• 締切済み

上杉景勝と直江兼続の義 愛

ceelee-boyの回答

回答No.7

主人である信長の跡継ぎの子供や重臣や妹を片っ端から殺していって、天下を簒奪した秀吉が、太閤様って人気有るのと同じです。 そもそも、信長だって、守護の斯波家を滅ぼした守護代です。 越後は守護が上杉、関東管領も上杉、守護代が長尾です。 謙信が3つを統一しました。 それが死後、景虎の関東管領と景勝の守護代に別れて、謙信の兄や父の時代と同じに、争って、信長と同じように、守護代が勝ったってだけです。 そのお館の乱の後に、織田軍が、北陸から柴田勝家、佐々成政、信濃から森長可、関東からは滝川一益と、強力な武将が三方から春日山目指して迫って来て(例えば七尾城は少数の守兵が壮絶な討ち死にしてます)、豊臣秀吉が信長殺すのが半年遅れたら、上杉景勝は間違いなく滅ぼされています。 また、その後も越後の北半分揚北衆との、越後を二分する一進一退の戦いに、勝利できたのも、豊臣秀吉のバックアップのおかげです。 その恩というより、運と、その時々の権力者と上手くやっていく能力がないと戦国武将は生き残れません。 真田家は、お兄さんが徳川、弟の幸村が徳川と、二股かけて家の存続を図っています。幸村はたまたまはずれの方だったというだけです。 また、大阪の陣は、まっとうな大将が指揮していれば、大阪方が勝った戦いです。淀君とそれに取り入って秀頼を生んだ大野修理という佞臣が幼年かつ実戦経験ゼロの大将秀頼の参謀としてデタラメな指揮をしたから負けてしまっただけの戦いです。 景勝兼続が義を重んじた武将といわれるのは、大河ドラマ天地人の主人公だからというのが大きい要因です。 確かに、米沢から会津に減俸された際に、社員というか家臣をリストラしなかったという点だけを見れば、最も義理堅い武将ではあります。

関連するQ&A

  • 豊臣秀吉が直江兼続を引き抜こうとしたが、他にも引き抜きをしていたのですか。

    天地人で、豊臣秀吉が直江兼続を直接の家臣にしようと砂金をばらまいたり、刀を振りかざしたシーンがありました。あのシーンはドラマの演出としても、実際、一代の成り上がりで譜代の家臣を持たないので引き抜きはあったのだと思います。 さて、同様な引き抜きは他にどんなのがあったんでしょうか。おしえてください。 ・徳川家康の石川数正のそうでしょうか。「出奔」というくらいだから引き抜きというより、ケンカわかれしたのを拾ったという印象ですが。 ・毛利は、本家輝元のほか、安国寺えけいや毛利秀包、小早川隆景を別家でとりたてていますが、これも直江兼続同様に引き抜きで成功した例ですか。  逆に引き抜きできなかったほかに例はありますか。 ・伊達政宗の片倉小十郎も引き抜こうとしたのですか。

  • 五大大名に関するちょっとしたアンケート

    戦国大名の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、武田信玄、上杉謙信の五大名それぞれの家臣で一番好きな武将を各一人ずつ挙げてください。

  • 伊達政宗、真田幸村、直江兼続、前田慶次郎、山本勘助

    伊達政宗、真田幸村、直江兼続、前田慶次郎、山本勘助・・・・過大評価の戦国武将(架空人物ふくむ)は、後世の人間が人物像を捏造したらしいですね? 織田信長が、今川義元を初対面の一撃で撃破。上洛軍で、近畿管領代の六角をたった1日で撃破。違いすぎるな。 秀吉が、本能寺の変から、たった8年で天下統一。秀吉は、農民出身で、唯一の天下人。 家康にいたっては、豊臣10万の大軍相手に、長久手で、森・池田の豊臣主力を壊滅。さらに、天下分け目の関が原をたったの半日で勝利。 違いすぎる。

  • 武将のステッカーを入手したいのですか。。。

    カテ違いだったらすみません。 武将の名前や家紋、旗印のステッカーで 大きさは1文字が2cm以上のものを探しています。 通販をしているサイトや どこに行ったら買えるか(現地に行く以外で手軽に買えそうな場所)など知っていたら教えてください。 ちなみに上杉謙信、上杉景勝、真田昌幸、真田幸村、直江兼続、島左近などを希望しています。

  • 小学3年生向きの日本の武将の文庫本を探しています。

    ”改計版 講談社火の鳥伝記文庫”で武田信玄、伊達政宗はあったのですが上杉謙信や真田幸村などはありませんでした。こちらでも小学3年生が読めるのであれば良いのですが武将の種類が少ないのです。 探している本の条件としては漢字にふりがなが降ってある。別巻で色々な武将のシリーズがでている。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は既に読破しているのでこれらは除く。小学3年生向きの日本の武将の文庫。宜しくお願い致します。

  • 戦国武将の滝川一益ってどういう歴史を残した人物です

    戦国武将の滝川一益ってどういう歴史を残した人物ですか? 滝川一益の一生を分かりやすく生誕から死までの実績を教えてください。 徳川家康、豊臣秀吉、織田信長の誰の家臣だったのですか?

  • 戦国大名の最大版図

    タイトル通りなのですが、戦国大名の最大版図の石高がどれくらいになったのかが大変興味があります。 関ヶ原後の石高はかなり有名なのですが、その前に最大版図を迎えた武将も多いと思います。 人数が多いですが下に書いてある武将の石高を教えて頂けると幸いです。 ・伊達政宗 ・北条氏直 ・上杉謙信 ・上杉景勝 ・武田信玄 ・徳川家康 ・豊臣秀吉 ・織田信長 ・柴田勝家 ・明智光秀 ・長宗我部元親 ・毛利元就 ・毛利輝元 ・島津義久 人数が多くて申し訳ありません。 よろしくお願い致します。

  • 戦国武将の個人の強さ

    日本の戦国時代に関する質問です。 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に加え、毛利元就・武田信玄・上杉謙信など強力な武将がたくさんいましたが、軍隊の統率力やカリスマ性は抜きにして、彼ら個人の強さはいかほどでしょうか? (ここに挙げられている以外の戦国武将でも構いません。著名な武将を挙げただけですので) 騎馬でも槍を持った一騎打ちでも構いませんが、戦国武将が一人で戦った場合の強さです。 例えば、上杉謙信は戦争の腕前はいうまでもなく、自身で馬に乗って戦場に出ているあたり、個人としてもなかなかの実力はあったと思われます。 また、家康や今川義元には「東海一の弓取り」などと個人の武名がありますが、秀吉や信長については聞いたことがありません(秀吉には「人たらし」がありますが、これはあだ名であって武名ではないですよね)。

  • 徳川を倒そうとする人はいなかったのでしょうか?

    徳川家康が天下を取った後、家康を倒して自分が天下を取ろうとする人が現れなかったのは何故ですか? 天下取りの戦も、自分で調べてみたところでは大坂の陣が最後だと思います。 織田信長も豊臣秀吉も、それぞれすごく力もカリスマ性もある人だったと思うのですが、それを倒して自分が、と思う武将はたくさんいたわけですよね。 それが、徳川に対してはそういう動きが出なかったのはなにか理由があるのでしょうか?

  • 9月13日(日)放送の「天地人」で

    9月13日(日)放送の「天地人」で、「家康」を背後から攻撃したい「兼続」と義を貫きたい「景勝」で意見が対立した場面があったのですが、もし「兼続」の言うとうり、「家康」を背後から攻撃したら、どの様な結末が考えられますか?  私は、2つの可能性が考えられます。  Aの可能性  上杉軍が「家康」を攻撃し、「兼続」が作った水攻めの罠に家康軍がはまり、多数の「怪我人、死者」がでて、家康軍の戦力が低下しそこに三成軍が追い討ちして、西軍の勝利になる。  Bの可能性  上杉軍が「家康」を攻撃したと同時に「最上軍、伊達軍」が上杉を攻撃し、上杉軍は、「家康」を攻撃する部隊と「最上軍、伊達軍」部隊の2つに別れたが、数が多い「家康、最上、伊達」に負けて上杉は滅亡し、「家康、最上、伊達」は西に向かって、石田三成を破り東軍の勝利になる。  歴史に「もし」、「たら」、「れば」は無いのですが、AとBどちらの可能性が高いと思いますか?  またA、B以外の可能性があれば、教えて下さい。