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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:2千円札のモデル)

2千円札のモデルは本当に紫式部なのか?

sesameの回答

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  • sesame
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回答No.1

ご質問が多岐にわたっているので、整理しますが… お察しの通り、あの肖像の出典は「紫式部日記絵詞」(五島美術館蔵本)から採られているものです。「紫式部日記絵詞」と称される絵巻は多数存在しますが、五島美術館本は中でも比較的新しく、嘉永元年(1848)成立とされています。 紫式部日記絵詞じたい、紫式部日記(これも完本の写本が伝来するわけではなく、さまざまな断簡を後世に寄せ集めたものです)を底本として描かれた「フィクション」ですから、「肖像」として紫式部を描いたものではもちろん、ありません。 源氏物語の作者が紫式部であるか、どうか? という疑問については、本人の日記をはじめ御堂関白記など当時の史料からほぼ間違いない、とされています。この真偽を問題にしようとすると、過去の無数の論文で取り上げられたあらゆる例証を検討しなければなりませんから、ここで言及することは勘弁してください。 「式部」や「少納言」が役職ではないか、という指摘はそのとおりですが、本人の行賞として叙爵されたというのは誤解です。当時の女房(宮廷女官)は基本的に父親や祖父などの官位で通称されるという習慣がありました。紫式部も例外ではなく、父・藤原為時が式部省の大丞をつとめたことに拠っています。今で言えば、「○○部長の娘さん」といった感覚ですね。ちなみに「紫~」の名が冠せられたのはもちろん源氏物語の紫の上に由来しますが、生前この名で呼ばれていたという事実はなく、没後、源氏物語の評価とともに名声が高まってから、この呼び名が定着したものと現在は考えられています。ちなみに、生前は藤式部と呼ばれていたらしいです。

nozomi500
質問者

お礼

 ありがとうございます。  いろんな質問内容にことごとく答えていただいて感謝します。「紫」が登場人物から後世につけられていたとは、意外でした。さしずめ、今なら、さくらももこさんがまる子ちゃんになるような(敬称でもなんでもないか)ものでしょうか。

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