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もし桶狭間で義元が死ななかったら・・・

タイトル通り、もし桶狭間で今川義元が死ななかったら、ぞの後の天下の趨勢はどうなっていたのでしょうか。もちろん歴史IFですのでどのようになるかはわかりません。論理的にも感情的にもいろいろ諸説を聞かせてください。 特に次の2点を前提にしてください。 (1)最近は義元を有力視する説が多く(僕もその1人です)、なかなかの名将であったと思います。三国同盟や分国法、家督争いの末、駿河遠江三河を手中に収めてたことから。決して無能な奴ではない。 (2)別に京都に上洛しなくても天下は統一できるのではないか? かなり有利には違いないが、別に京都に上らなくても、例えば関東一帯を制圧(難しいですが)すれば統一できるのではないか。 

  • 歴史
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みんなの回答

noname#157998
noname#157998
回答No.6

多分、守山崩れ、小牧長久手、墨俣などで、討ち死にしただろう。 討たれる場所が変わっただけで。 結局、今川義元は、討たれる運命。 足利の残党の今川の天下など、ありえない。吉良の天下がありえないのといっしょ。

  • sudacyu
  • ベストアンサー率35% (687/1961)
回答No.5

 他の方の補足に。  今川家には、他の大名にない大義名分があります。それは、足利家に後継がない時は吉良家が、さらに吉良家に後継がない時は今川家の当主が足利家を継ぐというものです。  ですから、他の大名は、単に多くの有力者の一人ですが、今川家は他とは違う足利家の後継者という立場があります。  この点が、戦いではなく、政治力で決める場合には他の大名に一歩先んじる有利さとなって働きます。(絶対的なものではないですが。)  歴史資料で見る限り、今川義元はそこそこの器量ですから、桶狭間の合戦で織田信長を撃退していれば、50万石の石高を誇る尾張を手に入れて、一気に国力を増強しますから、今川幕府が成立していたかもしれません。もっとも、下剋上・群雄割拠の世の中ですから、その支配力は畿内・東海だけで、子供の代には、足利家と同様に衰退することとなったと思われますが。

teambule
質問者

お礼

やはり、信長や信玄の話を見てきたことが多かったためか、武力で統一することが前提になってました。 確かに、今川家は足利家とつながりがあり、将軍の地位を譲り受けてた可能性もあるはずです。家柄や政治力をフル活用しての天下統一もなかなかかっこいいですね。やはり武勇だけでは統一は無理だろうね。   回答ありがとうございました。

  • kimari14
  • ベストアンサー率17% (50/288)
回答No.4

生まれた時代がね、もう少し後だとねと思います。信玄や氏康が死んだ後なら可能性は少しあったのかとおもいます。三国同盟は問題の先送りですし、力は拮抗しておりますから、武田北条の代替わりで変化を期待して待つしかなかったでしょう。通称桶狭間の頃も東三河までで、西三河は加地子(土地の所有関係)が複雑で、織田や水野の武将の多くの所有ですし、今川家発給文書を見ると、西三河では織田の有利性は否定できません。もし桶狭間で死なず、三河、尾張を併合してということで、考えれば、伊勢津島熱田三河駿河の海運から上がる運上金は膨大で、財政面で2家を凌駕してしまいますが、信玄氏康在命ならば、2国同盟から、伊勢の北畠、美濃斉藤至る包囲網の展開を打ち破れれば、関東の支配化はできるかもしれませんね。その後、今川家は一様名門ですので、朝廷を無視することは考えにくく、朝廷の権威を利用しての、統一は当然でしょうし、ただ幕府をどこに置くかとのことは、鎌倉の例もありますから、家康に先んじて関東に開いたかもしれませんね。

teambule
質問者

お礼

ご返事ありがとうございます。 やはり武田に北条の領土を力で奪うのはなかなか難しいでしょうか。 上洛して自分の名声や出仕をフルに活用するでしょうね。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.3

歴史を紐解くと、今まで強大な権勢を誇っていた中心が一地方の名もない一集団に取って代わられた事例のオンパレードです。信長の今川に対する状況も、その例のほんの一例です。自然科学を見ても、現代物理学および現代工学の礎の量子力学の達成はイギリスやフランスやドイツやイタリアという科学の超大国から生まれて来たのではなく、ヨーロッパの片田舎のデンマークの町コペンハーゲンという、信長に匹敵するような一小国によってなされて来たのです。一小国のイギリスが超大国のスペインに勝ったり、一地方都市のアテネが超大国のスパルタと対等に並んだり、超文明国の明が満州の小国に破れて清国になったり、そしてその大国清が一小国の日本に敗れたりと、歴史は常にその事の繰り返しでした。 もし今川が権力を保ち続けたとしたら、それはあたかも中央の既得権益者集団の天下り勢力が力を保持し続けようと言うようなもので、そんなもの長続きするはずがないと言う事を歴史は教えてくれているようです。既得権益集団は遅かれ早かれ、軍事的にも論理的にも説得力を失って来たと言うのが、イギリスの台頭や信長やコペンハーゲン学派の例は示しているようです。 今川及びその既得権益の拠り所は、遅かれ早かれ思いもよらぬ小国の台頭によって滅んだはずです。

teambule
質問者

お礼

そうかもしれませんね。歴史を長い目で見ればほとんどの政治体制が何回も滅んでは成立しの繰り返しです。今の世の中もどう転ぶかはわかりません。もし今川が権力を保ち続けても、それに代わる、それ以上の能力を秘めた新しい波に飲み込まれたかもしれません。もし今川が権力を保ち続けるには、常に時代の最先端を走ってなければいけないのでしょうね。その点、江戸時代の鎖国体制はあまり評価できません。 cyototuさんの先見の良さには感服しました。やはり時代の最先端を走ってないといつ誰に飲み込まれるか分かりませんね。信長は常に突っ走ったから勢力を伸ばし続けられたのかな?と思います。  ご回答ありがとうございました。

  • take-plus
  • ベストアンサー率42% (553/1302)
回答No.2

当然、義元が死ななければ武田義信も死ななくてすんだ。 そうすれば武田のその後も変わってきたと思います。 尾張は滅ぼすことが出来ても、その後上洛できたかは定かではないでしょう。 美濃攻めは信長をして7年かかっています。もちろん桶狭間の1年後に斎藤義龍が死んでいるので、息子の龍興が武力抵抗ではなく降伏している可能性もありますが、近江の六角氏が当時斎藤氏と同盟を結んでいたため抗戦されていた可能性が高ければ最低4~5年はかかっていた可能性があります。 今川家と武田信玄との同盟が固かったならば、長島の一向一揆(発生は時期的に遅いです)は本願寺との血縁関係から無かったでしょうが亀山城の関盛信は六角氏に属しており、やはり抗戦していたでしょう。 ただ、【駿河+三河】の武力だけなのか、【駿河+三河+尾張】の武力なのか、【駿河+三河+尾張+甲斐】の武力なのかでしょうが、桶狭間の戦いで織田軍が壊滅的ならば、秀吉・前田利家等々のその後の織田軍主力部隊は討ち死にしてるでしょうから尾張が戦力になったか分かりませんが、当時柴田勝家は重用されてなかったでしょうから、柴田勝家はその後も生存していた可能性があります。甲斐については、上杉との戦いなどで主力部隊が遠征できたのか疑問です。 その上で明智光秀が(もしくは足利義秋)がいつ今川家と接触できたかでしょう。公家である今川家に公家である足利家が接触するのは必然のことですので足利義輝暗殺後、今川家を頼って義秋が駿河に来ていれば今川の世になっていたかもしれません。 IfにIfで貸しても仕方が無いですが、今川氏真がどのような人物だったのかも疑問ですね柴田勝家などが参謀として氏真を補佐できたのかでしょうが、一般的に典型的なお坊ちゃま公家である氏真が今川家当主として成功できたのかが疑問ですね。 (2)に関してですが北条との同盟に関して北条氏康も今川義元同様に名将だったでしょうから三国同盟がいつまで続いていたのかが鍵でしょうね。史実として北条氏康が死んだのが1571年、桶狭間から11年ありますので、仮に義元が北条攻めを計画して今川義元と今川氏真(正室が北条)の親子対立になっていたかもしれません。そうしたら関東一帯どころか駿河の統治すら危なくなってしまいます。同盟とはいえ北条家の領地を越えて今川家が武蔵国などを攻めること不可能だと思います。

teambule
質問者

お礼

回答していただいたtake-plusさんは細かいところまで考えていて、とても良い回答を得られました。ありがとうございます。おっしゃるとおり、上洛するには美濃の斉藤氏を倒すか従属させるしかありませんね。しかし六角氏と同盟を結んでいるのなら戦う可能性が高いですね。補足ですが、1560年には野良田の戦いがあり、浅井長政が六角氏と戦いを始めた頃だったと思います。 これと同盟して・・・となると信長の2の舞になるかもしれません。信長と違う所は将軍家や本願寺と仲良し、信長以上の領土(三河遠江駿河)に三国同盟・・・敵なしですな。 やはり最終的には義元や氏真の能力に左右されるのでしょうか。 義元は能力的に議論の余地がありますからね。 もし桶狭間がなかったらやはり今川義元の能力が大きく関わるでしょうか。

  • myeyesonly
  • ベストアンサー率36% (3818/10368)
回答No.1

こんにちは。 桶狭間で義元が死ななければ、わずかな軍勢で切り込んだ信長はまず助かりませんね。 という事は、織田勢はいきなり当主が戦死、裏切り・内通が相次いでいた家臣団の最有力忠義部分がほぼ壊滅、となり、もはや各地の城は篭城する事もできず、今川軍団に蹂躙された事でしょう。 義元はこれが西上軍だったはずで、織田を壊滅させたから帰りましょうって戦ではなかったので京都を目指した事でしょう。 どちらかというと公家的な雰囲気が強かった義元(個人の話)は、恐らく京都でも公家連中に受けがよくて朝廷側から便利に使われたと思います。 一時的に幕府も作れたかもしれませんね。 当時、同盟関係にあった、武田、北条などと、どういう具合にその後付き合ったか興味があります。

teambule
質問者

お礼

そうですよね、やはりあの勢いからいくと、1,2年で今川家が上洛するのは確実でしょうか。 となると、同盟相手の武田や北条がどうするのか・・・実質1つ格上になるのですから、対等だった関係が変わる可能性はありますね。 質問に答えていただき、ありがとうございました。

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