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自分と他人の線引き

以前、連続で辛いことがあってこちらで相談したとき(別IDでした) 「自分と他人の線引きができていないから、つけ込まれるんですよ」と アドバイスをもらいました。 その時は納得し、アドバイス通りに行動した所問題も解決出来ました。 それから数年経ち、上がったり下がったりを繰り返し、 ふと気がつくと 自分の自己否定感と不安定さと混乱具合は相当なものでした。 昔に比べると幾分マシになって気でいましたが 何も変わってなかったんだなぁとガックリ。 それから色々考え、考え、考え抜いて 結局私は理想像に振り回され、自分軸が無く また自分と他人の線引きが上手くできていないため 劣等感が強く苦しいんだなという結論に達しました。 「人を喜ばさないと」「変なこと言って傷つけないようにしないと」 という思い込みがあるんだなということにも気づきました。(中々直りませんが) しかしある程度答えが出て無理をするのを止めたため かなり楽になりました。 理想はいったん捨てて堅実に歩こうと思いますし 自分の軸は、しばらく止めていた自分が純粋に楽しいことをして 少しずつ取り戻していきたいと思っています。 ただ自分と他人の線引きなのですが… その答えが出て以来、「自分と他人は別の個体だな」と感じることができるようになったのですが ストレスがかかるとすぐに自分と他人の境界線があやふやになります。 そして更に私は、人を「分析」しようとする癖もあります。 「なぜこの人は今こう言ったのか?」「この人はどういう性格なんだろう?」等…。 他人を100%理解しようなど誰にも不可能だと思うのですが 自分でも気づかないうちにふと初めてしまいます。 相手を自分の価値観の中にぎゅうぎゅうに詰めている感覚で 境界線が無くなっている状態です。 その間、私は私を見失っており視界も世界も現実もぼやけ気味です。 仕事の効率も、作業の効率も落ちます。 さらに比べてしまうので自己否定感が湧いてきます。 他の人が幸せに見えてるのだと思いますが…。 変な話なのですが、「自分は自分だな」「自分と他人は別の個体だな」と 心から思えている時は視界がクリアーなのです。 作業効率も上がるし、ミスも減ります。 いつもふわふわしている足が、地に着いた感じがします。 ただ境界線があやふやになると、とたんに曇ります。 先述したのですが 意識が散漫になって効率も悪くなります。自分の力で生きてる気がしません。 線引きができる時間が少しずつ増えている気はするのですが 意識しないとすぐに戻ります。 ずーーーーっと、他人と自分を比べていた私と私の心ですから 癖になっているのだと思います。 また「線引きはどこまでしていいのかな?」なんて疑問も出てきました。 あんまりしすぎると冷たい人間にならないかな?なんて…。 そして、あのクリアーな時間は実は自分がめちゃくちゃ集中しているだけで 続かないのは当たり前なのかな…なんてのも思ったりします(汗 つらつらと書きすぎましたがお聞きしたいことは 自分と他人の線引きができている方や 以前はできなかったけどできるようになった方に… ○線引きというのはどれぐらいしても良いんでしょうか。 空気を読む、相手を思いやるというのも必要ですし…。 ただ自分は何があってもイヤミや八つ当たりができる人間ではありません^^; ○視界がクリアーになる、集中出来る、地に足がつく感じがするという感覚は当たり前に起きていますか?続きますか? ○以前はできなかったけどできるようになった方は、何がきっかけで、どう考えたor感じたからですか? 感覚的な質問な上に乱文なので要望があれば補足致します。 回答アドバイスお願いします。

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  • ベストアンサー
  • mayupiyo
  • ベストアンサー率28% (44/156)
回答No.3

 出来るときと出来ないときがある、という風に捉えられては?? そしてどういうときに出来なくなっているか・・・周期的なのか、ある人物や出来事によるものなのか。  日記などにつけて、もっと自分観察をしてみてはいかがでしょうか。 ・自分のことが分る ・他を見渡すゆとりがある これが大事な要素のようですね。  そして何より、誰にでもあることということ、もっと分ったほうがいいです。波のない人なんて、薄情ないやな人間だと思いますよ。自分が落ちたことがあるから、人の落ちたときに力になれるんです。それで世の中が成り立ってきてるんだと思いますよ。  あとは文面から感じたのは、凝り固まって、疲れていらっしゃるのかなって・・・。睡眠、運動が不足したり、食生活が悪いと、当たり前ですがテンションが下がって。笑えなくなるし、観察力も落ちますよね。 このような他人と自分を比べてしまったり、自分しか判断材料がないときは、色々な人にあってみるのも手です。逆療法で。  視野が広がって、人間てこんなもんか、ともっとやわらかく考えられるのではないでしょうか。  人に情をかけすぎるのは、今の時代怖いことになってしまいましたが。悲しいときに共感したり、嬉しいときに泣いたり出来る人って私大好きですよ。  なめるかなめられるかなんて不良漫画みたいな目線で人間関係見てないで、自分の情緒を豊かにするのがいいですよ。映画や本を沢山読んでリセットするのもいいですよね。  決め付けたり、決め付ける人間の方に自らはまることないですよ。その人の言葉、私にとってはあまり価値を感じないです。でも私は人のことをとても気にしてしまう人間です。こういう風に、人って人の数だけなんですよね。気にするにしても、気に仕方も色々。面白いと思えたらいいですよね。

rou_24
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 誰にでもあることですか…。 うーーん…私まだ視野が狭いんでしょうね。想像がつかないんですよね。 >自分のことが分る 他を見渡すゆとりがある 両方足りない気がします。とくにゆとり^^; でも、色々勉強になりました。 ありがとうございます。 ちょっとリラックスしようと思います。

その他の回答 (4)

noname#99290
noname#99290
回答No.5

NO4に追加です。 歩いている時、座っている時などのことを書きましたが、もちろん立っている時も足裏を感じます。

noname#99290
noname#99290
回答No.4

NO2です、補足ありがとうございました。 地に足が着いた・・ 人によって色々な解釈の仕方があることと思います。 が、私はそのものズバリ足が地に着いている状態を言っています。 言っている、と言うよりそれを感じながらと説明した方が良いでしょうか。 何時も立っているよ・・歩いているよ、と言う声が聞こえそうですが、歩いている時に、足裏に自分の体重を感じながらと言う方は少ない様に思います。 足裏を意識し過ぎると、交通事故にも遭いかねませんし。 イスに座っている様な時でも、足裏を意識しています。 イスに座っている様な時は、足裏よりも尻に重みを感じますが、それでも良いです、足裏に拘らないということです。 イスに座っている時にも、足裏に立っているときよりは少ないですが重さを感じます。 重さと言うよりも、足裏と床などとのフィット感でしょうか。 足裏と床などとのフィット感、大抵の人は気にもしていないでしょうから、最初は足裏と床が繋がっている感じは殆ど無い事でしょう。 足の緊張を取って、且つ足裏に意識を向けていないと感じられません。 一度お試しあれ。 理屈はなしです、色々と理屈はつけられます。 が、百の理屈よりも一つの行動・実践が現状を変えるきっかけになるように感じます。

rou_24
質問者

お礼

ありがとうございます。 せっかく頂いたアドバイスですが、ちょっと私との解釈が違うようです…。 足が着くということに重点を置いているのではなく 自分という人間を感じた時に結果として足が着く感じなんですね。 私の説明が足りなかったのならすいません。

noname#99290
noname#99290
回答No.2

質問者さんは、地に足が着いているとはどの様な事を言っているのでしょう。 具体的にこれこれ、と言うようなものがありますか。 以前、上司などから地に足が着いているか、などと何度か言われた事があります。 その時は何か抽象的だなあと思いましたが。

rou_24
質問者

補足

地に足がつくというのは 現実を見て、自分が自分であると理解し、その場と時間にしっかりと立つ。 という感じでしょうか…。 本当に足が地面についた感じになるのです。 (私の感覚的にですが) いつも頭がふわふわだったり何かに気をとられていたので あの感覚は衝撃でした。 子供の頃は当たり前のようにその状態だったのではないかなぁと思います。 上手く言えなくてすいませんが、私としてはこんな感じです。

noname#194289
noname#194289
回答No.1

自分で目標を決定した場合に周囲の人は意志や感性を持った人ではなく人形のようなものになっています。一方自分がそういう主体性を持っていないときには周囲の人はあなたの代わりにあれこれ指図をするようになります。しかしこれはいずれも貴方の頭の中で起こっている出来事です。つまり貴方が主体性を持っているかどうかですが、持っていなければならないということも決まっていることではないと思います。貴方が線引きという表現をされていることも頭の中で起こっていることですが、主体性を持っているか持っていないかを線引と表現されているのだろうと思います。主体性というのは持ち主が生きている限りいくらでも回復するものですから気にすることはないように思います。ちょうど眠くなったから眠るようなもので熟睡すれば気分よく目が覚めるようなものです。眼むいのに無理に起きていたり、さらに徹夜などをしてみてもあまり良いことがないのと同じでははないでしょうか。眠っているか眼がさめているかを線引としてもあまり意味がないと思います。大切なことは貴方が生きているということの方ではないでしょうか。

rou_24
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 うーん…主体性というのは自分の軸ということでしょうか? 軸を持っている人間は振り増されずに済むが、しかし振り増されれているというのも自分の頭の中の出来事で、自分の心を通して見ていると解釈していいでしょうか? 主体は、数年前の辛い時期以来ぽっきり無くなってしまったように感じます。 最近自分を苦しめているのが自分の思い込みと自信の無さ、そして考え癖だということを感覚で理解して以来、徐々に回復してきているような…そんな状況です。 あまりに自分を蔑ろにしてきたので、そんな自分を救い出したいというのが 今の私の思っている所です。 そのために自分と他人の線引きは必要不可欠かなぁと。 kaitara1さんの文を読んで、つまりは自分の軸(主体)を持つことが 線引きに書かせない材料だと読みましたが…都合良過ぎですかね^^;

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