• ベストアンサー

ブッダはなぜ《仏性》を説かなかったのか?

来生 自然(@k_jinen)の回答

回答No.35

>>>  ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆★ 自然法爾  ☆ が 《自然環界》と《その上でおこなう人間の意志行為》と《それらの社会的な関係錯綜つまりは社会的な自然》 これらを総合した経験世界について 因果関係を問うのはふつうのことである。しかも この経験世界を超えた《なぞ》の領域をも想定している。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このことについて合意ができてうれしい限りです。 <<< 「アドバイス」を如何様に取るにしても、それは、質問者様の向かおうとする方向性によって形を変えるのが当然であり、それについては何ら指摘すべきものではないのですが、あえて言わせていただくならば(以前も同じようなことがありましたが)そういった場合「合意」ということには「決して」なり得ません。「進んだ」とか「後退した」とか「前向き」とか「後ろ向き」とかいった言葉も同様です。 蛇足ながら、「自然(しぜん・じねん)」といった概念の揺らぎは「関連性」(ないし「境界概念」)の揺らぎであり、これはとりもなおさず「アイデンティティ」の揺らぎと相同のものになるでしょう。それゆえ「因果関係を問うのはふつうのこと」にはなり得ない場合(たとえば偶有性)が多く、むしろ「問わない」という立場すら賞賛されうる場合もあり得る。そういったことがらも「自然」には当然のことながら、包含されていることでしょう。 このことは、No.23の「補足欄」の次の事項について、きっちりと見解の相違を記しておくのを忘れていたことにも起因しているように思われますので、明記させていただきます。 >>>No.23の「補足欄」  《心の伸び》にかんして  ★ (c) 「受動・能動の同時成立」  ☆ に対しては すでに触れた次のような内容がわたしの対案です。  ☆☆ (No.16補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ ( b )の場合は    ○ それゆえ その伸びとしての――なんなら たましいなり霊なりのちからの――はたらきを わたしがわたしという存在のこととして受けとめすでに受け容れていること が伴なわれています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 言いかえると   ○ 自然法爾(なぞ)が 基本です。その基礎の上でこのなぞの出来事〔としての社会的自然たる行為関係の錯綜〕をわたしが受け容れる。  ○ わたしの意図し意識して行なった意志内容については その《受け容れ・確認》において《主体的・能動的な行為》であると認める。  ○ あとは受け身だ。しかも意志による能動の行為も 自然環界や社会的自然を受けとめるという受け身から出発している。  ○ しかもこの受け身も 受け容れることにおいて主体的な行為である。(なぞの非思考を おのれの心の伸びとして受けとめ受け容れるのは 主体としての信仰行為である)。 <<< わたしが「能動・受動の同時成立」といったのは、「伸びる」か「伸ばされる」かといったことの同時成立です。 意識的に「伸びている」ように思っていたとしても、無意識的に「伸ばされている」かもしれないわけです。 もっと言い換えるなら 「信じる」と「信じさせられる」の同時成立 「生きている」と「生かされる」の同時成立 等々・・・です。 したがって >>>  ▲ 霊の導きに従って生きている。前進する。  ☆ これが 《なぞとしての自然法爾》の生き方です。 <<< ということには、決してならないでしょう。 「能動・受動の同時成立」という概念にて、同等の概念を正確に記するなら 「『(導く霊を想定するならば)霊の導きにて生かされている』と同時に、『(想定されうる霊が導くであろう方向に)生きている』の同時成立」です。 「信じるものは、救われる」ではなく、「(自らを)信じるものは、自らを救う(こともある)」でしょうし、また、「(関連性ということでの、自ずからを)信じる・信じさせられるものは、自ずから救われる(こともある)」ということでしょう。 さて、「関連性」という概念から再度「スッタニパータ」を見返すならば、(いわゆる大乗の言うところの)《仏性》の芽は既に説かれていたとみなすべきです。 これは、ブッダが「何を」覚ったかということと無関係に説明可能です。 「スッタニパータ」の全体を流れている事柄を、誤解された経緯からみるならば『(あたかも)関連性を断ち切る(ような状況)にて、「ある」境地に達しようとした』ということです。 この境地が、「関連性を断ち切った状態のまま」であるならば、西洋が誤解したところの「虚無・魂の消滅」と相同であり、(いわゆる)大乗側が非難するところの(いわゆる)小乗概念と相同になり得ます。 しかしながら、「スッタニパータ」全般に記述されているのは、「関連性を断ち切る」のではなく、「関連性に執着しない」ということです。「関連性を保ったまま、関連性についての見解に執着しない」といってもいいです。 その上で「(関連性を保ったまま)如何に生きるか」(たとえば、下記のような慈しみの概念)についても明示しています。(最古とされる「八つの詩句の章」にも慈しみについて触れられています。) >>>http://sugano.web.infoseek.co.jp/butu/buuta0.htm ◆<8、慈しみ>◆ -------------------------------------------------------------------------------- 143 究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。 144 足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪ることがない。 145 他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。 146 いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きいものでも、中ぐらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、 147 目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでもすでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。 148 何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。 149 あたかも、母が已が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生れるものどもに対しても、無量の(慈しみの)意を起すべし。 150 また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。 151 立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥つつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。 この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。 152 諸々の邪まな見解にとらわけず、戒を保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。 <<< 「関連性を断ち切るのではなく、関連性に囚われずに、関連性と共に生きる」。。。このことは、正に「無我・非我」の概念差異に関連し、観念的か実践的かといった捉え方にも関連するでしょう。 あと、《仏性》については、下記のような考察もあるようです。 「如来蔵思想批判」の批判的検討(Libra) http://fallibilism.web.fc2.com/ronbun01.html

bragelonne
質問者

補足

 ご投稿をありがとうございます。  ▲ 〔親鸞:自然法爾(じねんほうに)章〕 ~~~~~~~~~~~~  自然といふは 自はおのづからといふ 行者のはからひにあらず 然といふは しからしむといふことばなり。しからしむといふは行者のはからひにあらず 如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。  * 爾(に・じ):しかり。そうである。  ▼ (道元:現成公案) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  自己を運びて万法を修証するを迷とす。  万法進みて自己を修証するは悟りなり。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ さすれば   ○ 《はからひなき》を目指しつとめることは はからひか? そうでないか?  ○ 《万法進みて自己を修証する》ようにはからふことは 《自己を運びて万法を修証するを迷とす》にあたると思われる。  ☆ したがって  ◆ (スッタニパータ)143 究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達し  ☆ というとき   ( A ) 《究極の理想に通じる》こと・《平安の境地に達する》ことが どういうことか? どのように通じ達するのか? この問題がつねに 初めに 横たわっている。  ☆ すなわち  ◆ 143(承前)・・・能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。  ☆ とそのあとに延々と続く命題は すべて (1) 自己の努力(はからひ)による修行であるか さもなければ(2) すでにさとりを得た人間がおこなうことである。言いかえると (2)の場合でも 上の( A )の問題が立ちはだかっている。  そうでなければ ここではただの道徳が並べられているに過ぎなくなる。どんな宗教でも思想でも 多かれ少なかれ 道徳規範については語っていると言わねばならない。ブッダとの違いはなくなる。  言いかえると 《慈しみ》ないし《慈悲》については とうぜん《非思考=信仰》からの恵みとしての《はからひなき自然法爾》の振る舞いが ふつうの倫理とは基本的に別の行為として 想定されているはずであり 実際その実践も言われている。そしてそれには   ○ 親鸞や道元のさとりの境地の問題 つまり そこに如何にして到るかの問題  ☆ が先立つことになる。  これが ひとつには 《仏性》の問題だと考えられる。これをブッダは まだ――まだ その芽としても――説いていない。  ◆ 151 崇高な境地  ☆ という言葉の看板をかかげるのみ。    ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  わたしが「能動・受動の同時成立」といったのは、「伸びる」か「伸ばされる」かといったことの同時成立です。  「信じる」と「信じさせられる」の同時成立  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あり得ません。  ○ はからひなきままに 向こう(=なぞ)からこちらに来るものを受け身にて受け取るのみです。受け取りが 能動的で主体的なはからひです。  ○ 《信じる》というのは この非思考(=なぞ)を心に受け容れるという行為です。  ○ 《万物進みて》と感じたひらめき(あるいは 予感のごときもの)を得たというむしろ《まぼろし》が 非思考の《こころの伸び》のことです。このまぼろしを心に受け容れることが 信仰です。  ★ 意識的に「伸びている」ように思っていたとしても、無意識的に「伸ばされている」かもしれないわけです。  ☆ これは すべて《はからひ》の内に想像し分析してみたということではないでしょうか? 《万物進みて》において 意識も無意識も関係ありません。進みてやって来たものを受け容れるのは はからひであり したがって とうぜん意識的です。  《万物が進みてやって来た》と感じたことが はからひなきままに《心の伸び》そのものです。  ★ 「能動・受動の同時成立」  ☆ であるなら 人間のはからひと《なぞ》とが同等であり 《なぞ》は経験世界の事象と変わらなくなります。

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     1. 《空》を 神と見立てればよいものを あくまで人間の境地だと言い張った。  2. すなわち 《目覚めた(ブッダ)》状態としてであり 言ってみれば《神として》ではなく 《神の場に行き来できる存在》として にんげんなる《われ》にその境地があるのだと言い張った。  3. ブッダ状態としての《さとり》とは ここで あくまで《確率》として存在するというものである。言いかえると その存在についてもその状態についても ついぞ人が確定して認識しえず言葉によって表現しえない場なのだと。  4. 言いかえると ブッダよ あんたのさとりを 示せという疑いや要求に対しては あくまでシラを切る。《表現しえず》と。  さとったのなら 人びとに分かるように説明せよと言われても 沈黙をまもる。  人びとが それはこれこれの状態を言うのではないか? と尋ねた場合には いやいや さとりとは そんな生ぬるい境地などではないと答える。  では どうなのか? という問い返しには だんまりを決め込む。  5. したがって ブッダのさとりは 表現の問題におさまるかとさえ考えられる。  人びとに分かるように説明しえないならば そのさとりは インチキではないか? という問いに対しては いやいや われははるか昔からはるかこの先までブッダである。と言って聞かない。  説明が出来ていないではないか? という問いに対して いやいや われは その現場を取り押さえられても姦淫はしていないとどこまでも言い張るごとく ブッダなりと答える。ブッダはブッダなんだよおーんと。  ――このような《表現およびやり取りの問題》にすべてをおさめようというおそろしく決意の固い宗教家なのではないか?  6. 一方で 人びとの求道の心を引き出し ただし他方では さとりの証明にかんしては 量子を特定して示すことは出来ないというような論理で どこまでも逃げ しかもブッダ論をぶちつづける。      *  この質問は 下記の質問でのやり取りを承けています。   【Q:ブディズムの再生はあるか。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7563932.html  その趣旨説明から 次のくだりをふたたびかかげます。上の    1. 《空》を 神と見立てればよいものを・・・  について説明している箇所ですから。  ☆☆ (信仰の類型) ~~~~~  ( d ) 有神論および無神論それぞれとしての信仰を 類型的にまとめてみます。互いに同等であると見るというものです。  |非経験の場|経験世界の分身|信仰の形(非思考の庭)|  ○ 神道  |かみ|かみがみ|もののあはれを知る;きよらかなおそれ|  ○ ヒンドゥーイズム  |ブラフマン|神々|アートマンなるわれ|  ○ ブディズム  |空|神々|如来蔵(信じないと信じる)|  |マハーワイローチャナ|マンダラ|秘密なるわざ|  |アミターユス|無し|絶対他力;自然法爾|  ○ 聖書  |ヤフヱフ|無し|名を受け容れる|  |キリスト|無し|名を受け容れる|  |アッラーフ|無し|クルアーンに拠る|    ○ 西欧古典古代  |宇宙霊魂;世界霊魂|神々|《わたし》|  ~~~~~~~~~~  7. 有神論(たとえば 梵我一如)をしりぞけ それでも無神論〔という信仰〕の立ち場をも採らないならば その存在論・その人間の境地論は 《非思考の庭》としての信仰と 思考としての経験思想とのあいだで どっちつかずのままに終わる。というおそれが 大きいと思われる。  果たして どうか?

  • やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。

     『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』(中村元訳 1980)から次の主題を取り上げ問います。  § 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは アーナンダの不明の所為か?  ▲ (アーナンダにおける悪魔憑き) ~~~    ――・・・アーナンダよ修行を完成した人(如来)は・・・もし望むならば 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まり得るであろう。  と〔ブッダが言った〕。こういうわけであったけれども 若き人アーナンダは 尊師がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたのに 洞察することができなくて 尊師に対して《・・・寿命のある限り この世に留まってください。――多くの人びとの利益のために・・・幸福のために》といって尊師に懇請することをしなかった。  それは かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕五)   ~~~~~~~~~~~  【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか?  【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(?)を食べて体調をくづしたとき ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしているのに このアーナンダの悪魔憑きについては どう振る舞ったのか?  § 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか?  ▲(苦か楽か。涅槃?) ~~~~  ・・・尊師はこのように言われた。   ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・     修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)  ~~~~~~~~~~~  【Q‐3】 生老病死なる苦 とりわけ生なる苦――《根本的な生存欲》(?)なる苦――を言い続けたのではなかったか? けれども 死を前にして 《楽しい》と言っている。  (つぎの【Q‐4】をも合わせて捉えるなら おかしいと考えられる。つまり 苦は楽に変えることが出来ると明言しなければいけない。あるいは 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆ではないのだと)。  【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダのあり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。  § 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか?  ▲(自灯明・法灯明) ~~~~    ――・・・この世で自らを島とし 自らをたよりとして 他人をたよりとせず 法を島とし 法をよりどころとして 他のものをよりどころとせずにあれ。  (中村訳 前掲書 第二章〔九、旅に病む〕二六)  ~~~~~~  【Q‐5】 《島》を 灯明として解される説を採らないにせよ ここで《たよりとする自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐アートマン)》を説いているのだから その区別を明らかにすべきではないか?  【Q‐6】 けれども 《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 《自らを頼りとし 〈灯明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただそのときその場での《明かり あるいは 光》とするだけではないのか?  つまり 医学などの科学としての光明や思いやり・愛情としての温かみやは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と心において得られるものである。  ゆえに 問題は 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? そうでなければ《自己のチカラ》は かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまる。こういう主題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか?   みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか?    《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情によって一隅を照らす》こととは 微妙に違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。    これらの問いをくつがえし得ないとすれば ゴータマ・ブッダは 阿呆である。  以上について よろしくご教授ください。

  • 梵我一如に仏教は密着したのでは?

     ブラフマニスム(バラモン教)に言う梵我一如 すなわち   《真理としてのブラフマン(梵)》なる一元に 《人間存在つまり〈存在〉ということ としてのアートマン(我)》が 一体となり 輪廻から解脱するという思想 この思想を けっきょくのところ ブッディスムは 採り入れたのではないでしょうか。  真理(ブラフマン)を 法身なるブッダないしダルマとして そして 個人個人の存在(アートマン)を 人間の内なる仏性としてです。つまり これら両者は 同じであるなら 一如であると言っていると思われます。そうではないでしょうか。以上について おしえを乞います。 * 参考: ・《梵我一如》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E6%88%91%E4%B8%80%E5%A6%82 ・《ブラフマン》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3 ・《アートマン》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3 ・《三身》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%BA%AB ・・・以上は 短い解説です。次が 分かりやすかったです。 ・《Q:梵我一如と仏教の悟り 》:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1106940.html⇒そのANo.1およびANo.3が参考になります。

  • 「輪廻転生」とはどのようなことを言うのでしょう。

    私がどうしてもわからないのが「輪廻転生」です。「輪廻転生」とはどのようなことを言うのでしょうか? ブッダの生きた時代はバラモン教が主流であり「輪廻転生」は当たり前の概念だそうですが、ブッダは「輪廻転生」について何か述べたのでしょうか? 述べなかったでしょうか? ある本には、悟りを開いて「輪廻転生」のループから脱するのがブッダの教えであるとも書いてあります。普通、日本で「輪廻転生」と言うと、肉体と魂は別々で、肉体は滅びても、魂はまた別の肉体で生まれ変わるというような事ですよね。 ブッダは人間が生まれ変わるというようなことや、魂と霊魂とか・・・は、しょせん事実関係が証明できないことだから、そのままにしておきなさい!と教えています。 また、自分と言うものに実体はない?と言うことも述べています。自分に実体がなく存在していないなら生まれ変わることもないはずです。 つまり「輪廻転生」とブッダの教えはどう考えても容認し合えない思想かと思います。 それとも、バラモン教の「輪廻転生」とブッダの「輪廻転生」は全然別物なのでしょうか?

  • 美女マーガンディヤーとゴータマ・《ブッダ》

     コーヒーブレイクです。  スッタニパータに載ったゴータマの発言について 思うところを述べておしえてください。  すなわち 次の詩句 835 の言葉についてです。  これは マーガンディヤなるバラモンが その娘で美女のほまれ高いマーガンディヤーを ゴータマに嫁がせようとして結婚を申し込んだその問いに対するゴータマ自身の答えだと言われています。  すなわち その求婚をことわる言葉なのですが その内容について みなさんは どのように受け留めるのか? そこが知りたいところです。  ▼ (スッタニパータ・<9、マーガンディヤ> 835-847) ~~~~~  http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  835  (師((ブッダ))は語った)、    「われは(昔さとりを開こうとした時に)、    愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、    かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。       糞尿に満ちた身の(女が)そもそも何ものなのだろう。    わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これを聞いた当の本人マーガンディヤーは ゴータマに対して恨みをいだきます。これが のちのちまで尾を引きます。・・・  質問者としては 心が理念――アマテラス普遍人格語――の一辺倒であって もはや蛸壺地獄に落ち入っている です。