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ブッダはなぜ《仏性》を説かなかったのか?

noname#135843の回答

noname#135843
noname#135843
回答No.60

 ご返答いただきまして、厚くお礼申し上げます。     Hidochiです。 > ですがともかく 一切衆生悉有仏性として 人間存在の基本を捉えるという点では ブッダの時代などにおいて潜在的であったにせよ 共通である。と言えるとすれば ずいぶんと すっきりとしてブッディスムというものを捉えることができるのではないでしょうか。  確かに仰るとおりかと存じます。 > あとはたぶん 非思考=信仰の問題にかかわらせて 仏性をどう捉えるか。これがあるかと思いますが そしてここまでにおいてわたしは この点で いわゆる有神論の類型において触れて来ましたが じつは 無神論という類型としても 同じことが言えると考えています。  それは   ☆☆ そのなぞに向けて ひとはその心が伸びる。《はからひ》なく伸びる。  ☆ というとき この心の伸びを 形式としては――何もないけれど つまり無神論であるけれど――同じように受けとめている。といった場合に当たります。  ○ なぞは 無根拠であって 有るとも無いとも それが分かるか分からないかが分からない。  ○ ゆえに 有神論という形態を採ろうと 無神論として放っておこうと 両者は互いにまったく同等である。  ☆ からです。  意見を等しく致します。  有神論(極論かもしれませんが、神秘主義をも認め、日々精進される方々)、無神論(釈尊の哲学・思考に興味を抱かれる方々)どちらに致しましても、釈尊の教え・哲学は、人間理性にはたとえ完全にとらえることができなくとも、学び得る何かを持っており、惹き付ける魅力をもっている とそう思っているからでございます。 > のような、“道徳律”と同じようなものと考えている次第です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これにつきましては わたしは  ○ 自然本性のうちの記憶という行為能力を それに充てます。  ○ 暗記するというよりは ものごとを覚えるというときの秩序作用を取り上げます。  ☆ たぶん同じようだと思いますが どうでしょう。  確かに、愚生の考え方も、「自然本性に備わり」、また「秩序作用」という観点からみますと、ほぼ(全くかも知れません)同一のものかと推察しております。  あともう一点としましては  ○ 諸法無我  ☆ との兼ね合いがありますが たぶんこちらの説は 《仏性》を――もしそれが 非思考であると捉える見方が受け容れられるならなおさらのこと―― 人間の精神が想像するような観念として固定してはいけないと言っているのだと思いますが これも どうでしょう?  あとは人によって仏性の現われに程度の差があるのみというのが 理論的な見方になるのですが どうでしょう? 現実はきびしい・・・でしょうか? そうでもないでしょうか?  少しばかり、愚生の独り言にお付き合いいただければ幸甚でございます。  皆様方の回答の中からもございましたが、中村元先生のお名前がでてきました。愚生も確か浪人時代(もう20年以上前のことでございます)だったか頃かと思います。そのとき、NHK教育で「ブッダのひとと思想」というようなタイトルだったかと記憶しておりますが、先生の放送を見て、衝撃的な感動をおぼえ、また多くのことを考えさせられたことが未だに鮮明に残っております。愚生はそのまま、いわゆる”理系”といわれる方向に進学し、そしてPh.Dを取り、そのまま”実験屋”といわれる職種で、生計を立てております。  ですが、今までの歴史、愚生の見方(かなり偏ってはいるかと存じますが)から、  「科学は、確かに利便性・快適性なるものをひとに与えてはくれた。だが、必ずしも、しわわせを与えてくれたとは限らない。むしろ不測の事態に陥れることはした。」  と考えております。その一部は、前回、ご一緒させていただきました Okwaveー哲学欄の「経験論の原理的問題点(生得観念の必然性について) 質問番号:5203577」 にて、愚見を述べさせていただいた次第でございます。     これらのことも踏まえ、 「現実はきびしいかもしれない。しかし有神論者・無神論者含め、ブッダの哲学は必ずや、ひとに”しあわせ”を感じさせる何かを持っている!」  とそう、思っている次第でございます。つきましては、bragelonne様の 「活かすべきものがあるとすれば 大いに明らかにして共有の財産としたいと思います。」  に対しましては、愚生も全くの同感でございます。  また長々と綴ってきましたが(今回は全くbragelonne様のご期待には添えてはいないとは思っております)、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん ここまで賛同しておっしゃっていただくと 何だかこわい気がします。そして――こんばんは。ご回答をありがとうございます。―― No.55の konsan29 さんとのやり取りが どうなりますか。というところのように思えますが 振り返ってみて おそらくはまだまだ 《なぞ》においてひとつの共同主観( common sense )を得ることができた。といった情況ではないかと思ったりします。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  これらのことも踏まえ、   「現実はきびしいかもしれない。しかし有神論者・無神論者含め、ブッダの哲学は必ずや、ひとに”しあわせ”を感じさせる何かを持っている!」  とそう、思っている次第でございます。つきましては、bragelonne様の 「活かすべきものがあるとすれば 大いに明らかにして共有の財産としたいと思います。」  に対しましては、愚生も全くの同感でございます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ とにもかくにも 身に余る光栄です。と同時に 先にも書きましたように むしろようやく出発点に共に立ったという情況ではないかとも考えます。  まぁ 理系のドクターを前にして 平気の平左で こわいもの知らずでしゃべくりからかしていますが こういう人間です。  ○ あやまつなら われあり。( Si fallor, sum. )  ☆ という自然児・野生児・反逆児スサノヲです。  そうしますと おそらく  【Q:イエスは 特異点か】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5111414.html  などは お得意なのではないでしょうか? ご推測のようにわたしは からっきし自然科学は明るくありませんので ご指導ご教授のほどをあらためてお願いいたしておきたいと存じます。  さしあたっては 述べましたとおりに konsan29 さんとのやり取りのゆくえがあります。  そして全般的には ともかく仏教界のとびらをこじ開けてでも 風通しをよくしたいと願いますし たとえ分からないところであっても 哲学の観点から分類整理しておけば どんどん見通しがよくなるという方向をまづは願っております。  感謝のことばも なんだかままならないような感覚です。ところどころに舞い込んでくる勝手な投稿をも含めて すべてのみなさんに感謝のこころを表わしたいところですね。  さてこれからどうなりますやら。

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    私がどうしてもわからないのが「輪廻転生」です。「輪廻転生」とはどのようなことを言うのでしょうか? ブッダの生きた時代はバラモン教が主流であり「輪廻転生」は当たり前の概念だそうですが、ブッダは「輪廻転生」について何か述べたのでしょうか? 述べなかったでしょうか? ある本には、悟りを開いて「輪廻転生」のループから脱するのがブッダの教えであるとも書いてあります。普通、日本で「輪廻転生」と言うと、肉体と魂は別々で、肉体は滅びても、魂はまた別の肉体で生まれ変わるというような事ですよね。 ブッダは人間が生まれ変わるというようなことや、魂と霊魂とか・・・は、しょせん事実関係が証明できないことだから、そのままにしておきなさい!と教えています。 また、自分と言うものに実体はない?と言うことも述べています。自分に実体がなく存在していないなら生まれ変わることもないはずです。 つまり「輪廻転生」とブッダの教えはどう考えても容認し合えない思想かと思います。 それとも、バラモン教の「輪廻転生」とブッダの「輪廻転生」は全然別物なのでしょうか?

  • 美女マーガンディヤーとゴータマ・《ブッダ》

     コーヒーブレイクです。  スッタニパータに載ったゴータマの発言について 思うところを述べておしえてください。  すなわち 次の詩句 835 の言葉についてです。  これは マーガンディヤなるバラモンが その娘で美女のほまれ高いマーガンディヤーを ゴータマに嫁がせようとして結婚を申し込んだその問いに対するゴータマ自身の答えだと言われています。  すなわち その求婚をことわる言葉なのですが その内容について みなさんは どのように受け留めるのか? そこが知りたいところです。  ▼ (スッタニパータ・<9、マーガンディヤ> 835-847) ~~~~~  http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  835  (師((ブッダ))は語った)、    「われは(昔さとりを開こうとした時に)、    愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、    かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。       糞尿に満ちた身の(女が)そもそも何ものなのだろう。    わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これを聞いた当の本人マーガンディヤーは ゴータマに対して恨みをいだきます。これが のちのちまで尾を引きます。・・・  質問者としては 心が理念――アマテラス普遍人格語――の一辺倒であって もはや蛸壺地獄に落ち入っている です。