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善はあるが悪はない

MekMekiの回答

  • MekMeki
  • ベストアンサー率33% (35/104)
回答No.10

例えば戦国時代、領主はより強い領主から因縁をつけられて自分の息子を自害させなければならないことがありました。 自分にとってはしたくないけれど、領民を守るためにしたくないこともしなくてはならない。 現在でも社長みたいなトップから普通の人に至るまで、何かのために自分を犠牲にすることは普通にありますよね。家族を養うために過労死するまで働くサラリーマンだっていますし。 ですからまず、「全ては自分にとって良い事から発生している」は間違ってると思います。 次に何が良い事か悪いことか。 これはもう個人の判断でしかないことだと思います。 例えば殺人は悪いことだと言われるけれど、それは大多数の人がそう感じるからそう決められているだけであって、決して本質ではないと思います。 街で人を殺したら裁かれるけど、戦争で殺したら褒められる。 結局人が倫理的に良い悪いを決めているだけで、この世に本質的に良い悪いなんてないんでしょう。 良い悪いは神が決めることだというなら、聖書内で神が人を殺した数は大洪水を抜いても200万人以上、悪魔はたった10人です。 なら個人の価値観で全て良い悪いが決まるなら、「良い」から「悪い」が派生するはずないかというとそうでもありません。 人を殺すことなんて悪いと思わずに行っている人にとっては、殺人は悪だなんていう台詞は白々しい奇麗事でしょう。 でもその人でさえ逮捕されて被害者の家族の話などを聞いているうちに、死んで詫びたいと泣く人もいます。 自分にとって良いことのために殺人をしたのに、自分を殺してでも償いたいと思う。 良いから悪いが派生した例ですね。 時間の経過が気になるというなら、嫉妬に狂って最愛の人を殺した瞬間に何て事をしたのだろうと絶望して自殺する。まあメロドラマくらいでしかあまり聞かないような極端な例ですけど。 また、人殺しは悪だと思っている人が海で難破したとき、自分ひとりしか掴まれない木材に誰かが来たら蹴落としてでも助かろうとする。 その人にとっては自分にとって最善の行動だけど、倫理的には悪の行動をしなければならないこともある。 結局行動の善悪なんて個人の価値観でしかなくて、それも時や考え方とともに簡単にうつろう曖昧なものでしかないと思います。

shift-2007
質問者

お礼

>「全ては自分にとって良い事から発生している」は間違ってると思います。 過労死で死ぬサラリーマンは自分の命よりも生活を優先したから死んだのです、つまり命と生活を天秤に掛けたのです。 その結果、生活を選択することが自分にとって良い結果と判断されたから死ぬまで働くのです。 常に命が絶対であるとはいえません。 >これはもう個人の判断でしかないことだと思います。 上記の意味で私たちは常に最善の選択をしています。 言い換えると最善の選択しかできません。私たちは自分にとって悪となる選択ができるでしょうか? これは個人を超えたものです。 >被害者の家族の話などを聞いているうちに、死んで詫びたいと泣く人もいます。 >愛の人を殺した瞬間に何て事をしたのだろうと絶望して自殺する。 その瞬間において最善であるだけですので時間が経過すれば最善も変わります。たとえそれが0.1秒後であろうと。 >結局行動の善悪なんて個人の価値観でしかなくて 自分にとって悪となる行為ができますか?

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