• 締切済み

蒲生野の読み方

万葉集にある額田王の歌の冒頭の説明に、蒲生野(かもふの)という地名があります。 これを音読する際には、(かもうの)でしょうか、それとも(かまうの)でしょうか?? わからなくて困っています。 わかる方いらっしゃいましたら、ご意見お願いします。

みんなの回答

  • OKAT
  • ベストアンサー率38% (247/639)
回答No.6

  まだ締め切られていないので、気づいたことを書いておきます。 質問者が手にしていらっしゃるのは、印刷されたテキストと思います。万葉集などの古典(写本)を印刷するにあたっては、普通学者が校訂の手を加え明らかに誤りがあれば、訂正したり読み方が分かりにくい時はその学者の責任において「読み仮名」を付けたりします。  その書物の出版が昭和21年(「現代仮名づかい」が制定された)より新しければ、現代仮名づかいによるのが普通です。「かもふの」は歴史的仮名遣いなら、おっしゃるとおり「かまふの」(読み方は「カモーノ」)になると思います。現代仮名づかいなら「かもうの」(読み方はおなじ「カモーノ」)になるはずです。  ところが、「かもふの」となっていれば困りますね。これは誤植だったのか、あるいはその学者の考えで「カモフノ」と読ませたかったのか、よく分かりませんね。質問者のおっしゃる気持ちはよく分かります。  ところで問題の地名は「滋賀県蒲生郡蒲生町」だったのが、市町村合併で現在「滋賀県東近江市」に入っていて、その中に「蒲生」の付く町名が4つ存在します。読み方は「がもう」ですが、古くはどう呼んでいたのか、「角川書店刊・日本地名大辞典(滋賀県編)」で調べればある程度古い時代についても書かれていて分かるはずです。あわせてこの地の出である戦国大名「蒲生氏郷」(「がもううじさと」)が室町末期にこの地名を「氏」としてそう呼ばれ、それが受け継がれたとすれば、「がもう」だったのでしょうが、古代末期の「万葉集」の時代には、すでにNo.5の DexMachinaさんがおっしゃるとおり「語頭に濁音がこない」という考えが通用しているので、この学者も「が」でなく「か」としたのでしょう。

  • DexMachina
  • ベストアンサー率73% (1287/1744)
回答No.5

確か上代の日本語では「語頭は濁音に立たない」という話があったはず、 と思ってWebで検索して見つけたのが以下のサイトです: http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/hn2602/6.htm 「上代日本語と魏志倭人伝の言語」(赤文字の標題)の段を参照 (サイト表示後、上記の標題で検索してください) →魏志倭人伝の「倭国語」の特徴の1つとして「語頭に濁音とr音が立たない」   ことを挙げ、これが「上代(上古)日本語」と共通である旨、説明されています。 http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/hasi/onin2.txt 「三 連音上の法則」の段を参照 (サイト表示後、「連音上の法則」で検索してください) →「語頭音に關しては、我國の上代には、ラ行音及び濁音は語頭音には   用ゐられないといふきまりがあった」 (=「語頭音に関しては、我国の上代には、ラ行音及び濁音は語頭音には   用いられないというきまりがあった」) また、同じく上代の日本語では、「ハ行」の音は「ファ行」に近い音だったと 言われています: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E8%A1%8C%E8%BB%A2%E5%91%BC ですので、万葉集が詠まれたころの音に倣って読むとすると、ふりがなそのままに 「かまふの」になるかと思います(発音記号で話をすると、全く同じにはなりませんが)。 ※あくまで、「その時代に倣うなら」です。通常の音読の際には、他の回答者の  方々が回答されているように「がもうの」でよいかと思います。

  • sosdada
  • ベストアンサー率33% (265/792)
回答No.4

「が」の「゛(濁点)」が発明されるのは室町時代ですが、一般化するのは江戸時代です。ですから「がもう」と発音していたとしても後世の人が万葉仮名にルビを振るときには「かまう」もしくは「かもふ」もしくは「かまふ」とするしかなかったでしょう。1450年も前に「ガマ」をどう発音していたかはわかりません。「ガマ」の語源も諸説ありますし、万葉時代の「ふ」は「FU」で「hu」ではありません。だからここはひとつ「がもうの」と読んでおきましょう。飛鳥時代の発音を再現して読まねばならないのなら「蛇」など「ペミ」です。でもアクセントはわかりません。

noname#107527
noname#107527
回答No.3

NO2です 広辞苑には「がまふ」とありました どう読むのが正しいのでしょうね・・・ 有効な回答者様が現れるのをねがってます

noname#107527
noname#107527
回答No.2

万葉集の歌は知りませんが 普通に読めば 「蒲生」は「がもう」です。 ですので「蒲生野」は「がもうの」?

mamoto
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 現代語訳には、がもうの とあるのですが、古文の文の読み仮名には(かもふの)とあり、どう読めばいいのかわからないのです。 ありがとうございました。

  • Ganymede
  • ベストアンサー率44% (377/839)
回答No.1

がもうの

mamoto
質問者

お礼

がもうのは現在の読み方ですよね? 古文ではどう読めばいいのでしょうね。 回答ありがとうございました。

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