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着物=呉服??
応神天皇が、呉へ縫工女を求めました。 呉織(クレハトリ)・穴織(アナハトリ)らが来ました。 このことは、着物を呉服ともいうことと関係があるのでしょうか?
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呉服の語源は、中国が三国時代の時に、呉の織物や着物の縫製方法が日本に伝わったからと言われています。元々は絹製品を呉服、綿製品は太物(ふともの)と称して、昔は扱う店も別であったそうです。 >このことは、着物を呉服ともいうことと関係があるのでしょうか? ずばり、hanahide様が予想されたとおりです。(^^)b ちなみに、中国の「呉」というのは、映画の『レッドクリフ』の舞台になっている呉のコトなんですよ。
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No.1です。 >三国の中で何故『呉』だったのでしょうか 応神天皇のお母さんである神功皇后は、卑弥呼ではないかと言われている人物です。 239年 卑弥呼が魏(曹操の孫・曹叡)に使者を送る。 249年 魏で司馬懿がクーデターを起こす。 263年 蜀が魏に降伏、蜀が滅亡。 265年 魏が滅亡、司馬懿の孫・司馬炎が晋を成立。 280年 呉が晋に降伏、呉が滅亡し晋が天下を統一する。 応神天皇の時代は、魏はゴタゴタしていて(もしくは滅亡)、三国の中でも、呉が力を握っていたのではないでしょうか?それで呉に使者を送ったのではないかと思っています。 「神功皇后イコール卑弥呼説」を否定される方もいます。しかし、それを言ってしまえば、古事記での応神天皇の崩御は、西暦393年です。呉の滅亡から応神天皇崩御まで、113年間もあります。応神天皇はそんなに長生きだったの?…とは、思えませんよね。そうなると、応神天皇が呉に使者を送ったという話も、おかしくなってきます。古事記&日本書紀の年代は曖昧です。呉から技術が伝わった話はあるけれど、はっきりした証拠がないので『伝説扱い』なんです。
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gin-chiyoさん ありがとうございます 揚子江流域から 日本へは 海流とかで日本へ比較的楽に来れるようです 揚子江流域とは 稲作も関係が深いようですね 古事記・日本書紀に書かれている事は 過去の事実の痕跡でしょうか 神功皇后イコール卑弥呼説 非常に惹かれます 本当はそうなのだと思っています
No.1です。 説明が下手でごめんなさい。 『呉服』という言葉の『呉』は、三国志の『呉』からきています。呉織と穴織が、織物や染色の技術を伝えたという伝説はありますが、残念ながら『呉服』イコール『呉の国の服装』ではありません。『呉服』は『呉の国から伝来した織り方によって作られた織物』という意味なので。 ちなみに『穴織』は、資料によっては『漢織』と書かれていることもあります。 三国志が好きなので、三国志にまつわることが現代の日本まで引き継がれている思うと、嬉しくなりますw
お礼
gin-chiyoさん ありがとうございます 三国志が近くに思われますね 三国の中で何故『呉』だったのでしょうか 曹操の所は地理的に近いし 孔明の所は蜀紅錦があります 『穴織』は『漢織』と見ればなんだかすっきりしますね 『呉服』イコール『呉の国の服装』とばかり思っていました ありがとうございます 楽しくなりました
- cyototu
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>元々は絹製品を呉服、綿製品は太物(ふともの)と称して、昔は扱う店も別であったそうです。 について、質問の答とずれてしまいますが一言。 日本に綿が入ってきたのは14~15世紀の室町時代以降ですので、昔は殆どの場合麻の服を着ており、貴族などが絹を着ていたそうです。 そのことから、綿製の着物ばかりでなく、綿の入った布団も随分新しいもので、東北などでは明治時代以降にもワラ屑の箱の中で寝たと言う記録が残っております。
お礼
cyototuさん ありがとうございます 綿の栽培は肥料を沢山使うようですね お魚を肥料に使うようになって日本で綿が栽培されるようになったようですね ジャワ更紗は 綿製品ですね 綿は私のような普通人間が普通に使うものですが 絹よりもずうっと遅く日本人は使う様になったのですね
お礼
gin-chiyoさん ありがとうございます 呉服と言う場合 このときの呉は三国志に出てくる呉とあまり変わらないのでしょうか 呉服とは三国志の頃の呉の国の服装なのでしょうか 古代史にはロマンが有りますね