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自分の人生を受け入れられる人と受け入れられない人の根本的な違い

客観的に恵まれていると受け入れやすくなるのは当然ですがそれだけでは説明がつきません。教えてください。

みんなの回答

  • doorakanai
  • ベストアンサー率27% (758/2746)
回答No.5

客観的に恵まれていると受け入れやすくなる わけではないと思います。 理想を思い描いたりする知恵がつく前に 苦労をすると、人生こんなもんだと幸せのハードルが低くなる。 極端な話、最低な目に会っていればその後は それ以上ひどくならないから、人並みの暮らしが恵まれた ものだと思え、人生を受け入れやすくなる。 何事もない暮らしが、理想を思い描く年頃になっても続いて その後苦労をする羽目になったら、対処できなくなる。 今までひどい目に会った事がないから 何でこんな目に会うんだ、とばかり考える。 一生恵まれたぬるま湯人生が続くとは言い切れませんしね。 若いうちの苦労は買ってでもしろ、という言葉の意味は 挫折に対応できるパワーは年を食ってからじゃ 身に付かないよ、という事じゃないかと思います。

noname#93984
noname#93984
回答No.4

受け入れる事は条件ではありません 例えば 財産持ち 地位 名誉 学歴など エリートな家柄の人は みんな受け入れて幸せですか 世の中お金ほどありがたくも 怖いものはありません 私はどんな状態であれ受け入れるとは その人の心の広さ 強さだと思います 自分を頼り 不完全な自分を許す 愛だと思います

noname#81161
noname#81161
回答No.3

自分の人生を受け入れられる人と受け入れられない人の根本的な違い …恵まれているという事がよくわからないのですが お金持ちで苦労の無い、高学歴でかっこいい、美人で…といった 事なのでしょうか。 私の父は自分の人生を受け入れたと思います。 今は亡くなっておりますが。 ちなみに中卒です。裕福ではありません。 51歳でアルツハイマーになりましたね。 初めの頃は怒りっぽくなったり いらいらした感じでしたが、最後のほうは仏みたいでしたね。 デイサービスのお世話になっていたのですが 周囲は80代のお年寄りばかり。その中に50代の父がぽつん… あるおばあちゃんが、自分でお茶を急須に注ごうとした時 熱いお茶がこぼれそうになったのですね。 父はとっさにおばあちゃんの膝の上に両手を差し出して 熱いお茶を手で受け止めていました。 父は熱いとも何とも言わず、にこにこ笑ってひとこと 「だいじょうぶよ」 それを見た時、父はすべてを受け入れたんだなって思いましたね。 病気の進行もありますが がっつり自分の人生受け入れたんだなって思えました。 まず、無償で人のために生きてる。ボケていても相手のためになるような姿勢は崩さない。ボケる前から父はそういうところがありました。 うまく言えませんが 人生を受け入れる、受け入れないって 自分の意思では選べないと思います。必然的に 人生は決まってくると思うのです。 ”人生を受け入れられない人生”を受け入れているとも言えるし。

noname#96559
noname#96559
回答No.2

>客観的に恵まれていると受け入れやすくなるのは当然ですが これ、当然じゃないですよ。客観的に相当恵まれている人でも、不満たらたら、こんなはずじゃなかった、あいつが悪い、自分はこんな立ち位置じゃない、文句たれている人は多いですよ。 自力本願か、他力本願か、ではないですかね。

noname#140971
noname#140971
回答No.1

Q、自分の人生を受け入れられる人と受け入れられない人の根本的な違い。 A、根本的な違いは、「受け入れることが出来るか否か?」でしょう。 自家撞着とも言える答えですが・・・。 やはり、決定的な差は「受け入れることが出来るか否か?」でしょう。 この答え以外の答え探しを始めと、とんでもないことになるでしょう。 その答えを見つける前に人生そのものが終ってしまうかもしれませんね。 不幸な人生を拒否し呪っても、それで幸福な人生がやってくる訳でもないです。 だから、ある者は、不幸なら不幸なりの幸福を見いだそうとするでしょう。 また、ある者は、「そんなこと考えている暇があれば仕事でもするだ」と思うかも知れません。 Q、自分の人生を受け入れられる人と受け入れられない人の根本的な違い。 A、もう少し真面目に答えれば、労働の意義を感じているか否かです。 日々、働いている者にとっては、その労働に意義を見いだせるか否かが大問題。 そういう生きて行くという実践的なテーマの前では「人生云々」は頭でっかち人間の戯言。 普通の人間にとっては、人生は受け入れるものではなく生きて行く日々の労働そのもの。 まあ、労働の意義を見いだせない者にとっては、人生は受け入れ難いかも知れません。 しかし、受け入れられない対象は、実は自分自身の生きていく日々そのものではないでしょうね。 労働の意義ってのを感じさせない社会が対象なのかも知れません。 労働の意義ってのを感じさせない自分自身が対象なのかも知れません。 そんなところだと思いますよ。

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