• ベストアンサー

心の哲学:心の哲学的説明と科学的説明の違い

fwappyの回答

  • fwappy
  • ベストアンサー率0% (0/5)
回答No.79

serpent-owl様 >まず、#77「中国語の部屋」の話、「ある意味で反論」というのは、 >もちろんfwappyさんへ向けたものです。同時に、認知科学における >「心の問題」に関する議論についての、質問者に対する情報提供の >性格もありますので、「回答」としました。 「中国語の部屋」から 「心のシミュレーションが、もとの心それ自身と同じ現象を再現しない」 という結論を引き出すのはよい。しかしながら 「心のシミュレーションは、心ではない」 というなら、それは誤りだと言わざるを得ない。 > 二点目。「ぶたれると痛いぞセンサー」について。 >「揚げ足取り」に近いですが、これは有効なご批判として受け止めましょう。 >が、この点は当方の立論の主要な骨子には何ら影響はありません。 まあ、せいぜい虚勢を張られるが宜しいでしょう。 > 三点目。 >>貴方の見解は単に貴方がプログラムに心を感じられないことと >>心がないことを混同しています。 >について。 > 私は混同していません。 >「プログラムで心を再現できても、それが心の創造であるとは言えない」 >としているだけです。「心ではない」と断定していません。 「「ある」とは言えない」だけをいうのが不適切だとは 一度もお考えになりませんでしたか。 私なら「あるともないとも言えない」といいます。 すなわち、そうかもしれないしそうでないかも知れない ということです。 >「中国語の部屋」の話を何のために紹介したと思っているのですか。 では「中国語の部屋」はなんだと思っているのですか? >あの話は、 >「部屋の中にいる人が本当に中国語がわかっているのかどうか、 >部屋の外の人間には決定不可能である」ことを示しています。 >プログラムで心を再現した場合についても同様です。 >これを外部から観察している人間には、それが心であるかどうかは >決定できません。私はこのことを主張しました。 そうは聞こえなかったな。 貴方は「中国語を分かったとはいえない」とだけいった。 「中国語を分かってないとはいえない」とはいわなかった。 >したがって、 >>私が言いたいのは、人という「プログラム」が明らかに心を >>持っていると感じているのに、それを外から見た限りでは >>その心がいかにして存在しているのか解き明かせない >>だろうということです。 >とのご見解は、まさに「私serpent-owlの主張したところのもの」であって、>>fwappyさんの主張したところのものではありません。 ほほう。私がいったのではウソで、貴方がいったのなら本当か? それが貴方の誠実か?独善といいなおしたほうが宜しいのではないかな。 もし同じだというなら「結構ケッコウ」といえば宜しいのではないかな? >#77にて、「哲学の根本問題の一つである他我問題」に絡めて >「隣に座っている人に「本当に心があるのか」確証できない」と、 >私はすでに述べております。この論点は私が主張したもので >あることはここからも明らかでしょう。 だからどうだというのかな? まさか、本気で 「オレがいうのはいいが、キサマがいうのはけしからん」 と3歳のコドモのようなことをいうのではあるまいね。 > 念のため、fwappyさんの#73を再び引用しましょう。 >>「ほほう、コイツおもしれえぜ。痛いのがイヤだというのに、 >> いちいち「自分の破壊につながる」と意識するんだとよ。 >> だいたい、センサをつければ何かを感じるだろうが、 >> そいつが痛いのか痒いのかどうやってプログラミングすんだよ? >> そんなことできねえだろ。結局感じた後の振る舞いまで面倒 >> みなくちゃなんねえんじゃねえのかい?」 > #72の私の書き込みに関し、fwappyさんが提示した批判はこれだけです。 >たったこれだけです。 ああ、ところで、これの意味がまだ分からないのかね? 要するに君がいう内発的の意味が 「「自分の破壊につながる」と意識すること」 だというならこれほど馬鹿げたウソはないと いうことだ。 誰に聞いても痛みがこのような意識から 生まれるとはいうまい。痛いものは痛い。 そこにはなんの意識される理由もない。 だからこそ痛みがどこからくるのかは謎に 満ちているのだ。後付けの説明で納得できる なら苦労はない。 >やはり「学への誠実さ」は大切ですよ。 自尊心の誤りでは(笑) >これを持たず依怙地に固執すれば、今度のように >かかなくてもよい恥をかくことになります。 ああ、それは自戒の言葉ですか? 私は別に恥ずかしいことなどないですよ(笑) 我々の心は我々自身によって生み出されたものではない。 気がついたときには何故だか知らないが意識があった。 この「不条理」こそが重要なのだ。そうは思わないか? serpent-owl氏よ。

関連するQ&A

  • 科学における実証とは何か

      仮説と理論の違いは何か? それは実証が有るか無いかである。 では実証とはなにか。 何をもって実証と見なすか。 この辺り徹底的に明確にしなければならない。 でないと仮説が勝手に理論になってひとり歩きすることになるからである。 ビッグバン宇宙論は仮説に過ぎないが、自身は理論のつもりでひとり歩きしております。 本来の哲学は論理検証により科学理論を検証する立場にあるのに全くこれらがなされていない。 哲学に論理検証能力がないから結局こーゆー結末になるのです。 これまで漬かってばかりいた哲学の完全な怠慢である。 決っして許されるべきことではないと思うが如何に。 一例として、 1)計算式に拠る宇宙年齢137億年の推定  → もちろん推定であって実証とはいえませんね 2)コンピュータシミュレーションによるビッグバン再現ムービー  → もちろん推定であって実証とはいえませんね 3)船の模型を使った実験用プールでの流体理論解析   → これはたとえ模型であれ物理的流体の挙動はほぼ実際と同じなのであるから実証とみなせる 4)風邪薬の効果   → 薬の成分と風邪の治癒の関係を示す何らの理論数式もなく、これらの関係を示す何らの統計データもないのであるから全く実証とはいえない。 5)・・・・・ 科学における実証とは何か、可能な限り明確に語って下さい。  

  • 「心は心臓にある」という科学的アプローチの存在

    「心は脳にある」ということが、すでに、常識のようです。「心」で検索すると、解説があまりにも多彩すぎて、どこを見ればよいかも分かりません。哲学や心理学の「表象や現象」という言葉と混同しないために、科学的には「クオリア」と呼んで区別し、しかも、脳・神経系と無関係には論じられないような印象です。しかし、文献などを探してゆけば、結論は得られなくても、それぞれの「現状の長短」は判るような気がします。そこで、文献などの見当も付かないのは、「心は心臓にある」という立場に固執した、科学的なアプローチで展開している学説・仮説の存在です。「心は脳にある」という立場は、「測定機器の進歩」に依存し過ぎた「もっともらしい説明」の傾向を感じます。馬鹿げた考えかもしれませんが、あれば、教えてください。

  • 科学の考え方と有効性の観念について

     科学の考え方についてお尋ねします。科学の考え方の概要は知っているつもりですが、一つ気になることがあります。科学は何かの現象を説明するために使われるわけですが、説明の際にうまく(効果的に)説明しようとする傾向を持っているように思います。つまり、有効性の観念といったようなものが科学の考え方に付随しているように思います。付随と言うより、内包されていると言った方がいいのかも知れません。  それとも、科学を使って何かを説明しようとする人が、説明の際に自分の心の中の有効性の観念を働かせるのでしょうか。ご教示お願いします。

  • 科学信仰

    科学は自然の様々な面を論理的に矛盾がないよう理論的な説明をつけようとします。 そしてより矛盾がなく、うまく説明ができるものが正しいとされます。 その根底の精神には自然とは完璧なもので、一見無秩序に見えてもよく見れば 実は秩序立っていて矛盾することなどない。 だからこそ矛盾する理論は間違っていると言うのでしょうが そもそも自然界は論理的に整合性が取れるようにできているのでしょうか? 結局のところ、科学も信仰の一つにしか過ぎないのではないでしょうか? 回答よろしくお願いします。

  • 哲学の実効性について

    このカテで初めて質問します。私も読書の一環として哲学書を手にし、その面白さがわかるような気がしてきました。  しかしある日、ふと疑問が湧いてきました。パスカル、デカルト、ライプニッツらの偉大な科学の功績が人類の生活向上に大きく寄与したことは論を侯たない。しかし彼らの哲学がいかに世界に貢献したかどうして量れるのか?  哲学全般は考察を検証するに熱心でも、効果を測定するに無関心ではないか、あるいは回避に努めているのではないか。とどのつまり哲学とは堂々めぐりなのではとの考えが頭を離れません。  今まで読んだ文献を理解できていないことは自覚しております。どなたか浅学な中卒の私に、現代社会における哲学の実効性を具体的にご説明いただけますか?また仮に哲学が存在しなければこの世はどうなるのか、ご教授ください。理解に必要な文献を示していただけたら幸いです。

  • 愛情を科学的に説明しようとする人

    愛情を科学的に説明しようとする人を見ると腹が立ちます。 赤ちゃんがかわいいのは「戦略的に」守られるためにだとか。 自分が「かわいい」と思ったのに、なぜ相手の責任にするのですか。 なんで自分の心が動いた原因を、自分のせいだと思えないのでしょうか。 浮気をするのは「種の保存の本能」のためだという人がいます。 では浮気相手が妊娠したと聞いたら、その瞬間喜ぶのですか。 瞬間的には「本能で」喜ばなきゃ嘘ですよね。 その後から現実的なことを考えて困惑し始めても。 それに最後まで「堕ろす」ことに本能的に恐怖を感じなければ、嘘ですよね。 どうして失恋したあとまで相手への思いを引きずって苦しむのか、説明がつきますか。 「戦略的」には無駄です。 完全に振られた後まで、気持ちを引きずって次のチャンスをあえて遅らせるなんて。 肉体関係のあるなしに関わらず、男性でも女性でもなることです。 失恋して苦しみ、いつまでも次へいけない。 別の素敵な人が好意を寄せてきても、なびくこともない。 「科学的に」とか「本能で」とか「戦略として」と言う人、この疑問を説明してください。 私は、「愛情ダケは科学で説明デキナイ素敵なものなのよ。」なんて言うつもりはありません。 恋愛至上主義は嫌いです。 が、愛情を科学だの戦略だので説明しようとする人が、ものすごく嫌いです。 なぜ客観性や論理性で自分の心を切り刻むのですか。 あるのは心なのに。

  • 「科学的証明」の一般的定義について

    一般に「科学的証明」と言う場合、数学や論理学などの形式科学における証明と、自然科学における証明とがあり、前者を一般に「論証」と言いおもに演繹法により、後者を一般に「実証」と言い実験や観測のデータにもとづく帰納法による・・・と、大雑把にはこういう理解でよいですか? それで一般に科学的証明と言う場合、どちらかというと後者の意味で、つまり実証という意味で言われることが多いように思われますがいかがですか? あと、形式的証明と非形式的証明の違いについて出来るだけわかりやすく教えて下さい。

  • ==哲学研究の成果は論理構成であるべきか、国立系の哲学研究者の方にお尋

    ==哲学研究の成果は論理構成であるべきか、国立系の哲学研究者の方にお尋ねします== 哲学は 人間を始め森羅万象のあらゆることを考察あるいは研究し、人間に役立つ成果(考え)を提供するものと思っています。その成果が 多くの人間に役立つためには その成果が多くの人間が説得され易い構成になっている必要があると思います。それは論理構成になっていることが有力手段です。つまり研究成果の哲学が論理構成であるべきではないかと言うことです。当然この論理構成は論理の限界のなかの展開となり 対象が異なるだけで 数学とか科学とかと同じ構成となります。 そこで、納税者の一人として お聞きしますが、国立系の哲学研究者の方は 研究成果を国民に説明し 納得してもらわないといけない という立場があると思いますが、哲学は論理構成であるべき とお考えでしょうか。いやそうではない 論理構成の元にあたる公理(原則)の成り立つ条件であるとか 公理の存在理由であるとか 別公理であるとか の議論の方が重要であり、 非論理展開もあって 納税者への説得は難しいが 言葉で説得する。 いずれにしても 税金で研究を続ける以上 納税者としては 研究者の研究に絡まるこれらの考え方を研究者から聞きたい と思います。

  • 続 価値の哲学 第二版

    前回の質問の問題点を整理して再度質問させていただきます。 続価値の哲学としましたが、以前の価値の哲学とは視点が違いますので無視してください。 仮定 「生命(人間を含む)は、本質的に不足している。」 此処で不足しているとは、他に依存しなければ存在できないと言う意味です。 仮定は正しいでしょうか?(証明が必要ないほど真実に近いような気がしますが、問題は「不足」と言う表現にありそうです) 仮定が正しいと、仮定した場合、 1)不足を補う方法は? 2)なにが不足しているのか? 3)なぜ不足しているのか? 3)の疑問は、経済哲学の権利を超えて純粋哲学と言いますか、私の関心外ですからこの質問では無視しましょう。 2)の疑問は、価値(広義の価値)とは何かになりますが、なかなか難しいです。そこで、1)を先に解決して、2)を解決できないかと考えたのですが、浅知恵だったようです。 この疑問は、経験や感覚に関係ない、純粋に理論的な範囲で考えたいのですが、仮定に誤りがあるのか、方法に問題があるのか?私自身の性格に問題ありは無にしましょう。 ついでに、 4)なぜ不足を理解できるか?といった別の疑問が有りましたら教えてください。

  • 哲学と言う学問について

    日本では、哲学とは学問のカテゴリーに過ぎず、科学や医学とは別の扱いをします。 そのため、このカテゴリーでも「哲学は役に立たない」と言う認識のコメントが多々見られます。 アメリカではすべての学問においての博士号は、Doctor of Philosophyです。 しかし、wikiではこのPhilosophyとは哲学を示しているのではなく、広く学術一般を意味していると書いています。この辺の説明も、日本的に哲学を馬鹿にしている姿勢が見受けられます。 私はこの説明に疑問を抱きます。 そもそも、哲学とは「広く学術一般を意味している学問」だったのではないでしょうか? 哲学の原点は疑問の答えを導く学問だと思います。特に、当時の学問では対処出来ないような疑問に向き合う学問であり、今で言えば宇宙科学や最新医療を研究している人たちと同じ事をしていました(社会的地位はその当時は必ずしも高くないが)。 だからこそ、アメリカでは科学者も医学者もDoctor of Philosophyなのだと思いますが、この考えは間違っていますか?