分の思い通りにならなくなってしまう場合が在ります。この現象を吃音と言います。 対人関係などでも自我意識のみで対人関係を処理しようとした場合には全てがうまくゆかなくなってしまいます。是が対人恐怖の原因となって、結果として表れています。 見ようとしないで「すっと見る」が正解です。計らいを挟まないで直に見るという事です。欲しいと思うものが在る時に欲しいという気持ちを出さないで手に入れるという事になります。もっと極端な言い方をするならば、欲しいと言う気持ちで臨んだ時には、手には出来ない事になるかも知れないという事です。 もっと極端な言い方をするならば、欲を捨てた時に何でも手に出来るという事になります。名誉であっても、お金であっても、その欲が有ってする場合には手に出来ないかも知れないという意味になります。在るべき事を在るべきのままに欲を捨ててやって行く時に自然と名誉やお金が付いて来る、という言い方になります。 ★ 道に至るという事は「好きと嫌い」という事の他に人間としての価値観を見出すところに在るからです。 ☆ やはりわたしが思うには 《人間としての価値観》というのは ほかの誰れでもない・今ここにいるわたしの価値観のことであって ほかには用をなさないのではないか? しかもこの《わたしの価値観》は 人生を生きる過程でやはり《好き嫌い》として取捨選択しつつ形づくってくるものだと思うのです。それが 純粋概念化を意図してその結果として持つに到るところの価値観や理念であるのならば おそらく実践においては長続きしないと考えるのです。 《わたしの価値観》は、期待をする心で満たされた場合には人生では手に出来にくいという事を言いたいと思います。《わたしの価値観》という事は【我】という風に考えた方が分かりやすいです。【我】を張った場合は周りが引けてゆくという意味になります。 道に至るという観点からするなら、道に至るためには「自分を忘れる」事が必要になるからです。【我】は分別です。好きと嫌いで成り立っている心です。言い方を変えたなら「期待ばかりしている心です」 期待をしないで(【我】を捨てた心で)生きる時に『本当の自分で生きる』という事になります。その事を知らしめるために「禅」というものが武士道のバックボーンには存在していると言えます。 もう一つの意識は「無功徳」という心の事です。期待する心、好きと嫌いで生きる事がストレスを作って、心の病の元になっているという訳です。何事も受け入れるところにストレスは生じません。好きと嫌いで受け入れられない事が多くなった時に心は病み始めるという事になります。
補足
ご回答をありがとうございます。ご説明をありがとうございます。 なお疑問の残る部分について 記します。 ★ 意識と無意識が常に交替しながら生活が成り立っているという事になります。 ☆ この《無意識》は わたしが意識せぬまま なんらかの衝動や考えをかたちづくるきっかけになったりして はたらくということでしょうか? それとも 《衝動》ひとつを持って来ても そのときすでに何らかの意識としてその衝動の中味を知ると思うのですが そのように一応 意識にのぼったかたちではたらくということでしょうか? わたしの考えは もしたとえ意識せぬまま 《無意識》がわたしの意志行為にかかわって働いたという場合 この場合にも 事後的にせよその働きをわたしが受けとめ引き受けるということになる。というものです。 つまりは 事後においては あたかもすべて意識においてわたしの意志行為を成したという結果があることになり 《無意識》は結局ないのと同じだということです。 したがって ★ 自我 ☆ というものは あって無きがごとくだと考えます。なぜなら もし自我があってわたしがその自我とやらを意識したとします。そのときには 存在するのは じつは・じつに《わたし》自身であり このわたしのほかにはいないのです。自我はもしあったとしても この《わたし》の一部分であり すべて包まれてしまいます。 減らず口をつけ加えるならば こんな部分的な自我などは 百害あって一利なしです。まったく要りません。超自我も無意識も――もしあるとするなら―― みな《わたし》に属しているものです。いちいち心理の動きを分析するためにわざわざ 《わたし》を分解して三つなら三つに分けて解説しようとしたに過ぎません。かえって人びとは混乱してしまっています。そうではないでしょうか? ★ 一つは聞いている自分です、もう一つは聞こうと意識をしている自分です。心が二つになってしまって聞いている事が理解できない場合がある、という現象が起きてしまいます。 ☆ なんでこんなふうに《わたし》を分解して説明しなければならないのか? その分解の作業を始めようと考えたひとのほうが おかしいのではないですか? だからと言うので 《超越論的統覚》と言ったりしても どうなのでしょうねぇ? そもそももとから《わたし》なのですから いちいち分析をさもえらそうにしようとする学問のほうが まちがっているのではないですか? ★ 見ようとしないで「すっと見る」が正解です。計らいを挟まないで直に見るという事です。 ☆ 《すっと見る》というのも 《計らい》ですよ。お望みなら《自我》のはたらきです。わたしの部分的なはたらきなのですから それは やばいです。そして くだらん分析学問に振り回されているだけのことです。 ★☆ 好きと嫌い ☆ は もし部分であっても 《わたし》のほんとうの気持ちを表わしています。鹿が谷合いのせせらぎの水を欲するように わたしたちの心は 大いなるなぞを欲しています。むしろすでにもらっています。宿っており 宿っていたと知ります。これもむしろ好き嫌いの問題で分かるようになるのです。 こころの中にそれはそれは輝いているような理念なり美なりを見ているが いやちょっと待てよ 輝くものが必ずしも金ならずと言うぢゃないか むしろ心を落ち着け静かな気持ちで好きなものはどれか 嫌いなものはどれか こう捉えてみよう。という結果のほうが だいたい正解であるようですよ。 でも ★ 【我】は分別です。 ☆ というふうに理性なり分別によって 分析学問を持ち出したところで アウトなのです。《わたし》を切り刻んでしまっているからです。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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★ 真理 ☆ などと言っても 誰かひとりの人間の専売特許ではなく そんなことはあり得ないからです。 誰もが 真理のひとかけらでも得られればと いえいえ そうではありません。真理を得るなどということ これもあり得ないのです。わづかに真理のひとかけらが われらが文章のどこかに 誰かが見通せるくらいにでもなれば それでよしとしなければならないでしょう。 批判を成し合うこと これしか われらが道はありません。そこに活路が見出されるというものです。その意味では 敵もみな仲間なのです。真理の探究にみなちからを合わせて 取り組むのです。 その道に間違いはない あり得ないと言い続けて行きましょう。 ◇真に、言葉は誰もが使えるものだということを、自己に強く反省しております。 高校のときも、畏友に私も観念の遊戯化をやめろ、いわれ続けていました。自分では真剣な積りだったのですが。 孔子も、「私はこれまで、その人がいったことのとおりにその人を受け取っていたが。そうではないことを知った。そういう思いに私はさせられた。その人自身をよくみないといけなかったのだ。なんと私がこんな認識をしなければならないとは」という内容のことをもうされましたねん。
お礼
目頭が熱くなりました。 でも これからも耳障りのよくない辛い言葉を ゼッタイわたしは つつしみませんから そのおつもりで。
- littlekiss
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おはようございます、bragelonneさん。 ●えっ? 何の話だったっけ? ↑ ったく、武士道といえば…剣でしょ? ↑ ●何を つまりどういう内容に関して どういうつながりで参照するのか ↓ 【QNo.3728673 悩みとは何ですか】回答番号:No.4,No.7 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3728673.html ↑ 『お金の話』と『剣の話』 ↑ 心意気ー無償 ↓ 武士道←労働に対する対価ナシ ↑ すかんぴん(文無し) ↓ 雇用契約なし 【雇用契約書とは】 http://www.soumunomori.com/dictionary/article/word/atc-1414/dtl-12057/?xeq=%E9%9B%87%E7%94%A8%E5%A5%91%E7%B4%84%E6%9B%B8
お礼
お早う。ご回答をありがとうございます。 No.8の補足欄に お応えを書きましたので ごらんになってください。 ○ 無償の行為 l'acte gratuit ☆ という言葉を――その昔 アンドレ・ジッドでしたか――聞きました。ほとんど――そのような観念としては―― 忘れていましたが 生きていましたね。生きているのでしたね。ヨーロッパ人も 同じように言っているということが 大事かも知れません。 このヨーロッパ風の思想について どなたか解説をしてくれないですかね。 ★ 剣の奥義 ☆ と聞いて リトルキッスさんは ピンと来ますか? 言葉だけのことではなくて 実感がありますか? たぶんだから このたとえはあまり建設的ではないかもし知れないですね 現代人にとっては。 でもいまは武士道とは? ということを問題にしているのではありますが。 ★ 心意気ー無償 ☆ はいいのですが ★ → 武士道←労働に対する対価ナシ ☆ 《対価ナシ》は少し違うと思いますよ。仕事に対する報酬は 当然の取り分です。そういう取り決めです。それを当てにして・その見返りのためにこそ 仕事につとめるのではないと言っているのだと思います。 ですから ほんとうには――究極の究極では―― ひとは人の与えてくれた恩義に対して 感謝はしなくてもよいのです。こころがすでにあるのですから いちいち言葉にしなくても――究極の信頼関係においては――いいのです。むしろ 感謝を述べられると あぁ おれはその言葉を求めて骨を折ったのか こりゃ切腹ものだ われながら情けないなぁとなります。 ★ すかんぴん(文無し) ☆ からの小言でした。
- old_sho
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武士道、ふ~ん!? 冗談じゃない。見返りを求めることは、人にとっての基本だろう! あなたのオマンマを、誰が作ってくれたと思っているの。 ――ま、新渡戸、それ誰、という無学者の雑言です、捨て置きください。
お礼
分かりました。聞き流します。
どうもご返答いただきまして、ありがとうございました。こんばんは、Hidocchiでございます。 > 永世中立というのも どこか冷たいのですかねぇ。八方美人でもまずいでしょうし。いまさら鎖国というのも何ですし。 確かに、“中立”を維持するというのは、国際社会では困難なようでございます。例えば、永世中立国で知られておりますスイスも、最近までは国連未加入だったのですが、2002年3月に国連に加盟し、PKO活動にも努力するという姿勢をとっているようでございます(EUには未だ未加盟のようでございますが)。 軍事・防衛力、外交力(前の大戦におきましても、地理的にイタリアとの間を分断していたスイスですが、ドイツの侵入を阻止しました)、さらに、国民の独立精神(各家には、銃の所持が義務付けられているそうです)、かような国民でなければ、”中立化”は困難と考えせられました。 スイス政府 編さん「民間防衛」原書房(スイス政府が民間向けに発行したものだそうです。アマゾンでも入手できます) 日本もスイスに見習えるものはないか? と自問した際に、この本をパラパラめくったときに、上述のように考えさせられた次第でございます。 > ザビーヌ事件のほうは おおむね不評のようです。 微力を尽くしたいと考えております。それでは、末尾ながら、厚くお礼申し上げます。
お礼
Hidocchi さん ご回答をありがとうございます。 あぁ そうなんですか。そうなんですね。つまり スイスの防衛体制です。 日本では いまさら家庭に銃を備えるというのも むつかしいですし しないほうがよいように思いますし。 ムラ(市町村)を中心とし主体としたインタナショナルな連携を考えているのですが どうでしょうかね。 つまりこれのほうは もう国家を通さずに――国家は 出来るだけ妨げにならないようにしていてもらって―― ムラどうしで 縦横無尽に 経済的・共同自治的および文化的に 連帯して共生するという青写真です。ですが そのとき 安全保障ないし防衛は どういうふうになるのか。どうすればよいのか。なかなか むつかしい。というより さっぱり分かりません。 ▲ 努力と報酬の間に相関があることが確実に予見せらるることは武士道に反する ☆ この精神は 何と呼べばよいでしょうかね。旧くからのスサノヲイズムとしては 《ゆづる》精神なんですけれど。 《互恵思想》でしょうか。ちょっと違うようですね。 《恩恵に生きる》 《恩恵第一主義》・・・? あるいは 《へりくだり》でしょうか? * 先の考えは インタナショナルなインタムライズムと呼びます。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございます。Hidocchiです。 > 内田樹は いちど軽いという印象を受けていたのですが この本はなかなかよさそうですよ。 ご紹介いただきまして、どうもありがとうございました。 目次を見てみましたが、中々今までになかった本のように思われました。近日中にはぜひとも、読ませてただきます! > 幕末・明治にかけての外国人の旅行記などは いくらか読んでいると思うのですが 今回引いていただいた内容に関することがらを ほとんどはっきりとは覚えていないというのも 犯罪行為のごとくであります。 いえいえ、そんなことはございません。OKWaveにて、皆様との対話を通して、思い出していく というのも一興ではないでしょうか。 > 先ほどドラマ坂の上の雲を見ました。今回は 秋山真之がアメリカへ留学する話でした。日露戦争の勝利までに得たものを その後のわれわれは喰い散らして生きてきたのだとか。 日露戦争後、東郷平八郎(海軍大将)が、「勝って兜の緒を締めよ」と言った話が有名ですが、締め忘れてしまったのか、ゆるゆるにしか締めなかったのでしょうか、東郷の懸念もどっかにいってしまったようでございます。 > あとは No.3の littlekiss さんのお心意気に免じて お答えを勘弁してくださいませ。 こちらこそ、どうもすみませんでした。 > ザビーヌ事件のほうはいかがですか? はい、苦手なKさん(ダヴィンチ・コードにハマり過ぎてしまったのでしょうか?)も来られないようですので、微力を尽くしたと思っております。 それでは、どうもありがとうございました。
お礼
Hidocchi さん わたしのわがままを全部聞いてくださった感じで たいへんありがたく思っています。 思うのですが 富国強兵の強兵は要らなかったかも知れないという感じを持ちました。 あるいは 強兵でたしかに防衛力は持つのですが いまの憲法のごとくしかも永世中立で戦争放棄をしておくといった国是を建てておいたほうがよかったのではないかと感じたものです。 永世中立というのも どこか冷たいのですかねぇ。八方美人でもまずいでしょうし。いまさら鎖国というのも何ですし。 ザビーヌ事件のほうは おおむね不評のようです。
- littlekiss
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こんばんは、bragelonneさん。 ●えっ? 何の話だったっけ? ↑ ったく、武士道といえば…剣でしょ? 『剣禅話』 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0385.html 【QNo.4803472 けんかをしては 何故 いけないのか】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4803472.html 【山河有情】 http://sankei.jp.msn.com/life/trend/091222/trd0912220244000-n1.htm 読み物一つ 『剣客商売』 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4845837285/ref=pd_lpo_k2_dp_sr_2?pf_rd_p=466449256&pf_rd_s=lpo-top-stripe&pf_rd_t=201&pf_rd_i=4845819864&pf_rd_m=AN1VRQENFRJN5&pf_rd_r=0NGNRBMAQZEC7HC30BJW
お礼
こんばんはは いいですが ったく またまた 《参照せよ》式の回答です。 何を つまりどういう内容に関して どういうつながりで参照するのか これを示して 参考サイトは取り上げるとよいでしょう。 ご回答をありがとうございます。 ですが 参考サイトは読んでやらないよ。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ●えっ? 何の話だったっけ? ↑ ったく、武士道といえば…剣でしょ? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ なんで剣やねん? われらは平和主義なるゆえ 剣は読み物としてのみです。 しょっちゅう けんかやねぇ。
補足
▲ (【山河有情】) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 前検事総長・但木敬一 日本人の心が地球を救う 2009.12.22 日本人の独特の宗教観について考えてみたくなる。 多くの日本人の特定の宗教への傾斜度は低い。 唯一神を信仰する人々にとって八百万(やおよろず)の神々をもつ日本人の宗教心は理解しがたい。幕末(1865年)日本を訪れたシュリーマンは大変な日本びいきであったが、見せ物小屋などでにぎわう浅草観音を歩きながら、こうつぶやく。 日本の宗教について、これまで観察したことから、私は、民衆の生活 の中に真の宗教心は浸透しておらず、また上流階級は懐疑的であるとい う確信を得た。 現代もその状況はあまり変わっていないのではあるまいか。司馬遼太郎の表現を借りれば、日本は民衆個々人が骨の髄まで思想化されるということがなく、一つの思想に染め上げられた経験を持たない稀有(けう)な国というべきなのかもしれない。 こうした国民性は、現代社会に生きるのに、プラスなのであろうか。終身雇用制が大いに揺らぎ、大量の失業者あるいは半失業者を生み出しつつある現在、働くことが生きることである日本人にとって精神的に非常に不安定な時代を迎えつつある。・・・やはり日本人には職があることがもっとも効果的な精神安定剤である。雇用を創出する経済システムの再構築のためには求心力ある政治の力が必要となろう。 今や人類の存亡は地球環境の劣化を食い止められるかどうかにかかっている。ことはグローバルにしか解決不能である。すべての宗教に心底寛容である日本人の心、自然と戦うのではなく、自然をあがめ、これとともに生きてゆこうとしてきた日本人の心は、世界の懸け橋となって、地球を救う大いなる力となりえる可能性を秘めている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (1) 手前味噌になりますが わたしの信仰類型論は この《すべての宗教に心底寛容である日本人の心》を表わしたものと自負しています。 【Q:哲学に感動はあるか】わたしの回答No.20 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5532406.html (2) シュリーマンの見方 ◆ 民衆の生活の中に真の宗教心は浸透しておらず、また上流階級は懐疑的である ☆ これは ひとえに社会の二階建て構造に起因すると考えます。この場合の宗教心というのは あくまで人工的な《まつりごと》としてのそれです。 でもスサノヲ市民は 自分たちのムラの次元での《まつり》を囲んでの生活日常における信仰心は――その年の初穂を神々にささげ たしかにどんちゃん騒ぎをするのですが 神々との共食というかたちで《自然と戦うのではなく、自然をあがめ、これとともに生きてゆこう》というこころを表わしているのですから これだと言ってポケットから出して示すわけには行かなくても―― ふつうに持っているはずです。 《上流階級》なるアマテラスお二階さんたちは これらのムラムラのまつりを上から寄せて束ねるというまつりごとを仕事としているのですから その仕事に専念しているとは言えても 神々との共食における自然への感謝をあまり持ち合わせない――つまり《懐疑的である》――のは 理の当然であり 事の必然であるとなります。 みんなが自由に互いに思いやりつつ自由にはたらける世の中にしていかねばなりません。それも 現代では 《グローバルにしか解決不可能》だそうです。どうしましょう?
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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新渡戸稲造さんも矢内原さんも立派な思想家ですし、どうして気にいらないなどといえましょう。 もともと気に入るいらないなんて、求道や精進、思索の世界には無縁のことです。 好き嫌いなどは、ミーちゃんハーちゃんではあるまし、下らん事です。 真理だけしか意味がないということです。 新渡戸と矢内原は少年や欧米人にはとても役立つものです。 真理は真理です。でも日本の武士道ではありません。削り落としが多すぎます。中心がないのです。 大拙も禅宗ではなく、大拙教です。それだけです。好き嫌いはありません。意味性だけしかありません。
お礼
それを《気に食わん》という言い方をするというものです。 なぜなら ★ 真理 ☆ などと言っても 誰かひとりの人間の専売特許ではなく そんなことはあり得ないからです。 誰もが 真理のひとかけらでも得られればと いえいえ そうではありません。真理を得るなどということ これもあり得ないのです。わづかに真理のひとかけらが われらが文章のどこかに 誰かが見通せるくらいにでもなれば それでよしとしなければならないでしょう。 批判を成し合うこと これしか われらが道はありません。そこに活路が見出されるというものです。その意味では 敵もみな仲間なのです。真理の探究にみなちからを合わせて 取り組むのです。 その道に間違いはない あり得ないと言い続けて行きましょう。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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bragelonneさん krya1998という的外れ、しょうがないですね。 ご存じのように、神は神遊びはいたしておりますね。 でも遊戯化やじゃれ付きはしてないですね。 そういうのは全く腐って肥やしになるものでもない、単なる新素材のごみですね。 武士道。新渡戸も欧米人用でして全く生焼けですからね。おなかを壊さないようにしてくださいね。 大拙もぁあ、なんか臨済の方だそうですね。しょうがないですね。ずいぶん心性や臨済の真髄を削って紹介しているようですね。 何とか元っていう方もいましたね。多士済々ですね。 所詮、残っていくのはそういう人なんですね。案外イエスや孔子、釈迦もそうでしょうね。 何百人も釈迦がいて、その内の一番○○のかただったとか。 ややぁ、後世のどうしたら分らない人がつくりあげたのかなぁ。 いやぁbragelonneさんも後世にはえれぇお方として拝まれますよ。 或いは似ても似つかない別人に作り上げられるかもしれませんよ。 ナザレの方のように。いやいあや、冗談冗談。で済ましてください。 どなたかのお目に留まるといけませんから。 武士道は中学で出会いましたが、だいじなことでっす。 的外れになりませんように。あぁせごどんやあの勝の使者の方の伝説、エピソードはよくできていますが。
お礼
どうも新渡戸の言うところは気に食わん。 というこういうご見解であることは伝わってきました。 留意しておきます。
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お礼
そうですか。『古代への情熱』は――ほとんど本などを読むことのなかったわたしにしては めづらしく小さなころに――読んだ記憶があります。将来の発掘調査のために 事業で資金を貯め 語学の学習を怠らなかったというようでしたね。 Hidocchi さん ご回答をありがとうございます。 内田樹は いちど軽いという印象を受けていたのですが この本はなかなかよさそうですよ。それに はづかしながら 『武士道』も読んでいないのです。 幕末・明治にかけての外国人の旅行記などは いくらか読んでいると思うのですが 今回引いていただいた内容に関することがらを ほとんどはっきりとは覚えていないというのも 犯罪行為のごとくであります。 先ほどドラマ坂の上の雲を見ました。今回は 秋山真之がアメリカへ留学する話でした。日露戦争の勝利までに得たものを その後のわれわれは喰い散らして生きてきたのだとか。 あとは No.3の littlekiss さんのお心意気に免じて お答えを勘弁してくださいませ。お応えできるように精進いたします。 ザビーヌ事件のほうはいかがですか?