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「全てのものは変化する」への批判への反論

「全てのものは変化する」というのは真理ではありますが、そうだとしたら、その真理は変化しないわけですから矛盾するのでは?という問いに対して 「『全てのものは変化する』ということを真理と名づけたのは約束事であり、約束ごとは「全てのもの」の中に含まれない。 数学者が存在するかぎり『正三角形』の定義が変化しないように」 と答えることは適切でしょうか?

noname#118718
noname#118718

みんなの回答

回答No.6

「全てのものは変化する」という真理は変化しないから矛盾するという 批判者に対して、批判者の中でこの真理が変化しているじゃないの と反論します。

noname#118718
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 皆様の意見を伺うと、どれも妥当に思えてきました。 おそらく複数の論証が可能なのかもしれませんね。 やはり弁証法的理解は文殊の智慧を生みますね。 皆様の意見甲乙つけがたいので敢えてポイントは無しで締めたいと思います。

noname#101110
noname#101110
回答No.5

>「『全てのものは変化する』ということを真理と名づけたのは約束事であり、 これは正しいと思います。 >約束ごとは「全てのもの」の中に含まれない。 これは明らかに間違いです。 古今東西約束事がしっかり守られなかった事例は山ほどあります。 >数学者が存在するかぎり『正三角形』の定義が変化しないように」 これも怪しいですね。ある観念が通用している時空範囲で、その定義を保障している権威が続く限り、とすればいいかもしれません。 >「全てのものは変化する」というのは真理ではありますが これも上記の注釈の範囲で矛盾せず、真理としてそれ以下の概念を引き出すツールにはなるだろうと思います。 やみくもに範囲を広げるのが間違いの元だと思いますが、どうでしょうか。

noname#118718
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 皆様の意見を伺うと、どれも妥当に思えてきました。 おそらく複数の論証が可能なのかもしれませんね。 やはり弁証法的理解は文殊の智慧を生みます。 皆様の意見甲乙つけがたいので敢えてポイントは無しで締めたいと思います。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.4

「諸行無常」ですね 「諸法無常」では無く。 「行」はパーリ語で「サンカーラ」 意味は「起こるもの」で問題ないと思ってます 法則は「起こるもの」では無いでしょう。 法則は行を分析したものでしょうから。 「物質はこのように変化し続ける」といった人に 「では何で化学式は変化しないんだ」というぐらい おかしな批判では?と感じましたw 参考になれば幸いでです

noname#118718
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >「諸法無常」では無く。 仏教的には、おっしゃる説明でいけば仏典との整合性がとれそうと思います。 ただ皆様の意見を伺うと、どれも論証的には妥当に思えてきました。 質問の段階で仏教的説得力か論証の説得力かを明示しておく方がいいですね。ミスしました。 皆様の意見甲乙つけがたいので敢えてポイントは無しで締めたいと思います。

回答No.3

 全てのものは変化する。ということは、変化するものは変化する。  ということですね。  全てのものは変化する。ということは変化するか。  そしてそれが変化したら、どうなるのか。  変化したら、変化する。そして変化したら変化する。  ということであり、変化しないという不存在、無を前提にした認識であろうと存じます。  約束ではなく、認識だと存じます。  この認識自体も全てのものに含まれると存じます。  数学者が存在しなくても『正三角形』の性格は変わりません。  これは定義ではなく、認識です。

noname#118718
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 皆様の意見を伺うと、どれも妥当に思えてきました。 おそらく複数の論証が可能なのかもしれませんね。 やはり弁証法的理解は文殊の智慧を生みますね。 皆様の意見甲乙つけがたいので敢えてポイントは無しで締めたいと思います。

  • mechano23
  • ベストアンサー率31% (60/190)
回答No.2

通りすがりの素人の考えですが、 「全てのもの」に「真理」が含まれるなら矛盾でしょうが、 はたして「真理」は実体のある「もの」なんでしょうか。 現実に存在する物体ならいざしらず、 「定義」「公式」と同様に知識や情報のありようにしかすぎない「真理」は「もの」ではないと思います。

noname#118718
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 皆様の意見を伺うと、どれも妥当に思えてきました。 おそらく複数の論証が可能なのかもしれませんね。 やはり弁証法的理解は文殊の智慧を生みますね。 皆様の意見甲乙つけがたいので敢えてポイントは無しで締めたいと思います。

回答No.1

「全てのもの」の中に、「全てのものは変化する」を(自己参照的に)組み入れても矛盾は生じません。 「○○する」については、期間に関する限定が付随していませんが、通常、「いつかは」といった限定が加わると考えることでしょう。 それゆえ、 「全てのものは(一時的ないし一定期間)変化しない」 も「真」になるでしょう。 というより 「全てのものは、一定期間変化しないことがあるかもしれないが、いつかは変化する」というのが、本質でしょう。 であれば、その文言を「全てのもの」に組み入れても、何ら矛盾はないことになります。 『全てのものは、一定期間変化しないことがあるかもしれないが、いつかは変化する』ということ自体、一定期間変化しないことがあるかもしれないが、いつかは変化する」というのが、本質でしょう。 たとえば、宇宙が終焉するとして、その後永久に変化しない時がくるかもしれないわけです。もし、仮に再度ビックバンが発生するとするならば、さらに「いつかは変化する」として問題ないわけです。 なお、 >>> 数学者が存在するかぎり『正三角形』の定義が変化しないように <<< は、「変化する」として問題ないです。 第一、数学者が存在しない事態を想定すれば、定義自体が変化するでしょうし、ユークリッド空間と非ユークリッド空間では、図形の定義自体が同一になり得ませんので。。。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%89%E5%B9%BE%E4%BD%95%E5%AD%A6

noname#118718
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >期間に関する限定が 4次元(時間)の軸を忘れておりました。 想定外でした。突っ込みありがとうございます^^ 皆様の意見を伺うと、どれも妥当に思えてきます。 おそらく複数の論証が可能なのかもしれませんね。 やはり弁証法的理解は文殊の智慧を生みますね。 皆様の意見甲乙つけがたいので敢えてポイントは無しで締めたいと思います。

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