旧約聖書の話:二人の肉体労働者の不公平な扱いとは?

このQ&Aのポイント
  • 旧約聖書の中には、二人の肉体労働者がいて、異なる労働時間にも関わらず同じ賃金を受け取ったという話があります。
  • 一人は一日中働き、もう一人は半日しか働いていなかったにもかかわらず、雇い主は同じ賃金を支払ったという不思議な出来事でした。
  • 長時間働いた人は不満を言ったが、雇い主からされた一言が意味深でした。この話から何を学ぶべきなのでしょうか?
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旧約聖書の中の話について・・・・

学生時代にミッションスクールに行ってました。 その時、確か旧約聖書だったかと思うのですが、 不思議に思うお話があったものの、記憶が曖昧になってしまっています。 どんな内容かといいますと・・・・・ ≪二人の肉体労働者がいて、一人は朝から夕方まで働き、もう一人は半日程しか働いていませんでした。 しかし、雇い主は二人に対して、同じ賃金を支払いました。 長時間働いていた方は「不公平だ!」と不満を言ったら、 雇い主から怒られたそうです≫ 確か、このような内容だったかと思いますが、 普通に現代で考えると「不公平」と考えるのが、一般的だと思います。 この雇い主は何が言いたかったのでしょうか? ずっと気になっていましたが、聖書のどこを開けばいいのか分からずに困っています。

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  • kigurumi
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回答No.4

他の方々が言う通り、その物語の箇所はマタイの20章です。 >普通に現代で考えると「不公平」と考えるのが、一般的だと思います。 >この雇い主は何が言いたかったのでしょうか? この物語の作者は、一体何を言いたかったのか。 兄弟愛・救済・真実。 ノーブレスオブリージュ。地位のある人は、それなりに義務がある。 この物語が作られた時代は、福祉の制度がまだできていなかったと思えます。 親戚同士は助け合うが、集団全体で、血縁関係に無い人まで救済するというシステムは無かった。 今回の内容を、労働に対する対価だと捕らえたら、確かに不公平です。 奉仕の奨励として読みなおしてみてください。 農場の主は奉仕をした。 農場主は、兄弟愛・救済・真実の理念を持っていたとします。 雇われる側を使用人と見ず、自分の兄弟だと捕らえていたとします。 この農場主は、労働に対する対価を重要視せず、共に生きることを重要視している。 だから日没のギリギリまで雇われない不運な人を、雇うことで救済(奉仕)をしたわけです。 で、朝から働いている人は、労働に対する対価を期待して雇われているので、当然、ギリギリに来た人と自分は労働時間が違うので、自分は1デナリだが、ギリギリに来た人は、もっと少ない額しかもらえないと思っていた。 ところが同額が支払われたのを見て、がっくりしたわけです。 自分の長時間に労働と短時間の労働の対価が同じなんて・・・と。 「ああ 雇われなかった不運な人も、ギリギリに救済されてよかった。俺と同じように一日を暮らせるお金をもらえてよかった」とは思わなかった。 同胞に対する兄弟愛が無いから。 不運な人を、隣人と考えていないから。 ところで、救済された人が、雇用者の理念を理解していたら、今度は自分が幸運を得て地位についたとき、利益を独占せず、かつて自分が困っていたとき救済されたことを思い出し、恵まれない人を救済(奉仕)するようになる。 後から来た人が、雇用者の理念を理解していなければ、「ラッキー 少ししか働かなくても1日分の給料をもらったから、今度からギリギリまで仕事を請けないようにしよう」と思ってしまう。 精神を理解していたら、「救済(奉仕)されて助かった。不運な人も餓死しないで済む社会を作ろう。」となる。 そういう社会を実現するには、利益を独占していては駄目。 恵まれない隣人を救済(奉仕)しなければならない。 「ギリギリにきた人には労働対価の10シュケルしか払わない。それじゃ家族の食べものが買え得ない? そんなの知らん。他人が餓死しようとしったことじゃない。ギリギリに来た者にまで1ディナール払ったら俺が損する。」では、能力に恵まれた人とそうではない人が共に生きる社会にはならないってことですね。 そういう社会(恵まれた人も、恵まれない人も共に生存できる社会)の実現を望む人が人たちが多ければ多いほど、その精神に賛同して人々が自分を押し上げ、そういう社会を実現する手助けをしてくれる。 後から来たものが、救済されたことで生きながらえ、いつか社会のトップに地位につき、共に生きる楽園を築くってわけです。 これが社会主義の原理だったと思うのですが、、、、 その相互扶助の精神を国民全体が理解するには至らず、「働かなくてもとくかく就業時間中 席に座っていれば給料がもらえる」となり、産業が停滞していって、社会全体の活気がなくなっていったんですね。 で、社会が活気が無くなり、いよいよ苦しい状況になり、「相互扶助なんてくそっくらえだ。俺だけの力でのし上がったんだから、悔しかったら自分の力でのしあがれ。他人など知らん。」となり、かつて社会主義国だった国が、資本主義国になっていったわけです。 これが社会主義・共産主義国で、極端な貧富の差が出ている理由。 極端なところだと、能力に恵まれた人は財を築くが、それを恵まれない人に分け与えず、もっと利益をくれる人に投資し、さらに財をなす。 能力に恵まれた財をなした人たちのみの楽園になり、能力に恵まれなかった人は、ホームレスとなり、強盗をしたりしなど、貧富の格差の激しい国になる。 天国と地獄が一つの国にあるってことです。 これは楽園とは呼ばない。 日本の場合、救済精神・兄弟愛は無いのですが、その精神を持った人が政治家になり、、多くを稼いだ人が取り分よりもっと多い税金を支払うシステムを作ったので、博愛精神を国民が持っていなくても、極端な金持ちもいないし、国民があっちこっちで餓死しているという状況も無いわけです。 というわけで、後から来た人(救済された人)が、上に立つ(共に生きる社会のリーダー)楽園の実現を作者は考えたんじゃないかと。

greensukisuki
質問者

お礼

素晴らしいご回答ありがとうございます。 学生の頃に牧師さんの説教を聞いてるような気持ちで読ませて頂きました。 労働の対価ではなく、救済と考えるのですね。 雇用主の精神を理解するのと理解しないのとでは大きく違いますね。 このたとえ話にそんな深い意味があったのかと、 とても驚きました。 ミッションスクールを卒業後、受験生の学校見学会があり、 私は卒業生として参加させて頂き、学校生活・就職活動について受験生の相談にのったことがありました。 学校側からは、事前に「日当を出しますよ」と言われていました。 その時、私は都合があり半日しか働かなかったのですが、 丸一日働いた人と同じ日当を頂いてしまいました。 その場で私は「時間に見合った額にしてください」と言いましたが、 学校側は「そのままでいいよ」と言われてしまった経験があります。 これも同じような意味があったのかな・・・・と少し昔のことを思い出してしまいました。 本当に素敵なご回答ありがとうございました。 永久保存しておきます! 大変失礼ですが、キリスト教信者さんですか?

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  • kigurumi
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回答No.6

No.4です。 いえ、私は無神論者です。 兄弟愛・救済・真実 と本に載っていましたが、真実じゃなくて真理の方が適切な語彙かも。 この理念は、ある秘密結社の理念です。 この秘密結社は、富の独占と権力の独占をし、市民を省みなかったフランスの王権とカトリック教会を攻撃したいわゆるフランス革命を裏で指揮した団体です。 この秘密結社のメンバーで有名な人だと、マッカーサー。 日本人なら総理大臣になった鳩山一郎氏。 この方はキリスト教徒だったそうです。

greensukisuki
質問者

お礼

そうなんですね。 為になるお話ありがとうござました。

noname#80116
noname#80116
回答No.5

 No.2です。  ☆☆ 個人個人の《不公平感》が わたしたちの社会的存在にとって そのすべてではない。  ☆ という見解を訂正します。    それは また 労働の対価の多い少ないを超えて 一人ひとりの生活の糧に相当する所得が 与えられるべきだという見解をも 避けて 霊的に解釈したいと考えます。  神は 悪人にも善人にも 等しく 雨を降らすという見方に いくらかは似ていますが これからも 逸れて 解釈したいと考えます。  それは いわば光の子たちが どれだけ 悪に耐えられるか これを問うているという見方です。  《不公平》の問題には かかわります。不公平という悪に ひとは どれだけ 腐らずに 耐えられるか これです。  あるいはまた 信仰の年季が入っているかどうかや 組織内の階級や地位によって恵まれる度合いが決まっているかどうか これらの事情にかかわるのではないでしょうか。  ▲ あとの者が先になり 先の者があとになる。  ☆ という問題です。これらのいわば試練に どれだけ 光の子らとしても 耐えられるか こういうことを問うているのだと考えます。  経済問題もしくは 経済問題にからませた救済の問題 として見る見方は あまりにも 平板であるように思いました。深みがないようですから。

greensukisuki
質問者

お礼

ちょっと私には難しいお話ですね・・・・ ありがとうございます。

回答No.3

新約聖書 マタイ20:1~16 「ぶどう園の労働者」のたとえ のお話です。 この物語の前には、「金持ちの青年」の物語があります。それらから、天国(神のくに)について語っていると言われます。ぶどう園の主人は神様で、労働者はわたしたち人間を指していると言われます。ここで登場している労働者は一日でも半日でも仕事にありつきたい状況です。逆に主人は、一時間でも一人でも多く働き人を必要としていた(神の国を伝える緊急時)と思われます。但し、賃金に関しては未定でした。では、賃金とは?  これは、神様からの恵みは誰にも等しく与えられているという事を語っていると言えます。現実の社会は、出来高に見合った評価をします。それが故に、平等と言えます。これは現代社会では当然の事で法的な規制もあります。雇用者を規制する法もあります。これに対して、神の福音・恵みは全ての人に等しく与えられている。健康な人にも障害を持つ人にも、日本人にも外国人にも、金持ちにも貧乏人にも等しい恵みと言う事でしょう。賃金とは無条件与えられている神の恵み(恩寵)とも言われます。但し、不実な者には神の裁きがあるとも書かれてあります。その事に従ってゆく生きる事が救われると言う事と思います。  ここで、神の国とか天国って何?との疑問が出るかもしれません。聖書(特に新約聖書)はキリストの福音が弟子たちを通して語られています。

greensukisuki
質問者

お礼

神の恵みは全ての人に等しく与えられてると理解するのですね。 ありがとうございました!

noname#80116
noname#80116
回答No.2

 新約聖書・マタイによる福音の中で イエスが 天国を 《ぶどう園の労働者のあり方》に喩えるところです。  ▲ (マタイ20:1~ 16) ~~~~~~~~~~~~~  天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。  主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。  また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、  『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。  それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。  五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、  彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。  夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。  そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。  最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。  それで、受け取ると、主人に不平を言った。  『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』  主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。  自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。  自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』  このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《Q4248807:所有とは 何ぞや?=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4248807.html》という質疑応答をおこないました。よかったら 参照してください。  変な答えを あえて 出しますと  ○ ひとは 孤独であるが 孤独関係として ほかのひとの存在をも想定している。社会的な独立した存在であるが 同時に 社会的な関係しあう存在である。その存在論に立つならば 個人個人の《不公平感》が わたしたちの社会的存在にとって そのすべてではない。  ☆ こう考えています。いかがでしょうか。

greensukisuki
質問者

お礼

ありがとうございます。 聖書の該当文章が読めて助かりました。

  • QES
  • ベストアンサー率29% (758/2561)
回答No.1

マタイの福音書 20:1-16です。 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。 それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。

greensukisuki
質問者

お礼

新約聖書なんですね。 勘違いしてました。 ありがとうございます!

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