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幕末長州諸隊の厳しさを新撰組と比べて

新撰組は出身階級を問わず「武士」として遇されるが、その分、法度の適用も厳しく、隊士が切腹や、時には惨殺で処刑されたことは有名です。 長州の諸隊(奇兵隊のみならず何十とあった隊)も、武器は刀槍より銃が多かったとはいえ、階級を問わず名字帯刀を許されました。つまり、一応「武士」として扱われましたよね。 諸隊にも「軍中法度」があり、敵味方の強弱の批評や怪談話の禁止、農民などに迷惑をかけることの禁止などがあったことは知っています。 隊士の質が、神主だけの隊などは別として、新撰組より良かったとはあまり思えませんが、諸隊の軍律の厳しさはどうだったのでしょうか。 厳しくしなければ狼藉を働きかねないと思いますが、諸隊にも、軍律を乱したために切腹や斬首などされたという話がありますか? 聞いた(読んだ)覚えがないし、逆に新撰組ではその点がすごく強調されているだけに、気になっています。 意見でも結構です。

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みんなの回答

  • nogul2n
  • ベストアンサー率57% (483/843)
回答No.4

 詳しい者ではないのですが。  スパイの疑いを掛けられて、赤根武人という人が処刑されてます。  他にも似たような感じの最後を迎えた人がいたような記憶があります。  また、終わりの頃に2つに分かれて、一方が一方に夜討ちを掛け、どちらか負けた側が大粛清されたと読んだことがあります。奇兵隊員の子孫で作る子孫会みたいな会が発行した本でした。  かなりな人数が殺され、奇兵隊員の写真として有名な、6~8人くらいが一緒に写ってる写真の後ろに並んでいる一人の若者もその時命を落としたそうです。元は農家の子で、奇兵隊に志願したそうです。  一方が夜討ちを掛けて襲った理由は、奇兵隊の給料は藩から米として出ていましたが、幹部の一部がその禄を不正をしてチョロまかし、公正に配らなかったことが元々の理由だと書いてありました。不正をしていたとして筆頭名前が出ていたのは三浦梧楼(みうらごろう)でした。本当かどうかは私はわかりませんが。  高い志を抱いて命がけで戦っている集団で、禄を私心からチョロまかすなどということが行なわれているなんてとんでもないという義憤の心から起きたというように書いてありました。  でも憤って事を起こした方は負けちゃって早死にし、三浦吾楼あたりはメッチャ長生きしてます。確か90歳くらいまで。  ちょっとずれてるかもしれませんが関連ということで、お時間がありましたら「絵堂(えどう)の戦い」でもお調べになってみてください。

wuestenrot13
質問者

補足

その後調べていたら、脱走の罪で切腹と言うのを見つけました。新撰組と同じ部分もあったのですね。 ところで「絵堂の戦い」とは「大田絵堂の戦い」とは別のものなのでしょうか?大田絵堂戦でしたらまだ藩論がぐらついていた初期の話ですし。

  • tra55
  • ベストアンサー率10% (5/48)
回答No.3

奇兵隊は高杉晋作が創設したとなっていますが 彼は藩の政争に巻き込まれて捕まって牢に 入ったり釈放を条件に下関戦争の講和交渉を やったり藩の反対派に追われて九州へ逃亡したり 忙しい身の上で奇兵隊の育成には、あまり関与 できませんでした。 それが第二次長州征伐で幕府軍を迎撃するに あたり晋作も奇兵隊を指揮することになったが 奇兵隊の育成に尽力した農民出身の隊長と 晋作が口論になって農民出身の隊長は 出て行ってしまった、ということが あったそうです、晋作は長州でも高い家柄の 武家の出で、ソリがアワなかったのかも しれません

wuestenrot13
質問者

補足

高杉は開闢総督となっただけで、実際の隊務はほとんどみていませんね。 「百姓に何がわかる」という発言が、どんな身分からでも隊士を取り立てたことと矛盾するという人もいますが、「上士の生まれだからこそ、藩の行く末を考えるとさらに辛いんじゃ、その辛さがわかるか」という意味合いで言ったのではないでしょうか。 私が質問した件についても見識がございましたらぜひお聞かせください。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.2

隊士が切腹や、時には惨殺で処刑 ↓ 新撰組と諸隊の組織の素性の違いだと思います。 新撰組での組内での殺戮は、早い話が「権力闘争」です。会津藩預かりとして、組織運営上の「自由度」があったため、上からのタガがはまっていなかった。 諸隊は、長州藩の管理下にあった。 この違いにより、会津藩預かりの新撰組は預かってもらっている(形式上、管理している)会津藩とはぶつかっていないが、諸隊は、管理している長州藩とぶつかっている(No1の方が指摘の事件) 暴力が、内に向いたか外に向いたかの違いです。

wuestenrot13
質問者

補足

新撰組隊士の隊内での死亡の一部は確かに権力闘争的な意味を含む「粛清」ですが、金策・逃亡未遂・不義密通等のいわゆる「士道不覚悟」による切腹も多くあります。 厳しすぎるとも思われますが、それをしなければ烏合の衆になりかねなかったのだと思います。「暴力」といえばそうですが…。 で、諸隊においてはそういう話を聞きません。諸隊も、身分に関係なく入隊したという点では新撰組と同じなのに、規律の適用がそんなに甘かったのだろうか?というのが、私の疑問なのです。 ついでですが、諸隊は藩に管理されていたんでしょうか?確かに高杉は上士ですが、大田絵堂では藩の正規軍と「内戦」をやったわけで…。四境戦争の頃になれば、確かに大村益次郎のもと、藩の軍として働いていますが…。新たな疑問です^^;

  • isa-98
  • ベストアンサー率23% (205/859)
回答No.1

>厳しくしなければ狼藉を働きかねないと思いますが どうもそのようで。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E6%B3%95%E5%AF%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

wuestenrot13
質問者

補足

上士軍の腰抜けぶりと旧弊な装備は実際農民にすらあざ笑われていたほどだったようなので、このような衝突は、まあゼロというわけには行かなかったでしょうね。 この事件で処罰があったことはわかりますが、新撰組のように「押し借り(無理やり借金、というか軍資金を出させること)を働いた」とか「不義密通」などの理由で「士道に背く」と処罰されたことはあったのでしょうか。

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